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人間の尊厳の危機を超えて 池田大作

「二十世紀の精神の教訓」ミハイル・S・ゴルバチョフ(池田大作全集第105巻)

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2  それゆえ、一九九〇年初頭の「SGIの日・記念提言」の中で、私は、プラトンの民主主義批判に論及しながら、民主主義のかかえる永遠の、最大のアポリア(難問)ともいうべき確たる内面世界の構築に目を向けよう、そこの陶冶を怠ると民主主義そのものが累卵の危うきにおちいりかねない、と強く訴えました。一世紀半も前にアメリカン・デモクラシーに関する比類なきルボルタージュを著したA・トクヴィルなどが鋭く警告していたように、社会が固定化していた封建時代と違い、自由や平等を標榜する民主主義の時代にあっては、すべてが流動化し、揺れ動くなかで、最も揺れ動くのがほかならぬ人間の心であるからです。そして、その揺れ動く心を放置しておいたのでは、安定した健全な民主政治など期待できず、エゴイズムのまにまに翻弄され、流転しゆく、衆愚政治へと堕してしまうことは火を見るよりも明らかであるからです。
 アテナイの民主政治に名を借りた衆愚政治によって、敬愛する師ソクラテスを奪われたプラトンは、民主主義というものに対し、強い懐疑をいだいていました。大著『国家』の中で、彼は政治制度のあり方を、(1)王制(2)名誉制(3)寡頭制(4)民主制(5)僣主制の五つに分類していますが、この順番のごとく、民主制のランクは、全体のなかの四番目にすぎません。そして、民主制というものは、それがはらんでいる宿命的な内部矛盾、内的必然性によって、五番目の最悪の全体主義的な僣主制へと移行していってしまうであろうと、あくまで否定的な位置づけしかされていないのであります。このへんがB・ラッセルなどの近代民主主義の擁護者の激しい反発をかっているところですが、私は、プラトンの懸念、懐疑は、二千年後の今日も決して杞憂ではないと信じています。それを裏づけるかのように、その後の「民意の時代」「民主の流れ」の逆行、私の言う世界史の退行現象は、プラトンの分析の正しいことを、鏡にかけて映し出しているかのようです。
 ゴルバチョフさん、重ねて申し上げますが、私は、あなたと違って政治家ではありません。したがって、どうしても人間の内面世界が第一義的な関心事であり、そこへのアプローチを優先せざるをえないのです。その意味からも、グラスノスチのところでの論及と若干重複するもしれませんが、あえてプラトンが民主制が僣主制へと移行していくくだりをどう描出しているかを私なりに要約した一文を紹介させてください。
 「――そこで浮き彫りにされるのは、人間にとって永遠のアポリア(難問)である『自由の背理』というテーマであります。民主制――『自由こそその国のもつ最も美しいものであり、それゆえに本性において自由である人間が住むに値するのはこの国だけである』を標榜する民主制は、その表看板である自由のあくなき追求のあまり『欲望の大群』を生みだし、それによって『青年の魂の城砦は、徐々に占領されていく。そこから、次第にはき違えが生じてくる』『慎みをお人好しと名づけて』『思慮を女々しさと呼んで』『ほどのよさやしまりのある金の使い方を、やぼったいとか自由人らしくないとか理由をつけて』それらの美徳を追放してしまう。逆に『傲慢を育ちの良さと呼び、無秩序を自由と呼び、浪費を気前良さと呼び、無恥を男らしさと呼び』悪徳群に『花冠をかぶらせて、盛大な合唱団とともにはなばなしくつれもどす』」と。
 留意していただきたいのは、ここでプラトンが人間の「美徳」として挙げているものが、先のスミスの「経済人」――利己心や自愛心に突き動かされる「経済人」の属性とされていた徳目と、驚くほど親近しているということです。このことからも、スミスの言う「経済人」という言葉が、強い倫理的響きを有しており、むしろプラトンの言う「悪徳群」の体現者さながらの今様「経済人」とは似て非なるものであることが、判然としてくるでありましょう。
 要約を、もう少しつづけます。
 「その結果、混乱は時を追って手のつけられないものになっていくだろう。そこで事態収拾のため強い指導者が待望される。『針のない雄蜂』の群から押し上げられた『一匹の針のある雄蜂』たる彼は、最初はたしかに民衆の指導者であるかもしれない。しかし、抗しがたい権力の魔性が彼を操り、早晩『僣主への変化』をうながすことも、また必然である。詮ずるところ『過度の自由は、私人においても国家においても、ただ過度の隷属へと変化する以外にない』。かくして、民主制という『最も高度な自由』は、僣主制という『最も野蛮な隷属』へと堕し、独裁者の支配下に入っていく」
 なにやら、身につまされるような話であります。私は『国家』を著したプラトンの第一義的な関心事が、制度論よりも人間論、制度的統治よりも人間の内面統治にあったということを、決して忘れてはならないと思います。人間という永遠なる謎の解明に、類まれな手腕を発揮しているからこそ、その著作は今に新しく、あたかも今日の政治情勢を分析しているかのような迫真力を有しているのであります。
 プラトンが活写するところのソクラテス的対話が、今なお多くの人々を魅了し、ときに惑乱させながらも、日常の茶飯事から始まり、真の幸福とは何か、人間いかに生くべきかといった、人生根本のテーマへと誘ってやまないのであります。
 あなたは、アメリカにおけるマスコミという第四の権力に言及されました。そのマスコミが主導する世論が決定的な役割を演ずるアメリカ社会、アメリカン・デモクラシーの長所と短所を知悉していた人に、今世紀最大のジャーナリストといわれるW・リップマンがいます。彼は名著『世論』の中で、マスコミがつくり上げるさまざまなステレオタイプ(固定観念)によってミス・リードされやすい世論に警鐘を鳴らしながら、それを防ぐために「証拠による吟味」の必要性を力説しております。そして、それを可能ならしむる「ソクラテス流の対話」「ソクラテス的人間」が民主主義の成熟と発展のために急務なることを訴えております。
 以来、七十年以上が経過しましたが、アメリカに限らず、総じてデモクラシーの活力の衰退をみるにつけ、民衆よ、賢明であれ! とのリップマンの警鐘の意義は増しこそすれ、決して減ってなどいません。
 仏典に「一丈のほりを・こへぬもの十丈・二十丈のほりを・こうべきか」とあります。また、一般にも「千里の道も一歩より」といわれるように、眼前の課題を克服しなければ、いかなる努力も対策も空転していってしまうであろう「一丈のほり」「一歩」があるものです。ソクラテス的対話がまさにそれであり、それをさけて通っていては、民主主義の活性化もありえないし、希望の二十一世紀も決して拓けてこないのであります。
 おびただしいソクラテスの対話のなかから一つだけ、その″肉声″に耳をかたむけてみましょう。今日の薄っぺらな、それでいて傲慢な拝金主義者や快楽主義者と対面したら、彼は悠揚迫ることなく、こう応じたにちがいないからです。
 対話論『ゴルギアス』の中に、カリクレスというアテナイの気鋭の政治家が出てきます。若く自信満々の彼は、ソクラテスが「節制してよく己に克ち、自分の内にあるもろもろの快楽や欲望を支配する」ことの大切さを説くのを嘲笑い、「おごりと、放らつと、自由とが、ひとたびそれを裏付ける力を獲得するとき、それこそが人間の徳というものであり、幸福にほかならない」と、訳知り気に言い放ちます。
 ソクラテスは、このような血気に走った大言壮語を柔らかに受け流しながら、例の″産婆術″を駆使しながら、快楽主義の矛盾を突きます。
 「――まず手はじめに聞くが、ひとが芥癬にかかって、かゆくてたまらず、思う存分いくらでも掻くことができるので、掻きつづけながら一生をすごすとしたら、これもまた幸福に生きることだといえるのかね」
 たちまちカリクレスは惑乱され始め、快楽と幸福とは同じなのか違うのか、快く生きることは善く生きることなのかといった問題にいやがおうでも直面せざるを得ず、対話はソクラテスペースで進んでいきます。現代の拝金主義者や快楽主義者は、カリクレスほどにも″率直″に、賢者の声に耳をかたむけることができないでしょう。
 仏法者の立場から、もう一人の″人類の教師″釈尊にまつわるエピソードを紹介してみたいと思います。
 病気で愛児を失った若い母親が、死者を蘇らす薬はないかと、狂ったように走り回る。やがて、釈尊の存在を教えられた彼女は、駆けつけ礼拝していう。
 「お釈迦様、あなたは、わたしの子どもを元どおりにする薬をご存じということですが……」
 「その通り、わたしは知っているよ」
 「教えてください。どうしたらよいのでしょう」
 「一人でも死人の出たことのない人の家から白いケシの実をもらうのだよ」
 彼女は死んだ愛児を腰に抱えて、死人の出たことのない家を探し求める。しかし、どの家もどの家も必ずだれかが死んでいた。なんとか白いケシの実を得ようとしたが得られずついに夜になってしまう。
 「ああ、なんと恐ろしいこと。わたしは今まで、自分の子どもだけが死んだと思っていたのだわ。でもどうでしょう。町中を歩いていると、死者のほうが生きている人よりずっと多い」
 こうして、彼女の子どもに対する執着の心はだんだん薄れていった。そして、釈尊のもとへ帰りつき、人生の″無常″、生あるものは必ず死ぬという″生老病死″の根本の理について、何事かを悟ることを得た、という。いかにも釈尊らしい、慈悲と知恵を二つながら縦横に行使した、慈愛あふれるエピソードであるといえましょう。
 このような″ソクラテス的対話″″釈尊的対話″を復活させ、その輪を幾重にも幾次元にも広げていくことを、私は、生涯の課題とし、また夢ともしてきましたし、今後も、その道をひた走っていくつもりです。どんなに迂遠な道に見えようとも、そこにこそ、時代の閉塞状況に風穴をあけていく王道があり、正道があると信じているからです。それはまた、あなたのおっしゃる「みずから考える市民を創出していく、人間一人一人の内なる新たな文化的革命を世界的規模で展開していく」ための確たる一歩となっていくにちがいありません。
 もとより、そこに徹することが、生やさしいものでないことは、十分承知しているつもりです。名聞名利を追うための人気取りの言論や、物事のつじつま合わせのためのおざなりな対話は、言論や対話の名に値しません。ソフィストの言論活動は、彼らに富と名声をもたらしましたが、ソクラテスの言論活動は、青年を毒するものであるとの誤解や非難、中傷、結句は死の運命に彼を追いやりました。しかし、歴史の淘汰作用は正直で、容赦のないものです。ソフィストたちとソクラテスのどちらの人間洞察が深かったか、言葉が人間の証であるとすれば、どちらの言葉が言論・対話の名に値したか、あえて言挙げする必要もないことでしょう。どんなに非難・中傷を浴びようとも、たとえ死に直面しようとも、己が信念に従って、黙することを肯じないのが、まことの言論の発露であります。私の恩師は「信なき言論は煙の如し」と喝破しました。この不朽の言葉は、あなたとこうして、ゆくりなくも信念の対話をつづけている間、つねに私の胸の中にこだまし、響きつづけてきた″通奏低音″ともいうべきものでありました。
 最後に、国連の役割、めざすべき方向性についてのご提案には大賛成です。それらは、多くの点で、私がかねてから「提言」等で強調してきた点と共通しております。
 私は、国連の未来像を輝かせていくためには、″ソフト・パワー″としての国連の性格をどう強めていくかにかかっていると信じております。その意味では、現在の国連は、安全保障理事会を中心とする″ハード・パワー″にウエイトが置かれすぎています。もちろん、国際紛争を解決するためのやむをえざる手段として、武力を軸とする″ハード・パワー″も欠かせないでしょうが、それに偏向して真の秩序回復がなるかどうかは甚だ疑問であります。「湾岸戦争」後の世界情勢は、それを物語っていますし、まして、ポスニア問題などは″ハード・パワー″の限界をまざまざと見せつけております。
 そうではなく、国連は″人類の議会″にふさわしく、対話や討論を機軸に、システムやルールなどの″ソフト・パワー″を活性化させることを第一義とすべきであります。私どもも、国連のNGO(非政府組織)の一員として、微力ながら、その一端を担っていきたいと念じております。
 追記 本全集の制作が最終段階に入っていた一九九九年九月二十日、ゴルバチョフ総裁を支えてきたライサ夫人が逝去されました。心よりご冥福をお祈り致しますとともに、総裁並びにご遺族に衷心より哀悼の意を表します。これからも総裁と共に、平和のため、人類のために尽力していく所存です。

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