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日蓮大聖人・池田大作

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「内なる革命」による人間主義  

「二十世紀の精神の教訓」ミハイル・S・ゴルバチョフ(池田大作全集第105巻)

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2  己の胸中の制覇が問題解決の根本
 池田 この点、仏教でも、あらゆる悪の根源はみずからの心の「無明」にあり、これを乗り越えること、言い換えれば「無明」を「明」に転ずることが、人生の一切の問題を解決するための根本であると説きます。
 東洋の諺に「山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し」とあるように、己に勝ち、己の胸中を制覇することは、たしかに至難の業ですが、民族問題であれ何であれ、そこをさけて通っては、事態の抜本的な解決はありえない。当然、日本とロシアでは状況が違いますが、こうした課題について、あなたのご意見をお聞かせください。
 ゴルバチョフ そうですね。ロシアの観念論哲学者、たとえばベルジャーエフなどは、ロシアに存在する悪は、すべてがマルクス主義と唯物論、社会体制の優位性、過度な分配重視からきていると考えていました。それゆえに、物質から精神への回帰を呼びかけ、各人の精神生活を「人間がもつ唯一の想像の力」として育んでいくことを訴えていったわけです。
 もし仮に、精神・モラルの優位性が認められないならば、そして絶対的な良心の法則や道徳規範が疑間視されるとすれば、世界は本当に崩壊してしまうでしょう。
 ここで最大の率直さをもって認めなければならないことがあります。
 すべての悪は、唯物論・マルクス主義にある、と考えていたロシアの偉大な思想家たちの予測は的中しなかった、ということです。
 彼らが夢見ていたことはたしかに起こりました。民族の知的、精神的、宗教的発達を阻んでいたすべての足枷が取り除かれました。ピョートル・ストルーヴェなども考えていたように、ロシアの人々は、「階級的・国際主義的社会主義」や、「政治・社会の体制崇拝」から解放され、「道標派」たちが、民衆の精神と生活に破壊的影響をおよぼすと見なしていたすべてのものから解き放たれました。
 一九一七年から七十年余りの間、「反啓蒙主義」だ、「反動主義」だとされてきた思想が、幾歳月を経て初めて、文化・思想言語として堂々と認められるようになりました。そこには内面性の優位と人間の精神的成長、そして革命的過激主義批判を標榜する「道標派」も含まれます。
 しかし、マルクス=レーニン思想を乗り越えた結果、はたして人々は、より開明的になり、自国の運命やロシアの行く末をより深く考えるようになったでしょうか? ストルーヴェが夢見たように、ロシアの威厳と過去を尊ぶ人が増えたでしょうか?
 池田 重要な問題です。そこがポイントです。
 ゴルバチョフ われわれの悲劇は、ソ連、つまりソビエト・ロシアの崩壊、統一国家内の関係の地すべり的な崩壊、経済・文化そして人間的つながりの崩壊が、一九九一年八月の反マルクス、反共革命の結果起こった、ということです。
 ロシア史において、共産主義を打ち負かした勝利のこのときほど、民族的ニヒリズムが色濃く支配していたことはありませんでした。
 このときに、またも「革命によるじめつけの思想」「革命的ショックの焼き直し」が出てきたのです。
 池田 なるほど。おっしゃることは、私なりによく理解できます。
 帰するところは、私たちが、この対談の当初から論究しつづけている大テーマであり、おそらく、後世に語り残すべき「二十世紀の精神の教訓」の中でも最大のものであろう「急進主義」と「漸進主義」というテーマヘと、向かっていくのではないでしょうか。
 二十世紀末に生きる私たちは、フランス革命からロシア革命へといたる近代革命の系譜の破綻を目の当たりにしているだけに、この系譜に疑問を投げつづけてきた、いわゆる″保守主義者″――ゲーテやエドマンド・バーク、アレクシス・トクヴィル、先に論じたガブリエル・マルセルなども、当然その一人です――の考え方を、虚心に再評価すべき段階にきていると思います。
 彼らは、それぞれに、特色ある個性的な芸術や思想を残していますが、「急進主義」か「漸進主義」かの二者択一を迫られれば、例外なく「漸進主義」を採ったことは間違いありません。
3  人間の良識と常識を重んじて
 池田 かつて私は、ハーバード大学で行った第一回目の講演(一九九一年九月)で、トクヴィルの『アメリカの民主政治』について論じました。ここでは、ゲーテがエッカーマンに語っている印象深い一文を引用してみたいと思います。
 「本物の自由主義者は(中略)自分の使いこなせる手段によって、いつもできる範囲で、良いことを実行しようとするものだ。しかし、必要悪を、力ずくですぐに根絶しようとはしない。彼は、賢明な進歩を通じて、少しずつ社会の欠陥を取り除こうとする暴力的な方法によって、同時に同量の良いことを駄目にするようなことはしない。彼は、このつねに不完全な世界においては、時と状況に恵まれて、より良いものを獲得できるまで、ある程度の善で満足するのだよ」(『ゲーテとの対話』山下肇訳、岩波文庫)
 言わんとするところは、私たちの日常生活を振り返ってみれば、深く納得できる、いわば健全なる常識です。
 ゲーテの言う「思慮ある前進」とは、「漸進主義」の異名といってよく、してみれば、「漸進主義」とは、人間の良識や常識を、最も重んじた生き方といえるでしょう。
 近代革命というものが、その良識や常識を無視とまではいかないまでも、小バカにするところから出発したとするならば、それを支えてきた進歩信仰、理論信仰とも合わせ、重大な反省と検討を迫られることは間違いありません。
 ゴルバチョフ わかります。正直なところ、人間はいまだにどうやって精神性を高めていけばよいのか、どのようにすれば人間的に成長できるのかがわからないでいるのです。
 自分の祖国、国家というものに対する責任感、国民に対する自身の責任の自覚をどうやって高めていけるのか、わからないでいるのです。なぜロシア人は、ドイツ人が国を統合しているときに、みずからすすんで国をばらばらにしたのでしょうか?
 宗教では、この問題をごく簡単に解いています。罪人と退転者は地獄に落ちると脅かしています。ただ、究極のものへ自分を近づけようとして、心の命ずるままに神を求め、自分の内に神を感じ、やみがたい良心の内なる声を聞こうという人は、少数派ではないでしょうか。そういう人は、輝く精神をもっているものです。そういう人は、神とは、宗教とは何かを知らずとも、自分の良心の声を聞くことでしよう。
 このような観点からソビエト史を振り返ってみてください。国家をあげての強制的な無神論は、『旧約・新約聖書』を発禁本にしてしまいました。神を信仰すると宣言した人は、事実上、大学の入学資格や出世の可能性を失い、社会の脱落者になっていきました。
4  ロシア人を貫く「全人性」と「無窮性」
 池田 そうした不幸な歴史について、私もよく知っているつもりです。教条的な無神論もそうですが、教条的・権威的な宗教というものも、「百害あって一利なし」です。
 ゴルバチョフ わが国では幾世代もの人々が、キリスト教の基本的な真理も、ムハンマド(マホメット)の教えもまったく知らずに生まれ、死んでいきました。しかし、無宗教の人、強情な無神論者のなかにさえ、決して人を裏切らず、他人に同苦し、虐げられた人々、侮辱された人々に手を差しのべる誠実な人が大勢いました。無神論的なソビエト映画にも、とくにフルシチョフの雪解け以降の数十年間に、見事な光彩を放つ精神性豊かな作品がありました。
 私は、回想録の中で、これまでの人生で出会った多くの「良心の人々」について書きました。党の規律に縛られた同じ状況下で、党籍剥奪や出世コースからの転落という恐怖にさらされながらも、友人を裏切ることなく、落ちこばれた人を救うなど、尊敬すべき振る舞いをする人もいれば、他人を密告したり、踏みつけにして権カヘ近づいていく卑劣漢もいました。これをどう説明すればよいのでしょう? 西側では、多くの人がいたずらにソビエト史を皮肉な目で見ています。しかし私は、人間の心の謎に迫り、善と悪の教訓を得るという意味では、繁栄と成功の先進国の歴史より、むしろ興味深いのではないかと思います。
 池田 私が使っては少し語弊があるかもしれませんが、「興味深い」とはたしかにそのとおりですね。
 以前から不思議に感じていたのですが、ソビエト史を生きぬいた人を見ると、一切の規範にとらわれない「無窮性」としか言いようのない大きさ、深さを感じるのです。
 有名な映画監督タルコフスキーの作品には、汲めども尽きぬ無窮の哲学性があり、ミカエル・ブルガーコフやザミャーチンら異端文学者の作品には、無窮の悲劇性があります。身近でいえば、私の友人であるナターリア・サーツ女史には、限りなきあたたかさを感じます。そして、あなたには無窮の明るさが……。
 この「無窮性」という言葉は、どこか深い次元で、ロシアの精神史を骨太につらぬいている「全人性」という言葉と響きあっていると思います。圧政下にあって、どんな歪んだ形ではあっても、否、歪んだ形であればあるほど先鋭的に「全人性」を映し出しているとはいえないでしょうか。そして、あなたが以前あげておられた、ドストエフスキーの「プーシキン記念祭での講演」などは、さしずめプーシキンに託して語られた、そうした「全人性」の最も美しい芸術的造形ではないでしょうか。
 私は、ゴーリキーの『どん底』の登場人物サーチンの″人間賛歌″を思い起こします。
 「人間――これこそ真実だ! 人間たあ、いったいなんだ? おめえでも、おれでも、やつらでもねえ……それとは違う! それあ、おまえも、おれも、やつらも、爺さんも、ナポレオンも、マホメットも……みんないっしょにしたものだ! わかったか? こいつあ、とてつもなく大きなもんだ! ここにゃ、すべての始まりと終わりがあるんだ……。
 すべてが人間のなかにあり、すべてが人間のためにあるんだ! あるものは人間だけで、あとはみんな、人間の腕と頭のつかいどころだ!
 にん・げん! こいつあ、すばらしい! 堂々たる……響きがするじゃねえか!」(野崎韶訳、『ゴーリキー集』44所収、筑摩書房)と。
 無学な一庶民の日から語られる、世界の文学のなかでも屈指の″人間賛歌″です。私は、モスクフ大学での第一回の講演「東西文化交流の新しい道」(一九七五年五月)で、この一節に言及しましたが、それというのもこのセリフこそ、ロシア精神史における「全人性」の最も端的な表白ではなかったか、と考えたからです。そして、こうした大らかな″人間賛歌″こそ、なべて現代文明が見失ってしまったすべての故郷ではないでしょうか。
5  「信教の自由」こそ民主主義の土台を築く
 池田 今から、七、八年前、一冊の本が、アメリカの読書界を席捲しました。アラン・ブルーム著『アメリカン・マインドの終焉』がそれで、現代アメリカ文明がおちいっている袋小路を、豊富な学識をもってえぐり出したものです。その中で、著者は現代のアメリカの大学がかかえている悩みを、新入生の独白という形で、吐露させています。
 「僕は、全体としての人間だ。僕が全体として自己形成するのを助け、僕のほんとうの潜在能力を発揮させてほしい」(菅野盾樹訳、みすず書房)と。
 繁栄と成功の象徴ともいえるアメリカ文明が、どのような状況下におかれているかを赤裸々に示していると思います。″勝者″といわれるアメリカでも、突出しているのは経済的な富であって、その内面世界には、荒涼たる心象風景が露呈しているようです。たしかに、あなたがいろいろなところでおっしゃっているように、冷戦には、″勝者″も″敗者″もなく、双方が″敗者″ではないでしょうか。
 そうした観点に立つとき、ソビエト史の苦渋にみちた数十年は、今後、人類の歩みに、大きな示唆と教訓をはらんでいることはたしかです。
 ゴルバチョフ 私は、宗教など必要ではない、無神論はロシアに恩恵を与えた、などと言いたいのではありません。そんなつもりは毛頭ありません。
 ソビエト国家は人間から、聖書やコーラン、モーゼの五書を奪い、共産主義はなによりも精神的・文化的に人々を去勢してしまいました。
 そうであったがゆえに、私たちはペレストロイカの第一歩として、まず宗教書の発禁を解いたのです。「信教の自由」こそ、民主主義の土台を築くものであり、進歩が生んだ偉大な成果だということを知っていたのです。
 池田 後世にとどめるべき重要な証言です。
 ゴルバチョフ また、この「二十世紀の精神の教訓」をめぐる対談で、私が取り上げたいのは次の問題なのです。
 それは、良心と自己抑制の薫育・啓発をうながすメカニズムについてです。
 この点において、二十一世紀を目前に迎えているわれわれ現代人は、過去の世代より決して聡明でもなければ、経験豊かでもない、とあえて私は言いたいのです。
 池田 賛成です。そうでなければ、これほど科学や知識が発達しながら、二十世紀が、史上空前の人間による人間の殺数が行われた世紀になるはずがありません。
 ゴルバチョフ 学生時代、人文系の基礎知識を学んでいたころ、生活環境が個人の人生観の形成や精神面に与える影響について、興味をいだいたことがありました。
 同じ家庭に育ち、同じ経済状態で、同じ教育を受けながら、なぜ時としてまったく異なる精神面、道徳観をもつ子どもが育つのだろうか? 善に傾倒するか、悪に傾倒するかは神から与えられた性質であり、生まれつきなのだろうか? そうでないとすれば、道徳や精神性を育てるカギはどこにあるのか?
 世界的規模の共産主義的実験のおかげで、幾多の人々の犠牲と耐えがたい苦痛を経て、私たちは多くの幻想と決別することができました。
 科学的真理や知識を絶対視したとしても、さまざまな法則のゲームに興じたとしても、それ自体は、精神的・道徳的に中立であることは、ソ連時代の経験から知っています。無学であればあるほど、悪や残酷さが身につきやすいとはいうものの、いくら知識が豊富でも、それは心の悟りにはつながりません。
6  近代革命の悪魔性えぐる『悪霊』
 ゴルバチョフ 人間の心を破壊し、神への希求を阻止しようとする無神論が非道徳的であり、非人間的であることは、今では私たちにもわかります。神からの解放を宣言した無神論は、つまるところ、良心からの解放を宣言したことになり、神がいない以上、何をやってもよいのだということになります。
 唯物論と唯心論の論争上、決定的といえるこの点において、ドストエフスキーは正しかったのです。
 彼の作品『悪霊』は、たんなる警告でもなければ悲劇の予言でもなく、神の放棄、道徳の放棄から生ずる悪を解剖した教科書です。
 「あの連中は自然や人間社会を、神が創ったものとも、またその現実の姿ともちがったもののように想像しているんだよ」(小沼文彦訳、『ドストエフスキー全集』8所収、筑摩書房)
 ドストエフスキーはこのように書いています。無制限の自由、つまり、神と道徳からの自由は、必然的に「無制限の専制」に行き着く。『悪霊』に出てくるシガリョフが語ったこの真理は、二十世紀において一度ならず証明されています。
 池田 『悪霊』という小説は、じつに黙示録的な文学ですね。近代革命というものの帯びている悪魔的性格を、これほど深く、鋭くえぐり出した作品はないと思います。
 ゴルバチョフ 社会問題の「根本的解決」を図るドストエフスキーの処方箋を使ったのは、ロシアのボルシェビキだけではありません。「二つの不平等層」に分かれる人間分類論があったのを覚えておられるでしょうか。
 「十分の一の人間だけが個人の自由と、残りの十分の九に対する無限の権利を享有する。そして残りの十分の九は個人としての人格を失って、動物の群れのようなものになって、限界のない服従の生活をつづけているうちに何代かの再生を繰り返して、ついに原始時代そのままの罪を知らない境地に到着すべきである」(同前)
 ドイツのファシズムは、まさにこの教えに従ったといえます。今日のロシア人にとっては、外面に対する内面の優位を明かす真理だけでは不十分です。
 われわれロシア人は、絶対的自由、つまり良心からの自由は地獄に通ずるというドストエフスキーの予言を、なにゆえ、心に留めることなくきてしまったのか、ということを考えなければなりません。
 池田 なるほど。総裁のお考えはわかります。ご指摘のとおり、それは貴国のみではなく、現代の一凶ともいうべき課題でしょう。
 ゴルバチョフ 十九世紀初頭にあってすでに、ロシアのそれなりの思想家は皆、俗流唯物論、社会主義のもたらす恐ろしい結末を知っていたのでしょうか?
 さらに、ロシアが唯物的不自由の地獄、無神論の地獄をさけて通ることはできず、その悪夢を経験することによって、人類がやってはならないことは何かを教えるよう決められているのだ、ということを知っていたのでしょうか?
 「そのロシアにこそ連中はいま望みをかけているんじゃないか」とはドストエフスキーの言葉です。
 『悪霊』の主人公たちは語っています。「わがうるわしの祖国に、この偉大な課題の実現に最も適した国として、神秘なindex((指、ラテン語)が向けられている」(同前)と。
 問題は、俗流の唯物論や無神論、無道徳主義に対して最も強い抵抗力をもつはずのロシアが、なぜ、唯物論による地獄の災厄をさけることができなかったのか? それは貧しさ、生活の不如意、憂愁と八方ふさがりの状態からくるものなのでしょうか? しかし、そうであるならば、「外」の問題の解決なくして、つまり、物質的安定、豊かさを獲得しないかぎり、われわれはこの悪循環から抜け出ることができないのでしょうか?
 池田 痛烈なアイロニー(皮肉)ですね。「恒産なければ恒心なし」とは、東洋の言葉にある一つの道理ですが、チュッチェフが「ロシアは普通の物差しでは測れない。ロシアは信ずる以外にない」と言っているように、私は、ロシアほど、こうした″常識″からかけ離れた国はないと思います。そうでなくして、「約束の地」をめざしてのあの壮大なメシア的実験のために、あのような苦痛に満ちた境遇を甘受できるはずはありません。
 その点はともかく、「抽象化の精神」を指弾しつづけ、戦争や殺戮を引き起こさざるをえない近代革命に強い疑問を投げかけたマルセルは、同じ著書の中で、『悪霊』を読み返すことを、しきりに強調しています。
7  黙示録的文学が訴えかける人間の危機
 池田 また、私が、対談集を編んだ一人に、フランスのアンドレ・マルロー氏がいます。周知のように、彼は、ド・ゴール将軍の側近として、身に影の添うように活躍しつづけましたが、かのカルチエ・ラタンの学生紛争――世界中の学生紛争のきっかけになった、いわゆるフランスの五月革命のさいの一つのエピソードを、ド・ゴールに語っています。
 「ナンテール(=学生運動勃発の地)の女子学生は『あなたが自分は何を欲しているかを知った時には、あなたはすでにブルジョワ化しているのだ』と言いましたが、その女子学生などはたしかに最もいい例です。『悪霊』の人物などは、彼女のように語ったことでしょう」(『倒された樫の木』新庄嘉章訳、新潮社)
 建設への展望などまるでなく、ひたすら破壊のパツション(情熱)のみに身を委ねることを良しとするニヒリスティックで寒々とした心象風景を、ガリョフやピョートル、スタブローギンなど、『悪霊』をめぐる群像に擬しているわけです。
 前章で確認したように、ドストエフスキーにとって、社会主義の問題は、何にもまして無神論の問題でした。宗教は、人間にとって最も本然的な事柄であるがゆえに、彼の社会主義(革命)への洞察は、比類なき深さに達しており、まさに予言者的な風格さえ帯びていました。おそらく、「神の死」を宣言したニーチェをもってしても、その深さにはおよばないと思います。
 『悪霊』が世に出て以来、優に一世紀以上が経過していますが、その予言的性格は、歳月の経過とともに、いやまして際立ってきているように思えてなりません。この黙示録的文学は、静かにそして不気味に、私たちに訴えかけているようです。
 ――現代は、政治や経済、あるいは文化の危機を超えて、人間そのものの危機なのだ。人間にとって宗教をもつこと、あるいは宗教を失うことが、その存在そのものの根底を揺るがす大事にほかならないのだ、と。
 ゴルバチョフ そうですね。私は、ドストエフスキーの時代は、もうほとんど十九世紀も終わりに近づき、革命社会主義が勢力を増しつつあったときであり、かなりのことがすでに明らかになっていたので、とくに驚くにはあたらないと思います。では、ピョートル・チャダーエフの予言はどう説明すればいいのでしょう? 彼はまだプーシキンの時代であった、一八三〇年代初めに次のように書いています。「そもそもわれわれは、遠い未来世代のために、何か重要な教訓をもたらすために生きてきたし、今も生きつづけているのだ」
 私たちは革命的過激主義や革命的性急さ、さまざまなメシアニズム的執着を捨てるだけでは不十分です。わかりやすい、皆が歩めるような精神性獲得の道を見いださなければなりません。
8  新しい精神性の芽生え
 ゴルバチョフ 繰り返しになりますが、われわれが二十世紀史上、最も困難で劇的な教訓を得たということ、そして、無神論・無道徳主義・全人類的価値を否定する階級思想が間違っていることを理解するだけでは、今日のロシア人には不十分なのです。
 しかし、どうすれば自由が絶対的自由にならず、道徳・良心から遊離しないようにできるのでしょうか? 自由が放縦におちいらないよう、今われわれが目にしている、たがのはずれた犯罪に行き着かないようにするには、どうすればよいのでしょうか?
 この疑問に対する解答を、私たちはいまだに見いだせないでいます。ロシアでこれほど政治的自由が与えられたときはかつてありませんでした。ペレストロイカは人々を検閲から解放し、発言や信条を追及される恐怖から解放しました。集会、言論、結社の自由が与えられました。
 これはロシアの人々が幾世紀も夢見てきたことです。そしてこの奇跡が現実に起こったのです。紆余曲折はあるにせよ、ロシアが人権と個人の自由に関して、古い意味でも新しい意味でも、文字どおり大躍進したことは、だれも否定できないでしょう。
 池田 そのとおりです。その歴史的意義は、多くの人々が認めるところです。
 ゴルバチョフ しかし、はたして人々は、「言論の自由」や内的成長に向かう「思考の自由」をはじめとする政治的自由を十分に活用しているでしょうか? 自由の進歩は、モラルの向上をうながしたでしょうか? わが国の人々は、ペレストロイカ以前よりも誠実になった(いや、なりつつある)のでしょうか?
 私と私の同志が最も驚き、予想外であったのは、明らかに政治的自由が高まったにもかかわらず、少なくとも今のところ、ロシアにおける目立った道徳性の向上にはつながっていないことです。まだ見えないが、なんとかそれが出てきてほしい。しかし、見えてきません。
 池田 国民を思う真摯な心に打たれます。たしかにこの点は、ペレストロイカを進めたあなた方にとって、最大の関心事であったわけですから。
 ゴルバチョフ ええ。もちろん、一部の国民に見られる道徳的・精神的堕落の兆候とともに、開明の兆候も現れてはいます。今ロシアでは、革命前まで顕著だったかつての宗教性・精神性の昂揚が起こりつつあります。何かが目覚め、蘇ろうとしているのです。恐怖や二重性にしばられたような顔は見あたりません。
 しかしながらここ数年間、私たちは、民衆の攻撃的な側面が爆発した場面も目撃しています。国をあげての無神論を放棄し、たとえばロシア正教会の財産を返還し、侵害されてきた権利を復活させても、ロシアの精神状態はそれほど良くはなっていません。
 池田 なるほど。では総裁は、新しい精神性はどのようにして芽生えていくと考えていますか。
 ゴルバチョフ そうですね。外見上は、ロシアはたしかに変わりました。廃墟と化していた何百、何千もの正教寺院、修道院が復興しました。今ではほとんどのスラブ系住民が教会で結婚式をあげ、子どもに洗礼を受けさせ、復活祭やクリスマスを祝っています。
 しかし、心の転機とまではなかなかいかないようです。では、何が欠けているのでしょうか?
 かつて、宗教思想家、セルゲイ・ブルガーコフは、われわれロシア人は、もし罪を悔い改めるならば浄化されるだろう、と書いています。
 ブルガーコフは、浄化の奇跡は真理に対する驚嘆によって可能となると考え、「悔い改めることが肝要」と言っています。
 つまり、新しい人生へ向けて蘇生するために、これまでの自分の精神生活をあらゆる角度から見直し、批判しなければならない、ということです。
 池田 なるほど。宗教性、精神性の土壌の違いはありますが、理解できます。
9  「八月クーデター」後に起きたもの
 ゴルバチョフ 正直に申し上げなければなりませんが、この十年間、私たちはそうした道を歩んできたはずです。真実が与える教訓を学び、スターリン主義や赤軍・白軍(自衛軍)のテロの恐ろしさを語りながら、この道を終始一貫して歩んできました。ロシアの人々が、共産主義的実験のために払った恐るべき代償について、みずから率先して語りました。
 ソルジェニーツィンの『収容所群島』『赤い車輪』も出版されました。国民にとって共通の悲劇を分かち合っているという意識が人々を近づけ、国内の和解を助けることを期待しつつ、心の浄化のために行ったことです。
 というのも、冷静に見てみると、ロシアは一九〇五年の第一次革命からこのかた、ずっと国内戦争のような状態がつづいています。だからこそ、赤軍・白軍の恐るべきテロや、スターリンの粛清の真相は、ロシアの人々を結びつけ、多民族国家である祖国の運命に対する責任感を呼び覚ましてくれるだろうと思っていたのです。
 池田 よくわかります。最高責任者としての心中の苦悩と願いが伝わってきます。
 ゴルバチョフ ともかくも、グラスノスチ政策によって心の浄化、開明のプロセスが始まり、進展していきました。しかし、一九九一年八月の事件以来、説明しがたい急激な変化が起こっていったのです。人々はこぞって歴史の真実に背を向けるようになりました。自分たちの歴史に興味を示さなくなっていきました。歴史との不可解な隔絶が始まり、歴史の記憶は失われてしまったかのようです。
 ソルジェニーツィンを取り巻く今の劇的な状況も理解できます。彼がロシアに帰ってきたときには、ロシア人は、もう自分の過去に対する興味を失っていたのです。十年前のことさえ忘れてしまっています。
 池田 たしかに大きく変わったことはわかります。
 ゴルバチョフ これをどう説明すればよいのでしょう? セルゲイ・ブルガーコフの言う、キリスト教が探り当てた、懺悔を経て開明にいたるという伝統的なメカニズムが、なぜ、わが国では機能しないのでしょうか。ひょっとして、ベロベシュの悲劇とそれにつづく動乱の時代が、人々のこれまでの精神生活をまったく変えてしまったのでしょうか?
 一つだけ明らかなことがあります。歴史やキリス卜教、昔の大思想家、人間主義者から得た最高の英知の遺訓は、それだけでは、「二十一世紀の精神」の建設には不十分なのです。さらに言うならば、人間の存在にかかわる問題すべてに対する解答をもっているような宗教、いちばん賢くて、いちばん良いというような普遍的宗教があるとは、私は思いません。
 今、この十年間で発見された新しい真理の意味を考え、その真理の一片、一片を拾い集めていくときがきています。
 池田 日本人には日本人の、ロシア人にはロシア人の特徴があり、それぞれ一長一短を有しています。それゆえ、互いの立場や個性を尊重し合いこそすれ、互いの主張を押しつけ合って摩擦を生じさせるようなことは、厳に慎むべきだと、私は思っています。
 日本などにしても、現在は、一応の繁栄を謳歌していますが、そのようなものは″うたかた″に等しく、決していい気になってはならないということは、常日ごろから思いもし、訴えているところです。
 そのうえで、日本やロシアを問わず、二十一世紀へ向けて大切と思われる点を一つだけ申し上げれば、それは「他者性の尊重」、あるいは「他者性の習慣化」ということではないでしょうか。すなわち、他者の存在に対して謙虚であろうとすること、そして、絶えざる努力によるその習慣化です。
 あなたは、「人間は何かに支えられて生きるものだ、とロシアでは言われている」とおっしゃいましたね。そうしたよき伝統を風化させず、身近なところから掘り起こし、習慣化していくところにこそ、世直しの王道があるのではないでしょうか。
 ゲーテは「相手側に立ってみれば、その人に対する日ごろの嫉妬や憎悪は、きれいに拭いとられてしまう。相手と自分を入れかえてみれば、うぬばれや誇りも消え失せてしまう」(『ゲーテ格言集』大山定一訳、『ゲーテ全集』11所収、人文書院)と述べています。平易な語り口のなかにも、なるほど、ゲーテらしい、懐の深さをのぞかせています。
 これは、些細なことのようですが、こうした意志的にして意識的な努力が、日常的になされ習慣化されていくならば、私たちは、ずいぶんと大きな自分になり、豊かな人生を生きることができると考えます。
10  ゴルバチョフ なるほど。で、その問題はしばらくおき、もう少し来し方を振り返ってみたいと思います。私がこの「二十世紀の精神」という問題と取り組むとき、マルクス=レーニン主義教育とともに、わが国の歴史が重くのしかかってきます。人間は、自分の動機が、「内」から「外」へと向かって初めて人間たりえるのだ、ということはわかります。しかし、ロシア農民の貧しさを代表する一人である私としては、忘れられない事実があります。
 つまり、飢えで死のうとしている人間が、「良心」や「善の声」に耳をかたむけるのは、きわめてむずかしいということを、私はよく知っているのです。
 池田 もちろんそれは理解できます。
 ゴルバチョフ 革命以前、毎年のように不作がつづくなか、また飢餓の年になるのではないかと収穫の時期が近づくのを、怯えながら待っていた数百万のロシアの農民がただひたすら考えていたことは、日常生活の切実な事柄だけでした。どうやって食いつないでいけるか、ひと切れのパンを手に入れられるか、ということで頭がいっぱいだったのです。
 私がこのようにわざと誇張した言い方をするのも、ひとえに、勤労者、搾取される者にとって、「外的なもの(物質的なもの)」をあきらめるということは、非常に困難なのだということを示したいからです。
 幸運な、富める人々にとっての「外なるもの」の価値と、赤貧の、人生に打ちのめされた人々にとっての「外なるもの」がもつ意味・価値とは、おのずから違っています。むろん、一人一人の人間の内面に善を見いだし、「内」から「外」への方向性を支え伸ばしていくことに、課題がおかれていることは十分理解したうえで、あえて申し上げているのです。
 池田 よくわかります。現実と向き合うことをさけ、たんに理想のみを追い求める生き方は、私どもの最も忌むところです。
 釈尊の「一切衆生病むがゆえに、われ病む」との言葉に象徴されるように、私どもの宗教の発心・弘教の動機となったのも、苦悩にあえぐ民衆へのあふれんばかりの「同苦」以外のなにものでもありませんでした。日蓮大聖人は、その最も重書とされる『立正安国論』の冒頭を、次のように始めています。
 「旅客が来て嘆いていうには、近年から近日にいたるまで、天変、地夭、飢饉や疫病があまねく天下に満ち、広く地上にはびこっている。牛馬はいたるところに死んでおり、その死骸や骸骨が道路いっぱいに満ちている。すでに大半の者が死に絶え、これを悲しまない者は一人もなく、万人の嘆きは、日に日につのるばかりである」(御書一七ページ。参照)
 大乗仏教の精髄は、こうした現実の苦悩を直視し、原因を究明し、それをどう解決していくかという課題のうえに成り立っているのであり、決してこの世の悪や矛盾から目をそらそうとするのではありません。
 宗祖は、この書の中でさらに、「あなたは、すべからく、わが身の幸福を願うならば、まず一国、世界の平和を祈るべきである」(御書三一ページ。参昭)と、その幸福観を述べています。
 もし、宗教が悪や矛盾の隠れ蓑になってしまうならば、マルクスやレーニンが、やや極端なかたちで「アヘン」「魔酒」と糾弾したものと選ぶところのない、反社会的、反人間的存在へと堕してしまいます。これは、創価大学でお会いしたさい、私が申し上げたとおりです。
11  ゴルバチョフ ええ、よく覚えています。
 池田 したがって、私の恩師も、そうした仏法者としての使命を、いかにも″庶民派″のリーダーらしく「この社会から、貧乏人と病人をなくしたい」との念願に託して、つねづね語っていました。
 ここで一部、確認しておきたいのは、宗教が救済を志向するにあたって、宗教的価値と世俗的価値との関係のあり方、両者のどちらにウエイトをおくかという、人類の宗教史を深くつらぬいているテーマです。
 とくに、昨今の世紀末的な状況のなか、世俗的価値にまったく背を向けるようなさまざまなカルト的宗教が横行しているのを目にするとき、このテーマは、格別に重みを増してきています。のみならず、それは、あなたが創価大学でおっしゃった、二十一世紀を拓くための「世界宗教」のあり方を考えるうえで、不可欠のポイントとなってくるでしょう。
 ゴルバチョフ おそらく私の問題意識も同じ点にあると思います。
 池田 民衆の救済を志向するという目的は同じでも、キリスト教的伝統と仏教的伝統とでは、宗教的価値と世俗的価値に対するとらえ方が、かなリニュアンスを異にしているように思われます。
 周知のように、キリスト教的伝統にあっては、イエスの「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」との有名な言葉に象徴されるように、両者を二者択一的にとらえる傾向が強いといえましょう。それに対し、仏教とくに大乗仏教的伝統の基調は、あくまでも両者を相即不離の関係であるとしています。
 ことわっておきますが、私はここで、仏教が優れていてキリスト教が劣っているという、いわゆる″宗論″的な意味で申し上げているのではありません。宗教的価値と世俗的価値という、人間の尊厳にとってともに欠かすことのできない要因を、どのように位置づけるかという人類史的課題を提起しているのです。
12  「内なる革命」に発する未踏の道への挑戦
 池田 その前提で申し上げると、先にあげておいた「立正安国」という言葉は、その関係性をまことに簡潔に示しています。すなわち「立正」という宗教的価値と、「安国」という世俗的価値とは、どちらが欠けても不十分であり、その二つが相まってこそ、「立正安国」という仏法者の使命は達成できるのだ、と位置づけているのです。
 これを、テーゼ(綱領)風にまとめてみるならば、――「立正」なくして「安国」なし。それと同時に「立正」は「安国」の成就をもって完結する――となると思います。
 その点を、よく理解しておられたのが、平和学者のガルトゥング博士でした。博士は、私との対談集(『平和への選択』毎日新聞社)の中で、仏教について、こう言及しています。
 「仏教は、『外面的』なマルクス的意味においてではなく、深い意味での、革命的な宗教です。仏教が強調しているのは『内なる革命』です。しかしその『内なる革命』も、内だけでなく外へ向かっての表現がなされなければなりません。小さな僧伽そうぎゃ(サンガ)に安住し、あるいは個人的な悟りを求め、世間から隠遁して、絶えず黙想にふけって一生を終えるようであっては、よき仏教徒とはいえないでしょう」と。
 私が「内」から「外」へ、と訴えているのも、まさにこの「内なる革命」の「外」へ向けてのやむにやまれぬ発現にほかなりません。
 私ども創価学会インタナショナル(SGI)が、仏法者の社会的使命として、平和・文化・教育の次元で幅広く活動を展開しているのも、そうした世俗的価値の成就なくして、宗教的価値も完結しないことを、深く銘記しているからなのです。
 釈尊やイエスのころからつづいている人類宗教史上のアポリア(難問)を解決し、あなたのおっしゃる「すべてが繰り返しであり、堂々めぐり」の″歴史の愚″を乗り越えるため、そして、本当の意味での「人間主義」や「人間のための宗教」を志向していくため、たとえ未踏の道であっても、果敢に挑戦していく以外にないというのが、私どもの決意であり結論なのです。
 ゴルバチョフ 池田さん、私は政治家なので門外漢ですが、たいへん興味深い問題を取り上げられました。こういった深い宗教的な問題が判断できるような専門的な知識を、私はもち合わせていません。ただ、私の個人的な経験、私の心に刻まれた農民としての体験にもとづいて申し上げたいと思います。
 今も覚えていますが、私の祖母たち、素朴なロシアの農民にとって、価値観は一つしかありませんでした。宗教の戎律と行動規範とは同じものでした。
 神を心から信じているがゆえに、どんな罪も犯さないように努め、周りからよくない評判が立たないように、つねに考えていました。これはどこからきたものなのでしょうか。なによりもそれは、ロシアの心に源を発しているのでしょう。そしておそらく、ロシア正教からきているものなのでしょう。
 同じようなことを、ロシアの文豪プーシキンもタチアーナ・ラリアナ(=『オネ―ギン』のヒロイ)の姿を通して語っています。彼女は、現世的な女性であり、素朴なロシア女性です。しかし、彼女はあらゆる点において純粋であり、調和がとれています。心の清らかさを失っていないのです。
13  ″賢人たちこそ民衆に学ばねばならない″
 池田 なるほど。私が先に申し上げた「他者性の尊重」「他者性の習慣化」に寄せていえば、私は、ロシアの精神史には、このテーマを実りあらしむるための豊かな水脈が流れているように思えてなりません。それは、私が接してきた多くのロシアの友人からも感じとれます。ドストエフスキーの獄中記『死の家の記録』の描写などは、その精神の水脈を、鮮やかに垣間見せています。
 獄中の祭りで芝居が演じられたとき、囚人たちが、″芝居通″と目されているゴリャンチコフ(=ドストエフスキー)を、たいへんな混雑のなか、こころよく前方のよい席へと案内する。自分たちの芝居をほめてもらいたくて――。それを受けて、作家は書きます。
 「彼らの自分(=ドストエフスキー)に対する公正な判断には卑屈さはまったくなく、かえって自分の価値に対する正しい感情があったように思われたのだった。わが国の民衆のもっとも高い、そしてもっとも鮮明な特徴――それは公正の感情とその渇望である。その人間にその価値があろうとなかろうと、どこででも、何が何でも、かきわけてまえへ出ようとする雄鳥おんどりの悪い癖――そういうものは民衆にはない。うわつつらの借物の皮をひんむいて、ほんとうの中身をもうすこし注意して、もうすこし近づいて、いっさいの偏見を捨てて観察しさえすれば――見る目のある者は、民衆の中に予想もしなかったようなものを見いだすはずである。わが国の賢人たちが民衆に教えうることは少ない。わたしは確信をもって断言するが――その逆である。賢人たちのほうこそまだまだ民衆に学ばなければならないことが多いのである」(工藤精一郎訳、新潮文庫)
 ゴルバチョフ そうですね。ドストエフスキーが、わが愛するプーシキンについて語った件を、私は何度も読み返しました。それは、「他人のこと」「他人の心」を理解できるというロシア人のもつ特性について、ドストエフスキーが語っている部分です。
 池田 先にも申し上げましたが、私の友人に、先年亡くなったモスクワ児童音楽劇場のナターリア・サーツ女史がいます。
 彼女は自伝『私が見つけた「青い鳥」』の中で、収容所で劇団を組織することが許され、みずから演出したときの喜びを、芸術家らしい生き生きとしたタッチで描き出しています。
 そこに躍動している喜びは、ドストエアスキーが感じとっている民衆の魂の部分と、深い次元で通じ合っていると思います。それは、まさしく「他者性」を育む沃土であるとはいえないでしょうか。
 ゴルバチョフ ドストエフスキーの言葉に、私は付け加えることはなにもありません。彼は言いました。
 「ロシア人の魂、ロシア民衆の天才(=プーシキン)は、おそらくあらゆる国民の中で、全人類的一致団結、同胞愛、健全な物の見方という理念を最も多く内包する能力をもっている。(中略)
 この健全な見方があるゆえに、敵対するものを許し、似ていないものを識別してもそれに寛容な態度をとり、矛盾するものを除き去ることができるのである。その特徴は経済的とかその他もろもろの特徴ではなく、単に精神的特徴なのであって、これがロシア民衆の中にないなどと、否定してみたり異議を唱えたりすることのできる者がいるだろうか? ロシアの民衆は単に、沈滞せる旧態依然たる大衆であって、わが民衆の上にお高く止まっているわが国のヨーロッパ的なインテリゲンツィヤの大成功と発達に、経済的に単に奉仕する運命なのである、なにしろ民衆それ自身は、内に死んだように沈滞を蔵しているだけだから、何も期待すべきではなく、まったく何の希望もよせることはできない――こんなことを誰が言い得るのか? 残念なことだが、こういう断言の仕方をしている人は数多いのである。しかし私はあえて別の言い方をしてみたのである」(『作家の日記』川端香男里訳、『ドストエフスキー全集』19所収、新潮社)
 池田 あなたは、今じつに的確に引用してくださいました。ゲーテは、真の国民文学こそ真の世界文学である、という趣旨のことを言っていますが、ドストエフスキーのそうした言葉にも、彼の文学の世界性の一端を見る思いがします。
 ところで、なぜ私が「習慣化」ということを強調するかといえば、文化とは生き方の様式であり、その様式こそ習慣にほかならないからです。人と人とが出会ったときのあいさつに始まり、各民族はそれぞれ固有の習慣をもっており、もしそれが破壊されてしまうと、人心は動揺し、社会は不安定の度合いを増してしまいます。
 もとより、習慣といえども変化するもので、過度の固定化は社会を硬直化させてしまいます。だからといって習慣のない社会など、とうてい人間の社会とはいえない。
 なぜなら、自己といい他者といっても、習慣という様式において顕現され、意思の疎通が図られていくからです。
14  民衆は強し 権力は弱し
 池田 ミシェル・ド・モンテーニュ――古今東西、彼ほどこの習慣のもつ大きな力、はたらきを巨細きょさいにわたって観察した人はありません。その結果、彼は「私の考えでは、習慣のなさないもの、もしくはなし得ないものは一つもないと思うのである。聞くところによるとピンダロスは習慣を世界の女王、世界の女皇と呼んだそうだが、いかにももっともである」(『エセー』原二郎訳、『モンテーニュー』所収、筑摩書房)と述懐しています。
 モンテーニュの『エセー』は、私の″青春の一書″ですが、この習慣の重視に象徴されるように、いささかの無理や強制によることなく、強くもあれば弱くもある人間の人情のヒダのなかに分け入り、条理を尽くして、一歩一歩、人間性の光沢を増していこうとする彼の処世法は、まぎれもなく、われわれがこの対談で何回となく合意してきた「漸進主義」そのものではないでしょうか。習慣というものは、子どものしつけ一つとってみても明らかなように、粘り強い漸進的な努力を通してしか、決して身につかないからです。
 ゴルバチョフ よくわかります。「急進的な態度」は、つねに危険性をはらんでいるものです。
 池田 近代文明は――ボルシェビズムのような野蛮なやり方であれ、民主主義のような巧妙なやり方であれ――この習慣というもののもつよきはたらきを、おしなべて破壊してしまったといっても過言ではないでしょう。
 その結果、人々は、人と人との絆を断たれ、不安と孤独のなかにたたずまざるをえなくなっているのです。青少年の健全なる育成ということが、世界的な大問題としてクローズアップされているのも、かつては良き習慣を身につける″場″であった家庭や学校、社会が、本来の機能を失ってしまっていることのなによりの証左なのです。
 したがって、二十一世紀へ向けての大きな課題は、他者性の尊重・習慣化を可能ならしむる生き生きとした″場″を、どのように創出していくかということではないでしょうか。私どもの進めている仏法運動の社会学的な意義もそこにありますし、私が、「教育こそ生涯最後の事業」と深く期しているのも、広い意味での人間教育こそ、仏教のめざすものの必然的な帰結であるからです。そうではありませんか。
 ゴルバチョフ 池田さん、私よりもよくご存じかもしれませんが、トルストイをはじめとするロシアの知性は、仏教に対して尊敬の念をもって見ていました。このことは、ロシア人や全スラブ民族が、精神的に東洋に近い感覚をもっていることを物語っているのではないでしょうか。
 今、私たちにいちばん必要なのは、東洋的な慎重さ、平静心、伝統を大切にする心であると思います。
 池田 総裁の深い思いは、よくわかります。おっしゃるとおりと思います。
 ゴルバチョフ モスクフのホワイトハウス(最高会議ビル)に、戦車砲が打ち込まれた「黒い十月」から一年が経過しようとしたころ、私は、あの出来事を時折、自分の頭の中で反復してみたものでした。
 正直申し上げて、当時、私には、どうしても理解できない一つの疑問が残っていたのです。十月三日、四日とその後の数日間に私たちが目撃したことは、最もショッキングな事件だったはずです。にもかかわらず、なぜ人々はおしだまって、何も言おうとしなかったのか、何も語らないのか? ところが、あるとき、突然、私は、この解答不能と思えた自問に対する、きわめて単純明快な答えを見いだしました。すなわち、民衆は沈黙しているわけではない。民衆の心が死んだのではない。民衆はただ賢明なのだ。民衆はすべてを見て知っている。そして、感性はしっかり保たれている。しかし、現在の状況においては、今以上に悪い事態を招かないこと、破局にいたらしめないことが、賢明であり道徳に適っている――。
 民衆はまさにこのように思考していると考えた、私の社会状況の把握が正しいとすれば、政治家もまたこの考えから遊離すべきではありません。
 池田 同感です。世界中の政治家が襟を正して聞くべき正義の叫びだと思います。
 ゴルバチョフ 今こそ、私たちを支えている大地に思いを致すべきときです。幸い、異端思想をもつ者を迫害するという、おきまりのロシア的「粛清」は回避することができました。
 それは、ロシアの田舎のほうが、都会よりも聡明だったおかげです。幸いなことに、地方では、「民主派」出身か「党」出身かなど、だれも気にとめてはいません。おしゃべりやデマゴーグには、みな飽き飽きしているのです。
 唯一必要とされている指導者の要件は、年金生活者や低所得層が食糧を確保できるよう、また病院や学校、道路を維持していくための経験と能力、責任感と手腕なのです。すべてを失ってしまった人々に、未来への希望を与えていけるかどうかです。あまり明るいとは言いがたい現代にあって、一般庶民は希望を失っていません。これが最も心強いことです。
 「権力」は、その座につくとき同様、去るときもあっけないものです。したがって、「権力」は、心を卑しめてまで手に入れるには値しないものです。
 今、ロシアは良識の人々に支えられているといえましょう。右往左往せずに、わが道を着実に進んでいく、実務的で分別のある市民によって支えられているのです。
 池田 総裁の言葉ゆえに、じつに重い意義をもっています。「民衆は強し 権力は弱し」――私もこの信念で、これまでまいりました。民衆がいよいよ賢明になり、そして、民衆の力で、本当の人間主義の時代、民主の時代を築かねばなりません。

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