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二十一世紀を担う世界宗教の条件 ″人生の再生″と新しきルネサンス

「二十世紀の精神の教訓」ミハイル・S・ゴルバチョフ(池田大作全集第105巻)

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1  歴史的惨事を免れることができた日本
 池田 二十一世紀に向かって、ゴルバチョフ総裁と価値ある対話を行うことができ、感謝にたえません。
 ゴルバチョフ 本当にうれしいことです。池田会長は、ヒューマニズムの価値観と理想を高く掲げて運動されています。私は、あなたの発言を、″真の友人″の言葉として受けとめています。
 池田 あたたかいお言葉、恐縮します。
 今、世界がこれだけボーダーレスの時代になっても、貴国と日本は、隣国でありながら遠い国というのが、両国民の率直な印象ではないでしょうか。
 あなたは、一九九一年四月、ソ連の国家元首として、初めて訪日されました。そのとき、「お互いの国民が歩みよるスピードが速まっていけば、新しい形態の協力が可能になり、深い信頼と友情を育んでいけるものです」と、私に語ってくださったことを覚えています。
 長年、両国の繁栄のため、民衆の交流が促進されることを望んできた一人として、まったく同感です。私は、この対談が、そうした相互理解の一助になればと願ってやみません。
 ゴルバチョフ 私の信念も、両国は隣国同士として、協力関係を深めていくべきであるということです。
 池田 よくわかります。ここでは、これまで四回来日された総裁の日本への印象なども交えていただき、平和、文明、歴史など、幅広い次元から語り合えればと思います。宗教を論ずるためにも、文化の違い、民族性の違いを知っておくことは、たいへん重要です。
 ゴルバチョフ そうですね。前に、東洋的発想と西洋的発想が話題になりました。私は、日本の精神性について、あなたにうかがいたいことがあります。
 日本が、さまざまな歴史の断面で、比較的うまく狂信を回避し、論争などにおいても、穏やかな平衡感覚をもって対処できたのはなぜか、という点です。
 日本の歴史を振り返るとき、私たちのような素人には驚くことばかりです。というのも、私たちは、マルクス主義の″イロハ″として、人類の歴史は、絶えず″革命″と″階級闘争″の歴史だったと教えられてきましたから。
 池田 そうですね。有名な『共産党宣言』の冒頭が示しているように、それが、史的唯物論の大前提だったわけです。
 ゴルバチョフ このテーゼ(命題)は、ロシアやフランス、中国の歴史をみるかぎりにおいては、正しいといえると思うのです。
 それが、なぜ日本では、社会的破綻、歴史的惨事を免れることができたのか。
 貴国の唯一の革命は明治維新ですが、それとて上からの革命であって、広範に大衆を巻き込んだものではなかったと考えるのですが。
 池田 あなたがおっしゃるように、日本の社会の変遷には、貴国のようなドラスチックな革命や階級闘争的なものがほとんどなかったことは、事実といってよいでしょう。ただし、狂信ということについては、かつての軍国主義の暴走をあげるまでもなく、決して無縁とはいえません。
 ゴルバチョフ 日本文化においては、たとえば中国と比べてみても、「継承性」「斬新性」「改革思想」が、比較にならないほど大きな役目を果たしてきたと思います。
 一九九三年、創価大学において講演の機会をいただいた折、私は、日本文化の特色についても注目しました。
 貴国は、つねに″新しきもの″に対して開かれていると同時に、決して″古きもの″との断絶をつくらないのです。政治制度では、古くからある天皇制と議会制度とが、上手に折り合っているのもその一例でしょう。
 私たち外国人は、古いものを切り捨てずに前進するという″才能″をもった日本を、とかく理想化しているのかもしれません。もしそうだとしても、私にとっても、またロシアの読者にとっても、あなたの日本史観をうかがうことは、たいへんに興味深いことなのです。
 池田 たしかに、日本文化の根底には、ある意味での「寛容性」や「漸進性」の伝統が、一貫して流れていると思います。
 あなたが指摘された日本文化の特色――「つねに″新しきもの″に対して開かれていると同時に、決して″古きもの″との断絶をつくらない」という点について、以前私は、貴国の「文学新聞」のインタビューに答えて、日本における「伝統と近代化」の問題として論じたことがあります。
 わかりやすい例で言えば、和風と洋風の双方の様式を生かした日本の住居や、最先端のファッションに身を包んで、さっそうと街を行く若い女性が、正月になると伝統的な和服を着こなしている事実などは、日本文化を象徴しています。そうした、古いものと新しいものの融合をとらえて、「日本文化の重層性」と特筆する学者もいます。
 ゴルバチョフ 日本の人々は、科学技術革命の優れた成果を取り入れて、生活を近代化しましたが、それでも生活様式の基本的な根っこの部分は変わっていないとうかがっています。これは、何に起因しているのでしょうか?
 池田 明治維新以来、日本は西欧文化の輸入に努め、とくに科学技術の模倣・改良にかけては、優れた能力を発揮し、近代化を推進してきました。
 それが一応の成功をみた要因として、私は先のインタビューで、
 (1) 近代化が始まる前の江戸時代末期、すでに民間の教育水準がかなりの向上をみていた。
 (2) 島国という地政学的条件もあって、他のアジア諸国を席捲した列強諸国の植民地主義の犠牲となることを免れた。
 (3) 勤勉な国民性。
 (4) とくに第二次世界大戦後は、「平和憲法」のもと、軍備に金を使わず経済復興に専心できた。
 (5) 日本語の優れた造語力が、近代西欧の諸学を学ぶうえで便利であった。
 ――等の諸点をあげました。
 さらには、過酷な自然との対決・克服を基調としてきた西欧文明とは対照的に、四季の彩りに恵まれた比較的温和な自然環境のもとで暮らしてきたことが、協調や融和を重んずる日本人のメンタリテイー(精神性)の形成にあずかってきた。このことも、ゆるやかで弾力性に富んだ近代化を支える素地となってきたと思います。
 ゴルバチョフ 日本人は、自然とのハーモニー(調和)のなかで、社会を形成してきたということですね。
 日本人には自然を愛する心があります。自然の美しさを感じる心がすばらしい。私も自然を愛していますから、その意味では日本人の一人です。(笑い)
 池田 私としては、大らかに自然を謳い上げたロシアの詩心のほうに、より魅かれます。(笑い)
 日本の社会構造の面においては、古来の伝統である天皇制と家父長制が支えあいながら、ある種の家族的な一体感をかもしだすことによって、人々が″いわずもがな″″以心伝心″の絆で結びつけられてきたことがあげられます。
 明治維新が、いわゆる″無血革命″であったことも、それが西欧的な意味での″革命″ではなく、本質的にはむしろ、家族的な共同体への″回帰″であったことによるとみることができます。
 このことは、明治政府が国民を天皇の「赤子」とする天皇制イデオロギーを推進していく過程からも明らかです。その象徴が「我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ……」に始まる、有名な「教育勅語」です。
 家庭から地域、企業、国家にいたるまで、暗黙の家族的紐帯によって支えられてきた「イエ社会」。これが、よい意味でも悪い意味でも、「ソト」に対しては残虐であっても、「ウチ」と認識された狭い枠のなかでは、あらゆる社会的な破綻や歴史的な惨事を回避するクッションの役目を果たしてきたというのが、私の一つの見方です。
 一方、ロシアの場合、トルストイの小説などには、ツァーリ(皇帝)に対する、貴族たちのひたむきな献身と親愛の情が描かれていますが、どう思われますか?
2  ″第三の開国″と日本人の精神性
 ゴルバチョフ アンドレイ(トルストイの小説『戦争と平和』の主人公の一人)のアレクサンドル一世に対する敬意はその一例ですね。ただこれは、文学上のメタファー(暗喩)でしょう。
 ここで「皇帝」というと、それはむしろ「ロシア国家」を意味したのです。君主に対する忠誠心は、ほとんどの場合、愛国心の異名でした。祖国の独立のために、生命を賭す覚悟を意味していたのです。ただし、これは過去のことです。
 正直いって、この問題について、真剣に考えたことはありませんでした。ロシアの専制君主制は過去の遺物です。
 ロシアの専制君主制は消え、日本の天皇制が、日本民族と切っても切り離せない一部となったのは偶然ではありません。ロシア君主制は、それ自体が流血革命の下地をつくり、ボルシェビキが権力を握る可能性をつくりました。ロシアの専制君主制に関しては、レーニンの考えに同調したいと思います。
 現在のロシアの多くの政治家とは異なり、わが国に君主制が復活する可能性はないと、私は考えています。歴史は後戻りしないものだからです。″同じ川″に二度入ってはいけません。
 池田 なるほど、今ロシアでは、ニヨフイニ世の肖像を掲げ、帝政の復活を叫ぶ勢力もみられるようですが、やはり例外的な現象なのですね。
 ところで、日本文化の特質の一つとしていえること――それは、歴史的にみて、日本からの″発信″はほとんどなく、諸外国からの″受信″が圧倒的に多かったという点です。
 その受信のしかたを通じて、独特の″日本的なるもの″を形成していったといえるでしょう。
 さまざまな学問や技術、制度、風俗などを、外から精力的に取り入れつつも、その底流には、「ロゴス(言語)よりも情緒」「変革よりも適応」「対立よりも融和」「個人よりも全体」という、日本的な心性が生きつづけてきた。そのことが、あなたの指摘された「平衡感覚」や「継承性」「漸進性」につながっているのだと思います。
 ゴルバチョフ もちろんロシアも、日本と同じく、諸外国から多くのものを取り入れてきたわけですが、ロシア人からみて、日本人は極端に走らず、節度を保ってきたようにみえます。
 池田 日本は現在、″第三の開国″を迎えているといわれます。
 明治維新が″第一の開国″、太平洋戦争の敗戦が″第二の開国″、そして、現在の脱冷戦構造への対応が、第三にあたります。
 その間、一貫して変わらない特徴は、日本の対外的な意思決定が、″外圧″によってなされるのがつねであった、ということです。
 日本人には、国家や世界の進歩に主体的にかかわるというよりも、つねに大状況の変化に追従し、うまく適応するなかで自分を形成していこうという、
 生き方のスタイルがあります。よく言えば、過去にこだわらず現実に素早く適応する能力は、ここから培われたものでしょう。
 しかし反面、こうした日本人の性向が、自己の置かれた社会的な状況に対する″一貫性のなさ″″無責任の体系″をつくりあげてしまっている、と厳しく指摘する人もいます。
 ゴルバチョフ 率直に話していただき、感謝します。日本はすばらしい国です。ただもちろん、このままの日本であってよい、ということではありません。日本も今後、さまざまに変化していくことでしよう。
 池田 今年(一九九五年)は、終戦五十年の節目にあたっています。悪夢のごとき第二次大戦中の日本で、個人においては「滅私奉公」、国家においては「大東亜共栄圏」といったスローガンが表現していたもの――それは、個々の人間の尊厳を消し去り、茫漠とした全体性に自己をゆだねて顧みない、″無責任の体系″そのものではなかったか。
 昭和天皇の側近で、太平洋戦争回避のために腐心しつづけたある人物は、「私は、昭和の歴史を顧みて、一口でいえば″あれしか仕様がなかった″と考える」と述懐しています。そこには、個人の主体的な努力など飲みこんでしまう、日本社会の一種の度しがたさのような虚しさが感じられます。
 こうした状況下で、牧口常三郎初代会長は、平和への断固たる使命に殉じたのです。
 個の主体性を放棄することに″美″を見いだす日本的な生き方は、敗戦とともに決定的な破局を迎えました。にもかかわらず、それははっきりと自覚されず、現在もなお、日本人のメンタリテイーの底の部分に、根強く生きつづけているようです。
3  さまざまな「日本人論」の背景
 池田 たしかに日本は、戦後、奇跡的な高度経済成長をなしとげました。しかし、企業の利益のために、″われを忘れ″″己を空しくして″奔走するジャパニーズ・ビジネスマンあればこそ――という指摘が、国内外でなされています。
 今日なお、日本の戦争責任に関するあまりに無責任かつ不見識な発言が、政治家の口をついて出てくるのも、そうした「没我的な」メンタリテイーの表れなのかもしれません。
 同じ敗戦国でありながら、ドイツはみずからの手で戦争犯罪を裁いているのに、日本は一つも行っていません。否、そうした″無責任の体系″のなかでは行えないのでしょう。戦後何回も言論界で繰り返された戦争責任論も、みるべき成果を生んでいるとはいえません。
 そうしたところが、各国から、「日本人には歴史意識が欠落している」「歴史的健忘症である」と批判されるゆえんではないでしょうか。
 ゴルバチョフ それは、私がうんぬんすべき問題ではないでしょう。ただ、私は日本人の英知を信じます。自国の歴史上、最も悲劇的なこの問題に対して、日本人はみずからの力で、解答を見いだすことができると信じます。強制的に、だれかを懺悔させることなどできないのは明らかです。
 ましてや第二次世界大戦後、悲惨な出来事が数多く起こったことを考慮すれば、どの国の人々に罪と責任があるのかという問題は、より幅広い歴史の文脈のなかで検討する必要があります。
 たとえば、独裁的権力をふるったフランシスコ・フランコの死後、スペインの人々によって民族対立が解決された事例は、私たちロシア人にとっては、じつに魅力的なのです。それは、鞭を振るわず、刑に処さず、民主的和解の道を探ることです。
 もちろん、繰り返しますが、日本の場合は特殊です。したがって、ここでは、日本人自身が解答を見つけるべきでしょう。
 池田 近年、アメリカなどでは、多くの「日本人論」が試みられています。そこでは、日本人の特質を高く評価するものから、逆に日本人異質論を唱えてバッシングの材料にするものまで、さまざまに振幅があります。いずれにせよ、不可解な国、とっつきにくい国民というイメージは、なかなか拭えないようです。
 たとえば、人生観の根幹にすえるべき宗教についても、日本人は、元日には神社に参拝したかと思うと、葬式は仏教で行い、結婚式は教会というように、その場その場で、都合のよいものを選んでいます。これなども海外の人々には、非常に理解しにくい現象ではないでしょうか。
4  経済的繁栄と「文化」「精神」の衰弱
 池田 日本に、長年滞在している宗教学者のヤン・スィンゲドー教授は、こうした日本人の宗教意識を、「フロシキ的宗教心」と呼んでいました。何でも包み込み、丸いものを包めば丸くなり、四角いものを包めば四角くなるというわけです。変幻自在な日本的シンクレティズム(諸教混交)を、見事に言い当てています。
 物事の是非をはっきりさせない、ぬるま湯的な精神性は、それなりに居心地がよく、たしかに、日本一国の発展だけを考えていればよい時代には、大きな利点であったかもしれません。
 しかし、国際化が進み、異文化との対話・交流が消長のカギを握るようになった今日、この日本的メンタリテイーだけではもはや立ち行かない。確固とした「精神の柱」「信念の軸」をもたなければ、世界のなかで信頼を得ることは、とうていできないでしょう。
 戦後の経済的繁栄によって、日本人はすっかり傲り高ぶってしまいました。経済優先で、「文化」と「精神」は、残念ながら衰弱しているといわざるをえません。
 ゴルバチョフ 物質と精神の両方の面が合わされば、どちらも価値が出てくるのではないでしょうか。
 人間は、多くの未知の部分を秘めています。その秘められたものをどう目覚めさせ、引き出していくのかがポイントです。
 池田 そこに、哲学の根本課題があります。しかし、日本は今、哲学も、信念も、理想もなく、目先の利害だけで動いています。
 これまでの歴史のなかで、発展の″踏み台″としてきたアジア諸国に対するあからさまな蔑視の態度は、いっこうに改まる気配すらありません。私は、このような日本の将来を深く憂えています。あなたが評価してくださった、日本人の「聡鶴就敵」「溺進性」「継承性」などの資質――これらは、ロシアの改革にとって、なんらかの示唆をもたらすこともあるでしょう。
 しかし、物事にはつねに二面性があります。逆に日本では、哲学不在の「御都合主義」からどう脱皮するかが強く問われています。日本の国際化の側面からみると、強い信念と現実との格闘の末に生まれた、あなたの「漸進主義」や「寛容性」の主張こそ、傾聴すべき哲学をはらんでいると考えます。
 ゴルバチョフ 池田さん、私はあなたの勇気に感動をおぼえます。自分の国の欠点について、これほど誠実に忌憚なく発言することは、だれもができるわけではありません。それを、あえて発言されるあなたは、本当の意味での″祖国の息子(ロシアの慣用句で、その国が誇りとする人格者)″であることの証左です。
 あなたの振る舞いをみていると、私は、日本人は自省できる国民であるだけではなく、過去の歴史を乗り越えて、歴史の真実に対し、より開かれた自由な心をもつことができる、と確信できます。
 池田 そこで大切なのは、健全かつ創造的な批判精神です。私の恩師は、青年に限りない信頼と期待を寄せつつ、「青年は国の眼目である。強き批判力のゆえである」――と強調していました。
 日本の宗教史、仏教史の教えるところは、こうした批判力、批判精神をもたないと、結局、宗教は権力のなかへ取り込まれてしまい、御用宗教に堕してしまうということです。批判力の批判力たるゆえんは、それが一個の人間の自立の根拠となり、国家権力をも相対化してしまうほどに、個を尊厳ならしむるからです。
 私どもの宗祖は、権力の迫害に対し、「わづかの小島のぬしら主等をど威嚇さんを・をぢては閻魔王のせめをばいかんがすべき」と、国家権力を相対化し、はるかにそれを見下ろしていく根拠をはっきりと示されています。
 ゴルバチョフ そうですか。あなたの精神性の源もそこにあるわけですね。
 池田 そのとおりです。先のスィンゲドー教授は、「日本は『和』の国であるといわれておりますが、その『和』は日本の和だけにとどまってはならない」と警鐘を鳴らしています。
 そして、私どもSGI(創価学会インタナショナル)の運動について、「世界を対象にした平和の『和』であって、これは日本の宗教界にあって大きな変化を示す運動だと思う」と、期待を寄せてくださっています。
 これは「国民性」というより、「一国の境涯」とでもいうべきテーマかもしれません。東洋の英知の最高峰である仏法を基調とした私どもの運動の射程も、まさしくここにあるのです。
 ゴルバチョフ 創価大学の講演でも申し上げましたが、ロシアの政治家も、今後、ロシアがアジア的な国家であり、アジアと運命を、そして未来をともにしていることを、理解していかねばならないと思います。
 池田 今こそグローバルな発想が不可欠です。日本文化の特性である協調性・漸進性の「和」を、より世界に開かれた共生の「和」へ――いわゆる「島国根性」とは徹底的に対決し、人類的視野へと目を開いていく。これが、私どもの「対話」を通しての運動の身上なのです。
5  共産主義とキリスト教の相関関係
 ゴルバチョフ 次に質問したいことは、現在、わが国で注目を集めている政治的論議に直接、関係する問題です。それは、共産主義とキリスト教との関係性についてです。
 共産主義とキリスト教の根底を成しているのは、どちらも「平等の原則」であるとする考え方がありますが、これは、正しいといえるでしょうか?
 現在、私たちゴルバチョフ財団では、二十一世紀を前にして今後の動向に関する研究に力を入れているところです。そのなかで、私たちが関心をいだいているのは、文明論的視点から、新しい時代の要請に応えうるものは何か、逆に時代の流れから取り残されたものは何か、という点です。
 目下のところ、旧東欧諸国やロシアでも、反共産主義の波に乗って、キリスト教への期待感が増大しています。共産主義は、もう過去のものという考え方が支配的なのです。
 池田 そうですね。たしかにそういうことはよく聞きます。
 ゴルバチョフ しかし、そうした見方は、正しいのでしょうか? 社会主義者とは決していえないレフ・トルストイでさえ、「絶対的平等」こそキリスト教をはじめすべての宗教の基盤である、としているのです。
 彼はこう書いています。
 「キリスト教によって、すべての人間は神の子と認められ、それゆえに、永遠対人間の関係から導き出される結論としてではなく、すべての人間は兄弟であるという根本的教えとして、人々の平等が宣言されたのである」
 そうだとすれば、キリスト教が影響力を増しているということは、絶対的平等思想が影響力を増している、ということになるはずです。
 池田 これは、われわれ日本人には、少々わかりにくいテーマかもしれません。ただ、貴国をはじめ共産主義国であった国々にとっては、二十一世紀を前に、思想の根幹にかかわる重大事というわけですね。
 ゴルバチョフ ええ、共産主義においても、「平等の理念」以上に大事なものは、他にはないのです。はからずも、原始キリスト教が共産主義的であったことは、多くの思想家によって指摘されるところです。
 つまり、問題の核心は、キリスト教と共産主義の相関関係にあるわけです。
 共産主義的平等観に、二十一世紀を担いうる未来性はあるのでしょうか? そうでないならば、社会主義と共産主義思想を、完全に宗教的イデオロギーで置き換えることができるのでしょうか?
 これに関連して、マルクスとイエスが果たした歴史的役割が類似していることから、イエスをマルクス登場の″預言者″とみる人もいますが、これについてはいかがですか?
 マルクスは「この世の財宝を己のために集めてはならない」と語っていますし、一方、イエスも、「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、争いをもたらすために来たのだ。わたしは反抗させるために来たからである。息子を父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに」と言っているのです。
 池田 今のイエスの言葉は、たとえば、トルストイの名作『アンナ・カレーニナ』の主人公レービンのような良心的キリスト者にとって、つねに″つまずきの石″となってきたものですね。
 愛の宗教であるべきイエスの教えが、″平和″ではなく、″争い″をもたらすのが目的というのですから、困惑するのも無理からぬところです。
 実際、この個所は、宗教戦争などで武器を手にすることを正当化するために、しばしば使われてきました。
 また、ここから乱暴かつ短絡的に処生訓を引き出してしまうと、骨肉の仲を引き裂いて平然たる、当世はやりのカルトの教祖に、イエスを擬してしまうことにもなりかねません。
 この言葉は、いつになっても浮世のしがらみから抜け出すことのできない人間に対して、そうした世俗的世界に一度、決別することをうながすものと、私はみております。
 それはまた、世俗の絆がら解き放たれ、出離した超越的・宗教的世界の開示ともいえましょう。言葉を換えれば、神と人間を峻別することにより、「人神」たらんとする人間の思い上がりを戒めるところに真意があると理解しています。
6  世界宗教史における二つの「平等観」
 池田 しかし、世俗的世界と超越的・宗教的世界を峻別するあまり、逆にそれが、聖と俗の間に、微妙な差別思想を持ち込むことになったのは、否めないのではないでしょうか。とくに、歴史に刻まれたキリスト教の影響性という点で、はっきりしています。
 仏教では、たとえば、釈尊が、「如我等無異(我が如く等しくして異なること無からしめん)」と、仏と凡夫が一体であるとの平等観を説いているように、神と人間を峻別し、神の下での平等を掲げるキリスト教的平等観とは明らかに異なり、世界宗教史のもう一つの水脈を形成していると思います。
 もちろん、聖職者の横暴や腐敗、堕落といった宗教一般の通弊が、仏教史を汚しているのも事実ですが、キリスト教ほどの聖俗間の対立・葛藤をもたらすことはありませんでした。
 さて、それはともかく、キリスト教と共産主義との間には、おっしゃるとおり、多くの類似点を見いだすことができます。絶対的平等思想や私的所有の禁止、選民思想、メシアニズム(救世主待望論)等々。
 それゆえに共産主義は、キリスト教の″代替宗教″″影の宗教″などと呼ばれたこともありました。
 そうした両者の類似性というか逆説的な親近性は、ヨーロッパ諸国よりもロシアにおいて、とりわけラディカル(極端)な姿をとってきたようです。
 そのことを倦むことなく説きつづけた一人が、かのベルジャーエフですね。
 古代の修道僧からあなたのあげられたトルストイまで、キリスト教的立場からの徹底した私有財産の告発は、枚挙にいとまがありません。その徹底性は、私的所有を諸悪の根源としたマルクスやプルードンさえ顔負けでしょう。
 にもかかわらず、権力構造に飲みこまれたキリスト教会は、貧者よりも富者に、抑圧される側よりも権力側に、迷える″一頭″よりもその他の″九十九頭″に、肩入れしてきた側面がたしかにありました。トルストイが、ロシア正教会の堕落を糾弾してやまなかったゆえんです。
 ゴルバチョフ 私がつねづね感じていることなのですが、もしあなたが言われるように、宗教がなんらかの形であれ、平等思想をもつのであれば、なぜそれが第一義にされなかったのでしょうか? それどころか、なぜ聖職者は「平等の思想」を現実には実践してこなかったのでしょうか?
 池田 だからこそ社会主義者が、貧者、被抑圧者にスポットを当て、救済の役割をとって代わろうとしたのでしょう。ゆえに、「共産主義者はキリスト者にとって大いなる良師である」とベルジャーエフは言いました(『ロシア共産主義の歴史と意味』、『ベルジャーエフ著作集』7〈田中西二郎。新谷敬三郎訳〉白水社)。
 「かれら(=キリスト教徒)はたんに(=共産主義の)告発者、審判者たるばかりでなく、改悛者でもあらねばならない。キリスト教徒は社会生活にキリスト教的正義を実現するため、多くのことをなしたか?
 かれらはかれらが共産主義者を告発するのと同様の憎悪と暴力なしに人間の同胞愛の実現に努力したか? キリスト教徒の罪、歴史的教会の罪ははなはだ大きかったし、これらの罪はかれらに正しい罰をもたらしたのである」(同前)と。
 現在のロシア正教復活の潮流のなかに、ベルジャーエフの言う「告発者、審判者たるばかりでなく、改俊者」としての内省と自覚、もしくは展望を見いだせるかどうか、詳しい事情に通じているわけではありませんが、私は祈るような思いで見守っています。
 かつて西側と呼ばれた国々にしてもそうです。社会主義陣営の崩壊を、リベラルな民主主義の勝利だ、「歴史の終わり」だと調子に乗っているうちに、希望的観測はみるみるしばみ、今、世界は、世紀末のカオスの闇に覆われています。
 そうした荒涼たる現実に照らしてみれば、社会主義、共産主義と宗教的イデオロギーを簡単に置き換えることなど不可能であり、宗教の側に、それをいう資格もないと考えます。われわれの追求する「二十一世紀と宗教」というテーマは、まさに未開発の荒野に鋤をふるい、種をまく未聞の労作業に等しいのです。
7  「理想社会の神格化」こそ悲劇の根源
 ゴルバチョフ 同感です。ここで私は、何も新しいことを提起しているわけではありません。すでにトルストイが、この点に目を向けています。
 「人々の平等についても必ず認める新しい宗教が出てくるたびに、不平等のほうが都合の良い者たちは、あっというまに教義そのものを歪めてその宗教の特徴を残そうとする。いずこでも、いつの時代も、新しい宗教が出現するたびにそれは行われる」と。
 私が問いかけようとしているのは、多くの聖職者たちが戒を説きながら、それをみずから踏みにじることがどれほど危険か、ということです。これは現実的な意味を併せもつ問題です。
 わが国ではペレストロイカのおかげで、ロシア正教が復権しつつあります。これは、われわれの先祖から伝わる宗教ですから、喜ばしいことです。
 しかし、伝統の復活が、時として三流劇や精神的な意味を失った″飾り″に堕してしまうことに、懸念をおぼえます。
 現代の世俗的文明が、最終的に宗教を破壊してしまう危険性はないでしょうか。いつたいキリストの「山上の垂訓」を完璧に守っているキリスト信者が今日、一人でもいるでしょうか!
 池田 微妙かつ非常にむずかしい問題ですね。
 トルストイは『クロイツエル・ソナタ』で、この問題を真っ正面から取り上げました。人間にとって、理想は高ければ高いほど、また、実行が困難であればあるほどよい。理想は、永遠の極みにおいてのみ、到達が予想されるのであって、現実に到達されてしまえば、もはや理想ではない。現実をもってよしとするならば、進歩も成長も、その時点で止まってしまうであろう。
 もし、理想の名に値する理想であるならば、人々を中途半端な段階の自己満足に安住させず、はるか高みから人間を導き、生々流転しゆく社会のなかで、無限の進歩と創造をめざす間断なき挑戦、間断なき飛翔を可能ならしむるにちがいない――と。
 ゴルバチョフ ええ。よくわかります。トルストイらしいですね。
 池田 彼は、巧みな比喩を使って述べています。
 「外面的法則を守る人は、柱に縛りつけられた灯人の中に立っている人である。彼はこの光の中に立っているが故に明るい、従って、もはや先へ行く必要はないのである。キリストの教えを奉じている人は、長短の相違こそあれ、棒の先に提灯をつけて行く人である。灯火は常に彼の前方に在って、常に自分の後からついて来るように人をそそのかしながら、人を牽きつける新しい明るい世界を展げて見せる」(『クロイッェル・ソナタ』米川正夫訳、岩波文庫)と。
 総じて理想というものは、トルストイのように受けとめていくのが、正しいでしょう。しかし、おっしゃるとおり、現実は厳しい。一世紀前には、トルストイという精神的巨人の訴えは、ロシアのみならず世界的な反響を巻き起こしましたが、今日の精神状況下では、そうした波及性を望むべくもない。
 以前にも論及したように、仏法では、社会の混乱を「五濁」と説きます。一言にしていえば、シニシズムです。
 私と対談集を編んだアメリカのノーマン・カズンズ氏は「シニシズムは知的裏切り行為である」として、「今日我々の目前にある仕事は、嘲笑することではなくて、励ますことである。徒らに高遠な理想の消滅を嘆く我が国のインテリたちは、自分自身の致命的欠陥を告白しているにほかならない」(前掲『人間の選択』)とつづっています。
 ゴルバチョフ おっしゃることは、よくわかります。私は、「二十世紀の精神の教訓」というテーマに即して、ここで、進歩の原動力である理想が、本質的にもつ矛盾に目を向けてみたいと思います。
 もちろん、暗闇の道を行く人の足元を照らす明かりがなければ、人類史も現代文明もありえなかったでしょう。理想とは、精神的成長、人格形成をうながし、厳しい試練を耐えぬくための支えとなります。
 しかし、私たちは、自国の歴史を通じて、理想を信ずることが、否定的な結末をもたらすことを知っています。それは「理想」が、偶像とすり替えられたからだけではありません。
 理想は精神を高めるが、同時に、現実世界を直視するのを妨げもします。ゆえに、トルストイは、それとは知らず、ポルシェビキ革命の精神的前提を用意してしまったことを認めざるをえません。
 池田 トルストイをこよなく尊敬していたステフアン・ツヴァイクが、「彼(=トルストイ)はその力、決意、その執拗さ、その無際限の勇気にふさわしく、一方ではルターやカルヴァンのごときまことに熱心な宗教改革家よりもすすんで先を、他方社会学的な意味で、シュテイルナーやその門徒のようなきわめて大胆不敵なアナーキスト(=無政府主義者)よりも前方の道を歩む」(『宗教的・社会的思想家としてのトルストイ』猿田悳訳、『ツヴアイク全集』21所収、みすず書房)と評したような、文豪の極端に走りがちな理想主義は、おっしゃるように、「それとは知らず、ボルシェビキ革命の精神的前提を用意してしまった」側面もあるのかもしれません。
8  ロシアの歴史に学ぶ「理想主義の背理」
 ゴルバチョフ 理想のプロパガンダ(宣伝)は、たとえそれが、最も善良な意図によるものであったとしても、必然的に特殊な世界観を形成し、生きた現実から目を背けさせるものです。
 わが国のインテリゲンチア(知識人)、極左主義、すなわち革命極端主義は、未来を理想化しようとしました。ロシアが夢見た理想の社会を神格化しようとしたのです。ここにこそ、わが国の悲劇のすべての根源がありました。つまるところ、本当に人間の精神的成長を助け、人生をより意義深いものにする理念と、逆に暴力とば嚇を引き起こす夢想とを峻別していかなければなりません。
 池田 なるほど、理想主義には、そうしたマイナス面があることを見逃してはならないということですね。
 あなたが今あげられた革命極端主義は、おそらくキリスト教にもとづく一神教的な伝統がはらむ負の側面が、突出した形で表れてきたものだったといえるかもしれません。
 神と人間、神の世界と人間の世界が隔絶され、神や神の世界が理想主義的に尊崇されるあまり、かえって人間自身や社会に、多大な災いをもたらしてしまったという逆説的事情は、不幸なことに、歴史的にもしばしば見受けられるところです。
 ちなみに、一九九〇年、私は当時のソ連の非暴力研究所の求めに応じて寄稿した一文のなかで、理想を実現する手法において、徹底しているというか、極端に走りがちという点で、トルストイ主義とレーニン主義は、一見正反対であるにもかかわらず、奇妙なトーンの一致がみられることを指摘したことがあります。
 ゴルバチョフ そうですか。理想的未来を神格化するとき、必然的に現実への懐疑的な態度を生み、幾多の民衆が依って立つところのものを疑問視させてしまいます。われわれの経験が示すように、未来の神格化は、自国の国民が作り上げたものへの過小評価を生み、ついには、民族的ニヒリズムヘといたったのです。
 理想的未来の神格化は、正常な人間の欲求、わが国で軽蔑をこめて、「ありふれた日常生活」と名づけたものへの過小評価をもたらしてしまいました。
 池田 あなたが、以前に「エリート意識」「思い上がり」「排他的絶対性の主張」とおっしゃった点ですね。
 仏教とくに大乗仏教では、むしろ、現実の日常のなかに理想をとらえます。日蓮大聖人は、「智者とは世間の法より外に仏法をおこなわ」と記しています。この対談の文脈に寄せていえば、仏法の理想は、あくまで現実に即して、現実社会のなかで展開され、実現されねばならない、ということになるでしょう。
 そこから敷衍して、「たとえ仏教を知らなくても、民衆を助け、よい政治をする人がいたならば、仏教の智慧を含みもっていたのである」といつた、一般の宗教的常識からみれば、驚くべき大胆な発言があります。
 そこでは、仏教の世界と世俗社会とは、ほとんどオーバーラップしているといってよいのです。もとより、それは原理であって、現実の仏教がその原理どおりに展開されたかといえば、そうとはいえません。
 しかし、こうした原理的アプローチは、「神のもの(宗教的な価値・世界)」と「カエサルのもの(世俗的な価値・世界)」をたて分けるキリスト教伝統の原理的アプローチとは、明らかに異なりますね。
 ゴルバチョフ そう思います。前世紀、理想主義者たちが知識界を支配していた時代、生活のなかで繰り返される日常茶飯を憎まずして″真の革命家″にはなれない、と多くの人が深く信ずるようになりました。この点で、バクーニンと、ネチャーエフの『革命家の教理問答書』などは、典型的ともいえます。そのなかで、彼らが考える献身について述べています。
 「革命家は死すべく運命づけられた人間である。彼には自分自身の利害もなければ、感情も愛着も財産もなく、名前すらない。彼のうちなるすべては、たった一つの特別な利害、唯一の思想、唯一の情熱――すなわち革命によって占められている」「自らに対してきびしい革命家は、他に対してもきびしくあらねばならぬ。肉親の情、友情、恋愛、感謝そして名誉といった、あらゆるかよわく柔弱なる感情は、革命の事業の唯一の冷たい感情によって、自らのなかに抑圧せねばならぬ」(『革命家の教理問答書』外川継男訳、『パクーニン著作集』5所収、自水社)
 ここにすべての悲劇があります。私たちが社会主義的実験の悲劇をもって償ってきた教訓なのです。
 池田 かつてこの対談で、「自由の背理」について論じましたが、ロシアの近・現代史からわれわれが学ぶべき教訓は、「理想の背理」、あるいは「理想主
 義の背理」ということでしょう。
 日本でも、太平洋戦争後の一時期、″革命前夜″と呼ばれる騒然たる時がありました。そうした風潮下で、青年たちは、革命のためには、家庭的な幸福など、日常茶飯のことは犠牲にされるべきだと、熱心に論じ合っていました。
 しかし、ロシアにおいてデカプリストやナロードニキ(人民主義者)以来の理想主義というものが、その美しい外貌とは裏腹に、どんなに狂暴な力を振るってきたか――日本人の想像を超えるものがあるでしょうね。
 ゴルバチョフ そうです。確かに、理想なくして生きていくことはできません。しかし、理想は全体主義、生命に対する暴力の危険性をはらんでいます。
 このことは、旧ソ連における共産主義的実験が終わった今、ようやく明らかになったのです。あまりにも重い代償です。この教訓は生かされなくてはなりません。
9  拝金主義は現代文明の特徴的な欠陥
 池田 話を戻しましょう。キリスト教と共産主義ということで、もう少し申し上げれば、あなたは、″全知全能″であるはずの宗教が、なぜ宗教戦争という野蛮きわまりない行為を克服することができなかったのか、と設問されました。
 しかし、皮肉なことに、″全知全能″の宗教であるがゆえに宗教戦争が起こった、と私には思えてならないのです。
 ″全知全能″という点においては、キリスト教の「神」が演じた役割も、共産主義社会で「イデオロギー」が演じたそれも、瓜二つといってよいほど酷似していました。双方とも、めざしたものは″全知全能″による世界観の独裁であり、それは、政治や経済など形而下の次元にとどまらず、何にもまして思想、信条、良心など形而上の次元をも支配下に置こうとするものだった、といえましょう。
 世界観の独占と独裁を企て、人間の内面をも支配下に置こうとする者同士が共存しうるはずがなく、互いに排除しようと激しく対立し合うのは、当然の帰結であったのでしょう。レーニンの狭量が、激しい憎悪をもって目の敵にしつづけたのも、宗教もしくは宗教的イデオロギーでした。
 ゴルバチョフ よくわかります。そうした急進的な態度は、それがどのようなものであれ、同一の危険性をはらんでいるのです。
 池田 人類は、何度、悲劇を繰り返したことでしょう。そうした″神″や″イデオロギー″を特徴づけているのは、前に論じた「内在的規範」に対していえば、それがいちじるしく「外在的規範」であったということです。
 二十世紀における共産主義の失敗を、文明論的な流れに沿って考えるなら、私は、なによりも「外在的規範」の挫折ととらえたい。とはいえ、自由主義社会に、それに代わりうるものが用意されていたとは、とうてい言えません。
 イデオロギーのいかんを問わず、現代人の精神世界を支配しているのは、端的にいって、「拝金主義」の風潮だと思います。それは、かつての「神」や「イデオロギー」よりも、もっと原初的で、まがまがしい「外在的規範」といってよい。
 一九九四年、わが国の流行語大賞に、いじめられつづけた女の子の、「同情するならカネをくれ」という言葉が選ばれました(笑い)。これも、時代の一つの反映といえるでしょう。
 かつて、あなたとの会見の折にもふれましたが、ロシアの文豪チェーホフの名作『桜の園』には、傲慢な「魂なき富豪」と、富はなくとも「理想に生きる青年」が登場します。青年は叫びます。
 「人類は、この地上で達しうるかぎりの、最高の真実、最高の幸福をめざして進んでいる。僕はその最前線にいるんだ!」(神西清訳、『世界文学大系』46所収、筑摩書房)と。胸中にこうした高らかな理想をもった青年が、今のような社会で育まれるでしょうか。
 本年(一九九五年)三月、私は貴国の国際児童基金協会から「レフ・トルストイ国際金メダル」をいただきましたが、その授賞式で、リハーノフ総裁は、「拝金主義者が、不正な富の取り合いで殺し屋を使い、別の拝金主義者を殺害するという事件がほとんど毎日ともいえるくらい起こっている」と嘆いておられました。
 こうした「拝金主義」の風潮をどう思われますか。
 ゴルバチョフ 今、あなたが提起された問題は、最近、私もたいへん心配しています。
 現在、共産主義文明の危機、共産主義的メシアニズムの失敗について、盛んにいわれています。それはいずれも正しいでしょう。特別な共産主義文明、特別な共産主義的人間をつくろうとする試みは、結果を出せずに終わりました。
 しかし、だからといつて現代の西欧のブルジョワ文明が、未来に向かう精神の羅針盤を人間に与えうるわけではありません。現代の西欧文明は病んでいます。これについて、私はフランスやドイツ、アメリカで多くの優れた人々、知識人と対話をする機会がありました。
 あなたのおっしゃった拝金主義や商業主義、居候根性すなわち他力本願は、現代文明の最も特徴的な欠陥です。
 ヨーロッパに回帰し、現代文明の時流に乗ろうとする現代ロシアの試みは、今のところ、商業主義を横行させ、いちはやく金持ちになろうとする欲望を煽る結果しかもたらしていません。ですから、あなたと同じように私も、この拝金主義の風潮をたいへん懸念しています。
10  「人間のための宗教」への指標
 池田 ここで、私は、一人の仏法者について言及したいと思います。
 大乗仏典を代表する法華経のなかに、常不軽という菩薩の姿が描かれています。彼は、社会状況が混迷を極める時代を生きました。その宗教的実践は、非常に特徴的なもので、すべての人に頭を下げ、礼拝したのです。
 傲慢な人々は、その行動を罵り、なかには石を投げ、棒で叩く人々もいました。しかし、彼は礼拝をつづけたのです。なにゆえか――すべての人々には、仏性があるからです。
 普通、宗教といえば、聖性を人間の外に想定するのが常です。キリスト教の全知全能の神にしても、人間を超越したところに″おわします″のです。
 それに対して、通常考えられている仏教は、″自己″のなかに聖性をみるわけです。しかし、大乗仏教の究極ではもう一歩進んで、″自己″とともに、″他者″のなかにも聖性をみるのです。
 ここに宗教の新しい一つのあり方、つまり「宗教のための人間」ではなく、「人間のための宗教」をめざす宗教の一つの究極がある、と確信します。
 ゴルバチョフ あなたが「内在的普遍」を強調されるのも、そのためですね。
 池田 そのとおりです。釈尊は「人間のための宗教」を打ち立てたのです。
 あるとき、釈尊は、病人のために藁のベッドを調え、体を拭いてあげ、汚物で汚れた衣を洗濯し干してあげた。そして、周囲の人に、「この方の面倒をよくみてあげてください。なぜなら、悩める人に奉仕することは、仏に仕えることと同じなのですから」と語るのです。
 また、釈尊はある人から、皮肉をこめて、「あなたの弟子には、まだ究極の境地にいたっていない人がいるのでは?」と問われたとき、「私は道を教える者にしかすぎません」と言いきっています。
 本来、仏教が説く「仏」とは、″聖なる境地″に安住した聖者然とした存在ではありません。「つねに怠ることなく勤め励む者であった」と教典に記されているごとく、闘いつづける人こそ「仏」だったのです。
 「仏」とは闘いによって、磨きぬかれた人格の人なのです。釈尊は、まさしくその人生をかけて、「宗教のドグマ化」にまっこうから挑戦しました。
 ゆえに、仏教にあっては、「仏」は「覚者」とされます。すなわち、みずから真理を覚り、他人にも覚らせて、覚りのはたらきが満ちている者のことをいいます。
 平易な言葉で言うなら、最高の人格形成へのあくなき意志といってよい。トルストイの宗教観に、仏教的なものがあるといわれるのは、そのあたりと響き合っているのかもしれません。聖性を徹底して「内在的普遍」の発現ととらえる点において――。
 懸命に生きる人々に、ひたむきなその人生に、その真心に、最高の敬意を表することができるよう、私自身、つねにみずからに言い聞かせています。そこに、信仰の実践の眼目があるからです。
 ゴルバチョフ よくわかります。名誉欲に抗する処方箋は、高尚なる魂に求める以外にありません。その意味で、無私無欲は聖性といえます。それは仏教の説くところであり、またキリスト教の説くところです。
 わがロシア正教の受難者たちも、この無私無欲をもって人々に奉仕し、信仰のために、祖国のために、みずからをいとわないという点で卓越していたといえます。
 このような聖者の一人に、徹底して悩める民衆のなかへ飛び込み、悩みや苦しみを共有しながら、救済の手を差し伸べようとしたセルギー・ラドネシスキーがおります。
 このような人々は、みずからの精神性によって、一人一人の人間に希望と信仰を蘇らせるのみならず、一国、一民族の精神の復興を可能にしていくものだと思います。
 池田 すばらしい発言です。総裁の志向性は、宗教というより、精神的、道徳的進歩のための価値観にあると思います。宗教も、この点に貢献できるか否かで、淘汰されていくでしょう。
 多くの川がやがて大海をつくるように、一人一人の″人生の再生″と″人間の革命″があってこそ、新しきルネサンスの潮流は流れ始めると、私も信じています。

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