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新思考から新政治ヘ ミハイル・S・ゴルバチョフ

「二十世紀の精神の教訓」ミハイル・S・ゴルバチョフ(池田大作全集第105巻)

前後
1  昨年の夏、ちょうど時間ができたときに私はこの対話の原稿をもう一度、声を出して読み返し、これまでに言った言葉、書いた言葉が本来の生きた響きをもっているかどうかを確かめてみました。正直言って、そのとき私は満足感をおぼえました。″二十世紀の精神の教訓″についてあなたと対話を始めてよかったと思いました。残念ながら、今世紀も終わろうとするときに、倫理的・精神的危機が深刻化し、蔓延してきていることが露呈してきました。ヨーロッパ文明の発展を支えてきた価値観や機構はいまや息絶えんとしています。
 消費への執着とたゆまぬ資本の蓄積は、人類にとっての要の問題である人間と自然とのバランスを崩すという結果を生んでしまいました。人類は麻薬やテロ、犯罪の激増を阻止することがどうしてもできないでいます。また野蛮行為や民族戦争の新たな波に対しても、不意をつかれた格好になってしまったことは、近年の一連の出来事が示しているとおりです。
 だからこそ今、今世紀のロシアと日本の経験をはじめとして、人類が経験したことの倫理的な意味を考えてみようとする私たちの試みは有益であり、せめて新世紀を前にした今の人類の道徳的・精神的状況を、真摯に振り返ってみる一助ともなればと思うのです。
 そもそも、私はマルクスの共産主義思想から出発し、あなたは仏法の深遠なる世界から出発されており、このように文化的背景も異なり、違う道を歩んできた二人が共通のテーマで対話し、共通の倫理基盤を見いだすことができたという事実そのものが、多くを物語っていると思います。全人類的価値――それは現実であり、異なる文明の融合と相互理解の礎となるものです。ただし、それは力や偏見の言語でなく、倫理の言葉を使って対話を展開したときに初めて可能となります。冷戦後におとずれた世界の融合のまたとないチャンスを正当に評価せず、活用しきれなかったのは、自由に目覚めた脱共産圏で起こった変化のもつ精神的な意味を西側がつかみきれず、道徳的な観点に立った対話に入ることができなかったからだと思います。利己的な打算にとらわれ、身動きがとれなくなってしまっているのです。またも地政学的策動が始まっています。
 池田さん、私は二人が足下のまったく見えていない、人間主義文明と私たちが銘打った新文明への途上に待ち受ける困難が見えていない宣教師のような印象を読者に与えたくないのです。いまだ世界には盲目的なエゴイズムがはびこり、イデオロギーの亡者が数多くいます。
 今こそ政治と道徳の宿命的な断絶を克服して、未来に「多様性の世界」をつくっていかなくてはならない、また本当の自由とは心の内から発する光の中にこそある、ということには大半の人々が賛同するでしょう。しかし、同時にすぐに同じ疑問をもつでしょう。ではどうやって共存共栄と異なる文明の融合を図っていけばいいのか? 異なる文化がそれぞれ独自に、主体的に発展していくための保障となるようなものは、はたして世界にあるのか?
 冷戦から解放された世界で起こっている紛争解決において、アメリヵの独占主義という現実にどのように対処すればよいのか? いったい、だれが文明間の論争において仲裁をする資格をもつのか? さらにこれこそいちばんむずかしい点ですが、そもそも世界の発展過程をコントロールしていくことは可能なのかどうか、という問題があります。
 冷戦の終結によって世界がより安全になったとは、今のところ言えず、世界総西洋化の危機が世界の多くの国で、かつての力ずくの総共産化と同一視されるようになっている新思考が、ブロック間の対立の政治と衝突から世界を救ったにもかかわらず、西側はただその成果を有効に活用することができなかった――そういう読者の声が聞かれるかもしれません。
 最近よく言うのですが、あれほどの苦労をして勝ち取った新思考の成果が今、見る間に消滅しつつあります。ロシアではまたもや鎖国的、孤立的な気運が支配的になっています。つい五年前には、ロシア人は双手をあげて、最大の好意をもって西側世界を歓迎していたのですから。しかし結局、西側は、だれもロシアの行動に倣うことはありませんでした。
 冷戦が終わっても西側は、新しい集団安全保障も、世界の平和な発展を可能にする新しい思想も提起することはできませんでした。今日、世界の運命を握っているのは、冷戦時代につくられた既存の制度なのです。
 ワルシャワ条約機構崩壊のあと、ヨーロッパの集団安全保障システムをぜひともつくる必要がありましたが、しかし、ヨーロツパ・プロセスは、旧態依然たるアプローチに飲まれてしまい、結局、NATOの東方拡張思想が生まれ、実行に移されることとなってしまいました。
 今の西側の防衛政策といえば、脱共産主義国をいつ、どれだけ多くNATOに引き入れるかという戦略しかありません。しかも、そのような機械的なやり方が、欧州の安全問題にどのような結果を招くかということは考慮されていません。NATOが絶えず機械的に東へ拡大を図っていくならば、当然それはロシアだけでなく、アジアでも自己防衛的な反応を呼ぶことになります。
 いかに西側がわれわれの新しい政治によってもたらされたこのような世界の変化、シナリオに対応する知的・精神的準備がなく、そのために今も過去の使い古しのレールを転がりつづけているかを物語るこういった例は数多くあります。
 一極集中の世界、一国による世界の主導権というものは、たとえそれがいかに崇高な動機から出たものであったとしても民主化がもたらす恩恵に対する拒絶反応を呼び起こします。まだ、民主世界の指導者に対する本能的な拒絶反応がさほど深刻でないうちに、この点をよく考えなければなりません。
 世界制覇をめぐる相互抑制ドクトリンが生きていたかつての二極化の世界よりも、新たな単極世界のほうが戦争が多いのは、ひょっとして、民主化という新たな画一主義(西洋化とでも呼びたいと思いますが)に対する拒絶本能が原因になっているのかもしれません。
 到来した時代の変化は全人類的な精神的進歩の証であり、なかんずく、これ以上全体主義思想の欺瞞に生きることができなかった諸国の人々が勝ちとったものですが、西側がこれを自分の勝利だと思ってしまうならば、今後の推移として予期せぬ展開も十分にありえます。自由と全人類的倫理、全世界との正常な友好関係を希求し、恐怖政治、胴喝政治に終止符を打ちたいという道義的な、純粋に人間的な感情の発露を西側は正しく理解していません。これらの現象は、すべてロシアの国家的弱点のあらわれではないことを忘れてはなりません。
 たしかに、人権、自由の尊重の実例が果たした役割は大きいと思います。しかし、この事実から短絡的に、旧共産圏の国民は速やかに「明るいアメリカ的未来」に行き着くことだけを望んでおり、アメリカの使命はできるだけ早くこれらの国々に民主主義を教えることだという結論が引き出されてしまいました。
 つまり、新たな民主文明の建設にあたって、きわめて役人根性的な、事務的な態度が出てしまったのです。民主主義の根本は、私たちが対談のなかで語ってきた深い道徳的価値であることを、残念なことに、西側でも多くの人が忘れてしまいました。その価値とは、まずなによりも各個人の精神的・政治的な平等性であり、寛容性、各人の意見の尊重であります。また、自由と民主主義は、暴力という手段を放棄して初めて本当の力をもつことができる、という池田さんのお考えも真剣に受けとめています。暴力で、ミサイル攻撃で打ち立てられた民主主義など何の値打ちもありません。また、二重人格的な道徳規準と民主主義とはまして相容れないものです。一九九三年十月三、四日にモスクワであの事件が起こったとき、西側は政治的安定のためにみずからの基本原則を犠牲にして、裏表を使い分ける路線をとったのです。
 力ずくで打ち立てられた民主主義は、力の必要性を説いた人間が突如として弱い立場になればどうなるのだろうか? ミサイルを用いて押しつけられた平和は、そのような「和平の道」をとった責任者が衰退すればどうなるのだろう? 最近私はそのような疑問について思索しています。
 要するに、私は民主主義がもつ価値を疑問視しているのでもなければ、今の過渡期において民主主義が社会発展の助けとなることを疑っているのでもありません。私は一貫して独裁政治や「鉄の腕」を振るう行動・思想には反対です。全体主義から民主主義へ転換する唯一の現実的な手段は、民主的な自由選挙です。そのために私は国会選挙と大統領選挙を予定どおりに行うべきことを主張したのです。
 しかし、私たちが新しい人間主義文明の創出を真剣に考え、その指標を「多様性の世界」とするならば、リベラルな思想や民主制度にも批判・修正の目を向けていかなくてはなりません。人類の自己認識の目は双方向へ向けられなくてはなりません。
 私たちは、当時ソ連の共産主義者としてペレストロイカを断行し、みずから共産主義の思想と実践に対して厳しい容赦のない批判分析を試みました。そして私たちは、暴力をもって人類を幸福にしようという考え方がいかなる善をももたらさない、また、精神はいずれ暴力を打ち砕いていくという結論に達したのです。この革命的過激主義の非道徳性と暴力の限界については、この対談のなかでも詳細に論じ合ったところですね。
 しかし、それでは、西側の民主主義はどうでしょうか。私は、民主的諸制度がもつ脆弱さや欠陥についても真剣な考察が加えられなければならないときが来ていると考えています。私があなたとの対談の締めくくりとしてもう一度語り合うことを強く望んだのもそのためなのです。そうしないと、何か世界の改造を試みた共産主義的過激主義ばかりを批判して、公平を欠くおそれがありますから。
 共産主義的全体主義体制は崩壊し去りました。しかしそれにもかかわらず、現代文明の危機は依然として深刻の度を増しているというのが偽らざる実感ではないでしょうか。
 核兵器の拡散問題が深刻な脅威となってきています。多くの非核保有国が事実上、核兵器製造の一歩手前まできていながら、その事実は公言されないばかりか、否定されつづけています。しかし、専門家は、事実上すでに核兵器を有しているといえる国が複数あるとみています。また、一方で核兵器の改良が進められ、他方では技術の進歩により通常兵器でも核兵器に劣らない破壊力をもつものが開発されているという事実も見逃すことはできません。
 そうなってくると核兵器の保有はさけがたいことで、むしろ必要だ、その使用も一概に否定できない、といった考え方が出てきて、私たちがしだいにそのような考え方に慣らされていくことが、じつは最も危険なことだといえます。
 私は、ここで、核戦争は起こしてはならず、核戦争に勝者はないという、一九八五年秋にレーガン米大統領と交わした確認事項をぜひ思い起こしたいと思います。まさに核の危険に対する基本的合意が、核軍縮に弾みをつけたといえましょう。ところが、今、この認識にもとづいて進められてきたことに、疑問符がつけられているのです。
 冷戦終結後は新しい世界秩序を構築するための協力が積極的に進み、さまざまな問題は政治的手段で解決が図られるようになるであろうとの、国際関係の抜本的な正常化に寄せられていた期待が、そのとおりにはいっていないことが、昨今の核拡散傾向の根本要因となっています。
 国際政治が、九〇年代初頭に達成した信頼と協調から後退してきていることは、もはや明らかであります。あまりに多くの国々が、冷戦時代に確立してしまった国際関係問題へのアプローチにがんじがらめにされている感は否めません。
 新しい国際社会は一極化の様相を呈していますが、そこでは、世界の国々の運命は、民主主義のリーダーを演じるアメリカの役人たちの間でどんな気分が支配的になるか、もしくはアメリカ大統領選がどう展開していくかに左右されかねません。
 そのような単純な図式で、国際秩序の回復が図られるはずはありません。一例をあげれば、混乱の極みにある旧ユーゴスラビア問題にしても、宗教的に分離していたセルビア人の歴史に照らして良識的に考えれば、紛争解決の方途は初めから明らかだったにもかかわらず、デイトンで解決が図られたのは、ボスニアの無数の平和な市民を犠牲にしてしまった後でした。もしも西側が、クロアチアとスロベニアの独立を、さらにボスニアとヘルツェゴビナの独立を拙速に承認したりせずに、ユーゴスラビア問題国際平和会議のような場をあらかじめ招集して、敵対する民族主義政党間の妥協点を見いだそう、また新たに形成される民族国家で少数民族になる人々の権利をどう保障するかという問題について、論議を尽くそうとの努力がなされていれば、今回のユーゴスラビアの一連の悲劇は起こらずにすんだはずなのです。ところが、だれもがものに憑かれたかのように、一刻も早くセルビアの共産主義者たちを「罰してしまいたい」、そしてユーゴスラビアの民衆を民主主義の途につかせたいとあせったのです。
 そこではふたたび、イデオロギーにこだわったアプローチと偏見が頭をもたげていることを見逃すことはできません。国際政治におけるこのようなイデオロギー色の復活は、冷戦終結をめざした新思考をはじめとする私たちの一連のイニシアチブが、いかなる理由と動機にもとづいて行われたものだったかについて客観的かつ誠実な評価がなされていなかったからにほかなりません。私たちが往時のイデオロギー的アプローチを放棄したのは、別のイデオロギーの奴隷になり、フリードマンとガイクの従順な教え子になるためではありません。私たちは、道徳的アプローチの道を開くために、イデオロギー的アプローチを放棄したのです。
 民主主義の基本概念と諸制度は、批判的考察を加えられることが必要です。ことにアメリカ型民主主義は、その必要性が大いにあります。西側諸国が、民族的に分離した状態にあったボスニアで、アメリカで行われているのと同様の大統領選挙を行おうとした試みが、換言すれば、ボスニアをアメリカに見立てたことが、現在の悲劇をもたらしてしまったことを忘れてはなりません。五世紀の長きにわたってトルコのくびきと戦ってきたボスニアのセルビア人たちが、イスラム教徒の大統領をもつ国に住むことはできない、という基本的な理解が欠けていたのです。たとえば、植民地支配からようやく独立したアフリカ大陸においてさえ、新しい国家の建設は過去の歴史なしでゼロから出発したわけではないのです。ましてや、事はバルカン半島にかかわっており、そこに生きる諸々の民族は数千年の歴史をもつ人々です。このような歴史に対する無理解のゆえに、国際社会はソ連邦の雪崩式崩壊をも支持してしまったのでしょう。
 アメリカの多くの学者や政治家は、アメリカの現政権が現代世界の思想的、政治的リーダーシップを取ろうとしていることに大きな疑問を投げかけていますが、このことは注目に値することです。彼らは、その論拠として数々の説得力ある事実を挙げています。
 まず第一に、アメリカは世界の民主勢力を支援する数限りないプログラムのすべてに助成金を出せるほどの財政力を有していないという点です。出せた場合でも、アメリカの意図は正反対の結果を生むことが往々にしてみられます。国家予算はといえば、低所得層や老人の医療保険の資金にも事欠くほど切迫しているのです。
 第二に、アメリカは決して世界の手本ではないということです。アメリカは、他の地域で起こっている民族紛争や人種問題で和解を図ろうと懸命ですが、同様の問題が国内ではいまだ未解決のままです。
 一九九五年十月十七日にワシントンで行われたいわゆるプラック・アメリカンの行進「百万人行進」は、あらためてアメリヵの人種問題の根深さを見せつけ、白いアメリカと黒いアメリカの亀裂を永久に埋める解決策はまだ見つかっていないことを露呈しました。
 第三に、これはアメリカ人自身が言っていることですが、アメリカ人は自分の国についての神話にあまりにもどっぶり浸かっていて、その神話に合わないような現実を認めることができないというのです。平均的アメリカ人がもっている世界に関する知識、各国の民族がもつ文化的特性、歴史に関する知識はかなり心許こころもとないものだといわれています。それは、とりもなおさず、アメリカにおいては世論操作がいとも容易だということを物語っています。
 第四に、アメリカにはマスコミという絶大な第四の権力があることです。それは、歴代アメリカ大統領を生みだし、同時にその政治生命を断ってもきました。国民の大半は日々の糧を得るのに追われています。そのような状況に置かれている人々は、好むと好まざるとにかかわらず、マスメディアが生産する使い捨て用の世界観に甘んじているしかありません。その結果として、世論の動向も政界の出来事もひとえに、マスコミ界を支配している一握りの人間たちの誠実さと賢明さに委ねられてしまっているわけです。この肥大化しつづける第四の権力の支配力に対抗しうる唯一の方途は、みずから考える市民を創出していく、人間一人一人の内なる新たな文化的革命を世界的規模で展開していく以外にありません。この点で、二十世紀は、民衆教育の分野で偉大な成果を上げてはいるものの、かの優れた啓蒙主義者たちがめざした目的地にはいまだ達していないことを認めないわけにはいきません。アメリカを含む最も発展した国々においてさえ、一般大衆の人道的文化のレベルは驚くほど低いのです。麻薬、犯罪の増加は、人々の心がいかに病んでいるかを、そしていかに多くの人間が精神性、人間性を喪失してしまっているかを如実に物語っています。教養のある人々とない人々との格差は、いっこうに狭まっていません。むしろ大きくなっています。そのような状況下で多くの市民は相変わらず政策に利用され、信じがたいような政治操作の道具にされつづけています。以上のような諸問題は、民主主義文明のリーダーという重すぎる荷を背負い込んだアメリカにもそのままあてはまっています。
 西側民主主義の先端を行くアメリカ政治制度がかかえる問題と矛盾は、あらためて、現代自由主義文明総体として自省すべき時を迎えているのではないかということ、世界はこれという万能の手本、解決法をもち合わせてはいないこと、そして、現在講じられている民族紛争解決策の基本理念そのものが道徳的観点からもう一度チェックされる必要がある、という私たちのテーゼ(網領)の妥当性を立証しているようです。
 とはいえ、この話題はまだようやく端緒についたばかりであります。当面私たちは、いかにして世界の一元化への道を回避するかについて考えなければならないでしょう。つまり、今日、世界が一極化された結果として浮上してきている種々の否定的要因をいかに克服すが、きかについてであります。現代文明を地球的視野から安全に舵取りしていくという課題は、どこかの一国に負わせるべきものではなく、人類の未来に対する共通の責任をもつすべての国々、民族が一緒に解決していかなければならないものです。ここでいう安全とは、軍事的安全保障だけを意味していません。より広義の安全であります。経済的安全、環境的安全、情報の安全などがあるでしょう。
 さて、世界政府樹立という数々のプロジェクトがすべて夢物語で終わってしまっていることを考えると、早晩、既存の国際機関をより完全な機構にしていくことから始めなければならないと思います。
 そこにはいくつかの方向性が考えられます。まず初めに、国際紛争解決に果たす国連の可能性と機能が挙げられます。この問題については、すでにガリ事務総長がみずからの発言のなかで言及しているところでもあります。いわく、国連は、ポスニア和平への努力を払う過程で、あらゆる弱点を露呈してしまった、と。第一に国連が、財政的に貧弱で、完全にアメリヵに依存している点です。たとえば、国連の和平調停活動の費用の三分の一は、アメリカが拠出しています。第二に、国連安保理のメンバーが、国連平和活動に関するなんらかの決定を行うさい、それぞれの民族的趣向と従来からの同盟意識が先行してしまい、したがって、紛争当事者のどちらか一方に必然的に肩入れしてしまうような決定を行い、それによって紛争を逆に激化させてしまったという事実を見逃してはならないと思うのです。
 以上のことからどのような結論が導き出されるでしょうか。私は、国連の将来は、国連が真に独立した、財政的にも力のある機関となりうるか、また、それによって、人類文明総体の地球的安全という理念を掲げ、独立した活動を展開できるかにかかっているといっても過言ではないと考えています。さらには、経済力、軍事力のみを規準にするのではなく、文明論的原則をも加味しての国連安保理の構成拡大がなされる必要があると思われます。
 私がこのように言うのは、ほかでもありません。もし「多様性の世界」として新しい人道的文明を築こうとするなら、おそらく国連安保理も「多様性の世界」にふさわしい陣容を整えるべきだと考えるからです。たとえば、なんらかの形で人類共通の安全にかかわってくる問題について国連安保理が決議を行う場合には、現存しているあらゆる文明のそれぞれの代表が、例外なしに拒否権をもつべきです。
 国連安保理の構成メンバーに関するこのような文明論的アプローチは、国連が主権国家で構成される機構であるという考えから徐々に脱皮し、人類総体の利益にかなう決定をできるようにするチャンスを生みだします。
 なぜなら、これまで各主権国家は、国連の場で、自国の民族的利害を前面に立てて、おきまりの発言をしてきているからです。この文明論的アプローチに関していえば、今後、国連と地域機構との連携という問題も考えるべきでしょう。
 国連の果たす役割で、私たちのこの対談テーマとも関連するもう一つの問題があります。それはユネスコの活動に関するものです。人類がこれまで以上に一つになっている事実に照らして、世界中の青少年が学ぶための人道主義教育制度、もしくはそのような制度の概要を創り出すべきではないでしょうか。私は、この人道主義教育の面で「一元化」が進むのは決して悪くないと信じています。人類がこれまでに経験し、勝ち取ってきたすべての道徳性と、すべての世界宗教の精神性、英知がその根底に据えられることを大前提としたうえでのことですが。
 これは、膨大な労作業を必要としますが、機は熟したとみてよいでしょう。たとえば、この対談のなかであなたと論じ合った二十世紀の精神の教訓を生かして、各国共通の全人類的道徳の教科書や、さらには、心のエコロジー(生態学)のための問答集などを作成できるのではないでしょうか。また、戦争の歴史としての世界史ではなく、道徳的行為の歴史としての世界史を新たに教科書として執筆することも可能だと思います。蛇足ですが、「ワシントン・ポスト」は、この千年(十一世紀〜二十世紀)の最も傑出した人物はだれかというテーマを設定して、一回目の記事でチンギス・ハンを取り上げていますが、これは興味深いことだと思われます。
 私個人としても、また、私どもの基金としましても、教育問題に関心を寄せるほかの団体と協力を進めつつ、ユネスコの新しい活動として、この全人類的人道教育プランを検討していきたいと考えています。
 今こそ人類文明の転換期であり、新たなモラルと文化の大運動が展開されるべきときだと信じるからです。

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