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日蓮大聖人・池田大作

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第二章 話し聞かせる“人生の真実”の物…  

「子供の世界」アリベルト・A・リハーノフ(池田大作全集第107巻)

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1  幼時の記憶は創作活動の“源”
 リハーノフ 池田さん、あなたも子どものころのことは、よく覚えておられると思います。私も子ども時代は戦中戦後の厳しい時代でしたが、今も強烈に、色彩鮮やかに心に焼きついています。
 幼時の記憶は、創作活動に刺激をあたえる源でもあります。それが本や映画、絵画、詩といった形の結晶となってあらわれ、子どもたちのもとに届いて心の輝きをあたえ、創造性を育むのではないでしょうか。
 池田 ええ。だれにも、子どものころの忘れられない思い出があります。
 私の家は海苔屋をしておりましたので、海のそばにありました。幼い日の正月など、身を切られるような浜風のなか、朝から陽が落ちるまで、夢中になって凧あげに興じたものです。
 「ただいま!」と庭の奥に呼びかけると、仕事の手を休めずに、そっと「お帰り!」と優しく返ってくる母の声と笑顔……。こうした思い出は、たしかに私が童話を生みだす、かけがえのない源泉になっています。
 リハーノフ いわば子ども時代は、芸術を通してよみがえるものです。
 さまざまな思い出のなかから、芸術として昇華されるべきもっとも感動的なものが選び出されて、今度は、新しい作品として子どもたちのもとに帰っていきます。
 このような一種独特なサイクルはたいへん重要であり、幼年時代の思い出、子ども時代そのものが、そのエネルギー源となっているのです。
 池田 よく理解できます。大切な視点です。
 リハーノフ しかし、あまりにも多くの人が、大人になるにつれて、子ども時代の記憶をいたずらに早く消してしまおうとしています。子ども時代に別れを告げることで、できるだけ早く大人になろうとしてしまうのです。
 その理由はたくさんありますが、なかでも自信がないのと、人から軽薄だ、つまり子どもじみていると見られるのではないかという恐れが最大の原因です。
 なかには、幼年時代がつらく悲しい不遇の日々であったことが、忘れたいという理由になっている場合もあるかもしれません。
 しかし、恵まれない不幸な幼年時代を経験しても、同時にうれしかったことや、つらいなかにも輝いていた希望の光を覚えている人に、私は数多く出会いました。この幼年時代忘失症というのは、どこか人格を狭め、欠陥をなすものであるように私には思われます。
 池田 トルストイの名作『幼年時代』の、キラキラした輝きのなかにも、愛惜の情のたゆたう一節が思い起こされます。
 「二度とは帰ってこない、幸福な、幸福な幼年時代!どうしてこの思い出を、愛しいつくしまないでいられよう!これらの思い出は、私の魂をたかめ、清新にしてくれ、私のためによき喜びの源泉となってくれるのである」
 「私が幼年時代に無意識に持っていた、あのすがすがしさ、あの気楽さ、愛の要求と信仰の力、こうしたものは、いつかまたかえってくることがあるだろうか?二つのもっともよき徳行――無邪気な快活とかぎりない愛の要求とが、生活のおもな刺激だった時代よりよい、どんな時代がありうるだろう?」(『幼年・少年・青年』〈『トルストイ全集』1、中村白葉訳〉所収、河出書房新社)
 文豪の並外れた感受性が、どのような環境のなかで育まれていったか、生き生きと伝わってきます。
2  「おばあちゃんのお話」に普遍的知恵が
 リハーノフ 忘れられない一節ですね。
 とはいえ、子ども時代の記憶を創造的によみがえらせるのに、別にプロの画家や作家、演出家になる必要はまったくありません。家庭といういちばん小さな単位でも、幼時の思い出は家族の絆を強め、家族としての思い出を作っていく重要な役割を果たします。
 たとえばロシアでは、「おばあちゃんのお話」という伝統があります。もちろん、おじいちゃんも話すことはできるし、話してもいますが、どうも女性が語ったほうが感動的でわかりやすいようで(笑い)、しかもそういう昔話を孫にするときというのは、だいたい、孫が病気等で寝込んでしまって、めんどうな日常から解放されて、ちょうど静かにお話を聞いてみたいと思っているときなのです。
 池田 おばあちゃんが孫を抱きながら「おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に……」と語りかける光景は、日本にもしばらく前まではよく見られました。
 それは、きっと人類が育んできた普遍的な知恵であり、文化であったのでしょう。
 リハーノフ そう思います。かつてロシアでは、プーシキンの乳母アリーナ・ロジオーノヴナから始まったことかもしれませんが、子どもに伝説や民話を口で語り伝えていくことで創造性を育んでいく、すばらしい伝統がありました。
 今日の私たちの生活は、テレビという千里眼の機械や、たとえ小さくともラジオの声なしでは考えられなくなっています。
 昔は夜になれば、とくに冬などはろうそくやランプという乏しい明かりの下、夜の闇が永遠に続くようななかで、人々は読書よりも、むしろよく語りあったものでした。
 技術が遅れていた時代も、それを裏返せば、ゆったりとした深い人間の心の交流の時を刻んでいましたし、子どもの創造性をじっくりと育むことのできた時代であったと言えるでしょう。これは今や、どんなにお金を積んでも買えるものではありません。
 池田 まったく同感です。かつて、トインビー博士が感慨深げに語っていました。
 「私にとって、人生の最初の七年間は、その後の人生全体と同じくらい長いものに感じられます。子どもは、七歳までに自分にとって大事なことを数多く学びます。これは、その後の人生で学ぶことのできるすべてのことよりも多いのです」と。
 博士の言葉どおり、子ども時代の大切さは、いくら強調してもしすぎることはありません。人間は、子ども時代に、たいへんな勢いで、ありとあらゆるものを学び、吸収します。そして、その間に、“心の大地”を耕し、人生の基盤を作るのです。
 リハーノフ 児童文学は、大人たちの語り伝えを継承するバトンとも言えるものです。印刷術の助けを借りて、成長過程にある子どもの創造性を耕して体系づけ、伸ばしていって、人生への適応力を育んでくれるのです。
 一方、どの成長段階でも、実際には空白が生じることがあります。たとえば、親子の断絶というような悲劇から、読書離れや、何かを作ったり想像したりする能力の欠如というような、より複雑なものまでです。このような問題についてどう思われますか。
 池田 大事な点です。子どもたちの主体性を育み、創造性を高めていくために、どのような親子のふれあいが大切か、どのような語らいが必要か、ということですね。
 あなたが言われるように、子ども時代を軽く見たり、忘れようとしたりする人は、自分の大切な宝物を粗末にしているようなものです。
 リハーノフ ここで重要なのは、たんなる愛情と日常の気遣いをもって子どもに接していても、それだけでは不十分だということです。
 子どもへの愛情は、心理学や教育学、医学の基礎に裏づけられた愛情とならなければいけません。そのことを親は忘れてはならないでしょう。家庭に子どもが生まれると、親は多くの新しい知識を得、学んでいかなくてはいけません。知識を軽視してはなりません。
3  幼年期の信頼関係の形成は?
 池田 “子育て”とは、ある面、“自分を育てる”ことと言っていいでしょう。その自覚が、親には大切です。
 ところで、日本の雑誌の教育特集(テーマ「学校はよくなっているか」、「世界」一九九六年五月号、岩波書店)で、当時、フランスでたいへん評判になっている「アルテ8」という民間テレビ局のある番組が紹介されていました。
 嬰児と、母親をはじめとする周囲の人々との信頼関係が、どのように形づくられていくかに、ドキュメントふうに迫ったものです。
 リハーノフ それは、どのような内容なのでしょうか。
 池田 少し長いですが、紹介者の描写の妙を味わう意味も含めて、引用してみたいと思います。
 「嬰児から幼児期へというタイトルで、生後数日目以降の赤ん坊が主役。はじめて眼をあいたときの視界がどのくらい限られた狭いものなのか、眼に入って来るすべてがボーとしたシルエットにすぎないかを、『その子の眼を通して』映し出すところからはじまった。日と共に段々に視界が広くなりシルエットがはっきりとし出すが、だいじなことは(こんごの人生形成上大へんだいじなことは)『同じシルエットがちょいちょい眼に入ること』(だからお母さんや保母は髪形をこの時期には変えないのがよい)。くり返しちょいちょい眼に入る『母(その他)のシルエット』が『来るたびに』、ぬれて不快なおむつが変えられて気持よくなるとか、ミルクが口の
 中に入って来るとか、シルエットと共に耳にも入って来る同じ声がこころよいメロディをくり返すとか――そこから出て来る信頼感。人間関係上での最大の価値」(犬養道子「いじめと教育そして文明」、「世界」所収)
 リハーノフ わかりやすくて、説得力がありますね。
 池田 さらに、こう続きます。
 「ためしに母(その他)のシルエットとは打って変った猫(のシルエット)を近づけてみる。赤ん坊の顔に当惑の表情が出る。猫をもっと近づける。ニャアという声も。赤ん坊はますます当惑し、手をさしのべてみるが、おむつは変らず、ミルクももらえず、いつもとは全然ちがうことに気づく。ワァと泣く。猫をとり去って『いつものシルエットとメロディ』に変える。安堵の表情が戻って来る。
 『これが最初の教育(引き出す←→教育)』とのナレイション。信頼関係スタート。
 シルエットはやがて人間の顔となり姿となり、メロディはくり返される音――名前など――に変ってゆくが、要は、シルエット時代からずっとのちまでの『継続するプレゼンス(そこにいつも在ること)』」(同前)
 リハーノフ なるほど、そうでしょうね。
 池田 こうして形づくられた信頼関係、人格があってこそ、幼児は、最初の人間集団である小学校へ入っていく準備が整う。それが不十分で、頭の中に知識ばかりつめこまれてしまうと、いじわるやいじめの心が野放しにされてしまう。そして紹介者は、次のように訴えています。
  「三歳までが最重要教育期。
   五歳が限度。
   それからでは手おくれ」(同前)
 まさに、トインビー博士の述懐とも重なりあいます。
 リハーノフ 付け加えるならば、応用心理学は、医学などの新しい手法を駆使して、さらに深く幼年時代、前幼年時代を解明しています。
 その時代は、“無言の時代”とも言えます。“無言の時代”というのは、幼年期、あるいはまだ存在していない時代、まだ生まれていない時代のことですが、小さな子どもが自分の思いを表現することができず、泣くことによって抵抗することしか知らない時代です。
 たとえば臨月の胎児は、お母さんの周りの音がよく聞こえていることが研究で明らかになっています。赤ん坊は、穏やかな話し方と優しい音楽が好きで、反対に騒々しいリズムはきらいます。
 こういったまだ話のできない、まだ生まれていない子どもが表現できない思いを大人はわからなければいけない。そのことを「アルテ8」の番組は物語っていると思います。
4  ものごとの真実は声によって伝わる
 池田 大切な幼年期に、あなたのおっしゃるロシア伝統の「おばあちゃんのお話」のようなフォークロア(民間伝承)が、「継続するプレゼンス(存在)」として子どものかたわらに在り続けたならば、何とすばらしいことか、想像するにあまりあります。これはロシアばかりではありません。日本も同様です。
 核家族化の進展や生活習慣の変化などもあって、なかなかむずかしいとは思いますが、こうしたかけがえのないふれあいの場を、テレビなどに横取りされてばかりいるのでは、何とも残念です。
 リハーノフ テレビの功罪、とくに罪のほうは、別のところで論じたいと思いますが、「アルテ8」のようなものは別にして、テレビとの接触はどうしても味気なく、一方通行で、観る側が受け身になりがちです。そこからは、真の想像力というか、自分の考えをもち、自分の言葉をしゃべる習慣はつきにくいでしょう。
 池田 おっしゃるとおりです。
 仏法では、声の響きを非常に重んじます。法理に「耳根得道」とあるように、説法を耳から聞くことによって成仏することができるとされています。大切なことは「目で読む」のではなく、「耳で聞く」に力点が置かれていることです。
 このことは、もちろん「目で読む」ことの意義を否定しているものではありませんが、ものごとの真実というものは、むしろ「耳で聞く」ことによって聞き手に伝わっていく、としているのです。
 仏典に「声仏事を為す」、つまり、声こそ仏の教化を成就させるのだとあるのも、同じ趣旨です。
 リハーノフ 興味深いお話です。
 池田 ゆえに、私どもが仏法運動を進める場合には、どんなに運動が広がろうと、また時代が変わろうと、一対一の対話こそ第一義であり、要の中の要であると銘記してきました。その一点がおろそかになると、一切が空転してしまい、生きた運動にはならないからです。SGI(創価学会インタナショナル)の運動がこれほど世界に広がることができたのも、いつに“声の響きの勝利”であると、私はつねづね語っております。
 リハーノフ 私は対話というのは、宗教においても、また現実の人生においても、人と人との距離を縮めるたいへん有効な手段だと思います。表面的なやりとりは、人と人との交流を形式的、機械的にしてしまいます。
 私には、イワンという孫がいます。とてもかわいくてたまりませんし(笑い)、できるだけ心が通いあうようにと思っています。しかし、孫との会話がどうも機械的なものになっていることに気がつきました。
 「元気か」と私が聞くと、
 「まあまあね」と孫が答えます。
 「学校はどう?」「まあまあだよ」(笑い)といった具合です。
 池田 読者の方々にも、心当たりがある人がいるのではないでしょうか。(笑い)
 リハーノフ 会話はあっても、本当の対話ではありません。ある時、イワンと散歩していて私は、今日何があったかを孫に話して聞かせました。私がだれと会い、どういう話をして、またどういう問題にぶつかったのか、といったことを語ったのです。するとイワンも、すぐに同じような話を始めました。同級生にはどういう子がいるのか、孫がどんな問題をかかえているのか、を私は知りました。その時に、私たちは、前よりももっと親しくなりました。
 池田 おじいさんとお孫さんのほのぼのとした語らいが目に浮かぶようです。一幅の名画を見るように……。
5  子どもには大人の精神的支えが必要
 リハーノフ ありがとうございます。
 精神的な交流についていうならば、創価学会が対話を重視されていることは、とてもすばらしいことであると思います。大半の宗教は説教にしても、懺悔にしてもモノローグ(独白)を中心としています。
 池田 このことは仏法に限らず、ほかのこと――たとえば、語りによる民話やおとぎ話の伝承についても言えるのではないでしょうか。
 かつて、わが国で、民話やおとぎ話のなかの残酷なシーンを、子どもに悪影響をあたえるからという理由で、カットするかどうか、問題になったことがあります。
 この点は他の章でもふれますが、私の記憶に強く残っているのは、著名な心理学者、河合隼雄氏の言葉です。
 氏は、残酷なシーンは、それなりの生きるための意味、自立するための、「内的真実」をもっている。それは、子どもたちの心の中に徐々にイメージ化されれば何ら害はなく、むしろ人生にとって必要なものである。
 そのイメージ化の作業は、本(読書)でもなかなかむずかしく、まして、テレビなどで出来合いのイメージをあたえても、かえって害をなす場合が多い。そういう「内的真実」は、人から人へ、心から心へと語り継がれるときにいちばん伝わりやすく、その語り部が、人生の達人である場合、最大の効果を発揮すると語っています。(河合隼雄『日本人とアイデンティティ』創元社、参照)
 リハーノフ これは非常に鋭く、正しい観察であると思います。
 その意味でも、大人は愛情と忍耐をもって、もっと長い間、子どものそばにいるべきでしょう。そうした粘り強い接触を通してしか、「内的真実」は伝わらないからです。
 池田 そうですね。また氏は、次のように述べています。
 「それにしても、昔話のなかの残酷さを真に意味あることとして、子どもに『語りかける』ことのできる語り部は、現在どのくらいいるのだろうか」(同前)と。
 大切なポイントだと思います。
 リハーノフ 示唆に富んでいますね。
 どこの民族でも、子どもが少し大きくなって肉体的に独り立ちするようになると、すぐさま大人は、もうそれで子どもに過大な信頼感をもってしまうという悪い伝統があります。
 しかし、子どもは表面的には、独り立ちしたように見えても、依然として大人のサポート(援助)を必要としています。とくに、子どもが大変なときにはそうなのです。
 心理学やヒューマニズムの思想が大人たちに教えるところは、つねに子どものそばにいて精神的に支え、諭してあげ、慰めてあげ、試練を乗り越えられるようにしていってあげなければならない、ということです。
6  祖父母と孫との絆は、なぜ強いのか
 池田 仏典にも、「植えたての木であっても、強い支柱で支えておけば、大風が吹いても倒れない」(御書一四六八㌻、趣意)とあるとおりです。子どもを思う親の愛情にまさる支えはありません。
 ところで、おとぎ話のもっている真実をなぜ、若い母親よりも、おばあさんがいちばんよく伝えられると思いますか。
 リハーノフ 女性は、おばあさんになったときに、心のどこかで、自分が若いお母さんだったころ、息子や娘に対して、必ずしも十分手をかけてやれなかった。雑事に追われて、いつもせかせかしていた――そのころの自分を振り返って、反省をする気持ちが出てくるのではないでしょうか。
 そして、おばあさんになったときに、第二の母親期を迎えて、白髪の円熟した人間として、過去の過ちを償おうとするのではないでしょうか。
 フランス語では、おばあさんのことを「グラン・メール」(大きいママ)、おじいさんのことを「グラン・ペール」(大きいパパ)と言いますが、私はこの「大きい」という表現がたいへん気に入っています。
 池田 おもしろいですね。
 リハーノフ 孫はちなみに、「プチ・フィス」(小さい息子)、「プチット・フィーユ」(小さい娘)と言います。このようにフランス語には、おばあさん(おじいさん)と孫の関係性がよく表れているように思います。
 小さい息子、小さい娘と、大きいママ、大きいパパというのは、もともと強い結びつきをもっているのではないでしょうか。
 だからこそ、孫もおばあさんの語るお話をじっと聞くのです。また、人生経験のにじみ出たおばあさんの言葉は、穏やかに心にしみるように響くのです。
 池田 悲しいことに、家庭に限らず現代社会にあっては、こうした生きた対話、魂と魂とのふれあいが、本当に少なくなってしまいました。
 たしかに、育児書や子育て教室を頼りに悪戦苦闘している若いお母さんたちに、何もかも望むことはできないでしょう。
 しかし、だからといって、河合氏が言うところの「内的真実」が根こそぎにされてしまえば、それこそ人間社会の崩壊につながってしまう恐れがあります。
 善悪のけじめ、弱者へのいたわり、働くことの尊さ、恩あるものへの感謝等々、人間を人間たらしめている「内的真実」の伝承作業だけは、絶対に絶やしてはならないのです。
 リハーノフ まったくそのとおりです。
 池田 「おばあちゃんのお話」のように、肉声をともなう聞き語りとまではいきませんが、せめてその時期に良書を、との思いから、素人ではありますが、私なりに童話を書き、子どもたちと“メルヘンの世界”を共有したいと、つねづね念じています。「自分にできることがあれば、何でもしてあげたい」との切なる願いからです。
7  世界のすべての子どもが「幸福」に
 リハーノフ その思いは、痛いほどよくわかります。そうした胸のうちを、私は『けわしい坂』の日本語版に、メッセージとして託しました。その一部を紹介させていただきます。
 「国から国へ通う船は、鉄でできています。でも、紙の舟もあります。子どもがつくって、春の小川に流す舟です。
 民族から民族へとぶ飛行機は、金属でできています。でも、紙の飛行機もあります。子どもがつくって、わらいながらとばしあう飛行機です。
 この本は紙でできています。書いたのは、もちろんおとなです。けれど、子どものために書いたのです。
 日本の小さいわたしのお友だち。紙の舟のような、紙の飛行機のようなこの本を、きみにおくります」(島原落穂訳、童心社)
 池田 慈愛にあふれたお言葉です。そのような童心を、いつまでも失いたくないものですね。
 青年時代、私は、恩師戸田先生の経営する出版社で少年雑誌の編集長を務めていました。
 少年のころから、新聞記者か雑誌記者になりたいという夢をいだいていた私は、大張りきりでこの仕事に挑みました。
 何よりも、「未来からの使者」である少年少女たちのための仕事であることに大きな使命と喜びを感じていたのです。
 リハーノフ そこに、あなたの教育活動の原点があるのですね。
 池田 ええ。仕事に没頭するにつれ、目にする子どもたちが、かわいく思えて仕方がありませんでした。
 路上で見かける子どもたち、公園で遊んでいる子どもたち、ケンカして泣いている子どもたち、黒板とにらめっこして勉強している子どもたち――時に私は、彼らを抱きしめてあげたい思いにかられることもありました。この子どもたちのためなら、どんなことでもしてあげたい――と。
 友人であるトルコの国民的歌手バルシュ・マンチョ氏が言った、「私はトルコの子どもたちのためなら、この身の最後の血の一滴までささげます」との言葉が胸に焼きついています。
 リハーノフ なるほど。その心情は、よくわかります。
 池田 私はどんな時でも、子どもを立派な一個の人格として尊重し、尊敬し、紳士とも淑女とも思ってお付き合いしています。また、作品を書く場合も、その魂に語りかけるつもりで取り組んでいます。
 私の童話の絵を手掛けてくださっている、著名なイギリスの童画家ブライアン・ワイルドスミス氏に、「子どもが心の奥底で求めているのは、何だと思いますか」と尋ねたことがあります。
 氏は、即座に答えました。
 「『幸福』です」
 「もちろん、幸福の内容は年とともに変わっていきます。だが、生涯変わることのない『幸せ』の源泉とは何か。それは『創造力』です」
 人間の一生を決める子ども時代。
 世界中のすべての子どもに「幸福」になってもらいたい。すべての子どもの輝く笑顔が見たい。すべての子どもの“心の大地”に、恵みの雨のごとく、滋養を降らせたい。
 そしてもちろん、“心の大地”を豊かにするのに、深い「理解」と「愛情」以上の滋養はありません。
 リハーノフ 同感です。子どもの幸福は、慈しんでくれる大人とのふれあい、愛情あふれる学校の先生や、もっといえば、周囲の愛情や好意につつまれていることだと思います。
 そのような環境を作るのは、たいへんむずかしいことです。そして、大人たちが絶え間なく労力を惜しまないことが要求されます。ですから子どもの幸福は、善良な知恵ある大人の努力にかかっているのです。

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