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日蓮大聖人・池田大作

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共産主義的全体主義の破綻  

「二十世紀の精神の教訓」ミハイル・S・ゴルバチョフ(池田大作全集第105巻)

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1  東欧の変化と現実的社会主義の可能性
 池田 ゴルバチョフさん、対談の最終章にあたって、いよいよ最大の難所にさしかかろうとしています。ここで、この数世紀、なかんずく二十世紀の人類史をリードしてきた思想の行く末について考えてみたいと思います。
 このテーマについては、直接お会いをして、また書簡を通して行ってきた長い対話のなかでこれまでにもふれてきましたが、ここでまとめをしてみたいと思います。
 社会主義の理想はどうなったのか? 時の試練に耐えぬいたのはどのような価値観か? 進歩というものは存在するのか、また進歩を志向していくべきなのか? 二十世紀の人類にとって、何をすべきであり、何をすべきでないのでしょうか?
 私たち日本人がまずなによりも知りたいのは、社会主義の理想の行方についてのあなたのお考えです。
 ゴルバチョフ 池田さん、これは今でもよくロシアで受ける質問です。
 ご存じのとおり、大統領を辞任してからこの数年、私はさまざまな方面からの攻撃を受けました。
 原理主義的コミュニストたちは、私が党を裏切り、その理想に違背したといって非難しました。リベラル派、急進的民主派は、私が社会主義への忠誠をつねに強調している、と言っており、いまだに気持ちがおさまらないようです。(笑い)
 池田 私は、ペレストロイカがどのような局面にあろうと、最も危機的な状況にあったときでも、あなたが社会主義思想への変わらぬ忠誠をつらぬいておられたことを知っています。
 一九九一年八月、あなたがフォロスから帰還された後のソ連国内の気運も、明らかに社会主義が不利な情勢にありました。国家非常事態委員会のメンバ―が共産主義的言い回しをさけていたのもそのような状況があったからです。しかし、そういった当時の気分に反して、あなたは国家非常事態委員会が敗北を喫して、社会主義完成への政治的環境ができつつある、と言われました。
 あなたの社会主義思想・理想への忠誠とは何を意味しているのでしょうか?
 今、西側では、「現実的な社会主義」は完全に敗北した。社会主義という思想、その目的は人類文明の発展と相反するものであり、ソ連と東欧諸国の国民に数限りない災い、苦しみをもたらした、と言われています。
 これについては、三〇年代初めの飢餓や、スターリンの粛清について、あなたも対談のなかで何度となくお話しになっています。今も信じておられる社会主義、その理想とはどのようなものなのでしょうか?
 ゴルバチョフ 私自身のことについてお話ししたいと思います。私をめぐっての論争の原因はどこにあるのでしょうか?
 これについては、回想録を出版するにあたって簡単に書いてみました。しかし、この機会をかりて、今おっしゃった現実的社会主義に対する自分の考え、私の考える社会主義について述べてみたいと思います。
 まず注目していただきたいことがあります。八〇年代終わりから九〇年代初めにかけて、西側のリベラル派は、ロシア・東欧での社会主義思想の完全な滅亡を予言していましたが、その予言は当たらなかったということです。
 四十年におよぶ社会主義建設への国民的な不満の高まり、共産党とその幹部への不満がつのるなかで、「ビロード革命」は血を流すことなく、ポーランドで、つづいてチェコスロバキァ、ハンガリー、東ドイツで勝利したのです。
 池田 そうですね。東欧の劇的な変化は、私たちの記憶に鮮明です。
 ゴルバチョフ もっとも、最初はそれほど容易ではありませんでした。ブルガリアでは民主派は今もって彼らを追い出すことができないでいます。
 しかし、今、最も驚異的なことが起こっているのはポーランドです。よく知られているように、ポーランドはブルガリアやチェコスロバキアと違い、共産主義者やマルクス=レーニン主義者たちが強固な立場を築いたことはなく、第二次世界大戦の前にも、また力ずくでスターリン主義的社会主義が植えつけられた後にも、決してなかったのです。
 これもよく知られていることですが、ポーランドではこの四十年間、強大なカトリック教会の指導のもと、共産党・共産主義思想に対する民衆の精神的、政治的抵抗運動が行われてきました。不思議にも、ポーランドは共産政権のおかげで、″実質的な″社会主義のもと、世界でも有数のカトリック教国になったのです。
 ポーランドは東欧の中でも、社会主義陣営の中でも唯一、スターリンの集団化が成功しなかった国です。
 池田 東欧で初めて自由選挙を行ったのもポーランドですね。
 ゴルバチョフ ポーランドはこの数十年、慢性的政治危機にさらされてきました。国民、とりわけ労働者階級の、統一労働者党政権に対する対立意識は、一九五六年、一九七〇年、一九七六年の事件となって表面化していきました。
 そしてついに、一九八〇年から八一年にかけて、「連帯」の旗のもと、全国革命が起きたのです。
 そのような一連の事件の後では、社会主義思想がポーランドで破綻することはもとより、そこからまた後戻りするようなことはありえないように思えました。八〇年代終わりには、敗北を喫したポーランド統一労働者党の後継が、また政権の座に返り咲くだろうなどとあえて言うような人は、世界のどこにもいませんでした。
 しかし、驚いたことに、一九八九年にポーランドで行われた第一回の自由選挙で大敗北を味わった共産党が、四年後の選挙では大勝利を収めたのです。
 統一労働者党は政党名を社会党と改め、左派を形成して、セイム(国会)で過半数を占めました。彼らは、「ショック療法」や、なし崩し的な民営化、社会の分権化の波の中で勝利したのです。
2  社会主義に託したエネルギーの行方
 ゴルバチョフ 社会主義を完全に受け入れず、むしろ社会主義と戦っていたポーランド国民が、今では″実質的″社会主義と、それによる社会保障を懐かしがっているのです。ポーランドでは今日、ゴムルカを始めとする共産主義者の果たした役割がより客観的に評価されており、ポーランド統一労働者党の最後の第一書記であったウォイチェフ・ヤルゼルスキの権威も増してきています。
 ハンガリーでは、共産主義政党であるハンガリー社会労働党の後継者が九四年の国政選挙でやはり勝利しましたが、それはさらに堂々たるものでした。
 じつはハンガリーでは、ヤノシュ・カダルの「人間的」社会主義、全盛を極めたコーペラチフ(協同組合)、そして全体的な平均的豊かさを懐かしがる気持ちが非常に強いのです。これはプロパガンダ(宣伝)ではありません。歴史的事実なのです。
 池田 東欧諸国に、″ベルリンの壁″が崩壊したころの民主化、自由化への熱狂など、どこ吹く風のリアクション(反応)が起こっていることは、日本でもしばしば報道されています。意のままにならぬ経済復興をはじめとして、自由主義社会の現実が、自分たちが期待し、予想していたものとはほど遠い、厳しいものであったという失望感が、そうしたリアクションを生んでいるのだと思います。
 とはいえ、そうしたリアクションは、私にとって、半ば予想されたものでした。自由主義や資本主義が、共産主義に″勝利″したといったところで、実際に生活している者の感覚から言えば、″勝利″というのは、相対的に言えるだけで、現状は″勝利″の晴れがましさとはほど遠かったからです。
 こうしたなかで、おっしゃるとおり、社会主義に対する見直しの風潮が起こるのは、当然のことだと思います。いかに過失が多かったとはいえ、社会主義が資本主義と拮抗する反対勢力でありつづけ、″資本の論理″の人も無げな跳梁跋扈を抑制する大きな力を果たしてきたことは、まぎれもない事実であったからです。
 今世紀、多くの若者たちは、社会主義に夢や希望、未来を託してきましたが、その夢の跡にたたずんで呆然とするあまり、そうした前向きのエネルギーを、どう正しく発揮していくかという方向づけを誤ってはならないと思います。
 ゴルバチョフ あなたの社会主義の本質と志向するものについての理解に共感をおぼえます。今は、現実的社会主義の体験と社会主義思想に対してより深く、客観的に見ていくべき時がきています。
 旧時代を懐かしむような傾向は現在、独立国となったロシアや他の旧ソ連邦諸国で見られており、むしろ凝縮された形であらわれているかもしれません。ウクライナでも一九九四年、国会で圧倒的多数を占めたのは共産主義者と社会主義者でした。
 しかし、重要なのは数字ではなく、意識の質的な変化です。一九九一年当時、わが国で吹き荒れた反共の嵐は、今では調子はずれか、政治的近視眼のしるしとして見られています。全体として人々は、ソビエト時代の本物の社会的成果については肯定的に見ており、過去のものとなってしまった社会・経済保障をよりいっそう評価するようになっています。
 池田 日本には「あつものに懲りてなますを吹く」という諺もありますが、今、最も必要なことは、頭を冷やすことでしょう。
 ゴルバチョフ 反共の波に乗って権力を握ったエリツインでさえ、そのうちに自分の論調を変え、「社会主義」という言葉を思い出すんじゃないか、とロシアではささやかれています。
 繰り返しになりますが、今ソビエト史と、それに並んで多くの世代のソビエト国民が尊んできた価値を、もっと深く、目を凝らして見つめてみるときがきているのです。
 永久に廃れてしまったものも、おそらく数多くあるでしょう。とともに、わが国の、いえ、ひょっとして二十一世紀の全人類の社会・政治の発展に影響を与えつづけていくものもあるでしょう。
 池田 今のような状況では、社会主義に限らず、物事の過不足を冷静に見極めていくことが大事になりますね。オルテガ・イ・ガセットは、人々が言葉にのぼせ、熱狂し、殺し合いを演ずる二十世紀の「漸進的な広がりをもった普遍的現象」(『個人と社会』佐々木孝、A・マタイス訳、白水社)に言及しながら、次のように言います。
 「人びとはあることについてなにもはっきりした意見を持っていないときには、黙るかわりにそれとは反対のことをする。いうなれば最上級の形で話す、つまり叫ぶのである。そして叫び声は、攻撃、闘争、殺戮の声高の前口上である。叫び声があがるところに良き認識はない Dove si grida non e vera scienza(=どこで叫ぼうともそれは本当の知識ではない)とレオナルド・ダ・ヴインチも言っている」(同前)
 とはいえ、この頭を冷やすということ、物事を冷静に見極めるということは、口で言うほど簡単ではありません。それどころか、人類史を通じて、人々を悩ませつづけてきた難問中の難問と言ってもよいでしょう。
 そして、残念ながら、学問がこれに回答を与えてくれないことは、″諸学の王″たる哲学、唯一この難問に答えてくれるはずの哲学の、昨今における見るかげもない衰退が雄弁に証明しています。
 それゆえ、私の恩師が、″知識と知恵の混同″を、二十世紀の最大の誤りの一つとしていたことは、前にも申し上げました。一九九五年の一月、ハワイの東西センターにおける「平和と人間のための安全保障」と題する講演で、私は、その点について若干の考察を行いました。
 また、一九九三年、東京のホテルでお会いしたとき、あなたに、ペレストロイカの成否は、少なくとも三十年の単位で見なければ、正確に判断できないと申し上げたのも、歴史的偉業を、一時の熱狂や近視眼で見ることの怖さを申し上げたつもりなのです。
 ところで、ゴルバチョフさん、あなたの言わんとされていることは、巷問いわれる、雑草と穀物を選別しなくてはいけない、本物の社会主義と偽の物とを見分けなくてはいけない、ということであると理解していいのでしょうか?
 ゴルバチョフ 「本物」の社会主義とか、「偽物」といったたて分け方は好きではありませんが、人類史・文明から捨てられ、消えていくべき古い社会主義の産物と、永久に残っていく遺産とを見分けることが、今では可能になっています。
 スターリン主義、力ずくの急進的共産主義は呪われ、死滅しました。共産主義的全体主義も崩壊しました。また、レーニンが築いた共産主義インターナショナルも滅び去ったといってよいと思います。
 共産主義運動の危機は、本質的にみて、さけられないものでした。なぜなら、それはロシアとそれにつづいて一連のアジア・ヨーロッパ諸国を、全体主義体制へ追いやってしまった共産主義モデルが、内在的に有していた欠陥によって生じた危機だったからです。
 このモデルは不自然なもので、明らかに人間の本性と矛盾するものです。だからこそ、早晩、敗れることは当然の帰結でした。全体的な共産主義は、全体的な敗北を喫したといえるでしょう。
 池田 マルクスの理論構築の動機が、十九世紀の先進工業国であったイギリスの労働者のあまりにも悲惨な状態が、何に由来するのか、どう救済すべきかの解明にあったわけですから、少なくとも動機論的には、マルクス主義の根底にヒューマニズムが横たわっていたことは、疑いを入れないでしょう。
 そうでなければ、マルクス主義が、いうところの科学的合理性などよりはるかに強く、宗教的熱情をもって世界の人々に迎えられたはずはありません。
 こうした事情は、日本においてもそうでしたが、とりわけロシアにおいては、ナロードニキ(人民の中へ)運動との接点などに、顕著に見られたのではないかと思います。
 ゴルバチョフ 若いころのカール・マルクスは、まだプロレタリアート独裁も、「暴力による既存体制の打倒」も叫んでおらず、先ほど言われた″本当の″社会主義と″偽の″社会主義との違いを敏感に感じとっていました。
 いわゆる左派コミュニストが国内戦争でロシアに植えつけようとしたもの、つまり「戦時共産主義」と呼ばれるものは、若いころのマルクスが「粗野」で「低俗」で「専制的な」共産主義と呼んでいたものと非常に似通っていました。
 完全な均一平等主義、経済的刺激の撲滅、集団生活、私有制度の禁止、歴史的文化的ニヒリズム、暴力崇拝、これらはすべて俗流共産主義、悪平等の特徴である、こう若きマルクスは考えていました。
 当時、一八四〇年代初めでしたが、カール・マルクスは、粗野な共産主義を人道主義の対極であるとして、厳しく批判していました。独裁と暴力による「旧世界」の破壊、私有制度否定に執着する思想家たちこそ災いの根源である、と考えていたのです。マルクスは、空想的共産主義者を強く批判していきました。
 マルクスは、粗野な共産主義の対極に、実質的ヒューマニズムとしての社会主義を置いていますが、それは人格の調和のとれた総体的な成長、才能の開花、人間と自然の調和を主眼とする社会主義的思想でした。
 池田 なるほど。いわゆる″初期″のマルクスが、濃密に体現していたヒューマニズムヘの志向性は、一時期わが国でも盛んに論議されました。
 ゴルバチョフ 同時にマルクスは、共産主義的人間の対極に「社会主義的人間」をみていました。この「社会主義的人間」とは、フーリエやサン・シモンなどの社会主義者たちが言うところの、ユートピア的な人間像として描いている人間のことを意味しています。
 これらの社会主義者たちの理論のなかで、マルクスが惹かれたものは、可変労働・知的労働と肉体労働の差異、都市と農村の差異の克服についての思想でした。
 こうした観点にもとづいてみると、社会主義的人間は、相対的に調和のとれた高度な人間ということになります。これについてはマルクスは、『経済学・哲学草稿』の終わりの部分で書いています。
 もつとも、ときどきマルクスは、自分の説を共産主義と呼びながらも、そこにまったく別の意味を付与しています。
 彼は自説の共産主義を現実的な人間主義として粗野な俗流共産主義と対比させています。マルクスにとって人間主義的な共産主義とは、社会主義を意味しているのです。
 池田 あなたがおっしゃるように、硬直化してしまったマルクス=レーニン主義に幻滅し、飽きたらなかった人々にとって、あまりにも有名なマルクスの『経済学・哲学草稿』の次の一節などは、蘇生と再構築へのよすがであったようです。
 「この共産主義は完成した自然主義として=人間主義であり、完成した人間主義として=自然主義である。それは人間と自然とのあいだの、また人間と人間とのあいだの抗争の真実の解決であり、現実的存在と本質との、対象化と自己確認との、自由と必然との、個と類とのあいだの争いの真の解決である」(城塚登・田中吉六訳、岩波文庫)と。
 明解にすぎるほどの要約ゆえに、これを、科学の装いをこらした″神話″だとか″幻想″だとかと酷評する人もいますが、私は、そこまで言いたくありません。
 たしかに、マルクス好みの荒削りな抽象化が目立つとはいえ、そこには、従来の個人主義的なヒューマニズムを超え、人間を「類的存在」という関係性でとらえようとする社会的かつ実践的なヒューマニズムヘの志向というか、若さにともなう客気さえ感じられます。
 結果はともかく、私は、若きマルクスが切り拓こうとしていた地平は、考える以上に広かった、そう受けとめたほうが生産的だと思います。
 その意味では、彼もまた、一切を貪欲に認識し、行動し、支配しようと挑戦しつづける、近代ヨーロッパが生んだ「ファウスト的自我」の一典型というよりも一変形であったのではないでしょうか。
 なぜ変形かといえば、マルクスは、人間の理性や進歩についてきわめて楽観的であった十九世紀の影響を強く受けており、フアウストと違い、そこにいささかも懐疑をはさもうとはしなかった。
 その結果、人間への洞察も「類的存在」、後の言葉でいえば「社会的諸関係の総和」としただけで、その奥へは一歩も踏み込もうとはしませんでした。
 ニーチェやドストエフスキーが格闘した″神なき時代″の人間が直面せざるをえなかった内面世界の謎や混沌、苦悩や煩悶とは、所詮″縁なき衆生″であったわけです。
 実現不可能なスローガンだつた共産主義
 池田 したがって、彼は、十八世紀流の個人主義的な思潮とは別れを告げたものの、その人間観――″プロレタリアート″という歴史の新たな担い手たるべき集団的人間に仮託した人間観という点では、前世紀と同じく、きわめて進歩主義的であり、合理的かつ楽観的でした。若きマルクスの思索がはらんでいた豊かな可能性の地平も、こと人間に関しては、長じて深まっていったとはとうてい言えないという事実も、そうした進歩的・合理的・楽観的人間観のもつ、ある種の″浅さ″″軽さ″が、アキレス腱になっていたからではないか、と私はみています。
 そのアキレス腱の存在ゆえに、「人間主義=自然主義」の構図が示唆していた人間と環境との重層的な相互交流、相互浸透という契機も、胚種のうちに摘みとられ、ときとともに、粗野にして一方的な環境決定論、「土台」による「上部構造」の決定論が、支配的になってしまったのではないでしょうか。
 まさに、マルクス主義のアキレス腱であり、ベルジャーエフが「マルクスはすぐれた社会学者であったがはなはだ弱い人間学者であった。マルクス主義は社会の問題について述べるが人間の問題については述べない」(『ロシア共産主義の歴史と意味』、『ベルジャーエフ著作集』7〈田中西二郎。新谷敬三郎訳〉白水社)と断ずるゆえんであります。
 こうした傾向は、ベルジャーエフのひそみにならうかのように、アルベール・カミュが、「陳腐な哲学者であったと同じくらい、すぐれた戦略家のレーニン」(『反抗的人間』佐藤朔。白井浩司訳、『カミュ全集』6所収、新潮社)と評した段階、すなわち革命の実行、成就の段階になると、さらに顕著になっていきました。それにつれて、ヒューマニズムの人も、ますますか細くなっていかざるをえなかったことは、私たちが対話を重ねてきたところです。
 ゴルバチョフ もちろん共産党宣言が書かれてからの百五十年間に人類が蓄積した経験は、マルクスが見たり理解したりすることのなかった多くのものを与えてくれています。マルクスはたしかに最初の革命の嵐に身を焦がした熱狂的な学者でした。不幸にも、革命前夜の一八四八〜四九年、階級闘争の深刻化と初のプロレタリアートによる自主的行動という状況のなかで、マルクス自身が革命的共産主義を唱えるようになっています。
 彼の「宣言」は共産主義的と見なされました。そこには、フランス革命時代のコミュニストたちの革命的マキシマリズム(極左主義)を受け継ぐものが多分に含まれています。今日、マルクス、エンゲルスの『共産党宣言』を読み返してみると、わが国の左派コミュニストが、かなリマルクスを、つまりこの本を行動規範としていたことがわかります。一九一九年にレフ・トロツキーが激しく批判した、農工分野における軍事組織の設立も『共産党宣言』の中に含まれていたのです。
 マルクスのような天才にして、やはり時代が生んだ革命の現実を乗り越えることはできませんでした。ですから、ロシアで敗れたのは社会主義ではなく、十九世紀半ばの革命時代の急進的共産主義だったと断定できるのではないかと思います。敗れたのは、私的所有を完全に廃止して、暴力革命によって資本主義社会体制を打倒するという考え、すなわち革命的専制思想、絶対的完全平等主義だったのです。
 池田 たいへんに重要なご発言です。
 ゴルバチョフ ロシアの悲劇は、西欧ではカール・マルクスの晩年時代にすでに死んでしまった思想が、二十世紀初めにわが国で現実に取り入れられてしまったことにあります。エンゲルスも晩年には自分の理論を共産主義とは呼ばず、科学的社会主義と呼び、革命の暴力にますます批判的な態度をとっていったのです。不幸なことに、レーニンはとくに若いころ、マルクスの同志、エンゲルスなどよりはるかに教条主義的でした。
 今日ではもうはっきりしていますが、共産主義というのは、絶対的・全体的なユートピア主義(空想社会改良説)です。つまり、それは基本的に実現不可能なスローガンであり、あるいは遥かかなたの歴史的状況のもとでしか実現できないものなのです。
 トーマス・モアの言う「ユートピア」と共産主義という言葉は、もともと結びつきの深い言葉です。
 トーマス・モアのほうが、その信奉者やフランス革命時代のバブーフ主義者、あるいはロシア国内戦争時代の共産主義的メシア主義者たちよりずっと良識を備えていました。トーマス・モアは、後にマルクスが『共産党宣言』を書いたような、具体的行動計画を作ることはありませんでした。彼は空想豊かに筆を走らせ、可能性の極限を展開し、あるいはただたんに、幾千年も存在してきた共産主義的な問題を取り上げただけなのです。
3  人間としての「常識」の復権を
 ゴルバチョフ たとえば、自著『ユートピア』の中で、トーマス・モアは次のような問題提起を行っています。
 「自分の利益という観念があればこそ仕事にも精を出すのですが、他人の労働を当てにする気持ちがあれば、自然、人は怠けものにならざるをえません」(平井正穂訳、岩波文庫)
 本質的に見て、私が理解している共産主義の根本的な意味というのは、絶対かつ完全な平等思想、とくに経済的な平等です。階級の消滅、知的労働と肉体労働の格差の克服、市場および商品=貨幣関係の消滅、これはすべてレーニンがよく言っていた、総体的かつ「完全な」平等思想から導き出される論理的な結果なのです。
 池田さん、私個人に関して言えば、私は長年政界に身を置いてきました。そして、しだいに、完全かつ絶対的平等は実現不可能なものだ、ということを明白に理解するようになったのです。その後には、私の社会主義観も変わっていきました。
 階級のない社会という概念にしても同じことがいえます。道徳的・美的観点からみて魅力のある考え方だと思います。しかし、今後数百年、いやそれ以上かかったとしても、富・教育・仕事の格差をなくすことなどできないことは、冷静な判断のできる正常な人間であれば、だれでもわかることです。
 池田 「正常な人間であれば、だれでもわかること」――それは、「新思考」のところで確認しあった″常識への回帰″ということですね。常識あるいは道理の感覚というものは、人間だれしも本然的に備わっているものであり、われわれは、日常生活のなかで、意識・無意識のうちにそれを身につけ、あるいは深化させ磨き上げていっているものです。それが、民衆の生活感覚にほかなりません。
 仏法では、そうした常識や道理を、たいへん重視しています。たとえば、私どもの宗祖は、信仰のあり方について「夫信心と申すは別にはこれなく候、妻のをとこをおしむが如くをとこの妻に命をすつるが如く、親の子をすてざるが如く・子の母にはなれざるが如くに……」、「女のかがみをすてざるが如く・男の刀をさすが如く、すこしもすつる心なく……」等々と、きわめて身近な生活感覚に即して説いています。
 釈尊の場合もそうですが、信仰のあり方がこうしたわかりやすい譬えをかりて述べられているところに、人間愛や慈悲などの仏教の高邁な精神といえども、じつは常識の深化であり、日常生活における夫婦や親子の情といった道理の感覚の錬磨にほかならないのだと、明確にみてとれます。
 ゴルバチョフ おっしゃることは、よく理解できます。
 池田 これに関連して、私との対談で、アイトマートフ氏が慨嘆していました。――一九三〇年代の、あの悲劇的かつ強引な農業集団化の時代に、祖父を反革命の富農であると、当局に密告した少年がいた。そのため、両親はシベリアヘ送られたのですが、少年は、密告行為をピオネールの模範とされ、銅像まで建てられ、長く顕彰されてきた、と。
 これなど、人間の常識から判断すれば、明らかにおかしいとわかるはずです。この「どこかおかしい」「どこか狂っている」というのが常識であり、人間としての基本的な道義感覚でしょう。にもかかわらず、それを逆なでするような非常識が強引に罷り通ってしまうところに、誤ったュートピア思想がもたらす恐ろしさがある、と私は理解しております。
 ペレストロイカが″人間ファクター″ということを掲げたのも、人間としての常識の復権をうながしているのではないでしょうか。
 ゴルバチョフ そのとおりです。あのイデオロギー専横の時代、「人間にとっていちばん大事なのは、自由で柔らかい履き物だ」と言っていた私の祖父など、まさに常識の復権のお手本のような人でした。
 そして、もともと共産主義がもっている空想的性格のために、共産主義を支持する人々は暴カヘと駆りたてられてきたのです。それは、その理想を自発的に、自然な形で実現するのは不可能だからなのです。
 皆を平等にするためには、たとえば才能というような障害を取り除かなければなりません。バブーフ主義者、つまり、大フランス革命時代の共産主義者たちが、偉大なる平等思想の名のもとに、才能ある人々の撲滅を呼びかけたのもそれゆえです。幸いにも、バブーフ主義者たちの考えは実現されませんでしたが。
 池田さん、共産主義がなぜ崩壊し、のみならず、なぜつねに暴力に、ひどい横暴に行き着いてしまうのか、今ではよりはっきりとしてきています。ロシア、つづいて中国、カンボジアの悲期は、これらの国々が、共産主義を試すための実験場となってしまったことなのです。
 バブーフ主義者たちはこう言いました。「必要ならば、芸術も全部滅んだってかまわない。真の平等さえ残ればよいのだ」。ロシアでも一九一七年、また後の左派共産主義者による専横の時代、貴族の領地を所蔵図書ごと焼いたり、美術館や教会の略奪が横行していました。
 池田 「空想」を、自己目的化した「進歩」と置き換えたうえで、ここで、ロシアの偉大な社会思想家であるゲルツェンの美しい言葉を、味読してみたいと思います。ご存じのように、この文章(『向こう岸から』)は、ヨーロッパの一八四八年の革命――あなたがおっしゃった、マルクスが暴力を是認する革命的共産主義へと傾斜していったあの革命――の渦中で書かれたもので、「進歩」というものの偶像化を、祭儀のさいに小児の犠牲をともなった『聖書』のモローク神に譬えて、厳しく糾弾しています。少し長いですが……、
 「もしも進歩が目的であるならば、われわれは一体誰のために働くのであろうか?一体あのモローク――すなわち苦役を課された者たちが御前に近づけば近づくほど、かれらに報償を与えないで却って後ずさりし、(中略)疲労困憊して今にも息絶えんとする群衆を慰藉するために、おまえたちの死んだ後この世はすばらしい楽園と化すであろう、という痛ましい嘲弄的な答えしか与えない、このモロークとは、一体何者なのだろうか? 一体あなた方は、現代の人々を、いつか遠い未来に他の人たちがその上でダンスをおどる床を支えるみじめな人柱の役割におとしいれようとするのか? ……あなた方は、膝まで泥につかりながら、あるすばらしい宝物をつみこみ、『未来における進歩』と記した旗をなびかせる船を曳っぱる憐むべきクーリー(=苦役)の役割を、現在生きる大衆に押しつけようとするのか? 疲れ果て、力つきはてた者たちは途中で倒れるであろう。そして他の者たちがこれに代って、力一杯綱を曳っばることであろう。だが途は、いつまでたっても極まることはない。なぜならば、進歩は限りがないからだ」(『勝田吉太郎著作集』1、ミ不ルヴァ書房。参照)と。
 「進歩」というものに対する、いかにもヒューマニストらしい健全なる常識感覚です。フランス革命のさい、ギロチンの犠牲になったローラン夫人の「自由よ! 汝の名のもとにいかに多くの血が流されたことか」という言葉ではありませんが、「自由」といい「進歩」といっても、それが「目的」となって偶像化されると、人間の生命や生活を思うさまに踏みにじる凶暴なはたらきをすることを、決して忘れてはならないでしょう。
 ゴルバチョフ 池田さん、私は、あなたと同じようなグルツェンに対しての見方をしています。彼はマルクスの図式主義を受け入れず、それゆえに、マルクスよりも生きた人間の生活、思いを全身で感じていました。
 池田 それに関連して、私には思い出があります。私が恩師にお会いし、日蓮大聖人の仏法の門をたたこうと決意したとき、友人に、次のようなゲーテの言葉を紹介しました。「いつかは目標に通じる歩みを一歩々々と運んでいくのでは足りない。その一歩々々が目標なのだし、一歩そのものが価値あるものでなければならない」(エッカーマン『ゲーテとの対話』山下肇訳、岩波文庫)と。
 ゲルツェンは、ゲーテに比べれば、はるかに急進的ですが、その「進歩」のとらえ方では、十分に響き合うものがあります。その点が、彼の急進主義的ヒューマニズムのヒューマニズムたるゆえんであると思います。その彼がマルクス主義(者)に強い嫌悪感を示していたという事実も、したがって私には、十分に首肯できるのです。
 ゴルバチョフ 芸術家として、思想家としてゲルツェンは、まさに偉大な洞察を行っています。『向こう岸から』は、まさに天才的です。その中で彼は、歴史は″プロクルステスの寝台″にはおさまらないものであり、理論が歴史に追いつくことはできない、と書いています。ゲルツェンは、他のロシアの哲学者と同じく、暴力や人間の改造に反対しています。
 共産主義が敗北したのと同時に、全体的な歴史改造、歴史の流れそのものを変えようとする思想もともに敗れたのだと思います。共産主義的原理主義者たちは、彼らより以前のことは先史である、本物の歴史ではないと言っていたのです。
 池田さん、「新世界秩序」という言葉はだれが言い始めたか、ご存じですか? じつは十八世紀の終わりに、フランスの共産主義者バブーフが言い始めた言葉です。
 共産主義革命家たちは、つねに世界を相手としていました。歴史を変え、人間の性質を変え、全世界に共産主義を導入しようとしていました。
 共産主義者たちにとって重要だったのは、ただたんに力ずくで自分の原則を押しつけるだけではなく、なんとしても全人類が相手でなければならなかったのです。だからこそ、マルクスも、また彼の教えに忠実に従った者が皆、世界的な共産主義革命、プロレタリアートの世界制覇を夢見ていたのです。
 しかし、共産主義的メシアニズムも、共産主義的拡張主義も息絶えてしまいました。メシアニズムはどこでもつねに、ましてそれが革命主義・共産主義的メシアニズムならなおさら、人間個々への抑圧、専横、指導者絶対主義に行き着いてしまうことは、今では私たちも知っています。それはたんに指導者を敬うのではなく、指導者のためにすべてを犠牲にする――モラルも尊厳も、血縁も、そして自分の生命さえも――ことが要求されました。
 池田 よくわかります。あなたが投じられた、その改革の波動は確実に、しかも深く広がっていると信じます。
 ゴルバチョフ 池田さん、私は。ペレストロイカ時代に、指導者を絶対視する共産主義的影響が残した多くの事柄を人々の意識から払拭することができたことをうれしく思っています。私個人としても、まわりの部下だけでなく、国民もいだいている党書記長に対する恐怖を取り除き、対等であろうと努めました。
 階級道徳、つまり革命的マルクス主義の真髄を、全人類的価値の旗を掲げて、私たちは公然と放棄しましたが、このこと自体、精神革命、政治革命でした。たれびとも「何でも許される」とか、善もなければ悪もない、などと大衆に思い込ませることはできない、と私は思うのです。
 私たちがどんな過去の遺産を放棄しようとしたのかをおわかりいただくためには、むしろ、私が社会主義をどのように考え、「社会主義思想」「社会主義的理想」という概念にどんな意味をこめているかを汲み取っていただきたいのです。
 それはいうまでもなく、現実的なヒューマニズムとしての社会主義であり、だれもが対等であり、幸せになるべくして生まれてきているのであり、人間にとって人生は一度きりの、繰り返しのきかないもので、喜びも、人間のもてる可能性もすべてがその人生のなかで顕現されなければならない、という考えにもとづく政治技術でなければなりません。

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