Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

「人間復興の世紀」への指標  

「二十世紀の精神の教訓」ミハイル・S・ゴルバチョフ(池田大作全集第105巻)

前後
1  「新しきヒューマニズム」は人間の中に
 池田 これまで「二十世紀の精神の教訓」とのテーマで語り合ってまいりましたが、総裁とは、多くの点で意見の一致をみることができました。実り多い語らいであつたと心から感謝いたします。
 ゴルバチョフ 私のほうこそ、池田会長との対話は、じつに楽しく示唆に富むものでした。生命の尊厳を護り、生きとし生けるものを擁護していこうという思想に、深く共鳴しているという点で、あなたと私は、同じといえるでしょう。
 残念なことに、多くの、ことに西欧の知識人たちは、近代思想の否定は、新たな宗教的原理主義と保守主義の台頭をはらんでいると考えているようです。これに関して、私は、「新しきヒューマニズム」とのテーマで、あなたの所感をうかがいたいと思います。
 池田 そうですね。人間の生命を手段化するような、いかなる思想もイデオロギーも宗教も、決して正当化されてはならないということは、この対談を通して、何回となく確認し合ってきたところです。
 ゴルバチョフ 私も、あらゆる多様性と個別化の可能性を秘めた″生命″そのものが、至高の価値であり、すべてに対して唯一の原点であるべきだと考えます。
 そうであるとすれば、社会的制度の変化、改造それ自体は、目的たりえないはずです。そのような制度上の変化は、幸福でありたい、安寧でありたい、満足の人生でありたいといった、人間の要求に呼応していなければなりません。
 新しきヒューマニズム、人間存在の精神的価値は、人間自身のなかに求められるべきです。人間こそが、すべての尺度であり、あらゆる主義主張の真偽を見極めるうえでの、評価基準とならねばなりません。
 池田 まったく同感です。往々にして、その基準を見失い、何が目的であり、何が手段かを混同してしまうところに、現代の悲劇があるといえます。
 ゴルバチョフ いかなる場合も、人間生命が基本であり、理論は従です。生命そのものが″価値″なのです。したがって、人間の生命を犠牲にしてもよいという大義名分などありえませんし、それを裏づける理論や理念もまたありえません。
 たった一度だけ与えられている生命です。人生の喜び、心と心のふれあいを味わうのも一度きりなのです。ゆえに生命の権利は神聖であり、何人もこの唯一の生命を侵す権利をもってはいません。
 「手段を選ばず」的な考え方を正当化できるような目的はありません。これこそが、私たちの二十一世紀への選択なのではありませんか。
 池田 そのとおりです。その意味からも、巷間いわれる「一人の人間の生命は地球よりも重い」との標語は、文字どおり″二十世紀の精神の教訓″として語り継いでいかねばなりません。
 ただ、これは一見当たり前の原則のようでいて、いざ実行しようとすると、すぐさまアポリア(難問)に直面してしまいます。
 そのアポリアとは、戦争や殺人、暴力やテロなど、いわゆる人間の本性に根ざす″悪″をめぐって、古くから論議されてきたものです。この点をしっかり押さえておかないと、生命の尊厳・非暴力といっても、いたずらに悪を容識しながら無為徒食に甘んずるという、およそ人間らしからぬ、弱々しい、怠惰な生き方にまで堕しかねないからです。
 そのことを考える一例として、帝政ロシアの末期を暗く彩っている、テロリストたちの生き様にふれてみたいと思います。仲間から″詩人″と呼ばれ、二十八歳で刑場の露と消えたカリャーエフなどは、その代表的人物でしょう。彼の心の葛藤に、少しふれてみたいと思います。
2  ロシア・テロリズムの「悲劇」と「病理」
 池田 まず、彼をめぐる有名なエピソードがあります。
 ――この若きテロリストは、暴虐なモスクワ総督セルゲイ大公を殺害しようと、苦心に苦心を重ねながら行方を追っていた。
 あるとき、苦労のかいあって、街頭で大公の車を発見。千載一隅のチャンスとばかり爆弾を手に待ちかまえていた。すると、大公の脇に、がんぜない幼子が同乗しているではないか。暴君を殺害すれば、幼子まで巻き添えにしてしまう。投ずるべきか否か、わずか数秒の間に、カリャーエフは巨大なジレンマにつかみとられ、ついに爆弾を手にしたままチャンスを逃してしまうのです。
 私は、このエピソードを、アルベール・カミュの著作で知りました。カミュは、カリャーエフら一連のテロリストを、「心優しき殺害者たち」と呼んでいます。
 ゴルバチョフ ええ。十九世紀終わりから二十世紀初めにかけ、ロシア・テロリズムの陰には、教養ある道徳人たちの悲劇があり、革命が彼らを殺人者にしてしまいました。
 しかし、忘れてならないのは、悲劇があっただけでなく、そこにロシアの革命的インテリ層の病理があったということです。私たちがこの対談でふれてきた、マキシマリズム(極左主義)の革命的性急さの病理があったということです。
 池田 よくわかります。なおかつ申し上げたいことは、病理とはいえ、それは、現行のテロリズムが帯びている救いようのない病理とは、よほどニュアンスを異にしていた、ということです。
 いうまでもないことですが、カミュにしても、テロには反対でした。しかし、そこにはすぐさま、ツアーリの暴政という、より巨大な暴力を容認するのかという反問が待ちかまえていることも、自明の理なのです。
 民衆を塗炭の苦しみに落とした暴政は、人間の名において許すことはできない――こうした叫びが、暴力的な形をとるか、トルストイのように非暴力的な形をとるかは別にして、澎湃と沸き上がったことも事実です。
 私の個人的心情としては、非暴力の道を選ぶことは当然ですが、完全な閉塞状況のなかで、正義感に燃え、血気にはやる青年たちのやり場のない怒りや心情も、理解できないわけではありません。
 とくに、私が注目したいのは、彼らが、暴力愛好のメンタリテイーとは対極にあったこと、人間の尊厳を守るはずが、テロ行為に訴えざるをえなかったという矛盾を真正面から受けとめていたこと、そして、そうしたなか、ぎりぎりの選択をなしゆく「意志」と、倫理的な「緊張感」の持ち主であったということです。
 カミュは、それらのテロリストについて、「彼らもまた暴力の不可避性を認めてはいたが、それが正当化されないことを告白していると信じられる節がある。殺害とは、必然的ではあるが、許せないもののように彼らにはみえたのである」(『反抗的人間』佐藤朔・白井浩司訳、『カミュ全集』6所収、新潮社)と語っています。
 当時のテロリズムには、たしかに許しがたいこことはいえ、こうした共感を呼び起こさざるをえない「意志」や「緊張感」をはらんでおり、それが、ある種の″救い″になっているのだと思います。
3  「非暴力は勇気の極致」
 池田 人間性のやむにやまれぬ発露である「意志」や「緊張感」――換言すれば、真の意味での精神の力こそ、生命の尊厳という価値を見いだしていくうえで、欠かすことのできないものです。
 このことは、テロリズムとは、およそ対極に位置している非暴力の使徒ガンジーにして、次のような言葉を残していることからも、裏づけられると思います。
 「私の非暴力は、危険から逃げ去り、愛する人たちを保護もせず放置することを認めない。私は臆病よりも暴力を選ばざるを得ない」「非暴力は勇気の極致である」(『抵抗するな・屈服するな』古賀勝郎訳、朝日新聞社)と。
 人々が、生命を手段化する″イデオロギーの悪酔い″から醒めようとしつつある現在、なお私が″生命の世紀″への展望を楽観視できないのは、そうしたよく生きようとする「意志」や倫理的な「緊張感」が、まったく欠落しているように思えてならないからです。
 ゴルバチョフ よく理解できます。先に「病理」と申し上げたことに関して、私は、セルゲイ・ブルガーコフの言葉を引用してみたいと思います。ちなみにブルガーコフは、カミュにも影響を与えています。
 テロリストについてつづっている中で、彼は第一次ロシア革命についてふれ、「きわめて遺憾なことは、近年出現した手段のためのマクシマリズムも、目的のためのマクシマリズムに結びついていることである」とし、「手段を選ばぬということ、英雄主義的な『すべては許されている』というこの確信は、インテリゲンツイア(知識人層)のヒロイズムの人神論的性格を最高度に表すものである」(『ヒロイズムと苦行』、『道標 ロシア革命批判論文集』I〈長縄光男・御子柴道夫訳〉所収、現代企画室)と述べています。
 ロシアのテロリストは、ナロードニキ(人民主義者)もロシア社会革命党員も、たしかに教養のある人々ですが、それと同時に、やはり心の弱さがみられます。彼らは、概して、興奮状態のファナティック(狂信的)な人間で、たとえそれが正義のためであっても、暴力はまた新たな暴力を呼び、社会の道徳規範を壊してしまう、ということに気づいていませんでした。
 私たちコムソモールは、小学生のころから、マルクス主義もボルシェビズムも、政治テロを強く否定しているということを知っていました。
 これが原因で、レーニンとテロリストとして処刑された兄アレクサンドル・ウリヤノフの見解が分かれてしまったということも知っていました。とはいえ、実際にはボルシェビキたちは、政治テロをさけて通ることはできませんでしたが。
 池田 たしかに、そうした当時のロシアの特殊性は、考慮する必要があるでしょう。私も、テロリズムを肯定しているわけでは決してないのです。ただ、昨今の一般市民はおろか、老人や婦女子などを巻き込んで、いっこうに恥じることのない都市型無差別テロの残虐さ――そこに露呈されている無惨なまでの生命感覚の荒廃を考えるとき、カリャーエフのようなテロリストにさえ、私などは、まだしも救いを見いださざるをえないのです。
 しかし、おっしゃるようにテロリズムの芽を断つためには、無条件に否と断じていくことが肝要であることは論をまちません。
4  少数意見を尊重する民主主義の精神
 ゴルバチョフ ええ、同感です。現代のテロリズムほど反人間的で、グロテスクな形は、かつてなかったと思います。貴国の″オウム・テロリスト″も、わが国のバサエフ・テロリストも、人類がいかに深刻に病んでいるかを実証してあまりあります。
 その現実からは、逃避できないものです。それならば、治療するしかありません。いかに治療するか? そこで私は、新しいヒューマニズムの本質とは、という私たちのテーマに戻りたいと思います。
 新たな真のヒューマニズムは、人間が自分自身でありつづけること、自分らしくあることの権利を護るべきです。私は、この点が、従来のヒューマニズムと新しいヒューマニズムとの決定的な違いだと考えています。
 池田 重要なポイントと思います。
 ゴルバチョフ 近代のヒューマニズム、すなわち、機械的ヒューマニズムもまた、人間を主眼に置いてはいますが、人間の特質や、与えられた才能の多様性というものから目を逸らしてしまったところに、本質的な欠陥があったといえます。近代ヒューマニズムは、横暴にも、各人の才能を度外視して、だれもが万能の発達した人格となり、だれもが神の座をめざすことを要求しました。
 近代ヒューマニズムは、弱者への同情をもち合わせていないのです。レオナルド・ダ・ヴインチにはなれない人、すべての分野に自分の才能を発揮できてはいない人に対するいたわりがありません。
 その意味で、キリスト教に代わって登場し、人間と神とを同格に置いた無神論的ヒューマニズムは、専制的・全体主義的といえます。そこでは、精力的で悪魔的な人間に焦点が当てられています。プロレタリアート革命の牽引力となったカール・マルクスという人物が、ヨーロッパ型のヒューマニズムのなかから生まれたことも、決して偶然ではありません。
 池田 マルクスもエンゲルスも、十九世紀後半のヨーロッパで一世を風靡した、社会ダーウィニズム(社会進化論)のまぎれもない嫡子でした。
 いうまでもなく、社会ダーウイニズムとは、ダーウインが『種の起原』で生物界に適用した「生存競争」や「自然淘汰」といった概念を、人間社会にまで当てはめ、「巨大民族(マルクス流に言うと「歴史的民族」)」による「弱小民族(「非歴史的民族」)」の併呑さえ、歴史の進歩発展の名目のもとに正当化してしまう、冷酷な論理を有していました。
 この論理によると、たとえば、イギリスによる非道なインドの植民地政策などにしても、支配としては非合法であるが、歴史の発展過程としては合法、とされてしまいます。明らかに、西欧社会を軸とした民族差別であり、あなたのおっしゃる「精力的で悪魔的な」論理そのものです。
 ゴルバチョフ おっしゃるとおりです。
 新たな文明の底流となるべき真のヒューマニズムにおいては、人間生命そのものの本然的価値だけでなく、各民族の本然的価値・尊厳・歴史的選択の権利に、眼目が置かれなければなりません。
 池田 そうした冷酷な眼差しが、インドやアフリカ、ラテン・アメリカ諸国ばかりでなく、スラブ民族にも向けられていたことは、十九世紀後半のイギリスとロシアとの対峙のさい、マルクスが、一貫してイギリスの肩をもちつづけてきたことからも明らかでしょう。
 たんに、ロシア皇帝の政策への批判にとどまらず、ロシア(スラブ)民族そのものへの蔑視をはらんだマルクスの言々は、それゆえ、ソ連版の『マルクス・エンゲルス全集』からも、長い間カットされていたと聞いています。
 ゴルバチョフ いうまでもなく、人類はいかなる時代においても、他の生命を侵そうとする者を厳重に処分していくでしょう。また、隣人・社会を脅威にさらし、人間社会のルールを破壊するような人々を放っておかないでしょう。それは当然のことです。
 しかし、はたしてそれだけで十分なのでしょうか? たとえば、人間が、自分らしく生きたい、自分自身でありつづけたいと思うとき、その精神の自由を他人が踏みにじってしまったという場合はどうでしょうか?
 大勢が近代化を志向するときに、自分は保守的考え方を維持したいとする自由。あるいは皆が右寄りになっていくときに、自分は左派近代主義者でありつづけるといった個人の自由。これを侵す権利は、だれにも与えられていないはずです。
 その意味では、多数意見が独裁に走るのを防ぐために、民主主義が少数意見の尊重を唱えたことは、自由にとって疑いもなく偉大な成果でした。しかし同時に、少数意見を擁護するだけで事足れりと考えてはならないと思います。さらに一歩踏み込んで、少数意見のなかにある真実が、ときとして普遍性と価値を有しているということを、私たちは真に理解する必要があると思うのです。
5  「桜梅桃李」が意味する「他者性の尊重」
 池田 仏法では、「桜梅桃李の己己の当体を改めずして」と、みずから最下層の出自であることをむしろ、最大の誇りとされていた意味もここにあります。社会主義のアルフア(出発)であリオメガ(すべて)である平等、公正の理念が宗教本来のあり方と深く通じ合うことは当然といえば当然のことでしょう。しかし、そこに落とし穴があることも、歴史の教訓として忘れてはならないことですね。私は、あなたが社会主義と一律平等の共産主義の本質的な違いを指摘されていることに注目したいと思います。
 もちろん「桜梅桃李」とは比喩であって、人間であっても、民族であっても、同じことがいえます。その法理のうえからも、私はあなたのおっしゃることに、賛同のエールを送りたいと思います。
 ゴルバチョフ なるほど。世界には、一方で精力的な行動派の人間がいるとすれば、他方には調和を好む思索派の人間もいることを、忘れてはならないと思うのですが、いかがですか。
 池田 そのとおりです。そこで、もう少しこの比喩をつづけさせていただければ、桜は桜のみで、個性を十全に開花させることはできません。世の中の花という花が、桜一色であったなら、それは個性とさえいえないからです。桜の個性は、梅や桃といった「他者」の存在をまって、はじめて際立ってくるのであって、この道理は、梅や桃、李についても同様にいえることです。
 それゆえ私は、現代の差し迫った課題として、先の節で、「他者性の尊重」「他者性の習慣化」ということを強調したのです。自己の内面に「他者」を見失い、「他者」との結びつきを断たれ、一見活動的なようでも精神世界が外から閉ざされてしまっている、いわば″自閉的状況″は、二十世紀文明の産み落とした最大の病理とはいえないでしょうか。
 前世紀末の近代個人主義というものが、真実の個性の開花などとはおよそ似て非なる、根の浅いものでしかなかったという、今世紀末を迎えてますます明確になりつつある事実は、そうした病理の根の深さを、物語ってあまりあるのではないでしょうか。
 ゴルバチョフ それに関連して私が主張したい新しいヒューマニズムのもう一つの特徴は、真の意味での多元主義ということにほかなりません。世界・人間・社会の多様性を認めることは当然として、その多様性それ自体が、じつは偉大な価値であることを認識すべきです。
 一元化を標榜するボルシェビズム、さまざまな所有形態、階級を認めない考え方。それにまっこうから挑戦するところから、ペレストロイカが始まったことはすでに申し上げました。その道程にあって、私たちは、決定的な一歩を印すことができたと自負しています。
 ただし、後に明らかだったように、そこにはロマンチシズムに駆られた部分もありました。といいますのも、当時の私たちは、わが国以外の他のすべての人々は皆、多元主義のなかで生きているように錯覚していたからです。しかし、ここ三年間の経験を通して、現実はそうではないことを知らされました。
 強者の真実、強者の美に世界を従わせようとする傾向、モノポリズム(独占主義) への傾倒は、根強く蔓延しています。人類がそれを克服するためには、まだまだ多くの努力が払われる必要があるようです。
 池田 多元性、多様性を認めたがらないのは、″自閉的状況″のもたらす当然の帰結でしょう。
 その点、二十世紀人の卓越した″自画像″ともいうべき「大衆人」について、オルテガ・イ・ガセットの語るところは、傾聴に値するようです。
 思い上がった自己満足の結果、「彼は、外部からのいっさいの示唆に対して自己を開ざしてしまい、他人の言葉に耳を貸さず、自分の見解になんら疑問を抱こうとせず、また自分以外の人の存在を考慮に入れようとはしなくなるのである。彼の内部にある支配感情が絶えず彼を刺激して、彼に支配力を行使せしめる。したがって、彼は、この世には彼と彼の同類しかいないかのように行動することとなろう」(前掲『大衆の反逆』)と。
 オルテガの言う「大衆人」は、ロシアにも日本にもたくさんいて、人間をして人間たらしめる建設的な対話を、不可能にしているのではないでしょうか。
 ゴルバチョフ そうですね。アメリカ人は、世界中の民主主義がアメリカ型になればよいと強く望んでいるようです。西側の世界は、イスラム原理主義を脅威だとみていますが、逆にイスラム世界は、全面的近代化、全面的西欧化を恐れ、なかんずくみずからのルーツと民族的特色を失ってしまうことを、危惧しているのです。
 発展にとって多様性は必然でもあります。その多様性を受け入れられるようになるには、どうすればよいのでしょうか?
 歴史を振り返ってみると、人類は、多様性、つまり自分とは異なる思想、制度、価値、行動様式を抑えつけ、服従させるのにかなり苦労してきました。
 そしていつの世も、標準に合わないものはすべて否定されるか、残酷に弾圧されてきました。反体制派・異端者は、つねに容赦なく罰せられてきたのです。
6  一様性から多様性への転換
 ゴルバチョフ 多様性というものは、とりわけ権力を握るエリートからは、脅威と見なされてきました。したがって、多様性を尊重するということが、今すぐ私たちの社会の新しい基本的価値になるとは、考えにくいかもしれません。
 このような″転換″には時間がかかります。しかし、私は、この多様性の尊重こそが、来るべき世紀の重要な原則となり、安定した持続的発展の要件となると確信しています。
 池田 先ほどのテーマとも共通していることですが、多様性の尊重ということは、二十一世紀の地球文明のあり方を考えるうえで、さけて通ることのできない、もしかすると最重要の課題かもしれません。
 ゴルバチョフ ええ。人類は、未来に成長と発展の多くの可能性をはらんでいます。進歩の可能性をもっているわけです。その可能性を生かすためには、複眼的視点をもって現状をいったん受け入れ、そのうえで自然な成長の過程、法則に従うことが大切なのではないでしょうか。
 人間と自然との有機的一体性を認めて、その結びつきを保とうとするだけでは、十分とはいえません。より積極的に自然を擁護し、その豊かで多彩な種を保存することが重要になってきています。
 その意味では、拡張・拡大させたいという自己の欲求を、ときとしてはあえて抑制し、多彩な世界を保存していくという生き方も、大切だとはいえないでしょうか。
 池田 まったく同感です。それゆえに、私は、一九九五年一月、ハワイの東西センターにおける「平和と人間のための安全保障」と題する講演で、「知識から知恵へ」「国家主権から人間主権へ」との指標と並んで、「一様性から多様性へ」の転換の急務なることを訴えました。
 私は、文明の多様性を保障しゆくキーワードとして、仏典の「鏡に向つて礼拝を成す時浮べる影又我を礼拝するなり」――鏡に向かって礼拝をすれば、映る姿もまた、私自身を礼拝するのである――との美しい比喩を取り上げました。
 専門的になりますが、仏教における実践の眼目は、″他者″のなかに、「我を礼拝する影」をどのように見いだしていくかにあります。「我を礼拝する影」とは、端的にいって、「仏性」を意味します。
 そして「一切衆生悉有仏性」(涅槃経)――生きとし生けるものは、すべて仏の性分を有し、仏になる可能性をもつ――ということが、仏教の平等観の根底をなしています。
7  常不軽菩薩にみる主体的な実践智
 池田 ここで注目すべきは、「一切衆生」という場合、西洋の近代哲学にありがちなように、人間を客体視して、客観的かつ概念的「仏性」の存在を述べているのではないということです。これは、仏教に限らず、東洋的発想の全般にわたっていえることです。
 そこには、事物を客観的存在としてとらえるという知的操作以前に、まずもってその言葉が主体的に生きられ、思索され、実存の深みにまで掘り下げられた実践智があります。「心の外には法無きなり」――心の中に一切法が包摂され、心の外に特別の法はないということ――と称されるゆえんも、ここにあります。
 この仏法の本義に照らせば、「仏性」という一見抽象的な言葉も、「我を礼拝する影」という、生き生きと生彩あふれる具体的イメージに裏打ちされた実践智であることを、ご理解いただけると思います。そのあり方を典型的に示している人が、「宗教―人間の紋章」の「内在的普遍」のところでも少々言及しましたが、「法華経」に説かれた常不軽菩薩という行者です。
 常不軽菩薩は、正しい仏法を行じたがゆえに、あらゆる僧俗からたいへんな迫害を受けましたが、少しも恨むことなく、「我深く汝等を敬う。敢て軽慢せず。所以は何ん。汝等皆菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし」(『妙法蓮華経並開結』五六七ページ)――私は深くあなた方を敬って、あえて軽んずることはしない。なぜかといえば、あなた方も、仏性を内在させているかぎり、いつかは菩薩の修行をして成仏するであろうからである――と唱えて、礼拝してやまなかった、というのです。
 まさに常不軽菩薩は、自分を迫害する人々のなかに、「仏性」すなわち「我を礼拝する影」を見てとったのです。
 「一切衆生悉有仏性」ということが、客観的真実というよりも、優れて主体的な実践智である理由も、ここにあります。
8  文化の次元における相互理解の難しさ
 池田 こうした実践智を会得していくことが、いかに至難であり、いってみれば文明史的課題でありつづけたかは、たとえば、何年か前、ハーバード大学のサミュエル・ハンチントン教授の「文明の衝突」という論文が、冷戦後のカオスのなかで、世界的な話題を呼んだことからも明らかでしょう。
 同論文の論拠は、諸文明の共存は不可能であり、いずれは衝突する事態を免れないという、その意味では唯物史観にも似た″闘争史観″にありました。
 それは、センセーショナルに騒がれたわりには、「レトリック(巧みな修辞)に満ちてはいるが大雑把であり、文化と政治を取り違えているし、驚くべきことに経済の要素を完全に無視している」(ハ―バード大学ダニエル・ベル名誉教授)などと、多くの批判を浴びているのも事実です。
 ゴルバチョフ 私のほうからも、ハンチントンの理論について一言申し上げたいと思います。そこには、わが国の大学の教授たちが機械的アプローチと名づけたものが、如実に出ています。
 文明と文明には、はっきりとした境界はありません。この数百年の間に、その境界線はだんだんなくなっていき、文化の相互浸透が盛んに行われています。
 ロシア文化を例にとってみましょう。東と西の融合の跡がはっきりと出ています。
 私たちが以前にふれたトルストイも、西洋の賢人であるとともに、東洋の賢人でもあります。
 ハンチントンは、自説のなかで、部分的な問題、イスラム原理主義とアメリカ現代文化の激しい争いを絶対化しているように思えます。しかし、ロシア文化あるいは中国文化、日本文化との間には、いかなる文化闘争もありません。
 池田 そうですね。もとより、私は、ハンチントン教授ほど悲観的ではありません。だからといって、文明と文明との共存共栄が、なんら苦労も必要とせず、スムーズに進行すると考えるほど、楽観的ではありません。
 一例をあげますと、自動車を中心とした日米貿易摩擦が再燃しています。留意すべきは、事態がこじれ、摩擦が深刻化してくればくるほど、頻繁に顔をのぞかせてくるのが、経済次元を超えて、両国間の家庭観や勤労観の相違にもとづく、いわゆる文化摩擦です。戦後の二十年ほど、まだ日米間の経済力に圧倒的な差があった間は、アメリカ側にも、「金持ち、ケンカせず」的な余裕があったのですが、日本が経済力をつけ、格差が縮まってくるとそうはいきません。ことあるごとに、異文化同士のぶつかり合うきしみ音が聞こえてくるようになりました。
 この文化の次元における相互理解、すなわち、互いに相手のなかに、「我を礼拝する影」を発見していくことは、経済次元の利害の調整よりも、よほどむずかしいように思われます。
 日本人も反省しなければならないのはいうまでもないことですが、日本側を一方的に断罪していればすむ性質の問題では決してありません。
 東アジアに造詣の深い、あるフランス人の識者は、こう自省の弁を述べています。
 「われわれ西欧人は、文化的相違がわれわれの支配的地位を脅かす惧れがあると見えるやいなや、その種の相違を我慢できない。ニューギニア原住民の儀礼的人肉喰いの慣習を、われわれ西欧人は極めて容易に認めるが、日本人が年に一週間の休暇しか取らないことには我慢がならない」(レオン・ヴァンデルメーシュ『アジア文化圏の時代』福鎌忠恕訳、大修館書房)と。
 「我を礼拝する影」を求めての内面への旅は、しばしばこうした文化や民族・人種・宗教などの″差異″によって妨げられてしまいます。
 否、ほとんどがそうであったことは、血ぬられた人類の歴史が、雄弁に語っているところです。
9  「価値相対主義」を超える視点
 池田 そこで、なによりも重要であり、忘れてはならないポイントは、「我を礼拝する影」を鏡のなかに見いだそうとする以前に、その前提条件として、まずみずからが鏡に向かって礼拝しなければならない、ということです。
 なぜなら、「鏡に向かって礼拝を成す時」「我を礼拝する影」とは、「礼拝する我」の影であり、その寸分違わぬ投影であるからです。そこまで心の鏡を磨き上げること、そしてそこに開示されてくる透徹した平等観を会得していくことこそ、眼目とされているのです。
 私は、本当の意味での多様性を尊重し、開花させていくには、その根底に、こうした透徹した平等観が共有されていなければならないと思います。ここに、文化相対主義や価値相対主義と呼ばれるものの困難さ、ジレンマがあるといえましょう。
 文化や価値の多様性を認めようとする現象は、西欧近代文明の一元的歴史観の破綻がもたらした「二十世紀の精神の教訓」であるにはちがいありませんが、それは、ややもすると多様性の尊重や開花に結びつかず、倫理的なシニシズム(冷笑主義)やニヒリズム(虚無主義)といった退廃現象をもたらしてしまう。その末路は、多様性とは名ばかりのカオス以外の何ものでもないでしょう。
 ルソーは、かの『社会契約論』の中で、「多数決の法則は、それ自身、約束によってうちたてられたものであり、また少なくとも一度だけは、全員一致があったことを前提とするものである」(桑原武夫・前川貞次郎訳、岩波書店)と述べています。
 これなどは、価値観が多様化していくなかで、物事を円滑にとりきめていくには、「全員一致」すなわち透徹した平等観の共有がなされていなければならない、ということの証左ともいえます。
 その意味からも、私は、新しき人間主義の構築にあたっては、価値相対主義や文化相対主義を超える視点が必要であると考えるのです。
10  人類文明の依って立つべき大地
 ゴルバチョフ ここで注目すべきは、ハンチントンの説とは別の点にあります。つまり、現存しているもの、自分の存在を証明してくれたものに対して、尊敬の念を育まなければならないということです。
 ここで私は、ふたたびゲーテの英知に立ち戻ってみたいと思います。すなわち、自然を追い越してはならない、生命を支えているものを壊してはならない、との点です。
 新しきヒューマニズムの重要な要請として挙げたいのは、人間本来の姿を確固たる、かけがえのないものとしていかなければならないという点です。
 人間は、人間自身と、より真剣に、より真摯に対峙する必要があると思います。人間の本質を、何か別のものとさしかえてしまおうとする試みは、すでに踏みとどまるべきときを迎えているように思われてなりません。人間創造の奇跡を起こそうといった試みには、終止符が打たれるべきです。
 現代科学が、腎臓移植や心臓移植をはるかに超えて、人間自身の移植にまで進もうとしていること、人間自身の深層部分に手をつけようとしていることは、絶対に許されるべきではない。それがどれほど深刻な事態を招きかねないかという点に、目をつぶってはなりません。
 十九世紀と二十世紀の学問が、人間の本質を征服し、変更せんがために営まれ、発展してきたとすれば、二十一世紀の学問は、とりわけ人文科学は、人間を操作・変更することの危険性を、私たちにぜひ語ってほしいものです。
 もしかすると、私たち人間は、良心がどこから芽生え、同苦する感情の源がどこにあるのかを、永遠に突き止めることはないかもしれません。たとえそうであったとしても、私たちは、良心に従って生きることを励ます、あらゆる文化的・精神的チャンスを保ちつづけ、発展させていくべきです。
 同時に、道徳と文化のなかに蔓延するニヒリズムや、無責任なやりたい放題的傾向とは、断固として戦うべきだと考えます。
 また、私たち人間は、生命の起源という神秘を、永遠に解明しえないかもしれません。しかし、すでにこの対談で語り合ったように、新たなるヒューマニズムを志向しゆくうえで、生命に対する宗教的敬虔さが、根本要件となることは明白なのです。
 人類文明の依って立つべき大地は何か、それをどこに求めるべきか――この点こそ、生命を擁護し、本来の豊かな多様性を生かしていくために、今、私たちが知らなければならない課題といえましょう。
 ガンやエイズの治療法を開発することも大切でしょう。自然科学がますます発展していくことも重要です。そのうえで、人間にとっての根本的謎は、人間内面の精神世界であり、生命の法則であることに気づかねばなりません。
 池田 達観です。「汝自身を知れ」との、かのソクラテスの不朽の問いかけが、不死鳥のように、蘇ってくるとの感を深くします。およそ、二十世紀ほど人類の精神史上に燦然と輝くこの問いかけを、侮辱してきたときもないでしょう。
 人々は、それをあたかも古くさいもののように遠ざけ、無視し、踏みにじり、万事に訳知り顔に振る舞ってきました。
 知識と知恵を混同し、軽信を確信と錯覚し、快楽を幸福と、効率を価値と勘違いしながら、群れをなしてひた走ってきました。
 そして、その結果のあまりの無惨さに、世紀末の漆黒の闇のなかで、なすすべもなく立ちすくんでいるのが現状といっても、決して過言ではないでしょう。
 その意味では、二十世紀とは「傲慢の世紀」であり、その嵯鉄がもたらした「悔恨の世紀」であると、位置づけることも可能です。
11  一人一人の人間はかけがえのない存在
 池田 「汝自身を知れ」というテーマでいえば、たしかに、心理学は長足の進歩をとげ、児童心理学、発達心理学、深層心理学等々の知見は、それなりに尊重されなければならないかもしれない。
 しかし、悲しいことに、心理学の発達が、ソクラテスの問いかけにどれほどの深まりを与えてきたかは、はなはだ疑問といわざるをえないのです。むしろ、学問の発達が、そうした原初の問いかけから、われわれを遠ざけ、人々が内面ヘロを向けることなく、われを忘れて右往左往してきたのが、二十世紀の偽らざる軌跡でした。
 その結果、かつて″諸学の王″といわれた哲学は不振を極め、哲学不在、価値観の大空位時代を招きよせてしまったのです。
 ゴルバチョフ そのとおりです。
 たしかに古代ギリシャ哲学は、知性と思考を深めてくれ、人間の欲望や獣性を、決して神格化することはありませんでした。
 池田 私は、声高な主張よりも、むしろ、ゲーテの静かな口調に、耳をかたむけてみたいと思います。「古代人の、とりわけソクラテス派の偉大さを思い見よ」(前掲『箴言と省察』)と、ゲーテは次のように語っています。
 「汝自身を知れという意味深長な言葉を取りあげてみるならば、わたしたちはそれを禁欲主義的な意味に解釈する必要はない。それは当今の憂鬱症患者、諧謔家、自虐家の言う自己認識の意味ではけっしてなく、ごく単純なことなのだ。つまり、きみがきみの同類や世間とどういう関係に立つようになってきているかが認められるように、きみ自身に多少とも注意を払いたまえ、きみ自身のことを念頭に置きたまえ、という意味なのである。そうするためには、心理的な虐待など必要としない。ひとかどの人間ならだれでも、これがどういうことなのかを知っており、実際に経験してもいる。これはだれにでも実地にきわめて役立つ、すぐれた助言なのだ」(同前)と。
 実際、プラトンの『対話編』を少しでもひもとけば、哲学の専門用語など少しも使わずに、日常の平易な対話が交わされるなか、知らずしらずのうちに、みずからまとつていた臆見が突き崩されていく様子は、まさしくゲーテの言う「実際的な、あらゆる人のためになる、すぐれた忠言」(前掲『ゲーテ格言集』)以外の、なにものでもないことがわかるはずです。
 ゴルバチョフ 憎悪や嫉妬、自己破壊本能を絶対視するようになったのは、近代哲学者たちです。人間の自信を揺るがすようなものを宣揚してはならないということを、ギリシヤ人は、おそらく本能的に感じていたのでしょう。人間の本質と人間を脅かす危険性を深く理解していたという点において、ギリシャ人は現代人よりも聡明でした。
 そういう意味で、一人一人の人間は、それぞれの個性と性格をもった絶対的にかけがえのない存在であると、私は申し上げているのです。二十一世紀を目前にひかえた人類は、この点により注意をこらし、賢明でなくてはなりません。
12  「全人類的価値」を新しいパラダイムに
 ゴルバチョフ 新たなるヒューマニズムは、勇気ある人生への尊敬を前提とするものです。慎しく、愚痴をこぼさず、人間としての責務を果たしつつ、学び、働き、子を育て、代々受け継がれてきた伝統を守って生きる、無数の庶民への尊敬の心を大前提とするものです。
 人生の意義は、現実生活を無視した弁証法的奇行や、頭脳ゲームをしている人々のなかに、求めることはできません。
 自分と家族の生活を営々と支えてきた、また今、支えている大勢の庶民のなかにこそ、人生の意義を見いだすべきです。
 池田 同感です。私もまったく同じ信念で歩んできました。二十世紀、右往左往する人々の発する声高な喧騒は、こうした静かで、生活に根ざした知恵を、あまりにも覆い隠してしまいました。
 ゴルバチョフ このように、新しいヒューマニズム、新しい文明への移行とは、すなわち、人間存在のすべてのパラダイム(規範)の変革であるともいえます。
 従来の社会主義対資本主義という、機械的対立構造が息絶えていくことは自明の理として、むしろ着目していかなければならないのは、それらのもっている社会制度上の技術・手段を、いかにして社会生活に役立つように、相互に補完し合う新しい関係にもっていくかです。
 また、国家の安定なくしては、個人の自由と権利を行使することはできず、正常な経済発展も望めないということは、今では多くの人々の理解するところとなりました。しかし、同時に、市民の自由を侵害するとき、国家は弱体化し、活力と将来への展望を失ってしまうことも明白です。
 池田 そのとおりですね。何事も単純な二者択一的な選択は、現実的ではありません。
 ゴルバチョフ 要するに、人類の前に立ちはだかるさまざまな課題全部に回答できるような、オールマイティーな思想は、これまでも存在しなかったし、またこれからも出ないと思います。世界そのものが、あらゆる要素が複雑に結びつき、依存しあって成り立っているのですから、その課題に取り組むにあたっては、当然複数の利害を考慮し、複数の思想を組み合わせていく必要があるわけです。
 であるとすれば、これまで人類が育んできたあらゆる思想・経験を、たとえそれらがどのようなイデオロギーや政治の流れに資してきたものであっても、それらすべてを包容しうるパラダイムを、人類は必要としているといえます。
 そして、このパラダイムの根幹をなすものこそ、幾世紀をもかけて培われた全人類的価値であり、人間生命の本然的価値にほかならないと固く信ずるものです。
 新しいパラダイムは、人間や国家、民族を分断するものではなく、それぞれに共通して、それぞれを結合させていくものでなければなりません。
 池田 ペレストロイカの掲げた「全人類的価値」ということに、どれほどの深い思いを託してこられたかを、あらためて認識させられます。
 また「新しいパラダイムは、人間や国家、民族を分断するものではなく、それぞれに共通して、それぞれを結合させていくもの」との言葉には、全面的に賛同しますし、この対談で、私が何回か申し上げてきた、「結合は善」「分断は悪」との文明論的な問題提起を、正しく受けてくださったものとして、感謝申し上げます。
 さて、そうした新しいパラダイム――人類が、それぞれの立場で、数千年間にわたって育んできた英知を、正しく位置づけることのできるパラダイム形成の一助として、私はここで、大乗仏教の精髄の一端を紹介させていただきたいと思います。
13  二十一世紀を「人間復興の世紀」ヘ
 池田 「宗教――人間の紋章」のところでも少しふれましたが、より整足された形で、確認してみたい。私どもの宗祖の言葉です。
 「法華経に云く「皆実相と相違背いはいせず」等云云、天台之を承けて云く「一切世間の治生産業は皆実相と相違背いはいせず」等云云、智者とは世間の法より外に仏法をおこなわず、世間の治世の法を能く能く心へて候を智者とは申すなり、殷の代の濁りて民のわづらいしを大公望出世して殷の紂が頸を切りて民のなげきをめ、二世王が民の口ににがかりし張良出でて代ををさめ民の口をあまくせし、此等は仏法已前なれども教主釈尊の御使として民をたすけしなり、外経の人人は・しらざりしかども彼等の人人の智慧は内心には仏法の智慧をさしはさみたりしなり
 ――法華経には、「諸の法はみな実相と違背しない」などとあり、天台大師はこれをうけて「すべての世間の政治・経済は、みな実相と違背しない」などと言っている。智者とは世間の法以外において仏法を行ずることはない。世間の治世の法を十分に心得ているのを智者というのである。
 殷の世が濁乱して民衆が苦しんでいたときに、太公望が世に出て殷の紂王の頸を切って民の嘆きをとどめ、二世王が民衆の生活を苦しめたときには、張良が出て世の中を治め、民の生活を豊かにした。これらは、仏法以前であるけれども教主釈尊の御使いとして民衆を助けたのである。外道の経書をもった人々は意識しなかったけれども、それらの人々の智慧は実際には仏法の智慧を含みもっていたのである―――と。
 これは、通途の宗教概念に照らして、まことに驚くべき″開放性″とはいえないでしょうか。
 ゴルバチョフ 私は、もちろん仏教の知識はもち合わせていませんが、おっしゃる意味はよくわかります。
 池田 大公望や張良の時代は、中国に仏法が伝来する以前の時代でした。したがって、彼らは、仏教のなんたるかは、つゆ知りませんでした。そうであっても、もし彼らが民衆の幸せをもたらす政治を行ったならば、知らぬ間に、仏法の智慧を含みもった体現者である、というのです。
 ゆえに、仏法の門戸は、人間に幸福をもたらす政治・経済・文化・教育等のあらゆる″善論″″善なるもの″へと開かれており、逆に″悪論″″悪なるもの″に対峙していくのです。そうした法理の必然的な帰結として、宗教の名のもとに戦争を起こしたり、異端審問を行ったりして、人命を損傷するようなことは、根本的な″悪″ととらえます。
 したがって、実相はまた、「天晴れぬれば地明かなり法華を識る者は世法を得可きか」――天が晴れれば地上の様子が明らかになってくるように、法華経を信ずる者は、世間の諸々の法を心得、熟達しているのである――として、信仰厚き人は、世間の法にもよく通じた、人間学の達人でなければならない、としています。
 私は、ハーバード大学での二回目(一九九一年九月)の講演で、二十一世紀文明に果たすべき大乗仏教の役割を、
 (1) 平和創出の源泉
 (2) 人間復権の機軸
 (3) 万物共生の大地
 の三点に分けて論じてみました。
 そのうち、なぜ大乗仏教が人間復権の機軸たりうるのかについて、それは「善きもの、価値あるものを希求しゆく人間の能動的な生き方を鼓舞し、いわば、あと押しするような力用」こそ、大乗仏教の働きであるからだ、と論及しました。
 世間の法によく通じ、社会に貢献しゆく価値ある生き方こそ、仏法者の本領とするところであるからです。ここに、私の大乗仏教観と、あなたの「全人類的価値」との共通点があるように思います。
 ゴルバチョフ 私もそう思います。人間が人間自身への信を喪失してしまわないうちに、理想と価値に絶望し、手遅れになってしまわないうちに、できる限りの努力をしたいものですね。
 すでに申し上げましたように、新しい奇抜なことを考えだす必要はないのです。ただ、人類が蓄積してきた英知を敬う術を習得しなければなりません。
 二十世紀は、その本質において、警告の世紀でありました。人類に注意を喚起し、新しい存在規範とそれに見合う新しいグローバルな意識、新しい生命感覚を育てていく準備の時代でした。
 この課題を二十世紀はどこまで達成できたか? 完全に達成したとは思えません。
 二十一世紀は、死と破滅をもたらす危機が全面的に激化する世紀となるか、または道徳的浄化と精神健全化の時代、つまり人間復興の世紀になるかのどちらかでしよう。
 池田 おっしゃるとおりです。世紀から世紀へ、「人間復興の世紀」「人間の世紀」への突破口を切り開いていく以外に、「二十世紀の精神の教訓」を生かしていく道はなく、それはまた、私たちの世代に課せられた崇高にして不可避の責務でしょう。
 ゴルバチョフ フェデリコ・ガルシア・ロルカは次のように書いています。
 「世界の中で争っているのは、すでに人間の力ではなく、宇宙的力だ。ここに、私の前に天秤があり、争いの結果を示す。こちら側には、私の痛みと私が払った犠牲、そしてあちら側には、かすかに予測できる、未知なる未来へ移行するという厄介さをともなう、すべての人にとっての正義。そして私は自分の拳をその正義の盃に置く」と。
 私たち一人一人が、あらゆる賢明な政治勢力が、そして、すべての精神的・思想的潮流、すべての宗教が、この移行の一歩、つまり人間性と正義の勝利を助けるという使命を帯びていると、私は確信します。二十一世紀を人間復興の世紀、人間の世紀にしゆくために。
 池田 今、「宇宙的力」という言葉がありましたが、人類は、まさに運命的な分岐点にあるといえるでしよう。
 相拮抗しつつ、せめぎ合う善と悪の対峙を、仏法では、「仏」と「魔」との戦い、と位置づけています。
 仏典に「月月・日日につより給へ・すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし」――月々日々に精進と向上を怠ってはならない。少しでも心にゆるみがあるならば、魔につけ入られてしまうであろう――とあるように、民衆の未来を志向しての間断なき挑戦、間断なき戦いこそ、勝利への王道です。
 また、仏典には「大悪をこれば大善きたる」――大きな不幸や困難が起これば、必ず大きな幸福がくる――と説かれています。
 闇が深ければ深いほど、暁が近いのと同じ道理で、世紀末のカオスが深刻であればあるほど、未来世紀の希望の虹は、間近に迫っているかもしれないのです。否、心にそう決めて、「人間主義」「生命主義」の時代へと、私どもは、絶対にその英知を結集していかなければならない――私は命のつづくかぎり、この正義の主張を叫んでいきたいと決意しているのです。
 ゴルバチョフ よくわかります。おっしゃるとおりです。またいつの日か、つづきの対談をしたいものです。
 池田 ありがとうございます。ご多忙のところ全力をあげてくださり、心より御礼申し上げます。奥様にもくれぐれもよろしくお伝えください。大きい、深い思い出をつくってくださったことに感謝しております。いつまでもご健康で、世界のためにご活躍されますことをお祈りいたします。

1
1