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日蓮大聖人・池田大作

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第一章 幼年時代、それはまえぶれではな…  

「子供の世界」アリベルト・A・リハーノフ(池田大作全集第107巻)

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1  “メルヘンの世界”から遠ざかる現代社会
 リハーノフ 際立った仏法指導者であり、卓越したヒューマニストであり、対立を世界の協調へと結ぶ、たゆまぬ行動の人である池田会長との出会いが、このような対談となって実現したことをたいへんうれしく思います。
 二十一世紀が目前に迫った今、未来世紀の主役である子どもたちに“希望の灯台”を示すことができるよう、有意義な語らいを残していきたいと思います。どうか、よろしくお願いいたします。
 池田 こちらこそ、よろしくお願いいたします。
 一九九五年、貴協会(ロシア国際児童基金協会)より「トルストイ国際金メダル」を授与されたことは、たいへんな名誉であり、私の人生における忘れ得ぬ思い出の一コマとなりました。
 とくにトルストイは、私が若いころから愛読し、敬愛してやまない大作家であるだけに、感銘を深くしたしだいです。
 優れた作家であり、子どもたちをこよなく愛し続けてこられた総裁との語らいは、必ずや、“若木”がすくすくと育ちゆくための肥沃な土壌を提供することができるにちがいありません。
 リハーノフ 一九九五年の日本訪問からは、本当に快い感動につつまれてモスクワに帰ってきました。
 創価学園の卒業式に出席させていただいたときの、心の洗われるような爽快感、魂の高揚は、決して忘れることができません。今でも、妻とよく思い出話に花を咲かせております。
 池田 ありがとうございます。
 私は、自分の人生の総仕上げの仕事は「教育」と思っていますので、子どもたちのためになることであれば、何でもしてあげたい、とつねに思っております。この対談も、その一環になれば、と念じております。リハーノフ池田会長の創作童話『さばくの国の王女さま』を、一九九六年、モスクワで発刊することができましたのも、われわれにとって大きな喜びでした。エキゾチックなさし絵や物語の展開に興味をおぼえた、という趣旨の声が私の手もとに、いくつも寄せられています。
 訪日の折も申し上げたとおり、現代のロシア、とくにモスクワなどの大都市は、拝金主義が横行し、大人の世界も、子どもの世界も、精神的な荒廃が進んでいますので、幼いころから優れた文物に親しませることが、不可欠なのです。何とかして、その良き習慣を復活させることができないものか――私がつねづね心をくだいているところです。
 池田 日本でも、事情は同じです。童話や名作に親しむ時間は、少なくなる一方のようです。“メルヘンの世界”というものは、むずかしい理屈はぬきにして、人間の生き方や人生の意味、物事の善悪のけじめといったものを“全体像”のもとで教えてくれます。
 ですから“メルヘンの世界”から遠ざかるということは、その社会がどれほどか殺風景で、ひからびた状態になっているかを示しています。いきなり大上段に振りかぶったようなものの言い方で恐縮ですが……。(笑い)
2  真実の宗教は文化運動へ結びつく
 リハーノフ いえいえ、私も同意見です。その大問題は、あとでゆっくり語りあいましょう。
 ところで、池田先生! まず簡単な前奏曲とでもいうところから始めさせてください。
 これは私たち二人というよりは、読者に背景を説明するためのものです。世界には多くの教育学の流れがあります。きわめて理論的なものや、あるいは教育の理論と実践をみごとに一致させているものもあります。
 たとえば、オーストリアの人道主義者ヘルマン・グマイネルが第二次世界大戦後、さまざまな悲劇が残した孤児や犠牲をこうむった子どもたちを守るために作った国際システム「キンデルドルフ―SOS」(「子どもの村―SOS」)があります。
 池田 総裁の教育への尊いご努力、またさまざまな伝統あるシステムは、私もよく存じ上げているつもりです。
 リハーノフ 「キンデルドルフ―SOS」は、修道女が自分の家庭はもたずに、子どもを預かって母親として育てるというものです。モンテッソーリの教育運動
 もあります。そのほか、例を挙げることはいくらでもできます。
 しかし、私がこれこそ完璧で普遍的なシステムだと思うのは、精神的にも、組織的にも、あなたがリーダーであられる創価運動なのです。そこには幼稚園から小学校、中学、高校、大学まであります。
 それだけではありません。あらゆる年齢層の子ども向け雑誌や新聞、大人向けの新聞も出していれば、幅広く広報活動を行い、全国各地に会館ももっています。文化面については美術館など、ただもう賛嘆するばかりです。
 池田 おほめにあずかって恐縮です。多くの読者をもつ児童文学者であり、なおかつ児童教育の不屈の実践者である方の発言であるだけに、重みをもって受けとめさせていただきます。
 総裁の言葉をお借りすれば、私どもの「創価運動」は、一言で言えば「仏法の大地に展開する大文化運動」と位置づけることができます。
 宗教のための宗教などというものはありえず、またあってはならず、真実の宗教は、人間の活動を通して、あらゆる面での文化運動へ結びついていかなければなりません。私どもの運動は、こうした普遍の原理の現実社会への展開なのです。
 リハーノフ なるほど、よくわかります。このようなシステムをごく表面的に分析しただけでも、次のようなことが言えると思います。
 成長過程にある人間が一つの教育段階から別の段階に進む途中で、どうしてもたちはだかる壁があるものです。
 しかし、創価システムのなかではそのような壁に傷つくこともなく、バランスよく落ち着いて、円滑に成長の階段を上りながら一貫教育を終え、確固たる
 価値体系のなかで精神的な成長を遂げていくことができます。
 池田 温かい励ましのお言葉です。
 リハーノフ 創価システムをじかに見て、私は「自分の果たせなかった夢が実現しているのを見た」という思いでロシアに帰りました。
 一九八七年に私が児童基金――当時はソ連の全国組織としてでしたが――を設立したときに夢見ていたのは、まさにそのような独立したシステムの創設だったのです。
 もっとも創価のような教育システムではなく、不幸に見舞われた子どもたちの救済組織としてでしたが。
 しかし、結局、その後のソ連、続いてロシアの社会変動によって、自分の夢を実現することはできませんでした。やはり、事を成就させるには社会全般の安定性が必要であり、ロシアにはそれが欠けています。
3  社会主義の理想とガンジーの予言
 池田 たしかに、社会主義イデオロギーが崩れ去ったあとの精神的な空白ということをよく聞きます。
 「金メダル」を授与してくださったときの総裁のスピーチが、心に焼きついています。
 すなわち、「まるで、クレムリンの足もとに動物の死骸が積まれていて、残忍なカラスの群れがたがいに襲いかかりあいながら、その死骸をずたずたに引き裂いている、といった印象です」「そして、この恐るべき争いのなかで主役を演じているのは、十年前のいわゆる民主改革の初期には、まだ子どもだった青年たちなのです」と。
 痛ましい限りですが、悪に染まりやすく、崩れるのも早ければ、立ち直るのも早いのが、青少年時代の魂の特徴です。その可能性を信ずるところから、私どもの共同作業も始まるのですね。
 リハーノフ わが国の政治の崩壊、とくに制度の崩壊は、どうしてもモラル(道徳心)の破綻を招きました。それは青少年に顕著に表れています。
 池田 重ねて申し上げますが、日本など自由主義社会の現状も、お世辞にも及第点のつけられるようなものではありません。
 ロシアが、社会主義体制の崩壊という激震に見舞われたショックによる“心臓発作”であるとすれば、日本の現状は、ひょっとすると、気がつかないうちに徐々に進行している“がん”かもしれないとさえ、私は思っているのです。
 リハーノフ しかし、創価の成果にはただ賛嘆するばかりで、きわめてユニークな現象であると思います。あなたの最大の功績は日本社会の中に、すべての人に開かれたグローバルな独自の市民社会を作られた、ということでしょう。
 それは一つの殻の中にさらに別の殻を作るということではなく、英知と豊かな精神性をもつ内なる組織体で、その組織体の透明な壁をすりぬけてポジティブ(積極的)な力が両方向に働き、行き来しているのです。
 池田 おっしゃるとおり、会員個々にあっても、あるいは組織面においても、社会との間に“垣根”がないことが大切です。
 リハーノフ こんなことを言うといやな思いをされるかもしれませんが、あなたが実現された社会的理想は、社会主義の理想に近いものだと思います。もちろん、社会主義の声高な政治スローガンや、巧妙な世界制覇の野望などは除いた上での話ですが。
 池田 いえ、決していやな思いなどしません。体制が崩壊したからといって、社会主義が志向していた理念である「平等」や「公正」という言葉は、決して死なせてはならない。
 これは、ゴルバチョフ元ソ連大統領との対談でも述べたのですが、私は、仏法を基調とした私どもの運動の一側面を「人間性社会主義」と形容しました。ほぼ三十年ほど前のことです。この信念は今も変わっておりません。
 総裁のおっしゃる趣旨は、私にはよくわかるような気がします。インドのマハトマ・ガンジーにも「社会主義は水晶のように純粋である」(K・クリパラーニー編『抵抗するな・屈服するな――ガンジー語録』古賀勝郎訳、朝日新聞社)という、きわめて含蓄の深い言葉があります。「水晶のような手段」すなわち「純粋な心の持主で、誠実にして非暴力的な社会主義者のみ」(同前)が、その建設者たる資格をもつ、と。これは、ガンジーの痛烈なアイロニー(皮肉)でもあります。
 リハーノフ ガンジーの言いたい意味は、よく理解できます。「平等」や「公正」を実現するには、まずエゴイズムを克服した「私心なき人間」が前提となりますからね。
 池田 ガンジーが言うような社会主義であるためには、何らかの宗教的バックボーン(背骨、支柱)が必要だったのです。それなのに、無神論という“玉座”に傲然と居座っている現実の社会主義者ほど、そのようなイメージと遠いものはなかったのでしょう。
 残念ながら、その後の社会主義の歩んだ、非暴力とは正反対の血塗られた道は、ガンジーの言葉の正しさとその予言的性格を、証明しました。
 したがって、ガンジーの言葉から必然的に浮かび上がってくる、誠実にして純粋な人間像は、たしかに、私どものめざしている「人間革命」というテーマと、強く響きあってくるでしょう。
4  絶えず「知恵の全体性」を問いながら
 リハーノフ そうした意味からも、創価思想は全人類的な幅広い社会性をもつものです。なかでも子どもについての問題は、とくに重視されているように思われます。
 日本の文化、民族的伝統、美を愛でる心、そして他の多くの民族が気づかずに素通りしてしまうようなところにも美的価値を見いだす心が、「創価的な」子ども観、教育理念に、特別ないろどりを添えているように私は理解しました。この点についてお話しいただきたいと思います。
 池田 創価学会は、創立以来、一貫して民衆の幸福と社会の繁栄を願って、「平和の道」「文化の道」「教育の道」を世界に広げてきました。なかんずく「教育」は、「文化」の大地を潤し、「平和」の大樹を地球上に青々と茂らせていく水脈です。
 だからこそ、創立者の牧口常三郎初代会長は「創価教育」に全魂をかたむけてきましたし、初代会長を支えた私の恩師戸田城聖第二代会長も全力を注いだのです。
 私も、その志を継いで、「教育こそ最大の事業」との思いで取り組んできました。その意味では、幼稚園から大学までの一貫した「創価教育」の府は、三代にわたる汗の結晶であり、この学舎を支えてくださった多くの方々の真心の結実と言えましょう。
 それだけに、総裁が評価してくださっていることに、心からの感謝をおぼえずにはおられません。
 リハーノフ いえ、これは私の率直な感想なのです。
 池田 一九九五年、創価学園の卒業式に臨席してくださった総裁は、純粋で清らかな心を持った学園生が育っていることをたたえてくださいました。
 その純真な心、正義の心とともに、この学舎から巣立っていく新時代開拓の若き後継者に、創立者として望んできたものは、次の一点です。
 すなわち、自分だけよければ、という小さなエゴイストではなく、自分の生き方を人類の運命にまで連動させゆく「全体人間」に成長してほしい、ということです。
 教育は、そうした「知恵の全体性」を、絶えず問うものです。個別な知識を、人生の全体に生かしていく知恵に高めていくこと。それは、「社会性」豊かな、調和のとれた「人格」の人に、と言ってもいいでしょう。
 リハーノフ 「知恵の全体性」というのは、よい言葉ですね。わが協会の最高栄誉賞に名を冠するレフ・トルストイは、一八五〇年代の最初の国外旅行で、ヨーロッパ文明のあり方に深刻な懐疑をもちました。
 知識の進歩は人間に何をもたらしたのか。その意味を、人間いかに生きるべきかという「知恵」の全体観の上から問い直したのです。この魂の求道者は、ヤースナヤ・ポリャーナ近くの一寒村で横死するまで、その旅を続けました。
 その点、私は、池田会長がモスクワ大学での講演(「人間――大いなるコスモス」、一九九四年五月。本全集第2巻収録)で、『アンナ・カレーニナ』の主人公であるレーヴィンに言及しているのが印象的でした。レーヴィンは、そうしたトルストイ自身を映しだしているように思えます。
 この名作の最終章(第八編)は、アンナの鉄道自殺の印象があまりに鮮烈すぎて、そのあとに続くレーヴィンのモノローグ(独白)は、ともすれば印象が薄れがちなのですが、さすがにそこにスポットを当てておられると、大いに共鳴したものです。
5  「人格価値」を高めることこそ大人の責任
 池田 ありがとうございます。じつは、総裁が創価学園の卒業式にお見えになられたとき、生徒たちが「草木は萌ゆる」という校歌を斉唱していましたが、その歌詞の主題として繰り返されているのが「何のため」という問いかけなのです。
 「英知を磨くは何のため」「情熱燃やすは何のため」「人を愛すは何のため」「栄光めざすは何のため」「平和をめざすは何のため」等と繰り返し歌われています。
 最後の五番は私が付け加えたものですが、あとは、すべて生徒の発想によるものです。
 この「何のため」という問いかけこそ、「知恵の全体性」という水脈を掘り当てるためのもので、そこにいたる回路とは言えないでしょうか。
 私どもの数ある歌のなかでも、私のもっとも好きなものの一つです。何を学び、どの道に進もうとも、つねにこの「何のため」というみずからの使命への問いかけを絶対に忘れないでほしいと祈るような思いで、私は少年少女たちの成長を見守っております。
 リハーノフ よくわかります。「何のため」という
 ことは、生きることの本当の意味を問うことではないでしょうか。多くの人のためにということは、とりもなおさず自分のためを意味している――「知恵の全体性」とは、そういうことではないでしょうか。
 池田 ええ。ロシア語には「フセチェロヴェーチェストボ(全人性)」という言葉がありますね。私はこの言葉が好きです。
 総裁、あなたにお会いした折、この全人性があふれ出たような人格の輝きに、心洗われる感を禁じえませんでした。
 あのペレストロイカの設計者とも称されるヤコブレフ博士は、私との対談の折、新しい文明の段階に踏みだすために人類の“善の力”を高めていくことの重要性にふれていました。
 二十年余にわたって小学校の校長を務められた牧口初代会長も、「善心」を育み、「人格価値」を高めていくことに心をくだき続けました。とりわけ学校は、子どもたちが「社会性」を身につける学習の場、生活の場であることをつねに強調していました。
 リハーノフ 牧口会長は、小学校の校長をされていたのですね。
 池田 ええ。たとえば牧口会長は、白金小学校の校長時代、共同生活の行事として、毎月末に学校の大掃除を行っていました。
 その日は、みずからも腕まくりをして、「どうだい、こうやればきれいになるだろう」と、率先して廊下を拭いて模範を示すのです。そして、各教室を一つ一つ見てまわりながら、「あなた方には、自分の愛する学校をきれいにする権利とともに義務があるのです」と、社会生活の基本を子どもたちにわかりやすく教えていったのです。
 現代の社会は、この「善」や「人格価値」に重きを置かず、ともすれば冷ややかな視線を向けがちです。
 リハーノフ 私も、同じ憂慮をもっております。自我の自覚から本格的な人格形成へ――自分で認識し、自分の言行には自分が責任をもち、困難な状況に置かれても自己を抑制する。チェーホフの教えにあるように、自己を訓練して労働の能力を身につけ、自分自身の体内に善を発達させ、体内の悪とたたかい、自己を築き上げていかなければなりません。
 人間らしい生き方をしていくには、このような「人格価値」を、できるだけ早い時期から身につけるべきです。また、それは十分可能です。
 大人たち――とくに親や学校の教師は、この古くて新しい真実を、若い人たちに向かって自信をもって訴えていかなければなりません。
6  関係性を重視する「縁起」の発想
 池田 「人格」の形成、「人格価値」の創造の“場”としての学校という着想は、初代会長が、フランスの社会学者エミール・デュルケームに注目していたこととも関係があります。
 初代会長は、その著作『創価教育学体系』の中で、デュルケームの社会学的な方法を血肉として、日本の教育現実を考察しています。
 デュルケームは、社会(集団)を、個人に還元することのできない一つの実在(集団表象)としてとらえる立場です。それゆえに、社会(集団)総体へのアプローチ(接近)を試みる場合には、人間の個別性よりも、むしろ関係性を重視しなければならない、と言います。
 総裁はお気づきかもしれませんが、じつはこうした発想は、“縁起観”という仏教のもっとも基本かつ重要なパラダイム(考え方)と、深く通じあっているのです。
 リハーノフ それが仏教の基本的考え方なのですね。
 池田 仏教にもさまざまな流派がありますが、共通して言えることは、それらのすべてが、原初とも言うべき出発点に“縁起観”をすえているということです。
 モスクワ大学での講演でも若干ふれましたが、「縁起」は、「縁りて起こる」と読みます。人間界であれ自然界であれ、物事には単独で生起するものはなく、すべてはたがいに関係しあっている。
 たとえば、Aという教師、Bという生徒がいると、AとBは単独で存在するのではなく、AはBあってのA、BもAあってのBというふうに、個別性よりも関係性が重視されています。
 デュルケームにも通じるこうした発想は、個人や個物を軸に展開されてきた人間観とは、明らかに異なっています。
 詳述しませんが、私が申し上げたいことは、あまりにも潤いのない社会や学校の人間群像に「全体人間」を復活させるためには、そうした発想の転換が不可欠であろう、ということです。
 リハーノフ もっと“縁起観”について、うかがいたいのですが、お話を聞いて、私は、わが国の優れた教育者であるスホムリンスキーのすばらしい言葉を思い出しました。
 「人間の心はいかなるものをもってしても、埋めあわせられないものである。たとえ、物質的にどんなに恵まれようと、どんなすばらしい環境をつくってもらおうと、また、毎日の生活がどんなに順調であろうと、それだけで心が満たされるわけではない。子どもには立派な集団が必要であるけれども、同時に、その子どもの誕生・発達・精神的進歩を最大の喜びとするような人物、その子どもが心から敬愛する人物が必要なのである」(A・リハーノフ『若ものたちの告白』岩原紘子訳、新読書社)と。
 池田 それが親であり、教師でなければならない、と。
 リハーノフ ええ。人間はだれしも、とくに子どもの場合、一人で生きていくことはできません。愛し愛されることによって、励まされることによって、生きがいを感じることもでき、健全なる成長が可能となってきます。
 スホムリンスキーの言葉は、子どもにとって、そのような存在を欠かすことができないことを指摘したものです。その意味では「関係性」を非常に重視したものと言えませんか。
7  よき「関係性」が子どもを育む
 池田 そこがポイントです。牧口会長も、この「関係性」を何よりも大切にしました。ゆえに進んで児童と向きあい、最高の教育環境たらんとしたのです。
 牧口会長は、じっと机に向かっているだけの教育者ではありませんでした。校長となってからもひんぱんに校舎をまわって、児童が今、何を求めているのか、自分の目で確かめ、つねによりよい教育を模索していったのです。
 また当時、貧しいがために、学校に来たくとも来られない児童がたくさんいました。まさに学校という「関係性」から外れてしまった子どもたちです。
 そうならばと牧口会長は、一軒一軒、家庭訪問を行って、児童を温かく励ましております。そうやって、来られない児童のためには、自分が足を運んで「関係性」を深く、深く築いていったのです。
 この牧口会長の努力は、やがて実を結び、小学校の出席率は短期間のうちに飛躍的に向上していったといいます。形式ではなく、こうした人間教育の振る舞いこそ、真に児童を豊かに育んでいくものでしょう。
 リハーノフ なるほど。いいお話ですね。現代のロシアでは、牧口会長のような教師は、本当に少なくなってしまいました。その結果、じつに多くの青年が悪の道に走ったり、自殺したりしています。
 池田 じつのところ人間社会というものは、自然や宇宙とのつながりも含めて、すべてが「関係性」の上に成り立っています。
 「関係性」と言っただけでは抽象的な響きしか伝わりませんが、じつに重要なことなのです。人間と人間、人間と自然、自然と自然……それらをつなぐ絆が弱まり、磨り減ってきているのが、ほかならぬ現代社会と言えるでしょう。
 そして、絆が弱まるに比例して、人間も断片化して、小さく小さく孤独の殻に閉じこもって「全体人間」とは縁遠い存在になってしまいます。事実、そうなっている。
 D・H・ローレンスが、「私の個人主義とは所詮一場の迷夢に終る。私は大いなる全体の一部であって、そこから逃れることなど絶対にできないのだ。だが、その結合を否定し、破壊し、断片となることはできよう。が、そのとき私の存在はまったく惨めなものと化し去るのだ」(『現代人は愛しうるか』福田恆存訳、白水社)と警告しているとおりです。
 リハーノフ なかでも、もっとも身近な親子の関係というのは、大事ですね。親が、本当の意味での「親らしい心」をもっているかどうか――物理的に親となることは容易ですが、「親らしい心」をもつことは、やさしいようでなかなかむずかしいことです。
 「親らしい心」とは、わが子の発達段階に合わせて、うまく調整し調和を保てる心です。小さい時には闇雲にかわいがっていたとしても、少年期を迎えたら、そのあり方をずっと抑制して、要領よく接し、しつこくからみついてはいけない。だからと言って、一分一秒たりとも物陰に身を引いてしまってはいけないでしょう。
8  「子ども的なるもの」を保ちゆく大切さ
 池田 “猫かわいがり”もよくないが、だからといって、“無関心”であってよいはずはない。子どもとの間にきちんとしたスタンスを保つことは、意外にむずかしいものです。
 リハーノフ 私は、日本でも翻訳された自著の『けわしい坂』(島原落穂訳、童心社)の中で、父と子の関係と、そのあり方について書きました。戦争でたいへんな時代、出征などでなかなか子どもに会えない父親が、男の子に「だめだと思う気持ちに、勝ちさえすればいいんだ」「だめだと思う心に勝つことだ」という一つのことを教え込む。その愛情に満ちた訓練のふしぶしを描きました。
 池田 心に残る佳品ですね。
 われわれが子どもたちともども「全体人間」を志向していくためには、われわれの「大人的なるもの」のなかに、いつも「子ども的なるもの」を保ちつつ、大切に育てていかなければならないでしょう。
 なぜなら、この「子ども的なるもの」こそ、人間や自然、宇宙など、物事へのみずみずしい感受性という点で、「全体人間」の胚種をなしており、巧まずして大宇宙を呼吸し対話しゆく体現者であるからです。
 リハーノフ おっしゃるとおりです。
 池田 残念ながら近代文明は、物質的な豊かさとは裏腹に、そうした豊饒な感受性――そう、レフ・トルストイが『コサック』の中で、エローシカ叔父に濃密に体現させていた、大自然の子としての感受性です――を、あまりにも涸らしてしまいました。
 自然や宇宙、時には人間さえも客体化され、科学や合理主義のメスで切り刻むことの可能な、よそよそしい対象へと堕してしまいました。
 リハーノフ トルストイがヤースナヤ・ポリャーナの一角で児童教育に全力をあげていたのも、大きく言えば、そうした文明の危機を、ガンジーなどと同じ次元で感じとっていたからにちがいありません。
 池田 人間不在の浅薄な近代文明にあって、「子ども的なるもの」は、「大人的なるもの」に到達する以前の、未熟にして未完な“半人前”の扱いしか受けることができませんでした。
 当然の帰結として、現代人が手にするにいたった「大人」社会は、「子ども」を見失った「大人」社会であり、何とみすぼらしく、何と砂をかむような味気なさ、生気のなさでありましょうか。子どもたちが生き生きと成長できる場とは、およそかけ離れています。
 その意味では、文明の危機は、まずもって教育の危機という形で、もっとも尖鋭的に噴出してくるのかもしれません。
9  子どもになることは巨人になること
 リハーノフ あなたとキルギス共和国の著名な作家チンギス・アイトマートフ氏との対談(『大いなる魂の詩』。本全集第15巻収録)を、興味深く読ませていただきました。
 その中で、アイトマートフ氏が、みずからの手になる『ソ連諸民族民話集』の序文を援用している個所がありましたね。氏は、ヤヌシュ・コルチャックの『私がふたたび子どもになる時』に言及しながら語っています。
 「子どもになるということは巨人になることです。私はふざけているのではありません。恐ろしい自然現象を屈服させることができるのはまさに子どもなのです。子どもは、だれかを不幸から救いだすためならば、どんな自然の猛威とも、胆力・品性あわせもつ中世の騎士よろしく戦う覚悟をもっています。そして子どもは未知とも戦います。そしてつねに勝利します。どうしてでしょう?なぜならば、ここでもふたたび、自分のためではなく、虐げられ、辱められている者たちの幸せのために戦うからです」と。
 アイトマートフ氏は、いくぶん含みをもたせて語っていますが、「子ども的なるもの」こそ、まさに「巨人」のように、人々の通念や常識を打ち破って、創造的な仕事をなしていく母胎と言えないでしょうか。
 池田 事実、科学の分野であれ、芸術の分野であれ、創造的な仕事をした人は、ほとんど例外なく、いくら年をとっても「子ども的なるもの」、みずみずしい感受性を、じつに豊かに保ち続けています。
 そのような創造性をつちかう場である教育の世界が、おしなべて、先進国であればあるほど深刻な病状を呈しているということを、大きな文明論的な課題として、重く受けとめていかなければならないと思います。
 リハーノフ そのとおりです。私たちはこの対談で、ぜひとも、その共通の課題について論じ、解決の方途を見いだしていきたいのです。
 池田 二十世紀とは、十九世紀末に幾人かの先哲が警鐘を鳴らしていた近代文明の歪みが、現実の問題として危機的様相を露にしてきた時代と言えると思います。
 ですから、巷間二十世紀の三大発見――じつは再発見だと思いますが――の一つに、「未開」「無意識」とならんで「子ども」の発見が挙げられているのも、私は、十分にうなずけるのです。
 リハーノフ まったく同感です。この章のタイトルに、池田会長に無断で(笑い)、「幼年時代、それは人生のまえぶれではなく、人生そのものだ」と銘打たせていただいた思いと、まったく符合しています。
 池田 「無断」どころか、さすが「先見」(笑い)です。
 「未開」に対するに「文明」、「無意識」に対するに「意識」、「子ども」に対するに「大人」の絶対的優位のもとにひた走り、今日の危機的様相を呈してしまっているのが、ヨーロッパ主導の近代文明の偽らざる現状であるからです。
 私が「創価教育」に託している夢は、仏教の“縁起観”を背景に、牧口会長の教育学説に源を発する「全体人間」を復活させ、袋小路に入り込んでいる現代文明に、突破口を切り拓いていきたいという思いなのです。

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