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日蓮大聖人・池田大作

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「新たなる人道主義」の世紀  

「二十世紀の精神の教訓」ミハイル・S・ゴルバチョフ(池田大作全集第105巻)

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8  民衆主体の時代変革への条件
 池田 仏教における歴史意識は、そうした「時間観」のうえに構成されています。普通、歴史意識というと、キリスト教的伝統に特有のもののようにいわれています。しかし、神の再臨を軸とするキリスト教的終末観とは、結構けっこう(組み立て)を異にするとはいえ、仏教にも、歴史意識と呼ばれるものは、明確に存在します。
 たとえば、釈尊滅後の千年間を「正法」、次の千年間を「像法」、それ以後を「末法」とする時代区分がそれです。そして、「正法」から「像法」「末法」へと、ってくるにつれ、時代は濁悪化して、釈尊の教えの効力も薄れ、それぞれの時代に即応した仏教のあり方がなければならない、とされているのです。そこから、末法思想を背景にした危機意識をバネにして、新たな時代の展望を切り拓く歴史意識、歴史への遠近感覚というものが形成されてきます。
 重要なことは、大きく転変しゆく時代の節目節目への対応の仕方が、いかにも仏教らしく、じつに柔軟かつ細心を極めているということです。抽象的な理論の枠組みで、現実を一方的に裁断していくのではなく、それぞれの時代状況やそれに即応して広まるべき法、民衆のニーズがどこにあるか等、ゲーテの言う「その国民の本質から、その国民自身の共通の要求から生じてきたもの」(前掲『ゲーテとの対話』)への見極めが、慎重のうえにも慎重になされなければならないとされているのです。
 ゴルバチョフ 池田さん、友人であるあなたから、仏法の時間の観念について話をうかがい、たいへん大きな関心をいだきました。とくに、法をはじめ、なんらかの理念を広めようとするものは、″時代の声″に敏感に耳をかたむけ、その時代の人々の「意識」に、鋭敏に反応していかなければならない、という考え方に心から共感をおぼえます。
 池田 ご理解、感謝いたします。一例をあげれば、仏がこの世に出現し、法を説く場合には、「時応機法」という四つの条件が満たされなければならないとされています。
 「時」とは時代状況であり、「応」とは化導する仏の振る舞いですが、敷衍して言えば、リーダーのあり方ともいえます。「機」とは民衆の心根であリニーズ、「法」とは、説かれるべき法体、敷衍すれば、思想であり指導理念となります。
 少なくとも、この四条件が満たされていなければ、民衆が主体となった時代変革は、スムーズに成就しない、と説かれているのです。私は、ゲーテが「そこには神がいないからだ」と比喩的に述べるとき、そうした諸条件のなんらかが欠落している状態をさしているのではないか、と思えてなりません。
 ゴルバチョフ 一般的に考えても、隣人を助け、彼らの魂の救済を願う者は、あなたのおっしゃるように「心して柔軟かつ細心を極めていく」べきでしょう。
 私がこのように思うのは、ペレストロイカの経験と失敗に照らしてのことです。ペレストロイカを行ったさい、その主要な問題において、私たちは正しかったのですが、残念ながら現実的な対応という次元では、多くの試行錯誤がありました。
 一般大衆は、激しい変化についていく用意ができていませんでした。そして、慣れ親しんだ価値観と、偶像から離れる用意もできていなかったのです。
 私にはそれがわかっていました。だからこそ私は、その点を考慮して行動したつもりです。ときにそれがかんばしい成果を生まなくても。しかし、致命的だったのは、自分の理解した真実のすべてを一時に言ってしまおう、理解させようという知識層の性急さでした。そのような彼らの意図は、無数の一般庶民の期待から大きく外れてしまったといわざるをえません。
 一方、私には、行動が緩慢で、決断力のない弱い政治家という「永遠のレッテル」が張られてしまいました。このような不見識がいかなる結果を招いたかは、あらためて述べるまでもありません。
 池田 いかなる正義も、また道理も、狂える社会では、正当に評価されないばかりか、逆に集中攻撃さえ浴びかねない。私も、その人間社会の方程式を、自身も体験し、よく知っているつもりです。しかし、長い歴史から見れば、絶対に真実は隠せない。正義は必ずや証明されていくと確信しています。

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