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共産主義的全体主義の破綻  

「二十世紀の精神の教訓」ミハイル・S・ゴルバチョフ(池田大作全集第105巻)

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3  人間としての「常識」の復権を
 ゴルバチョフ たとえば、自著『ユートピア』の中で、トーマス・モアは次のような問題提起を行っています。
 「自分の利益という観念があればこそ仕事にも精を出すのですが、他人の労働を当てにする気持ちがあれば、自然、人は怠けものにならざるをえません」(平井正穂訳、岩波文庫)
 本質的に見て、私が理解している共産主義の根本的な意味というのは、絶対かつ完全な平等思想、とくに経済的な平等です。階級の消滅、知的労働と肉体労働の格差の克服、市場および商品=貨幣関係の消滅、これはすべてレーニンがよく言っていた、総体的かつ「完全な」平等思想から導き出される論理的な結果なのです。
 池田さん、私個人に関して言えば、私は長年政界に身を置いてきました。そして、しだいに、完全かつ絶対的平等は実現不可能なものだ、ということを明白に理解するようになったのです。その後には、私の社会主義観も変わっていきました。
 階級のない社会という概念にしても同じことがいえます。道徳的・美的観点からみて魅力のある考え方だと思います。しかし、今後数百年、いやそれ以上かかったとしても、富・教育・仕事の格差をなくすことなどできないことは、冷静な判断のできる正常な人間であれば、だれでもわかることです。
 池田 「正常な人間であれば、だれでもわかること」――それは、「新思考」のところで確認しあった″常識への回帰″ということですね。常識あるいは道理の感覚というものは、人間だれしも本然的に備わっているものであり、われわれは、日常生活のなかで、意識・無意識のうちにそれを身につけ、あるいは深化させ磨き上げていっているものです。それが、民衆の生活感覚にほかなりません。
 仏法では、そうした常識や道理を、たいへん重視しています。たとえば、私どもの宗祖は、信仰のあり方について「夫信心と申すは別にはこれなく候、妻のをとこをおしむが如くをとこの妻に命をすつるが如く、親の子をすてざるが如く・子の母にはなれざるが如くに……」、「女のかがみをすてざるが如く・男の刀をさすが如く、すこしもすつる心なく……」等々と、きわめて身近な生活感覚に即して説いています。
 釈尊の場合もそうですが、信仰のあり方がこうしたわかりやすい譬えをかりて述べられているところに、人間愛や慈悲などの仏教の高邁な精神といえども、じつは常識の深化であり、日常生活における夫婦や親子の情といった道理の感覚の錬磨にほかならないのだと、明確にみてとれます。
 ゴルバチョフ おっしゃることは、よく理解できます。
 池田 これに関連して、私との対談で、アイトマートフ氏が慨嘆していました。――一九三〇年代の、あの悲劇的かつ強引な農業集団化の時代に、祖父を反革命の富農であると、当局に密告した少年がいた。そのため、両親はシベリアヘ送られたのですが、少年は、密告行為をピオネールの模範とされ、銅像まで建てられ、長く顕彰されてきた、と。
 これなど、人間の常識から判断すれば、明らかにおかしいとわかるはずです。この「どこかおかしい」「どこか狂っている」というのが常識であり、人間としての基本的な道義感覚でしょう。にもかかわらず、それを逆なでするような非常識が強引に罷り通ってしまうところに、誤ったュートピア思想がもたらす恐ろしさがある、と私は理解しております。
 ペレストロイカが″人間ファクター″ということを掲げたのも、人間としての常識の復権をうながしているのではないでしょうか。
 ゴルバチョフ そのとおりです。あのイデオロギー専横の時代、「人間にとっていちばん大事なのは、自由で柔らかい履き物だ」と言っていた私の祖父など、まさに常識の復権のお手本のような人でした。
 そして、もともと共産主義がもっている空想的性格のために、共産主義を支持する人々は暴カヘと駆りたてられてきたのです。それは、その理想を自発的に、自然な形で実現するのは不可能だからなのです。
 皆を平等にするためには、たとえば才能というような障害を取り除かなければなりません。バブーフ主義者、つまり、大フランス革命時代の共産主義者たちが、偉大なる平等思想の名のもとに、才能ある人々の撲滅を呼びかけたのもそれゆえです。幸いにも、バブーフ主義者たちの考えは実現されませんでしたが。
 池田さん、共産主義がなぜ崩壊し、のみならず、なぜつねに暴力に、ひどい横暴に行き着いてしまうのか、今ではよりはっきりとしてきています。ロシア、つづいて中国、カンボジアの悲期は、これらの国々が、共産主義を試すための実験場となってしまったことなのです。
 バブーフ主義者たちはこう言いました。「必要ならば、芸術も全部滅んだってかまわない。真の平等さえ残ればよいのだ」。ロシアでも一九一七年、また後の左派共産主義者による専横の時代、貴族の領地を所蔵図書ごと焼いたり、美術館や教会の略奪が横行していました。
 池田 「空想」を、自己目的化した「進歩」と置き換えたうえで、ここで、ロシアの偉大な社会思想家であるゲルツェンの美しい言葉を、味読してみたいと思います。ご存じのように、この文章(『向こう岸から』)は、ヨーロッパの一八四八年の革命――あなたがおっしゃった、マルクスが暴力を是認する革命的共産主義へと傾斜していったあの革命――の渦中で書かれたもので、「進歩」というものの偶像化を、祭儀のさいに小児の犠牲をともなった『聖書』のモローク神に譬えて、厳しく糾弾しています。少し長いですが……、
 「もしも進歩が目的であるならば、われわれは一体誰のために働くのであろうか?一体あのモローク――すなわち苦役を課された者たちが御前に近づけば近づくほど、かれらに報償を与えないで却って後ずさりし、(中略)疲労困憊して今にも息絶えんとする群衆を慰藉するために、おまえたちの死んだ後この世はすばらしい楽園と化すであろう、という痛ましい嘲弄的な答えしか与えない、このモロークとは、一体何者なのだろうか? 一体あなた方は、現代の人々を、いつか遠い未来に他の人たちがその上でダンスをおどる床を支えるみじめな人柱の役割におとしいれようとするのか? ……あなた方は、膝まで泥につかりながら、あるすばらしい宝物をつみこみ、『未来における進歩』と記した旗をなびかせる船を曳っぱる憐むべきクーリー(=苦役)の役割を、現在生きる大衆に押しつけようとするのか? 疲れ果て、力つきはてた者たちは途中で倒れるであろう。そして他の者たちがこれに代って、力一杯綱を曳っばることであろう。だが途は、いつまでたっても極まることはない。なぜならば、進歩は限りがないからだ」(『勝田吉太郎著作集』1、ミ不ルヴァ書房。参照)と。
 「進歩」というものに対する、いかにもヒューマニストらしい健全なる常識感覚です。フランス革命のさい、ギロチンの犠牲になったローラン夫人の「自由よ! 汝の名のもとにいかに多くの血が流されたことか」という言葉ではありませんが、「自由」といい「進歩」といっても、それが「目的」となって偶像化されると、人間の生命や生活を思うさまに踏みにじる凶暴なはたらきをすることを、決して忘れてはならないでしょう。
 ゴルバチョフ 池田さん、私は、あなたと同じようなグルツェンに対しての見方をしています。彼はマルクスの図式主義を受け入れず、それゆえに、マルクスよりも生きた人間の生活、思いを全身で感じていました。
 池田 それに関連して、私には思い出があります。私が恩師にお会いし、日蓮大聖人の仏法の門をたたこうと決意したとき、友人に、次のようなゲーテの言葉を紹介しました。「いつかは目標に通じる歩みを一歩々々と運んでいくのでは足りない。その一歩々々が目標なのだし、一歩そのものが価値あるものでなければならない」(エッカーマン『ゲーテとの対話』山下肇訳、岩波文庫)と。
 ゲルツェンは、ゲーテに比べれば、はるかに急進的ですが、その「進歩」のとらえ方では、十分に響き合うものがあります。その点が、彼の急進主義的ヒューマニズムのヒューマニズムたるゆえんであると思います。その彼がマルクス主義(者)に強い嫌悪感を示していたという事実も、したがって私には、十分に首肯できるのです。
 ゴルバチョフ 芸術家として、思想家としてゲルツェンは、まさに偉大な洞察を行っています。『向こう岸から』は、まさに天才的です。その中で彼は、歴史は″プロクルステスの寝台″にはおさまらないものであり、理論が歴史に追いつくことはできない、と書いています。ゲルツェンは、他のロシアの哲学者と同じく、暴力や人間の改造に反対しています。
 共産主義が敗北したのと同時に、全体的な歴史改造、歴史の流れそのものを変えようとする思想もともに敗れたのだと思います。共産主義的原理主義者たちは、彼らより以前のことは先史である、本物の歴史ではないと言っていたのです。
 池田さん、「新世界秩序」という言葉はだれが言い始めたか、ご存じですか? じつは十八世紀の終わりに、フランスの共産主義者バブーフが言い始めた言葉です。
 共産主義革命家たちは、つねに世界を相手としていました。歴史を変え、人間の性質を変え、全世界に共産主義を導入しようとしていました。
 共産主義者たちにとって重要だったのは、ただたんに力ずくで自分の原則を押しつけるだけではなく、なんとしても全人類が相手でなければならなかったのです。だからこそ、マルクスも、また彼の教えに忠実に従った者が皆、世界的な共産主義革命、プロレタリアートの世界制覇を夢見ていたのです。
 しかし、共産主義的メシアニズムも、共産主義的拡張主義も息絶えてしまいました。メシアニズムはどこでもつねに、ましてそれが革命主義・共産主義的メシアニズムならなおさら、人間個々への抑圧、専横、指導者絶対主義に行き着いてしまうことは、今では私たちも知っています。それはたんに指導者を敬うのではなく、指導者のためにすべてを犠牲にする――モラルも尊厳も、血縁も、そして自分の生命さえも――ことが要求されました。
 池田 よくわかります。あなたが投じられた、その改革の波動は確実に、しかも深く広がっていると信じます。
 ゴルバチョフ 池田さん、私は。ペレストロイカ時代に、指導者を絶対視する共産主義的影響が残した多くの事柄を人々の意識から払拭することができたことをうれしく思っています。私個人としても、まわりの部下だけでなく、国民もいだいている党書記長に対する恐怖を取り除き、対等であろうと努めました。
 階級道徳、つまり革命的マルクス主義の真髄を、全人類的価値の旗を掲げて、私たちは公然と放棄しましたが、このこと自体、精神革命、政治革命でした。たれびとも「何でも許される」とか、善もなければ悪もない、などと大衆に思い込ませることはできない、と私は思うのです。
 私たちがどんな過去の遺産を放棄しようとしたのかをおわかりいただくためには、むしろ、私が社会主義をどのように考え、「社会主義思想」「社会主義的理想」という概念にどんな意味をこめているかを汲み取っていただきたいのです。
 それはいうまでもなく、現実的なヒューマニズムとしての社会主義であり、だれもが対等であり、幸せになるべくして生まれてきているのであり、人間にとって人生は一度きりの、繰り返しのきかないもので、喜びも、人間のもてる可能性もすべてがその人生のなかで顕現されなければならない、という考えにもとづく政治技術でなければなりません。

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