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日蓮大聖人・池田大作

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「新たなる人道主義」の世紀  

「二十世紀の精神の教訓」ミハイル・S・ゴルバチョフ(池田大作全集第105巻)

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1  生命の尊厳観の確立こそ最重要の課題
 ゴルバチョフ ここでは、人類がめざすべき「新たなる人道主義」について、語り合ってみたいと思います。
 初めに、私たちがペレストロイカを始めたときのことから、話をさせていただきます。
 池田 結構です。ペレストロイカが始まり、新思考の政策が注目され始めたのは、今から十年前でしたね。
 ゴルバチョフ ええ。ちょうどペレストロイカが端緒についたばかりのころでした。私は、同じ考えをもっていた仲間と、第二七回共産党大会で行う政治報告の原稿を準備していました。そのとき、私たちのなかには、明らかに「新しい人道主義的思考」「新しい世界観」が熟していました。
 ただし、それをどのように表現するか。混乱と痛みを最小限にくい止めつつ、それを人々に伝える方途を模索していました。
 全人類的価値が優先されるべきであるという結論を、私が公に発言したのは、イシク・クーリ・フォーラムの参加者との会見のときでした。その発言は「コムニスト」誌上に掲載されるところとなり、大反響を呼びました。もちろん、反響は決して一様ではありませんでした。論争は今も止んでいません。
 池田 イシク・クーリ・フオーラムといえば、アイトマートフ氏が主宰した有名な円卓会議ですね。氏も私と対談したさい、懐かしそうに振り返っていました。たしかに、顔ぶれからいつても、″歴史的宣言″がなされるにふさわしい場であったと思います。
 ゴルバチョフ イシク・クーリ・フオーラム参加者との会見の席で、私は初めて、それまで長い間考えぬいてきたことを語りました。すなわち、人類文明総体の意味とは、また進歩・文化のもつ意味とは、と問うとき、突き詰めれば、それは、「人間生命」というすべての依って立つ大地を擁護することに尽きる、と申し上げたのです。これこそが、最も自然に則したあり方であり、健全だからです。
 池田 まったく賛成です。「人間生命」は、それ自体が目的であり、絶対に手段化されてはならないものです。こうした生命の尊厳観の確立こそ、二十一世紀へ向けての最重要の課題といえるでしょう。
 以前、申し上げたように、亡くなったライナス・ポーリング博士と私との対談集が、『「生命の世紀」への探求』(本全集第14巻収録)と題されているのも、その一点で、両者の意見が一致したからにほかなりません。来るべき世紀を「生命の世紀」と位置づけたい、との私の提案に賛同しつつ、博士は次のように語っておりました。
 「二十一世紀を『生命の世紀』に、との池田会長のご発言について申し上げれば、その意味されるものは、人間生命そのものに今まで以上の焦点が合わされ、人間の幸福と健康が大事にされる時代だと思います。私の思う二十一世紀とは、分子生物学の興隆する時代で、現在における以上に、生命の実体に関する詳細な理解が得られる時代です。二十一世紀を『生命の世紀』に、ということはすばらしい考えです」
 ゴルバチョフ わかります。多くの悲劇が展開された今世紀はまた、生命それ自体の価値、人間の尊厳についての多くの格言を残しています。
 池田 ポーリング博士などは、その現代人の規格を大きく超えたすばらしい人格の持ち主でした。じつは、ポーリング博士も、ゴルバチョフ・ファンの一人だったのです。
 博士は語っていました。「今後の世界情勢の動向を思うと、私の胸はおどります。勇気がわきます。ソ連が動きだしました。ゴルバチョフ大統領のリードで、現実に世界軍縮への潮流が流れ始めました」と。
2  大地と人間と人生の一体性に感銘
 ゴルバチョフ それは、恐縮です。
 ところで池田さん、私も私の妻も、じつは、「自然」と「人生」の美しさを最も的確に描写したのは、日本の文学者・思想家だと思っているのです。この日本人の天性は、だれも真似ることはできません。もしかすると、天から与えられた資質なのでしょうか。それとも日本の自然の美しさに由来するものでしょうか。限られた少ない言葉のなかで、見事に本質を言い当てています。
 池田 総裁ご夫妻が、日本文化を深く理解し、評価してくださることに感謝いたします。好きな日本の文学者はおられるのですか。
 ゴルバチョフ そうですね。私がまだ共産党書記長をしていたころ、当時の習慣で、ロシア語に訳された徳冨蘆花の撰集の初版が、私のところに届けられました。私はこの小さい本を家に持ち帰り、ライサに渡しました。彼女はこの本に深く感銘したようです。その後、私自身もこの本を読んでみました。私は農民の子です。私の祖先は、土を耕して働いてきました。
 そんな私が、徳冨蘆花の本を読んで、最も驚き感銘を受けたのは、大地と人間と人生の一体性を、見事に謳いあげている点でした。
 「土の上に生れ、土の生むものを食ふて生き、而して死んで土になる。我儕われらはひ畢竟ひっきょう土の化物(=生まれ変わり)である。土の化物に一番適當てきとうした仕事は、土に働くことであらねばならぬ。あらゆる生活の方法の中、尤もよきものをえらみ得た者は農である」(『みみずのたはこと』、『蘆花全集』9所収、新潮社)
 池田 話をうかがっているうちに、一九九四年五月のモスクフでの出会いを思い出しました。あなたは、ご自身の来し方を振り返りながら、現在のような人間になった「責任」の多くは、人生の多くの時間を過ごしたスタープロポリの、草原や山、その自然にあるのかもしれないと語られましたね。
 『自然と人生』をはじめ徳冨蘆花の著作は、私の若いころの愛読書であっただけに、ことのほか、今の話に親近感をおぼえます。ご存じのように日本人・蘆花は、トルストイの熱烈な信奉者でした。
 一九八一年の第三次訪ソのさい、私は、モスクワ市内の「トルストイの家」博物館を訪れました。そこには、ヤースナヤ・ポリャーナの老文豪を訪問した蘆花の様子が写真となって飾られており、あらためて往時をしのんだものです。
 私は海苔づくりを生業とする家庭に生まれ、海に慣れ親しんで育ちましたので、森や草原とは少し趣が違いますが、いずれにせよ日々、胸いっぱいに呼吸してきた生命空間の広がりという点では、急速に自然破壊の進んだ二十世紀後半、とくに世紀末にあって、人間はいかにも貧寒になってしまったといわざるをえません。
 ゴルバチョフ そうですね。その意味でも、″私たちの惑星″の自然を擁護することに人生を捧げる人々によって、私が「グリーンクロス・インターナショナル(国際緑十字)」という新しい組織の会長に選ばれたことを、誇りに思っています。これもみずからの運命の象徴なのかもしれません。
 私は、シュバイツァー賞を受賞しているのですが、これは私にとって、とても意義深いことと思っています。というのも、シュバイツァー博士は、宣教師としての生涯を通して、今あなたと私が取り組んでいるのと同じ課題に挑戦した人だからです。彼もまた、二十世紀において体験した戦慄と苦悩から、人類を救い出しうる「新たなる人道主義」の基盟を形成することに腐心しました。
 池田 なるほど。シュバイツァー博士のことは、私も日本の青年たちに、その人生と生き方について語ったことがあります。
 ゴルバチョフ そうですか。
 彼の言葉に耳をかたむけてみましょう。「善」と「道徳」の新しい解釈に関して、「人間は、助けうるすべての生命を助けたいという内的要求に従い、生命あるものならば害を加えることをおそれるというときにのみ、真に倫理的である。かれは、この生命が、どれほどの尊い関心に値するかを、またそれらが感受能力があるかどうか、どの程度にそれがあるかを問わない。生命そのものが、かれには神聖なのである」と述べています。
 このような道徳観と生命へのアプローチは、二十世紀の機械的世界観から、人類を脱皮させうる、多くの示唆を含んでいます。二十世紀の機械的世界観にあっては、人間は往々にして、自然を改造し、征服し、物事の道理を無視して、世界をねじ伏せてきたみずからの行動が何をもたらし、はたしてその先どうなるのかを思慮するにはいたらないのです。
3  現代文明の危機とは拡張主義思想の危機
 ゴルバチョフ 人類は永遠の存在ではないこと、自然の破壊と改造には限界があること、過去の否定が、必ずしも向上をもたらすとは限らないこと、後には何も生まないような否定もあるのだということ――二十世紀の半ばを過ぎて、ようやく人類は、そうした現実に思いを致したといえるでしょう。
 近年、多くの識者によって指摘されているところの現代文明の危機とは、拡張主義思想の危機であり、その最後の奇形です。したがって、現代においては、「どの拡張主義が云々」と、その種類やタイプを比較することは、ナンセンスといわざるをえません。
 共産主義の拡張と科学至上主義の拡張は、他のすべてを一つのものに従属させるという点で、つまり、共産主義では、「平等」というイデー(理念)に、科学至上主義では、「科学」に従属させるという意味において、両者は共通項で結ばれるのではないでしょうか。
 池田 同感です。理性や科学に依拠しながら、人間の歴史の進歩・発展を楽観的に信ずることのできた″幸福な時代″は、とうに終わりを告げました。そうした近代文明のあり方への懐疑は、すでに十九世紀の世紀末において、幾人かの先覚の人々によって、警鐘が鳴らされていました。総じて二十世紀の歴史は、そうした警鐘の正しさを跡づける歩みであった、ということができます。
 あなたのおっしゃる拡張主義思想の特徴をじつに的確に形容している人に、フランスの文明批評家のポール・ヴァレリーがいます。彼は、それを「ヨーロッパ」のイメージでかたどっています。
 「ヨーロッパ精神』の君臨するいたるところに、欲望の最大限、仕事の最大限、資本の最大限、生産能率の最大限、野心の最大限、権力の最大限、外的自然変改の最大限、交渉と交易の最大限が現れているのが見られるのだ。これら最大限の総体が『ヨーロッパ』である、或は『ヨーロッパ』の相である」(『ヨーロッパ人』渡辺一夫・佐々木明訳、『ヴァレリー全集』11所収、筑摩書房)と。
 貪欲なまで認識し、行動し、支配し尽くそうとする、いわゆる″ファウスト的自我″のもつ悪魔的側面です。
 たしかに、それは、近代文明を発展させる最大の駆動力ではあったが、おっしゃるとおり、その拡張主義は、ローマ・クラブの有名なリポートのタイトルが、『成長の限界』とされているように、明らかに壁に突き当たっています。
 ゴルバチョフ まさに一刻も猶予できません。
 現代の危機の特異性は、私たちが今、初めて、人類滅亡をまぎれもない現実の可能性として凝視している点にあります。人類史上初めて、生存圏の安定が破壊されるという兆候が現れました。その自己再生の可能性も絶たれています。
 技術と文明の向上、完成を基とする技術本位のプロセスは、自然と人間の対立を緩和させなかったばかりか、逆に深刻の度を深めてしまいました。もしもこの対立が解決されなければ、人類を待ち受けているものは、核戦争の後遺症にも匹敵する惨憺たる事態しかありません。
 池田 おっしゃるとおりです。今や人類は、あくまで″最大限″をめざそうという意志や欲望に、なんらかの制限を加えなければ、文明そのものが滅亡しかねない時期を迎えています。巷間、「地球二十九日目の恐怖」などということが盛んにいわれています。
 ――一つの池に最初一枚のハスの葉を入れ、その葉が一日ごとに三倍に増えて、三十日で池いっぱいを覆ってしまうという前提を置いてみると、池の半分がハスの葉で覆われるのは二十九日目ですが、池全体が覆われるのには、あと一日しかありません。
 まだ半分は大丈夫と思っていても、じつはたった一日の猶予しかない。人口や資源、千不ルギー問題などの現状は、まさに、この二十九日目の状況にあるのだ、と。
 ゴルバチョフ いわゆる地球の温暖化現象(温室効果)、オゾン層の破壊(オゾンホール)、土壌の疲弊、海洋汚染等、近年幾度となく警鐘が打ち鳴らされているにもかかわらず、政治家はこの問題をあまりに軽視しているようです。彼らは、目前の権力闘争と勢力拡張に余念なきあまり、足下の大地が燃え、すべてが崩れ落ちそうになっているのが見えないのでしよう。
 ゆえに、エコロジークライシス(環境危機)とは、伝統的価値観、規範の危機であり、精神の危機、世界観の危機にほかならないと申し上げたい。
 池田 まったく同感です。指導者が最優先して考えなければならない問題です。
 ゴルバチョフ 池田さん、最近、特別に理由があってのことではないのですが、ゲーテを読み返し始めました。私たちの若いころ、とくに学生時代は、だれもが彼の『ファウスト』を読んだものでした。もちろん、私も読みました。ただ、当時はなぜかゲーテの英知を素通りしてしまったようです。
 ちょうど五〇年代の初めのころでしたから、私たちは皆コミュニスト(共産主義者)で、その意味では、ヘーゲルに傾倒していましたので、「過去を否定することなくして進歩はない、過去を強く否定すればするほど、また過去の遺物と容赦なく戦えば戦うほど、未来の繁栄はより確実になる」と信じていました。
 かのゲーテは、ヘーゲルと熱い論争を交わし、啓蒙主義時代の幻想、無限の進歩思想に反論して譲りません。彼は、ヘーゲルの公式は頭脳ゲームでしかなく、生きた生活や現実の人間の歴史は、いかなる図式にも当てはまるものではない、と書いています。
4  近代ヒューマニズムの欠陥
 ゴルバチョフ ゲーテは他の思想家に先駆けて、近代ヒューマニズムの欠陥に気づいていました。彼は啓蒙思想の流れを汲んで生まれるヒューマニズムは、誕生する前からすでに老いていると見抜いていました。ヘーゲルの概念は運命論的であり、人々を結末の予知できない行動へと駆りたてるということを、ゲーテは直観していたのでしょう。
 ゲーテは、自然に耳をかたむけ、その法則に従い、決して自然の域を出てはならないと人々に教え諭しています。彼は、「変化のなかの永続」と題する詩の中で、
 「始まりと終りとを
 ひとつのものに溶けあわせるがよい!
 もろもろの物象よりもすみやかに
 おまえ自身を過ぎゆかせるがよい」
 (『神と世界』田口義弘訳、『ゲーテ全集』1所収、潮出版社)と書いています。
 池田 そうしたゲーテの生活感覚、生命感覚は、フランス革命に対する彼の態度に象徴されているといえるでしょう。青年ヘーゲルが、歓呼の声とともにフランス革命を歓迎し、社会革命の道を志したのに対し、ゲーテは、多少年長であったということもあるかもしれませんが、それ以上に、気質、信条のうえから、この大革命に懐疑的な姿勢をとりつづけていたことはよく知られています。
 その姿勢は、革命の暴走に歯止めをかけようとする穏健な進歩主義というか、それよりも、われわれが何回も確認し合ってきた言葉を使えば、「漸進主義」そのものでした。
 ゴルバチョフ ″嵐″と″実験″の十九世紀、二十世紀をくぐり抜け、二十一世紀を目前にひかえた現在、私たちは、あらゆる拡張主義的イデオロギーに別れを告げるべきではないかと考えます。また、人間存在の最も秘められた深部まで解明することを入類に約束する、啓蒙的幻想とも決別すべきでしょう。そしてまた、人間生活の無限の完成と改善に固執する、近代主義の幻影からも解放されるべきです。
 私たちは、機械的な近代ヒューマニズムに代わって、真実の新しいヒューマニズムを打ち立てていかなければなりません。人生の織りなす豊かな多彩性、これこそが、私たちが慈しみ護るべき至高の価値であらねばなりません。
 ゲーテは、このことを至極簡単明瞭に述べています。「われわれの目の前を通りすぎていく豊かで多彩な人生も、たとえはっきりした傾向が出ていなくても、それ自体でなんらかの価値があるといいたいね」と。
 池田 以前、私が申し上げたゲーテの言葉――「いつかは目標に通じる歩みを一歩々々と運んでいくのでは足りない。その一歩々々が目標なのだし、一歩そのものが価値あるものでなければならないよ」――と符合しています。どちらも、エッカーマンの『ゲーテとの対話』(山下肇訳、岩波文庫)に出てくる一節ですね。
 『ゲーテとの対話』などに、とりわけ横溢している瑞々しい生活感覚、生命感覚は、まぎれもなくパステルナークやシャリャーピンが、世紀を超えて継承しているものです。彼らのポルシェビズム批判とゲーテのジャコビニズム批判のトーンとは、なんと酷似していることでしょうか。
 「私がフランス革命の友になりえなかったことは、ほんとうだ」「だからといって、私は、横暴な専制主義の友でもなかったのだ」(同前)と弁じつつ、彼は、みずからの革命観を吐露しています。
 「ある国民にとっては、他国民の真似ではなく、その国民自身の本質から、その国民自身の共通の要求から生じてきたものだけが、これは善であるといえるのだよ。なぜなら、ある国民にとって一定の発展段階で結構な栄養分でありうるものも、ほかの国民にとっては毒になるばあいもありうるのだからね。
 だから、ある外国の改革を導入しようとする試みは、自国民の本質に深く根ざした要求でないかぎり、すべて愚かなことだ。そうした故意に企てられた革命などは、いっさい成功しないものだよ。というのも、そこには神がいないからだ。神は、そうしたいいかげんな仕事には手を出されないからだ。しかし、ある国民のなかに大きな改革への真の欲求があるなら、神はその国民とともにあり、その改革は成功する」(同前)と。
 『ゲーテとの対話』の中でも、最も印象的な個所の一つでしょう。それと意識せずして、「漸進主義」ということを言い表した白眉の文章であると思っています。
5  ″力″
 池田 ここでゲーテの言う「神」とは、いかにもメタファー(暗喩)的な言葉で、言い換えるのはむずかしいのですが、あえて言えば、「人間の善性の極致」、あるいは、絶対に手段化することのできない「生命の尊厳性」、あるいは、それらの普遍的価値ヘと回路を通じている「国民性の真の美質」等々と、かみくだいてみることも可能でしょう。
 いずれにせよ、こうした「神」のはたらきが、生き生きと脈動しているところでは、革命運動が独裁やテロヘと、ドストエフスキー流に言うならば、自由を求めて専制へと堕してしまうことは、絶対ありえないはずです。したがって、人間がいつの間にか歴史の舞台の主役から端役へと、すべり落ちてしまうこともありえないはずです。
 もう、十数年前になりますが、そうした背景を踏まえながら、私は、私どもの民衆運動の社会的役割・使命を、「暴力や権力、金力などの外的拘束力をもって人間の尊厳を侵しつづける″力″に対する、内なる生命の深みより発する″精神″の戦い」と位置づけました。あなたのゲーテに寄せる共感と私のそれとは、かなりの部分で共通しているのではないでしょうか。
 ゴルバチョフ ゲーテに対する共通の尊敬の念かもしれません。私もあなたも、自分のなかで繰り返し多くの発見をし、多くの経験を積んできたことの証左です。ゲーテの知恵は、成熟した人間の成しうる知恵です。
 池田 味わい深い言葉です。
 畢生の大著『ファウスト』を、二十歳前後に書き始め、八十歳にいたるまで手を入れつづけたというような、大河の悠々と流れるごときゲーテの創作活動は、性急な現代人では、とうてい考えられないスケールです。ヴァレリーは、「ゲーテにあって何よりも先ず私の一驚することは、あの非常な長命であります」(『ゲーテ頌』佐藤正彰訳、『ヴァレリー全集』8所収、筑摩書房)と言っています。この「長命」とは、たんなる年齢的なものではないはずです。
 ゴルバチョフ いうまでもなく、二十一世紀の人間たち、たとえばヨーロッパ人が、静止した世界のギリシャ的瞑想に戻り、自然から与えられた人生の喜びに、刹那的に浸って生きることはできません。時間の観念、未来への予感というものは、キリスト教とともに私たちの血肉と化しており、それを克服し、超越することはおそらく不可能でしょう。
 しかし、知識欲と拡張志向の現代人は、今こそ真摯に自分自身の内面世界を見つめ、人間そのものを研究すべきときにきたのではないでしょうか。また自然と人間の一体性に関する透徹した理解が、必要とされているのではないでしょうか。
 池田 そのとおりです。全面的に賛成いたします。
 ゴルバチョフ あなたもふれられた点ですが、地球人が火星や木星等、他の惑星に、さらには他の銀河系に移住するという空想小説に、若者たちが熱中したのは、わずか二十年ぐらい前のことでした。
 ところが今はすっかり影をひそめています。宇宙開発への関心さえもなくなってしまったかに見受けられます。
 それは、人々が、経済的・学術的限界を知り、絶対に踏み越えられない境界があると悟ったからばかりではないのです。人間は期せずして、自身の内に大いなる興味をいだき始めたのです。ほかでもない宇宙飛行のおかげで、人々は自分の星・母なる地球が、限られた大きさしかもっていないことを知りました。そして、その神秘の美しさをも目撃するところとなったわけです。
 それはひるがえって、地球の外へ、自分の外の世界へと向けられていたあらゆる本能的志向が、ついに終焉していく前兆となりました。
 啓蒙思想もしかり、人間の力が、外界へ、自然界へ、宇宙へと無限に展開していくとする進歩主義哲学とともに枯渇してしまいました。
6  試練に立たされている現代文明
 池田 本当に、おっしゃるとおりの現代文明の置かれた状況ですね。盲目になる寸前のファウストの独白は、そうした状況を予告しているかの感さえあるといえましょう。
 「私はひたすら世界中をかけめぐってきた。
 どんな快楽でも襟髪えりがみつかんで手に入れた。
 満足できないものは、ほっぽり出し、
 逃げだすものは、勝手に行かせた。
 ただもうやみがたく求めに求め、実行に次ぐ実行、
 そのうえまたしても望んでは、力ずくで
 嵐のようにわが人生を突っ走り、
 初めは大げさに力いっぱい、
 今はもっとはっきり見きわめて、慎重に歩いている。
 おかげでこと地上に関しては、
 もう十二分に味わいつくした。
 しかし、天上のことはわれわれうかがい知れぬ世界さ」(山下肇訳、『ゲーテ全集』3所収、潮出版社)
 すべての面で強引に、振り返るいとますらなく、まつしぐらに″拡大″を志向しつづけてきたファウストが、ようやく落ちつきと自省のひとときを迎えたときは、すでに、盲目と死という悲劇的運命が眼前に迫っていました。彼の悲劇は、まさしく、人間がその傲慢さゆえに、重大な試練に立たされている現代文明の危機を、象徴しているようです。
 「天上のことはわれわれうかがい知れぬ世界さ」と居直っていたフアウストも、結局は天上界の聖母マリアの手によって救済され、ファウストの猛々しい男性的原理が、「永遠の女性的なるものこそわれらを高みのかなたへひいていく」(同前)との結語にみられる女性的原理によって中和され、やすらぎを見いだしていったように、意志や欲望のおもむくままに走りつづけてきた現代文明も、思いきった発想の転換が不可欠となっているようです。
 お互いに″青春の一書″であった『ファウスト』ですが、そのファウストの運命について、一言お聞かせください。
 ゴルバチョフ ゲーテは、その作品を通して、人間と隔絶した理想、″人神″の正体を暴露しようとしていました。
 ゲーテは、すでに十九世紀の初めに、不朽の『フアウスト』の中で、ドストエフスキーが世紀末に記すことになる言葉を述べています。その主旨は、単純明快で、今も色褪せることのないものです。「心よ、激情を抑えよ」と。ゲーテは、さらにこの世のいかなるものも、時計の針を止めることはできない、と述べています。もっとも、ゲーテ自身は、自分の言葉に忠実ではありませんでしたが――。彼は、生涯あくまでも人生の楽しみを追い求める罪多き世俗人として、生きたのではないでしょうか。『フアウスト』を読んで、私はそのような思いに駆られました。
 池田 おっしゃるとおり、「時よ、とまれ!」との言葉に象徴されるように、「時間」や「歴史」を意のままにしようとする人間のプロメテウス的野望の挫折こそ、『フアウスト』をつらぬく大テーマでした。
 さて、あなたは先ほど、「時間の観念、未来への予感というものは、キリスト教とともに私たちの血肉と化しており、それを克服し、超越することはおそらく不可能でしょう」とおっしゃいました。
 これに関連して、歴史観の問題について、若干検討し、確認し合っておきたいと思います。この問題は、二十一世紀の新しい文明を考察するさい、絶対にさけて通ることのできない、もしかすると最重要の課題であるからです。
 そこで、平凡なようで大切になってくることは、何のための「歴史」であり、「歴史観」であるのか、という問いかけであると思います。そして、この問いかけの行き着くところ、クローズアップされてくるのは、「生」こそ歴史の中心軸であり、「生きることが第一」という命題こそ、歴史の奉仕すべき最大の目的であるということです。
 それは、あなたのおっしゃる「ギリシャ的瞑想」のスタティック(静的)な世界とは似て非なるものであり、ダイナミックに脈動しながら、歴史創出にチヤレンジしつづける、創造的生命の開花を意味しているはずです。
 かのゲルツェンが、「つねに現在の瞬間にすべてを注ぎこみ、そして人々に出来るかぎり楽しむ能力を分かちあたえながら、生命にも、楽しみにも保障をあたえることはせず、それらが長くつづくのを引きうけはしません。
 生きているものすべてのこの絶え間のない運動のうちで、このどこにもみられる移り変わりのうちで、自然は新しくなり、生きており、こういうことで自然は相も変わらず生きいきしているのです」(『向う岸から』森宏一訳、『グルツェン著作選集』Ⅱ所収、同時代社)と謳いあげているように。
7  「歴史観」の機軸となる「時間観」の転換
 池田 近代の拡張主義や進歩主義が破綻した原因を、歴史観の側面から論ずれば、時間を「過去」「現在」「未来」の三つに分割して、その直線的な進歩の延長上に、ユートピアの未来図を描き出してしまった点にあります。
 そのため「過去」といい、「現在」といっても、もっぱら「未来」のために手段として奉仕する以外になく、そうした「未来」が、いかに生あるものを食いつぶし、歴史を蹂躙してきたかは、再言するまでもないことでしょう。やはり、「歴史観」の機軸となる「時間観」の転換が必要です。
 人間にとって、最も切実にして重要な「時間」とは何か――それは、人間的営為とは無関係に、過去から未来へと過ぎゆく「無機的な時間」ではなく、人間によって「生きられる時間」、人間がもつ生きる精神の内奥と、深く響き合っているような「生きた時間」の感覚です。その点、ベルジャーエフの「歴史観」「時間観」は、たいへん学ぶべき点が多いのではないでしょうか。
 「歴史においては、一筋の直線をなして実現する善の進歩、完全性の進歩――それによって未来の世代が過去の世代よりも高いところに位置するというような進歩は存在しない。歴史においては、人間的幸福の進歩も存在しない。――あるのはただ存在の内的諸原理、たがいに相反する諸原理、光明と暗黒と、神と悪魔と、善と悪との諸原理の悲劇的な、いよいよ深いところに達する開示のみである。この矛盾の開示に、この矛盾の示現にこそ、人類の歴史的運命の至高の内的意義がある。もしわれわれが人間意識の歴史におけるなんらかの進歩を主張しうるとすれば、その進歩は人間的存在における悲劇的矛盾の内的開示の結果としてあらわれるこうした意識の先鋭化である」(『進歩の理論と歴史の終末』、『ベルジャーエフ著作集』1〈氷上英廣訳〉所収、白水社)
 こうしたベルジャーエフの知見について、どうお考えですか。
 ゴルバチョフ ロシアの古典文学、その心を私が知る限りにおいて申し上げられることは、私たちロシア人というものは、つねに直線的な「無限の進歩」、もしくは未来に向かっての「無限の競争」という考え方には、慎重な態度をとってきました。
 ベルジャーエフはしばらく惜き、池田さん、あなたはこの対談のなかで、グルツェンを引用されました。グルツェンは、人間の生命をむさぼり、その人間たちが死んだ後には、すばらしい世界が地上に実現することを約束しているモローク神に、激しく抗議をしています。
 「際限のない目的は目的ではない、こう言ってよければ、たくらみ」と。
 興味深いことにグルツェンのあと、この「無限の進歩」という考え方に反対したのは、レフ・トルストイでした。彼は、みずからが賛同できない歴史観として、西欧の歴史観をあげ、その対極に、みずからに親しい歴史観として、東洋の歴史観を置きました。彼は論文の中で次のように書いています。
 「常識が私に語るところでは、もしも人類の大きな一部であるいわゆる東方民族全部がけっして進歩の法則を確認してはいずに、むしろそれを否定しているとすれば、この法則は全人類のために存在しているのではなくて、存在しているのは――人類の一小部分におけるそれへの信仰にすぎないのである。(中略)私は人類生活に対するいかなる一般法則をも発見することはできない。歴史を進歩の思想のもとに置くことが容易なのは、ちょうどそれを退歩の思想とか、勝手な歴史的空想のもとに置くのが容易なのと同じである。さらに言えば、歴史のなかに一般法則を求めることは、その不可能なことは論外としても、私にはその必要がまったくみとめられないのである。一般的な永遠の法則は各人の心のなかに書かれてあるからである」(『進歩と教育の定義』中村融訳、『トルストイ全集』17所収、河出書一房新社)
 池田 東洋人の一人として、深く共感できます。
 ゴルバチョフ 一言付け加えて言えば、不幸なことに、わが国の偉大な思想家たちの警告の言葉は、勤労大衆の傾聴するところにはなりませんでした。そしてわが国の人々は、先ほどのモローク神の法則に従って生き、行動し、スターリン的社会主義を建設してきました。
 こうして幾世代かにわたって、ソビエトの人々は、なかんずく労働者と農民は、極貧のなかで働きつづけてきました。とくに三〇年代にあっては、飢餓にもかかわらず、決してだれもたどり着くことのない共産主義の未来という大義名分のために、自分たちの生活を犠牲にしてきたのです。
 池田 途方もない悲劇でしたね。ところで、なぜ私がベルジャーエフに注目するかといえば、彼は、唯一、進歩の名に値する進歩が可能となる内面のドラマ、すなわち「意識の尖鋭化」がなされる場、次元を「未来も過去もいつとなる永遠の現在」と言っており、そうした「時間観」が、仏教の考え方ときわめて親近しているからです。
 仏典にも「過去と未来と現在とは、三つに区別されるけれども、一念の心中の理でありゆえに無分別である」として、時間を分割してとらえることを厳しく戒めています。そして「過去の因を知ろうと欲するならば、その現在の果を見なさい。未来の果を知ろうと欲するならば、その現在の因を見なさい」として、現在の、生きられている時間の一瞬一瞬に、スポットが当てられているのです。まさにベルジャーエフの言う「未来も過去も一となる永遠の現在」と、強く響き合っているところです。
 したがって、仏教で説く「久遠即末法」という法理も、過去から現在へと直線的に流れくる時間的な長遠をさすのではなく、「過去・現在・未来が無分別の一念」、ベルジャーエフ流に言えば、「永遠の現在」と表現される、永遠の生命観の異名なのです。そこに「諸経の王」と称される法華経に説かれた、生命哲理の極説が尽くされているのです。
 ゆえに、仏典には「久遠」というのは、時間的な起点ではなく、「はたらかさず、つくろわず、もとのまま」すなわち、一切の作為が加えられていない生命の究極の真理と説かれており、仏教における「時間観」の精髄が、直線的で無機的な「死せる時間」ではなく、より深い生命の内奥に脈動する「生きた時間」にあることを物語っています。
8  民衆主体の時代変革への条件
 池田 仏教における歴史意識は、そうした「時間観」のうえに構成されています。普通、歴史意識というと、キリスト教的伝統に特有のもののようにいわれています。しかし、神の再臨を軸とするキリスト教的終末観とは、結構けっこう(組み立て)を異にするとはいえ、仏教にも、歴史意識と呼ばれるものは、明確に存在します。
 たとえば、釈尊滅後の千年間を「正法」、次の千年間を「像法」、それ以後を「末法」とする時代区分がそれです。そして、「正法」から「像法」「末法」へと、ってくるにつれ、時代は濁悪化して、釈尊の教えの効力も薄れ、それぞれの時代に即応した仏教のあり方がなければならない、とされているのです。そこから、末法思想を背景にした危機意識をバネにして、新たな時代の展望を切り拓く歴史意識、歴史への遠近感覚というものが形成されてきます。
 重要なことは、大きく転変しゆく時代の節目節目への対応の仕方が、いかにも仏教らしく、じつに柔軟かつ細心を極めているということです。抽象的な理論の枠組みで、現実を一方的に裁断していくのではなく、それぞれの時代状況やそれに即応して広まるべき法、民衆のニーズがどこにあるか等、ゲーテの言う「その国民の本質から、その国民自身の共通の要求から生じてきたもの」(前掲『ゲーテとの対話』)への見極めが、慎重のうえにも慎重になされなければならないとされているのです。
 ゴルバチョフ 池田さん、友人であるあなたから、仏法の時間の観念について話をうかがい、たいへん大きな関心をいだきました。とくに、法をはじめ、なんらかの理念を広めようとするものは、″時代の声″に敏感に耳をかたむけ、その時代の人々の「意識」に、鋭敏に反応していかなければならない、という考え方に心から共感をおぼえます。
 池田 ご理解、感謝いたします。一例をあげれば、仏がこの世に出現し、法を説く場合には、「時応機法」という四つの条件が満たされなければならないとされています。
 「時」とは時代状況であり、「応」とは化導する仏の振る舞いですが、敷衍して言えば、リーダーのあり方ともいえます。「機」とは民衆の心根であリニーズ、「法」とは、説かれるべき法体、敷衍すれば、思想であり指導理念となります。
 少なくとも、この四条件が満たされていなければ、民衆が主体となった時代変革は、スムーズに成就しない、と説かれているのです。私は、ゲーテが「そこには神がいないからだ」と比喩的に述べるとき、そうした諸条件のなんらかが欠落している状態をさしているのではないか、と思えてなりません。
 ゴルバチョフ 一般的に考えても、隣人を助け、彼らの魂の救済を願う者は、あなたのおっしゃるように「心して柔軟かつ細心を極めていく」べきでしょう。
 私がこのように思うのは、ペレストロイカの経験と失敗に照らしてのことです。ペレストロイカを行ったさい、その主要な問題において、私たちは正しかったのですが、残念ながら現実的な対応という次元では、多くの試行錯誤がありました。
 一般大衆は、激しい変化についていく用意ができていませんでした。そして、慣れ親しんだ価値観と、偶像から離れる用意もできていなかったのです。
 私にはそれがわかっていました。だからこそ私は、その点を考慮して行動したつもりです。ときにそれがかんばしい成果を生まなくても。しかし、致命的だったのは、自分の理解した真実のすべてを一時に言ってしまおう、理解させようという知識層の性急さでした。そのような彼らの意図は、無数の一般庶民の期待から大きく外れてしまったといわざるをえません。
 一方、私には、行動が緩慢で、決断力のない弱い政治家という「永遠のレッテル」が張られてしまいました。このような不見識がいかなる結果を招いたかは、あらためて述べるまでもありません。
 池田 いかなる正義も、また道理も、狂える社会では、正当に評価されないばかりか、逆に集中攻撃さえ浴びかねない。私も、その人間社会の方程式を、自身も体験し、よく知っているつもりです。しかし、長い歴史から見れば、絶対に真実は隠せない。正義は必ずや証明されていくと確信しています。

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