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日蓮大聖人・池田大作

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現実的ヒューマニズムと社会主義  

「二十世紀の精神の教訓」ミハイル・S・ゴルバチョフ(池田大作全集第105巻)

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1  社会の連帯と調和をはかる社会主義ヘ
 池田 いろいろ議論を交わしているうちに、あなたが、青春の夢であったであろう社会主義に、どのようなイメージを託しておられたか、またそのイメージが、どのように生きつづけているかが、はっきりしてきました。
 じつは、私どもも、ほぼ三十年近く前になりますが「人間性社会主義」という理念を世に問うたことがあるのです。近代とくに十九世紀の資本主義の歩みが示しているように、資本主義を発展させるエネルギーは、あくまで利潤追求を第一義としており、それのみであっては、「資本の論理」のなすがままになってしまう。経済的弱者にとっては、あまりにも過酷な現実です。
 そこで、社会に平等や公正をもたらすために、諸々の社会主義運動が現れたことは周知の事実です。しかし、多くの社会主義運動とくにマルクス=レーニン主義と呼ばれるものは、動機はともかく、結果的には「イデオロギーの論理」が優先し、権力で社会体制を抑え維持することが第一義になってしまっていた。
 そこで、私どもは、″資本″でもなく″イデオロギー″でもなく、あくまで″人間性″を第一義に諸々の政策を遂行していく「人間性社会主義」の理念を提唱したのです。人間性は、人間と人間との間に薫発し、開花していくものです。それを目的とするということは、いかなる場合であれ、人間を目的とし、決して手段にしてはならないという、人間主義の水脈へと連なっていくものです。
 ゴルバチョフ 池田会長もご存じのように、「現実的ヒューマニズムとしての社会主義」は重要なテーマです。このテーマについて、利は、わが国の実情に即してお話ししたいと思います。
 池田 結構です。私は、一九六八年の″プラハの春″が「人間の顔をした社会主義」をうたったときは、大きな共感をおぼえましたし、その強圧された革命に対しては、「プラハの秋」と題するエッセイをレクイエム(鎮魂歌)として草したことがあります(「エコノミスト」一九六八年十月十五日号、毎日新聞社。本全集第18巻収録)。また、ペレストロイカの旗手が、次のように言うとき、満腟の賛同をおぼえたものです。
 「新しい社会主義像――それは人間的な社会主義像である。それはマルクスの思想に完全に適ったものである。マルクスにとって未来社会は現実的な、実践的に実行されるヒューマニズムである。そしてそれを創り出すことがペレストロイカの主要な目的であるから、我々は完全な根拠をもってヒューマンな社会主義を建設していると言うことが出来る」(「社会主義の理念と革命的ペレストロイカ」中村裕訳、一九八九年十一月二十六日付「プラウダ」)
 今回の語らいを通して、マルクスやヒューマニズムに対するあなたの思いが、より詳細に、より具体的に明らかになりました。
 ところでゴルバチョフさんがおっしゃるところの「現実的ヒューマニズムとしての社会主義」とは、正統マルクス=レーニン主義から社会民主主義へ移行するべきだという意味に理解してよいのでしょうか? あなたのおっしゃる革命的共産主義克服の論理は、この百年、ヨーロッパの社会民主主義がたどった道ときわめて似ています。ということは、あなたは現在、社会民主的な見地に立っているのでしょうか。
 ゴルバチョフ ソ連共産党を近代的な社会主義政党に変革していこうとした私たちの計画は、だれかの真似をしようとか、気に入られたいとか、という気持ちから生まれたのではありません。
 ペレストロイカはソ連共産党内部のペレストロイカも含めて、八〇年代半ばにソ連で、左派の運動のなかに生じた精神的・政治的状況を受けて行ったものなのです。本質的には、ソ連共産党がプロレタリアート独裁を放棄したのは、もっと前の段階でした。もっとも、教条主義者たちは、ペレストロイカ初期のころも階級道徳や、資本主義に対する社会主義の優越に固執していましたが。とくに軍人や国家保安関係者の間で共産主義的メシアニズムが深く根づいていました。
 しかし、スターリンの死後二十〜三十年して、知性派勢力がぐんと伸びて、教育レベルが全体的に向上し、批判的な自己意識が芽生え、一党政治やマルクス=レーニン主義、「鉄のカーテン」といったものは言語道断の時代錯誤であることが明らかになってきたのです。全体主義思想から抜け出すには、左寄りの思想を規範として、社会正義・平等を強調しながら行ったほうがやりやすいため、われわれは社会民主的な見地に立ち、市民社会の主要な価値を確認しなければなりませんでした。
 池田 そうですね。この二十年間をみてきて、よく理解できます。
 ゴルバチョフ 実質的には、一九九〇年夏に行われた第二八回ソ連共産党大会で、党の社会民主化路線が打ち出されて、現代文明的政治通念に同調する動きが見られました。また、自由選挙と多党制、人権の保障される本来の民主主義を肯定するとともに、さまざまな所有形態の可能な、多様な市場経済への移行が課題として打ち出されました。
 真の民主主義への移行は、権力の根本を固める必要性から生まれたものでした。一九一七年十月まで、ロシアでは、権力の根本は、神聖とみなされていた専制君主でした。ボルシェビキ(社会民主党内の多数派=後の共産党)は自分たちの権力を世界的な共産主義革命、社会主義の世界的な勝利と結びつけていました。ペレストロイカの最終段階に私たちが権力の根本としたのは、民主主義、国民主権であり、国民の政治的意志の優位でした。現代の社会民主主義は、こういった観点に立っており、私たちもその方向へと進んでいきました。だからこそ、ソ連共産党の独裁に終止符を打って、多数政党制のもとで自由選挙を行うために、共産党の社会民主化をめざしたのです。
 池田 ペレストロイカは東欧の自由化にも大きな影響をおよぼしましたね。
 ゴルバチョフ 私たちが進んだ道は、当時、ポーランド統一労働者党やハンガリー社会主義労働党、ブルガリア共産党をはじめとする東欧の与党共産党の大半が歩んだ道と同じでした。
 ある意味では、共産主義から社会民主主義への移行は、たとえばポーランド統一労働者党などよりもわが国のほうがやりやすかったともいえます。わが国のボルシェビキは、ロシア社会民主党から分離した少数派であり、革命前は社会民主主義者のメンシェビキは、ロシアの労働運動に大きな影響力をもっていました。
 わが国の社会民主主義の特徴は、ゲオルギー・プレハーノフをはじめとするリーダーたちが、第一次世界大戦時に祖国防衛論者に変わっていったことです。それにともない、社会思想と愛国思想を組み合わせた政策が取られました。社会正義と各個人の社会保障、しかるべき生活条件を主張しながらも、社会主義者たちは世界制覇をしようとか、人間・世界を総体的に改造しようなどとは考えていませんでした。彼らはつねに漸進主義者だったのです。
 そして、最も重要なことですが、ロシアの社会主義者ゲルツェンやフランスのフーリエを読んでみればわかりますが、社会主義思想史においては、選択の自由こそ、最も神聖なものとされていました。社会主義者にとってつねに重要だったのは、人が自発的に集団に入る、集団生活を選択する、ということなのです。共産主義者はつねに均一な幸福を強制していました。
2  ドストエフスキーの社会主義観
 ゴルバチョフ 社会主義者は共産主義者と違って、社会の調和と連帯をはかっていき、その連帯も今現実に人々が感じている心の発露からなるものであって、そのうちに感じるであろうものをあてにしたものではありませんでした。その意味では、社会主義者は一律平等の共産主義者よりも、キリスト教に近かったといえます。
 ここで注目に値することがあります。それは、ヨハネ・パウロ二世が法皇職に就いて以来、近年、ローマ・カトリック教会が目立って左寄りになってきていることです。パウロ二世はその回勅のなかで、繰り返し労働者階級・社会的弱者の問題を取り上げ、資本主義の猛獣的本能に対し、厳しく批判をしています。
 私との会見の折も、ローマ法皇は、社会的理想の重要性を強調していました。また、革命主義の破綻からの救いを福祉社会建設のなかに見ているようでした。一九九一年からバチカンにおいて、「絵画に見る労働者階級の権利闘争」という展示会が行われているのは特筆すべきことでしょう。
 池田 よく理解できます。宗教の名に値する宗教であるならば、この世で最も悩める人、不幸な人、弱い立場の人への憐れみと同苦に、その宗教の基盤をおいているからです。これについてはすでにあなたと語ってきました。「宗教――人間の紋章」のところでもふれましたが、キリスト教にあっては「九十九頭」よりも「悩めるさまよえる一頭」に重きを置くことが第一義とされてきました。
 仏教にあっても、病子への慈悲と抜苦与楽こそ、仏道修行の要諦とされてきました。また私どもの宗祖が、「旃陀羅せんだらが家より出たり」と、みずから最下層の出自であることをむしろ、最大の誇りとされていた意味もここにあります。社会主義のアルフア(出発)であリオメガ(すべて)である平等、公正の理念が宗教本来のあり方と深く通じ合うことは当然といえば当然のことでしょう。しかし、そこに落とし穴があることも、歴史の教訓として忘れてはならないことですね。私は、あなたが社会主義と一律平等の共産主義の本質的な違いを指摘されていることに注目したいと思います。
 ゴルバチョフ おっしゃる意味はよくわかります。
 池田 「一律平等」な共産主義的ユートピアとは、人間が、知識や才覚だけで理想社会を作り上げることができるとする、近代人の思い上がりの反映であり、神々の火を盗んで人間たちに与えようとした、かのプロメテウス――マルクスは、早くも博士論文の中で、このプロメテゥスの神々への反逆をほめたたえていました――にも似た野望の産物であることを、ドストエフスキーは、類まれな正確さで感じとっていたようです。
 『カラマーゾフの兄弟』には、有名な次のような叙述があります。
 「社会主義は決して単なる労働問題、すなわち、いわゆる第四階級の問題のみでなく、主として、無神論の問題である、無神論に現代的な肉をつけた問題である、地上から天に達するためでなく、天を地上へ引きおろすために、神なくして建てられるバビロンの塔である」(米川正夫訳、『世界文学全集』18所収、河出書房新社)と。
 若いころのマルクスが、人間疎外の本源的な反映として宗教を位置づけ、それゆえに、宗教批判を一切の根本としていた点を考えれば、ドストエフスキーの社会主義観はまさに肯綮こうけい(急所)に当たっていました。また、ロシア革命とその後の推移をみれば、ドストエフスキーの先見性は、いちだんと際立ってきます。レーニンの言う「ロシア革命の鏡としてのレフ・トルストイ」と対置して、「ロシア革命の予言者としてのフョードル・ドストエフスキー」と評されるゆえんではないでしょうか。
3  疑似宗教的役割を果たした共産主義
 池田 その無神論としての世界観的な性格ゆえに、共産主義イデオロギーは神なき時代の″代替宗教″″疑似宗教″的役割を演じてきました。たとえば、マルクス、エンゲルスの『共産党宣言』が「プロレタリアは、革命においてくさりのほか失うべきものをもたない。かれらが獲得するものは世界である」(大内兵衛・向坂逸郎訳、岩波文庫)というとき、その極端に抽象化された画一・一律平等性から発信されてくるメッセージは、いうところの科学的イメージとはほど遠いメシア的な使命感です。
 そこには、当初から、すなわち、窮乏化する一方のプロレタリアートを背景にして、その言葉が一定の妥当性をもち、革命の士気を鼓舞するエネルギー源たりえていたときから、特有の狂信とフアナティズムの臭気が漂っています。しかもその臭気は、時代の推移とともに増大していきます。この狂信とファナテイズムこそ、まさに憎悪や敵意の温床であり、世界宗教や普遍宗教の証ともいうべき慈悲や愛とは、正反対の暗い情念であることは、申すまでもありません。ですから、私は、あなたがゲルツェンやフーリエの社会主義を、むしろキリスト教に近かったとおっしゃる意味が、とてもよく理解できるのです。
 ゴルバチョフ 池田さん、あなたは、革命に邁進しようとするプロレタリアートに影響を与えつづけたマルクスの『共産党宣言』の矛盾を、繊細にかつたいへんに深くえぐり出していると思います。
 その矛盾とは、『共産党宣言』が一方では資本主義の欠陥を暴露するという方法で人々の良心とモラルに働きかけて抵抗を呼びかけておきながら、もう一方においては、憎しみをあえてかきたてる形で破壊と暴カヘと人々を仕向けていくというやり方です。
 驚くべき点は、共産党宣言が十九世紀の労働者階級のみならず、かなりの教育レベルを有する人々にも同様の影響をもちつづけたということです。
 池田 共産主義のイデオロギーが疑似宗教的な役割を社会で果たしてきたゆえんですね。その意味からも知識や情報量の増大した二十世紀が史上空前ともいうべき軽信の時代であったという声さえあがるのもわからないではありません。
 日本のある識者は、プラトンが『国家』の中で、国家を奇妙な野獣にたとえているのに対し、国家あるいは社会という言葉もプラトンのいう野獣という言葉よりもよほど曖昧な比喩にすぎないと言っています(小林秀雄『プラトンの国家』、「日本の文学」43所収、中央公論社。参昭)。一見、学問的色彩がほどこされているように見えても、煎じ詰めればきわめて曖昧な概念であり、その学問的色彩にたぶらかされる人間、とくに知識人の愚かさが、浮き彫りにされたのも二十世紀だと思います。
 ゴルバチョフ 最近、イタリアを訪問したさい、私はイタリアの社会主義者たちから一冊の本をいただきました。これは一九二〇年代の終わりにフアシストたちによって銃殺されたリベラル社会主義の父カルロ・ロッセリの本です。ロッセリは書いています。
 「マルクス主義は、資本主義世界の考察における大きな貢献によって栄えたというよりは、味方の闘争家に、彼らの信じるものが合理的であると思い込ませた。その強さがあったから栄えたのであり、精密さと実用的という当時大流行であった要素を表に出していたからである。
 史上最強の小冊子である『共産党宣言』を読み返してみれば、大反響を呼んだ理由が歴然としている。この宣言に抵抗することはむずかしく、その影響を初めて受けた平凡な人間にとっては、もう、まったく抵抗することが不可能である。どんなにワンマンな人間でも、どんな行動的な人間でも、これほどの憤激を人々に呼び起こすことはできなかったし、この熱狂的な学究がかの有名な二十ページの原稿でこれほど人の気持ちをつかむようなことは、他のだれもできなかった。
 マルクス弁証法は説得され、彼の手中に完全に墜ちてしまった暁には、復讐の神ともいえるような文章が読む者の頭を揺さぶる……。良識という体裁をもったロマンテイックな夢である」(『リベラル社会主義』)
 カルロ・ロッセリもまた社会主義者であったわけですが、マルクス主義および共産革命には反対の立場をとっていたのです。これはまことに注目に値する事実です。
4  七十年にわたる共産主義的実験の教訓
 ゴルバチョフ 第ニインターナショナルの後継者である社会主義者は、集団的感情、協同組合、労働相互信用金庫制度の優位性に希望を見いだしていました。しかし、彼らは所有意識や伝統的な個人・家族単位の生活様式、商品・貨幣関係を脅かそうとは決してしなかったのです。
 無論、今の社会民主主義者は皆、ベルンシュタインやカウツキーのもとから、いわば″巣立った″面々ですから、その意味ではマルクス的伝統のなかで育ったといえるでしょう。
 しかし、今の社会民主主義者は精神的に、また彼らのもつ世界観からみて、むしろ空想的社会主義者といわれる人々に近く、マルクスの言う「社会主義的人間」という概念は、彼らから借用したものです。
 不思議なことに、マルクスから空想的社会主義者と呼ばれた思想家たちのほうがマルクスよりもはるかに先見の明があったのです。サン・シモン、フーリエなど漸進的社会改革・社会保障論者は二十一世紀にも権威をもちつづけるでしょう。
 池田 それはどういう理由からでしょうか。
 ゴルバチョフ 空想的社会主義者が編みだした協同組合形式の消費・販売・生産組織は、先進西側諸国、とくにスカンジナビアではもうかなり前から実際に取り入れられています。しかし、国の経済全体を一つの大きな工場にまとめて、工場長の指揮下に置くというマルクスの夢はだれも実現することができませんでした。スターリン時代でさえもわが国で大部分の食料を生産していたのは農家でした。
 それゆえ、レーニンも晩年は社会主義の見直しを始め、協同組合の将来的な役割を考え直すようになっていたのです。私個人にとって、レーニンの遺言にも反映されている協同組合論も、自分の考えを修正する契機となりました。レーニンが社会主義観を相対的に見直して、教条的マルクス主義者がしりぞけていた協同組合を重視するようになったのですから、まして七十年にわたる共産主義的実験の体験と教訓をもつ私たちが、自分でつかんだ真実、結論を活かさないわけはないのではないでしょうか?
 池田 そのとおりです。歴史の真実こそ大切です。
 ゴルバチョフ 社会がすべてのその構成員のことを考え、人間的な生活条件を提供する義務を負う社会保障という概念としての社会主義が、将来性をもっていることは、いうまでもありません。いつの日か、国家が生産部門から手を引いてしまうことがあったとしても、社会部門から手を引くことはありえないでしょう。二十世紀の人類史、なかんずく第二次世界大戦後の西欧の経験が、国の富の分配と社会格差、とくに貧富の差の緩和において、国の果たすべき役割が高まっていることを証明しています。
 人類文明の大きな流れによって、社会主義は、「ソーシャリティ」として、生命再生の主条件と国民の物心両面の発達に対する国家的配慮として評価されるようになりました。そのような流れをうながしているのは、精神的進歩だけでなく、根本的にすべての人格が精神的、道徳的に平等であるというますます広がりつつある意識、そして良識です。格差の大きな社会、ごく少数の金持ちと多数の貧乏人という対立構造の社会でなんらかの安定を達成するのは不可能です。
 だからこそ私は、社会主義を、社会正義や被雇用者の権利と尊厳を守る政治運動と結びつけているのです。この世界観に精神的・道徳的に私は共感をおぼえます。ええ、たしかに、私的所有や市場経済は人類文明の基本的な価値です。が、人類的価値の最たるものは、何よりも人格です。この意味では、個人の生産活動の自由を守るリベラルな価値と、基本的な人間の精神的・道徳的平等を守る社会主義的価値との両方が本質的に融合することが不可欠です。
 それは、この世の中で地位を得ようとするすべての思想をミックスさせるということではありません。精神的・経済的発展をうながし、人間平等を強固にし、一人一人の生活を尊ぶような価値の融合の方途を選ぶ、ということなのです。
 池田 自由主義か社会主義か、市場経済か計画経済かということは、おっしゃるとおり、二者択一的にとらえてはならないと思います。中央集権的な計画経済の破綻は、いまやだれの目にも明らかです。だからといって、十九世紀的な自由放任主義などありえないし、また、あってはならないでしょう。自由主義や市場経済の″勝利″といったところで、それは、社会主義からの正当かつ重大な挑戦を受け、社会主義的発想を部分的に受け入れることによってのみ可能であったという事実を忘れてはなりません。
 実際、自由主義、市場経済をとっている国であっても、程度の差こそあれ、福祉国家や混合経済的要因を取り入れているのが現状です。アメリカの民主党と共和党の盛衰が示しているように、時流によって、時には自由の方向へ、時には公権力の一定の介入を是認する方向へと、時計の振り子が揺れ動くのです。
5  「個人の幸福」と「社会の繁栄」の一致
 池田 周知のように、一九九五年のアメリカ下院議員選挙で、民主党は記録的大敗を喫しました。振り子は、自由の方向へと大きく揺れたわけです。それに対し、早くも警戒する声が少なくありません。この年がフランクリン・D・ルーズベルト(F・D・R)大統領の没後五十年ということもあって、アメリカの歴史家のシュレジンガー元大統領特別補佐官は、同大統領の有名な「我々にとっての進歩の基準は、既に多くを持つ人の豊かさをさらに増幅できたかどうかではない。わずかしか持たない人に十分なものを与えられたかどうかなのだ」との言葉に言及しながら、こう語っています。
 「――民主的資本主義は、自由放任や落後者切り捨てといった信条を忠実に守ることで生き延び、繁栄してきたのではない。
 それが全体主義路線に打ち勝ったのは、とりわけFDRを始めとするリベラルが起こしたキャンペーンのおかげだった。彼らは産業秩序を人間化するために行政府を使い、経済システムの作用の緩衝に努め、個人の機会と社会的責任とを結びつけようとした。ついでに言っておかねばならないのは、このキャンペーンが途中のあらゆる段階で、富裕層、既得権層の抵抗にあっていることだ」(「地球を読む」一九九五年五月八日付「読売新聞」)
 このように、行き過ぎを是正しながら、どう両者のバランスをとり、活気ある社会をつくっていくかは、二十一世紀へ向けての大きな課題の一つでしょう。あなたの社会民主主義的方向の選択も、そうしたバランスを志向したものと思います。
 ゴルバチョフ 興味深いことにマルクスは晩年、『資本論』を捨て、政治から離れて社会の活力という問題に思いをいたすようになっていきます。紛争や階級闘争ではなく、調和、人々を結びつけているものへと思考の対象が変わっていったのです。
 残念ながらこの新しい社会観はそこからさらに展開されていくことはありませんでした。しかし、社会民主主義への移行をうながすもう一つの橋が架けられたのです。
 池田 敷衍して、個人の自由、権利の主張と公共の福祉との調和という課題としてとらえれば、これは、人類にとって永遠の課題となってきます。たとえば、ルソーの『社会契約論』などは、そのための粒々辛苦、悪戦苦闘、難産ぶりを典型的に示しています。
 私の恩師は、その課題を、端的に「個人の幸福と社会の繁栄との一致」と提唱いたしました。いわく「今日あらゆる所で議題とされている問題は、社会の問題であるが、その社会と個人とは、たえず遊離しているではないか。社会の繁栄が、即個人の幸福と一致しないということが、むかしからの政治上の悩みではないか」「世界の民衆が、喜んで生きていける社会の繁栄のなかに、各個人もまた、喜んで生きていけなければなるまい」(『戸田城聖全集』第一巻)
 これは、ステーツマン(政治家)の名に値するステーツマンであれば、だれもが双肩に担っていかなければならない課題です。イデオロギーから脱却するための苦闘のなかでの″ステーツマン・ゴルバチョフ″の選択は、まさにそうした選択であったと、私は信じています。
 ゴルバチョフ ロシア社会学草創の一人であるアレクサンドル・ゲルツェンは言っています。「公平ということは、歴史のもっとも主要な価値にははいらないのである。公平というのはあまりに賢明すぎ、あまりに散文的なものである。生命は、それとは反対に、これが発展する場合には気ままなものであり、詩にみちているのだ」(『ロシア――ゲ・ゲ氏へ』森宏一訳、『ゲルツエン著作選集』3所収、同時代社)と。
 しかし、公平さのない人生、残酷と、強きが弱きを抑圧する弱肉強食の掟が支配する人生にも未来はありません。そんなものがいったい、人類史にとってどんな意味があるでしょう?
 第二八回党大会で、すでに私たちは、社会主義をドグマと結びつけるのではなく、生活条件の人道化、福祉、具体的な個人の権利と自由の向上と結びつけていることを宣言しました。これらの成果と社会主義を結びつけて、実質的なヒューマニズムとしたのです。
6  ロシアの精神史とペレストロイカ
 ゴルバチョフ ただ最終的に社会民主主義への移行が行われたのは、一九九一年七月後半に党の新綱領案が発表されたときでした。この案の骨子は、すたれた思想ドグマや決まり文句と完全に決別し、国と国民の経験・切実な欲求に合った世界観と政治を作っていく、という意志でした。そして一九九一年七月の党中央委員会で、共産党を社会民主化しようとしているとの非難が私に浴びせられましたが、そのとき私はこう語りました。
 「ソ連共産党と今の社会民主運動を対立させて考えるのは、革命・国内戦争のときに理論の食い違いから共産主義者と社会民主主義者がバリケードをはさんで対立したときの影響です。過去の経緯についての研究は歴史家にまかせておけばいいではないですか。しかし、はっきりしているのは、当時起こった対立のもとの基準はもう意味を失ってしまったということです。私たちも変わったし、社会民主主義者も変わった。歴史の流れは労働運動、民主化運動、社会主義者の間に境界線を引くような問題の多くを解消してしまいました。そして今、社会民主化を批判して騒いでいる人々は、かえって本当の敵である反社会主義、民族主義、ショービニズムの流れから注意をそらしてしまつているのです」
 最後に私は、次のように結びました。「われわれは『社会主義の意味を根本的に考え直す』必要性に迫られている。古いモデルの中に解答は見つからないし、このモデルの実験をわれわれの応援で行った他の友好国も答えが得られなかった。これは社会主義の危機だが、この危機は乗り越えられるのです。
 そうすれば健全化をはかり、刷新された社会主義が決定的な新たな一歩を踏み出すことができるようになります。要するに、今、責任をもって深く考え、解決していくべきときなのです。もし、気に入らない発言者は踏みつけ、たたいて、気に入った発言者には必要以上に拍手を送っているだけだとしたら、いかなる理性的な結論にも行き着くことはできません」
 池田 あのクーデター未遂事件のほぼ一カ月前ですね。
 ゴルバチョフ なぜ、今、私はこのことを思い起こしているのでしょうか? 申し上げたいのは、私が共産主義的立場から社会民主主義に移行したさい、そこにはただ時流に乗ろうなどというような気持ちは一切なかったということです。
 私は社会正義を守ろうとする左派の一人として、ただわが国の社会意識のなかで起こった変化、ひいては世界で起こった変化の道理に従っただけなのです。
 私が間違っていたと、はたして言えるでしょうか。一九九一年半ばに共産党が突き当たった同じ問題に、今また左翼政党が突き当たっているのではないでしょうか?
 一九九一年七月の党中央委総会につづく劇的な事件のために、私は、プランを最後まで遂行することができませんでした。共産党の社会民主化は果たせなかったのです。そしてクーデターの犯人たちの仕業から党は崩壊します。
 池田 いいえ、決して間違ってはいません。社会民主主義の選択といい、ゆるやかな連合体としてのソ連邦の存続といい、その後の事態の推移は、まさしくあなたの選択しようとした方向へと動いているといえましょう。長いスパンでみて、今、正当な理解の得られないところに、逆にペレストロイカのもっていた本質的な新しさがあった、ととらえていくベきだと思います。二十一世紀文明をも視野に入れた、画期的な新しさがあったからだ――と。
 ここで、もう一度、オルテガに言及したいと思います。彼の主著『大衆の反逆』は、一九三〇年に著され、かつて、ルソーの『社会契約論』が十八世紀に対して、マルクスの『資本論』が十九世紀に対して意味したものを、二十世紀に対して意味するであろう、と評されたものです。
 その中で、彼は「ヨーロッパには、数年前からいろいろと『奇妙なこと』が起こり始めているということは、誰でも気付いているところである」として、次のように述べています。
 「サンディカリズムとファシズムという表皮のもとに、ヨーロッパに初めて理由を示して相手を説得することも、自分の主張を正当化することも望まず、ただ自分の意見を断固として強制しようとする人間のタイプが現れた。実はこれが新奇さなのである。つまり、正当な理由を持たぬ権利、道理なき道理がそれである」と。
 また、「かくして、『討論の息の根をとめよ』というのがヨーロッパの『新』事態となってきたのであり、そこでは、普通の会話から学問を経て議会にいたるまで、客観的な規範を尊敬するということを前提としているいっさいの共存形式が嫌悪されるのである。これはとりもなおさず、文化的共存、つまり、規範のもとの共存の構夕であり、野蛮的蛮行への逆行に他ならない」(神吉敬三訳、角川書店)と。
 彼は、そうした「野蛮的共棲」が生まれる原因を、人々の魂が「自己閉塞」におちいり、真の意味での対話が成り立たないからだ、としています。
 『大衆の反逆』は、ロシアにっいてはほとんど言及しておりませんが、もし彼の「文化」と「野蛮」の区分けをあてはめれば、ポルシェビズムが「野蛮」に属することは、申すまでもないことでしょう。
 ゴルバチョフ そのとおりです。私たちが勇気をもってペレストロイカに踏み切ったのは、そうした自覚からです。
 池田 ペレストロイカやグラスノスチは、たしかに当面する課題をどうするかということを第一義にした政策でしょうが、その地平は、オルテガが鋭くえぐり出した魂の「自己閉塞」すなわち、二十世紀の大衆社会状況の病理にまでおよんでいると思います。「自己閉塞」した魂をどう開き、対話の回路を通じさせていくかという、ソ連のみならず現代世界が直面している最大の課題への、果敢なる挑戦であったのではないでしょうか。
 あなたは、クレムリンでの私との会談のさい、ペレストロイカは、政治と文化との「同盟」であると言われました。そうであるならば、それは政治革命にとどまらず、より本源的な文化革命であり、人々の心に、オルテガの言うところの「客観的な規範ヘの尊敬」を打ちたてようとする試みであったはずです。
 今のロシアの風潮を見聞していると、この画期的な試みは、道半ばどころか、緒についた段階で早くも大きくつまずいてしまっている感さえ受けますが、だからといつて、手をこまねいていては、「こんな生活は、これ以上つづけられない」という、ロシアの心ある人々の思いで始まったペレストロイカそのものが、無意味になってしまいます。言われなき非難や中傷、裏切りの嵐の中でつづけられるあなたの百折不撓の戦いは、ロシアの精神史に深く樟さした、そうした文化革命の次元で受けとめられなければならないと、私は確信いたします。
 ゴルバチョフ 共産党の死そのものは、われわれの計画が誤っていたからではありません。自由主義の支配はロシアでは長つづきしませんでした。わが国の自由主義改革は、金持ちはより金持ちに、貧乏人はより貧乏人にすることだけに照準を当て、わずか二年で、人々はこれらの改革を憎悪するようになりました。
 おそらくお気づきかと思いますが、今ではみんな社会民主主義者になり、社会民主主義に忠誠を誓っています。政府のなかには、社会民主主義こそわが国の思想であることを証明しようとする思想家のグループまでできているのです。
 そのなかの多くがつい最近まで急進的なガイダル改革、ショック療法の熱烈な支持者でした。別に私は、こういったリベラル派から社会民主派へと、あっという間に変身した人々に悪意はいだいていません。
 改革のやり方についての議論のさい、私は彼らと違ってロシアを知っている、ロシアの農民の息づかいがわかっているという利点がありました。私に反論をしていたリベラル派、破壊的急進的改革の支持者たちが根拠としていたのは本から得た知識だけだったのです。
 池田 そのことは、あなたが何度も強調されていましたね。
 ″何事も経験せずしてわかるようなことは、たいしたことではない″″現実は、既存の知識や理論を超えた豊饒なものをはらんでいる″――こうした謙虚な姿勢というか、敬虔の念こそ、欠かすことのできない黄金律であることは、古今を通じて変わらぬ鉄則であり、道理でしょう。
 ゴルバチョフ ええ。例として、一九八九年から一九九一年の民営化の速度についての議論を取り上げてみましょう。私が当時主張していたのは、ロシア、なかんずく農民は「純粋な」土地私有への移行は認めない、国民は無制限の土地売買は受け入れない、ということでした。コルホーズ(集団農場)やソフォーズ(国営農場)の強制的な民営化は、三〇年代初めの集団化と同じような不幸をもたらすだろうと言いました。
 そのとき私は、時代遅れだ、まだるっこいという非難を受けました。しかし、リベラル派が政権の座について三年がたちましたが、ご存じのとおり、事はいっこうにはかどっていません。エリツィンが署名した、土地の自由売買に関する大統領令は結局実施されませんでした。
 今もコサックの伝統、共同体的土地所有が色濃く残っている南ロシアでは、この大統領令は強い反発を呼びました。この地域はまだコサックが強い力をもっています。中央ロシア黒土地域でも、多くの農民が自由主義的土地改革には警戒心をいだいています。人々は、自分に与えられた土地に対する責任をふたたび引き受ける心構えができておらず、今のようなめちゃくちゃな金融システムでは土地も失ってしまうのではないかと恐れているのです。
 コルホーズやソフォーズをつぶしてしまうのではなく、所有形態を変えることによってそれらの性格を変えていくことが必要です。それを実行するのは農民であり、経営形態が自由に選択できるなかで、しかも、一様ではなくそれぞれが独自の形で行われなければなりません。

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