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「人間復興の世紀」への指標  

「二十世紀の精神の教訓」ミハイル・S・ゴルバチョフ(池田大作全集第105巻)

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13  二十一世紀を「人間復興の世紀」ヘ
 池田 「宗教――人間の紋章」のところでも少しふれましたが、より整足された形で、確認してみたい。私どもの宗祖の言葉です。
 「法華経に云く「皆実相と相違背いはいせず」等云云、天台之を承けて云く「一切世間の治生産業は皆実相と相違背いはいせず」等云云、智者とは世間の法より外に仏法をおこなわず、世間の治世の法を能く能く心へて候を智者とは申すなり、殷の代の濁りて民のわづらいしを大公望出世して殷の紂が頸を切りて民のなげきをめ、二世王が民の口ににがかりし張良出でて代ををさめ民の口をあまくせし、此等は仏法已前なれども教主釈尊の御使として民をたすけしなり、外経の人人は・しらざりしかども彼等の人人の智慧は内心には仏法の智慧をさしはさみたりしなり
 ――法華経には、「諸の法はみな実相と違背しない」などとあり、天台大師はこれをうけて「すべての世間の政治・経済は、みな実相と違背しない」などと言っている。智者とは世間の法以外において仏法を行ずることはない。世間の治世の法を十分に心得ているのを智者というのである。
 殷の世が濁乱して民衆が苦しんでいたときに、太公望が世に出て殷の紂王の頸を切って民の嘆きをとどめ、二世王が民衆の生活を苦しめたときには、張良が出て世の中を治め、民の生活を豊かにした。これらは、仏法以前であるけれども教主釈尊の御使いとして民衆を助けたのである。外道の経書をもった人々は意識しなかったけれども、それらの人々の智慧は実際には仏法の智慧を含みもっていたのである―――と。
 これは、通途の宗教概念に照らして、まことに驚くべき″開放性″とはいえないでしょうか。
 ゴルバチョフ 私は、もちろん仏教の知識はもち合わせていませんが、おっしゃる意味はよくわかります。
 池田 大公望や張良の時代は、中国に仏法が伝来する以前の時代でした。したがって、彼らは、仏教のなんたるかは、つゆ知りませんでした。そうであっても、もし彼らが民衆の幸せをもたらす政治を行ったならば、知らぬ間に、仏法の智慧を含みもった体現者である、というのです。
 ゆえに、仏法の門戸は、人間に幸福をもたらす政治・経済・文化・教育等のあらゆる″善論″″善なるもの″へと開かれており、逆に″悪論″″悪なるもの″に対峙していくのです。そうした法理の必然的な帰結として、宗教の名のもとに戦争を起こしたり、異端審問を行ったりして、人命を損傷するようなことは、根本的な″悪″ととらえます。
 したがって、実相はまた、「天晴れぬれば地明かなり法華を識る者は世法を得可きか」――天が晴れれば地上の様子が明らかになってくるように、法華経を信ずる者は、世間の諸々の法を心得、熟達しているのである――として、信仰厚き人は、世間の法にもよく通じた、人間学の達人でなければならない、としています。
 私は、ハーバード大学での二回目(一九九一年九月)の講演で、二十一世紀文明に果たすべき大乗仏教の役割を、
 (1) 平和創出の源泉
 (2) 人間復権の機軸
 (3) 万物共生の大地
 の三点に分けて論じてみました。
 そのうち、なぜ大乗仏教が人間復権の機軸たりうるのかについて、それは「善きもの、価値あるものを希求しゆく人間の能動的な生き方を鼓舞し、いわば、あと押しするような力用」こそ、大乗仏教の働きであるからだ、と論及しました。
 世間の法によく通じ、社会に貢献しゆく価値ある生き方こそ、仏法者の本領とするところであるからです。ここに、私の大乗仏教観と、あなたの「全人類的価値」との共通点があるように思います。
 ゴルバチョフ 私もそう思います。人間が人間自身への信を喪失してしまわないうちに、理想と価値に絶望し、手遅れになってしまわないうちに、できる限りの努力をしたいものですね。
 すでに申し上げましたように、新しい奇抜なことを考えだす必要はないのです。ただ、人類が蓄積してきた英知を敬う術を習得しなければなりません。
 二十世紀は、その本質において、警告の世紀でありました。人類に注意を喚起し、新しい存在規範とそれに見合う新しいグローバルな意識、新しい生命感覚を育てていく準備の時代でした。
 この課題を二十世紀はどこまで達成できたか? 完全に達成したとは思えません。
 二十一世紀は、死と破滅をもたらす危機が全面的に激化する世紀となるか、または道徳的浄化と精神健全化の時代、つまり人間復興の世紀になるかのどちらかでしよう。
 池田 おっしゃるとおりです。世紀から世紀へ、「人間復興の世紀」「人間の世紀」への突破口を切り開いていく以外に、「二十世紀の精神の教訓」を生かしていく道はなく、それはまた、私たちの世代に課せられた崇高にして不可避の責務でしょう。
 ゴルバチョフ フェデリコ・ガルシア・ロルカは次のように書いています。
 「世界の中で争っているのは、すでに人間の力ではなく、宇宙的力だ。ここに、私の前に天秤があり、争いの結果を示す。こちら側には、私の痛みと私が払った犠牲、そしてあちら側には、かすかに予測できる、未知なる未来へ移行するという厄介さをともなう、すべての人にとっての正義。そして私は自分の拳をその正義の盃に置く」と。
 私たち一人一人が、あらゆる賢明な政治勢力が、そして、すべての精神的・思想的潮流、すべての宗教が、この移行の一歩、つまり人間性と正義の勝利を助けるという使命を帯びていると、私は確信します。二十一世紀を人間復興の世紀、人間の世紀にしゆくために。
 池田 今、「宇宙的力」という言葉がありましたが、人類は、まさに運命的な分岐点にあるといえるでしよう。
 相拮抗しつつ、せめぎ合う善と悪の対峙を、仏法では、「仏」と「魔」との戦い、と位置づけています。
 仏典に「月月・日日につより給へ・すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし」――月々日々に精進と向上を怠ってはならない。少しでも心にゆるみがあるならば、魔につけ入られてしまうであろう――とあるように、民衆の未来を志向しての間断なき挑戦、間断なき戦いこそ、勝利への王道です。
 また、仏典には「大悪をこれば大善きたる」――大きな不幸や困難が起これば、必ず大きな幸福がくる――と説かれています。
 闇が深ければ深いほど、暁が近いのと同じ道理で、世紀末のカオスが深刻であればあるほど、未来世紀の希望の虹は、間近に迫っているかもしれないのです。否、心にそう決めて、「人間主義」「生命主義」の時代へと、私どもは、絶対にその英知を結集していかなければならない――私は命のつづくかぎり、この正義の主張を叫んでいきたいと決意しているのです。
 ゴルバチョフ よくわかります。おっしゃるとおりです。またいつの日か、つづきの対談をしたいものです。
 池田 ありがとうございます。ご多忙のところ全力をあげてくださり、心より御礼申し上げます。奥様にもくれぐれもよろしくお伝えください。大きい、深い思い出をつくってくださったことに感謝しております。いつまでもご健康で、世界のためにご活躍されますことをお祈りいたします。

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