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日蓮大聖人・池田大作

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東洋と西洋が出合うとき 人類的価値と宗教の智慧

「二十世紀の精神の教訓」ミハイル・S・ゴルバチョフ(池田大作全集第105巻)

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2  宗教の普遍的な意義をめぐる思索
 ゴルバチョフ あらゆる人間に共通する価値の本質と根源に迫ろうとしたとき、無神論者であり、マルクス主義者の私たちは、否応なく、『新約聖書』に説かれた「山上の垂訓」を、ふたたびひもとくところとなりました。
 「あなたたちも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておくが、兄弟に腹を立てる者はすべて裁きを受ける」「あなたたちも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておくが、みだらな思いで女を見る者はだれでも、すでに心の中でその女を犯したのである」
 「また、あなたたちも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主(神を指す)に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。しかし、わたしは言っておくが、いっさい誓ってはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは″大王(神を指す)の都″である。また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないのだ」(『新約聖書』共同訳・全注、講談社学術文庫)
 ここで全部を引用いたしませんが、私は、これに関連して、思索をめぐらせていることがあります。
 はたしてこの「山上の垂訓」を、人類の英知の結集であると主張できるか? いわゆるユダヤ・キリスト教的価値観と全人類的価値観とをイコールで結んでよいか? との点です。
 池田 東洋と西洋では、文化の背景が違います。発想のしかたも異なります。ただ、総裁の質問の意義は理解できます。
 ゴルバチョフ 私のこの疑問は、ふたたび自分の前に、絶対崇拝の″偶像″を作り出したくはない、との思いから発せられていることをご理解ください。
 さらに、今日、全人類的価値という″貯金箱″に、東洋は何を入れることができるのか、また入れなければならないのかを理解したいと願い、質問したのです。
 私は、「宗教の違い」というものは、初めから存在しないのであって、存在するのは、唯一の全人類的普遍的英知だったのではないか、「宗教の違い」とは、ただその英知が、さまざまな言語で語られただけではないかと思うのです。そして、キリストもアラーも、″悪を創造するもの″と″善を創造するもの″とを区別することができた、と。
 池田 それについては、さまざまな考え方があるでしょう。さて、あなたは、「山上の垂訓」を例に挙げて、宗教の普遍的な意義について考えを述べられました。
 イエスが語った「山上の垂訓」では、旧来のユダヤ教の教えが批判されています。「右の頬を打つなら、左の頼をも向けよ」とか「狭き門」など有名な語句もあり、キリスト者の倫理基準とされてきたものです。
 結論的には、そこには、ある意味で、全人類的価値観が含まれていると考えられます。ただし、それをユダヤ・キリスト教的価値観と呼んでいいかどうかは、疑問の残るところです。
 ゴルバチョフ ええ。私の質問の意図もそこにあります。
 池田 まず、ユダヤ教的価値観との関係性からいえば、「山上の垂訓」は、絶対的な神の命令として立てられた伝統的な価値観、つまり当時の硬直した律法(宗教上の規範)からの解放をめざしたものといえるでしょう。
 一般に、定立化した規範というものは、どうしても人間の心から遊離して、形式化し、複雑化する傾向をもっています。そして外的な規範となって、かえって人間を東縛する。
 また、複雑化した法律は、それをつかさどる専門家の専横と権威化を許してしまう。束縛と従属を強いるのみの形骸化した律法から、人は解放されなければなりません。
 ゴルバチョフ まったく同感です。それは、これまで私たちが最も感じてきたことですから。
3  「外的な規範」から「内的な規範」ヘ
 池田 では、どのようにして律法からの解放をなしとげようとしたのでしょうか。
 イエスは、律法を「廃止するためではなく、完成するため」に現れたということですが、「山上の垂訓」を見れば明らかなとおり、彼は、そこで律法の「内在化」をめざしたといえないでしょうか。そして、この「内在化」という一点に、全人類的価値としての普遍性があると、私は見ています。
 あなたが挙げていた例から、そのことを検証してみましょう。
 たとえば「人を殺した者は裁きを受ける」という旧来の律法を言い換えて、「兄弟に腹を立てる者はすべて裁きを受ける」と述べるとき、明らかに「人を殺す」という行為の根にある「怒り」「殺の心」に焦点を当てています。
 また、「姦淫するな」という命令に対しては、女性を見て「みだらな思い」をいだくこと自体、すでに心の中で罪を犯しているのだ、と。
 そして、施しや祈りや断食など宗教的に定められた行為について、人に見せるように行ってはならないとして、偽善を戒めるのも、″善″の行いの根底にあるべき信仰心を重んじているからではないでしょうか。そこには、「外的な規範」から「内的な規範」への転換が、明らかになされていると思うのです。
 ゴルバチョフ ひょっとしてここに、すべての宗教の奥義、共通の根があるのかもしれませんね。
 それは、儀式などではなく、「良心」からくる本能なのにちがいない。「良心」とは、唯物論ではどうしても説明のつかないものです。おそらく、「良心」こそが、精神の存在を裏づける最も重要な論拠なのでしょう。
 私は、この「山上の垂訓」のきわめて簡潔明瞭な説明をこう理解しています。
 律法を守っていても、心の中で罪深い考えの虜になってしまった場合には、すでに罪人である。したがって、あなたがおっしゃったように、動機の浄化、内在化にあそこまで重きを置いたのでしょう。つまり、私たちを突き動かす精神的動機を高尚にすることをめざしたわけです。
 この理論にしたがえば、「人間の救済」とは、すなわち「心の救済」であり、精神を高めることである。盗み、殺しなどの考えから人間を救うことです。
 池田 一つの次元から言えば、そのとおりだと思います。
 ゴルバチョフ さらに、大事なことは、人間が自分の罪深い考えを恥だと知ること、つまり、みずからの心の暗部を自制することを学ぶことである、と私は理解しています。
 聖書に次のようにあります。「お前たちはどう思うか。ある人が羊を百頭持っていて、その中の一頭が迷い出たとすれば、その人は九十九頭を山に残しておいて、迷い出た一頭を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わないでいた九十九頭よりも、その一頭のことを喜ぶだろう。そのように、これらの弱い者が一人でも滅びることは、お前たちの天の父(神を指す)のお望みではない」(前掲『新約聖書』)
 これは、弟子たちから「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と聞かれたとき、イエスがいたいけな一人の子どもを呼び寄せ、このような弱い者こそ、最も神にほめられるであろう、と語ったくだりです。
4  宗教の生命線――民衆への奉仕と救済
 池田 一頭と九十九頭のたとえは、象徴的であると思います。つまり、九十九頭というのは、いわゆる″量の世界″であり、一頭とは、″質の世界″ともとれます。
 政治は、″量の世界″の論理を軸として動いていますが、宗教は、「迷い出た一頭」をどうするかという視点を欠くと、どうしても制度化し、形骸化してしまいます。それは宗教にとって自殺行為です。
 私の恩師は、この世の中から「貧乏人と病人をなくす」ことが宗教の使命であると、まことに簡潔に語っていました。
 これは、経済的、医学的な意味に限られるのではなく、惰性と慢性と放逸に安住している″九十九頭″よりも、現実の苦悩に押しつぶされ、思い迷う″一頭″の救済にこそ、宗教の本義があることを述べたものです。仏典にもあるように、「病気の子どもには一際、親の愛は深い」のです。
 これは、宗教の生命線ともいうべき民衆への奉仕、救済にもつながる。この一点を忘れてしまうと、宗教は、権威主義の坂を転がり落ちてしまいます。人類の歴史上、いかに多くの宗教、また聖職者たちが、この轍を踏んできたことでしょう。
 当時の権威化した教会に対して、ゲーテは「教会は、その手を触れるものすべてを弱める」(『箴言と省察』岩崎英二郎。関楠生訳、『ゲーテ全集』13所収、潮出版社)と鋭い批判の矢を向けています。私が「内在化」ということを申し上げているのも、こうした″質の世界″を念頭に置いているのです。
 ゴルバチョフ わが国の宗教の歴史をみても、そのことは理解できます。
 池田 このような律法の「内在化」は、神の命令を内なる命令へと転換するものであり、神の「内在化」に通じるといえないでしょうか。それはまた、神の普遍性を人間自身にみることでもありましょう。
 イエスは、「求めなさい。そうすれば、神がくださる」と神の恩寵を説きながらも、「だから、人にしてもらいたいと思うことはなんでも、あなたたちも人にしてやりなさい」という人間の行動原理へと転換しています。ゆえに「内在化」とは、「人間化」ととらえることもできる。
 イエスが、「目には目を、歯には歯を」という復讐の論理を否定して、「もし、だれかがあなたの右の頬を殴るなら、左の頼をも向けてやりなさい」と説き、「隣人を愛し、敵を憎め」という憎悪の倫理に対しては、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と博愛を説くのも、神や律法の「内在化」を前提としたものとみることができます。
 こうした言葉を、「内在化」という過程を経ず、外からの規範として受けとめれば、たちまちのうちに、形式のみを重んずるパリサイ人(極端な律法主義者)的な偽善へと堕するでしょう。
 ゴルバチョフ あなたがおっしゃったイエスの教え、つまり「右の頬を殴るなら、左の頼をも向けてやりなさい」という教えは、キリスト教というよりはむしろ、ヒンドゥー教のものである、と聞いたことがあります。
 いずれにせよ、この思想そのものが卓越しているといえるでしょう。これは深く根を張ってしまった形式主義の破壊をめざしたものです。
 一種の精神的ショック療法です。このような行為は、苦しむ者だけでなく、その苦しみをもたらす者の心をも浄化します。
5  巨大な権威と対決したトルストイ
 池田 こうした「内在化」という視点は、たとえば、「神の王国はわが胸中にあり」と訴え、権力と結びついたロシア正教会の巨大な権威とまっこうから対決したトルストイの宗教観にも、通じていくのではないでしょうか。
 ゴルバチョフ 同感です。正教会の形式主義に対するトルストイの抵抗とは、パリサイ人や当時のユダヤ教の形骸化に対するイエスの抵抗に通じるものです。トルストイの論理はよく理解できます。もっとも私が、トルストイ主義者であったことは、ついぞありませんでしたが。
 わが心が潔癖であり、だれに対しても悪意をもつことがないならば、教会に行こうと行くまいと、神に祈ろうと祈るまいと、それは関係ない――これがトルストイの宗教観です。もしも心の平静を得、人々に善を施すことに喜びを見いだすことができるのならば、それは、自身の中に″神″が宿ったことになる。この点について、トルストイは、詳しく論述しています。
 「信とは希望や信頼を意味しない。それは、特異なる精神の状態を意味する。信ずるとは、人間を一定の行動に向かわしめるような、世界の中の自分の位置を自覚することである。
 人間が信仰にしたがって行動するのは、カテキズム(教理問答)のいうように、見えざるものを信ずるからではなく、また期待どおりのものを受け取ることを望んでいるからではなく、ただ、世界におけるみずからの居場所を確認することによって、人間が自然のうちにその置かれた場所に相応しい行動をしていくからである」
 池田 トルストイの言葉は、精神の浄化作用をぎりぎりまで進めた果てに開示される、″愛の無償性″を意味しているのでしょうね。
 ゴルバチョフ ええ。おそらく、信仰というものは、ある一定の精神的な飛翔、慣れ親しんだ旧来のものを犠牲にすることなくしては不可能なのでしょう。
 ロシアの哲学者ベルジャーエフも信仰の意味について、まさに同じ説明をしています。それは、信仰の本来の性質について、彼が語っているものです。
 「危険を侵さなければならない。不条理に賛同し、みずからの理性を離れ、全存在をかけて断崖絶壁から飛び降りる必要がある。そうして初めて信仰の英知の最高峰が開かれる。この行為にいたらないうちは、信仰のために意識的にすべてを放棄し、すべてに合意することなくしては、信仰の英知は開かれることはない。なぜなら、それは強制的知識となってしまうからだ。
 信仰実践のなかで結論を出し、自己を放棄するとき、飛翔することができる。至高の英知を得るであろう。信仰においては、個の小英知は、神の英知の前に席を譲り、それによって、普遍的至福の感情に自己を委ねる。至高の英知の奥底にあっては、信と知は不二となり、すなわち欠けることなき存在の全体を掌握する」
 池田 そのベルジャーエフの信仰観は、キリスト教が基盤となっていますが、私はお聞きしていて、法華経の経文の一節を思い起こしました。
 釈尊の直系の弟子である四人の声聞が、「無上宝聚・不求自得(無上の宝衆、求めざるに得たり)」と叫んだ場面です。
 釈尊の高弟であった二乗たちは、長い間、厳しく弾呵される。それはなにゆえか――彼らは、自身の救済のみを願うばかりだったからです。自分だけ苦悩を脱しようとする″小我″にとらわれていたのです。
 ところが、「あらゆる人が元来、仏になる可能性を秘めており、それを開化させるのが仏の最大の願いである」との法華経の教説を聞いてついに目覚めた。そして、衆生に対する仏の大慈悲の心をわが心として、蘇生したのです。
 先ほどの経文は、蘇生した彼らの歓喜の叫びを表現したものです。みずからの狭量な世界を捨て去り、広大な仏の慈悲の世界へ飛び込んでゆく――小さな「我」を捨ててこそ、宇宙大の「大我」を得ることができるのです。
 自力ですべてをなしうるかのように思い上がった現代人は、こうした全身全霊を打ち込んだ信仰から、なんと遠ざかってしまったことでしょう。現代とは、一言でいえば、「祈り」を忘れた時代といえます。
 しかしながら、こうした純粋な信仰心に乗じて、宗教をみずからの名聞名利のために利用しようとする悪人は、断じて許してはならない。それは、宗教を名のりながら、逆に、宗教の崇高さを貶めているのです。
 ゆえに、純粋さと同時に、そうした悪を鋭く見破っていく賢明さも備えていかなければならないのです。
 ゴルバチョフ そのとおりです。
 『どん底』に出てくる狡猾な修道僧は、それを雄弁に証明しています。
 池田 ともあれ、キリスト教であれ、仏教であれ、人間には、つまらぬ執着やちっぽけな己を乗り越えることによって、より大きなものを手にすることができるという逆説が必ずあります。
 私どもの信奉する日蓮大聖人も、世俗的な名誉や栄達に執着する名聞名利に対しては、じつに厳しく戒められています。
 たとえば、ある弟子が、当時の首都であった京都へ出かけ、公家らと交わり、法論をかわすなどして、多少有名になったのを自慢する気配がみえたとき、厳しく叱責しています。「権威にへつらうということは、結局のところ日蓮(宗教的価値の象徴)を卑じめていることではないか」「言葉遣いも京風になっていることだろうが、(格好などつけず)いなか言葉を使いなさい」(御書一二八六ページ、参照)等々。
 少々むずかしくなってすみませんが(笑い)、私たちが、毎日、「南無妙法蓮華経」と唱えるのは、宇宙根源の法である妙法に「南無」する――「南無」とは梵語であって、日本語で言うと「帰命」、「みずからの生命をもって帰すること」を意味します。
 つまり、「小我」という一切の執着を乗り越え、みずからの全生命をもって帰依(帰命)していくところに、「大我」という信仰の極致が開かれるとされているのです。
 いずれにせよ、傲慢な現代人は、自己を超えた存在を否定することによって、かえって小さな自我の中に閉じ込められてしまっている。
 私は、ベルジャーエフのアプローチとはニュアンス(意味あい)を異にしますが、人間の内面的な深化を通じて、″大いなるもの″へとアプローチしていかなければ、現代文明の行き詰まりを打開していくことはできない、という展望では同じです。
6  ドストエフスキーのカトリシズム観
 池田 「内在化」という点から、多少、話が前後しましたが、たしかに「山上の垂訓」は、律法に依拠する伝統的価値観からの解放をめざしたといえるかもしれません。しかし、これをキリスト教的価値観と呼んでいいかどうかは、速断できません。
 律法主義にみられる信仰の形式化、画一化は、他の宗教にもあてはまるからです。
 この点については、まずガンジーのすばらしい言葉を紹介してみたいと思います。
 「神は千九百年前にのみ十字架を背負ったのではなく、今日も背負っているのであり、毎日死んでは蘇っているのである。二千年前に死んだ歴史上の神に頼らねばならないとするならば、世界にとっては、はかない慰めであろう。だから、史上の神を説かず、今日生きている人間を通して神を示すがよい」(K・クリパラーニー編『抵抗するな・屈服するな』古賀勝郎訳、朝日新聞社)
 イエスは、この世に現れたただ一人の神の子であり、メシア(救世主)であるとの信仰が硬直化し、偏狭が原理主義におちいるならば、彼が示した内在的規範は、″キリストの命令″としてふたたび外在化され、抑圧の手段にされる危険性がある。ゆえに、「山上の垂訓」に含まれた全人類的価値観と「キリスト教的価値観」を、そのまま等置するのは、十分注意が必要でしょう。
 ドストエフスキーが、当時のカトリック教会がはらんでいた権威主義的体質を、ややファナティック(熱狂的)なまでに攻撃してやまなかった最大のポイントも、そこにあったのではないでしょうか。
 ゴルバチョフ あなたのおっしゃることは、多くの点で正しいと思います。
 『新約聖書』は、『旧約聖書』と矛盾するところが多くあります。私は、福音派でもプロテスタントでもありませんが、少なくとも今、聖書を読んでみると、新約の中に共感するものが数多くあります。やはり『新約聖書』で説かれた「山上の垂訓」のほうが、『旧約聖書』の「モーゼの十戒」より内容が豊かであるように思います。
 ここで、カトリシズム(カトリック教会の信仰)に対する、ドストエフスキーの見解について、少しふれてみましょう。
 断言はできませんが、この問題において、ドストエフスキーは、ロシアの近代思想史を貫流しているスラブ派と西欧派の対立という構図に、支配されていたのではないでしょうか。
 ドストエフスキーは、西欧文明の多くの欠陥、とくに個人主義の源をカトリシズムのなかにみていました。ドストエフスキーは、自身が多くの点でスラブ派であり、つまり、ロシア正教の信奉者であることを、みずからはつきりと語っていました。
 彼にとってのスラブ主義というのは、「団結したスラヴ民族の盟主となったわが偉大なロシヤが、全世界に、全ヨーロッパの人類に、そしてその文明に向かって、自分の新しい、健全で、まだこの世界が耳にしたこともない言葉を口にするにちがいないと信じているすべての人々の、精神的同盟を意味するものにほかならない」というものでした。
 ここで注目していただきたいのは、ドストエフスキーにとって、スラブ派という言葉とロシア正教という概念が同じであるという点です。
 池田 ドストエフスキーが、ロシア正教をきわめて理想化していたことは、私も承知しております。たしかに、そこにはスラブ派の水脈が流れているのでしよメリ。
7  太初はじめぎょうありき」としたゲーテ
 ゴルバチョフ ところで、池田さん、たとえば、かりに、今あなたと一緒に、新しい「山上の垂訓」を作らなければならないとしましょう(笑い)。仏教、さらに他の東洋の宗教を代表して、あなたはイエスの言葉に、どのようなことを付け加えられるでしょう。
 池田 いきなりたいへんな難題をもちかけられましたね。(笑い)
 ゴルバチョフさん、あなたが最近、ゲーテを愛読されているということを聞きました。私も若いころからの愛読書ですので、たいへんうれしく、あなたの精神の歩みにいちだんと親しみを感じます。
 あなたの質問に答えるために、そのゲーテが大著『フアウスト』の中で行った、西欧文明の骨格を形作ってきた聖書の言葉――「太初に言ありき」をめぐる文明論的大操作について、一緒に考えてみましよう。
 『フアウスト』のそのくだりを引用します。主人公のファウストが、ラテン語の聖書をドイツ語に翻訳しようとしているところです。
 「太初はじめことばありき」と書いてある。
 ここでもうつっかえてしまう。
 何かもっと助け舟はないものか?
 「ことば」というのは、あまり私にはいただけない、
 精神がほんとに充実して光にみたされていれば、
 私はもっと別の訳し方をしなければならぬ。
 こう書いてみるか、「太初はじめこころありき」
 ペンが先走りしすぎないように、
 第一行目に十分念を入れることだ。
 さて、一切を創りだし動かすものは、
 「こころ」だろうか。
 いや、こうしたらよい、「太初に力ありき」!
 どうやら、こう書いているあいだにも
 これでは坐りが悪い、といましめる声がきこえる。
 霊の助けだ! とっさにひらめいたものがある、
 そうだ、こう書けばよい、「太初はじめぎょうありき」!
 (山下肇訳、『ゲーテ全集』3所収、潮出版社)
 ファウストは、「太初に言ありき」に納得できず、「太初に意ありき」「太初に力ありき」と言い換え、最後に、「太初に行ありき」と翻訳してみて初めて、心から安堵します。
 このくだりは、謎めいた含意性に覆われており、さまざまな考察が行われてきましたが、私は、端的にいって、巨人ゲーテの最も東洋的な側面であり、東洋的発想ではないかととらえています。
 ゴルバチョフ ゲーテの東洋的な側面ですか。
 池田 ええ。というのも、「神の言葉」を一切の根本とするロゴス(言語)中心主義は、キリスト教文明の根底にある、最も大きな特徴といってよいでしよう。
 それに対し、仏教をはじめとする東洋的な思想や宗教の特徴は、「言語の虚構性」への鋭い感受性を一貫して働かせているからです。
 これについては、別の機会に詳しく検討しますが、私は先に、「史上の神を説かず、今日生きている人間を通して神を示すがよい」とのガンジーの言葉を掲げました。それは、「太初に行ありき」とのゲーテの発想ときわめて強く響きあっていると考えます。
 また、この対談でも確認したように、釈尊が「出自」よりも「行い」を重んじたことは、よく知られています。
 日蓮大聖人も信仰の目的について、「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」として、硬直化し、ドグマ化しがちな教義、すなわち「言葉」よりも、人間の「行為」や「実践」を重視しています。
 二十世紀は三つの発見をしたといわれます。第一に「野蛮」の発見。第二に「無意識」の発見。第三に「子ども」の発見です。いずれも近代の西欧文明の流れで主役を演じてきた、「文明」「意識」「大人」に対して、いちだんと価値の劣るものとして差別されていたものが、あらためて再評価されているわけです。
 それは、何を意味するのでしょうか。西欧文明の、そしてその骨格を成してきたキリスト教の根底に、あらがいようもなく流れている差別意識、差別思想への反省が、そうした再評価を生んでいるのではないでしょうか。差別意識は、それと意識しなくても、本来「虚構性」を払拭することの不可能な言語を「実体化」することから始まります。そして、フランスの哲学者ジャック・デリダ等が鋭く指摘するように、聖書は、「太初に言ありき」を淵源とするロゴス(言語)中心主義、すなわち、言語の「実体化」を胚胎はいたいしており、そこから発する差別意識がキリスト教文明に根強くまとわりついていたことは否めません。
 それを乗り越えて、二十一世紀を志向するためには、ファウストの行った「太初に言ありき」から、「太初に行ありき」への大操作のような、思い切った発想の転換が必要ではないでしょうか。
8  ″価値あるもの″を求めて生きる
 ゴルバチョフ なるほど。これが、先ほどおっしゃったゲーテとガンジーの共通点ですね。
 池田 そうです。「生きている人間を通して神を示す」(前掲『抵抗するな・屈服するな』)というガンジーの発言の背景には、彼特有の宗教観がありました。ガンジーは、ヒンドゥー教をみずからの宗教と認めていましたが、そのヒンドゥー教も含めて、あらゆる派を超える普遍的な宗教を考えていました。
 すなわち、「あらゆる宗教の基礎をなすもの」を「真理」と表現し、「神は真理である」と説きました。後にはこれを、「真理が神である」と言い換えて、その普遍性を強調しています。そして、「真理」とは、「内なる声が語ること」であり、「万人の胸の内に存在するもの」であり、「活気づける力」であるとしています。つまり、彼の「真理」には、行動や生活をうながし、方向づける″内在的な規範″が包含されているといえるでしょう。ゆえに、日々のあらゆる生活や行動は、この「真理」をとらえ、堅持するためのものとなるのです。
 ゴルバチョフ 納得できます。それゆえに、私は、さまざまな宗教というものは初めから存在しないのであって、存在するのは、唯一の全人類的普遍的英知であり、ただそれが、さまざまな言葉で語られただけなのでは、と申し上げたのです。
 池田 ガンジーも同趣旨のことを言っておりますね。
 ただ、私が強調しておきたいのは、その「真理」へのアプローチのしかたが、ガンジーにあっては、際立って″実践的″であり、″内発的″であったということです。
 そして、この「真理」を求め、尊び、堅持していくことが、彼にとっての″普遍的な宗教″であり、この宗教は、「人間の本性に含まれる永遠の素質」(同前)であるとも言っています。彼のアヒンサー(非暴力)の実践も、「真理」という″内在的規範″の具体化であり、彼の宗教生活そのものだったのです。
 このような普遍的宗教について、彼は、「実際、宗教はわれわれの行為のすべてに浸透していなければならぬ。そうなってこそ、宗教は宗派心ではなくなり、宇宙の秩序ある道義的支配への信頼を意味するものとなる」(同前)と述べています。
 「宗派心を超えた宗教」――私は、このような″ガンジー的問いかけ″は、すべての宗教者が、一度はみずからに問いかけ、みずからのものとしていくベきだと考えています。そうでなければ、宗教が民族対立をあおり、戦争の引き金になるような愚行を、いつまでも繰り返すことになりかねない。
 ゴルバチョフ 私も、そのことを強調したかったのです。なぜいまだに、そうした野蛮な争いが起こるのか、ということです。
 池田 その愚を繰り返さないためにも、ガンジーがいう″内的な規範″として、一人一人の「行為のすべてに浸透」していく「真理」が重要になります。
 ガンジーの言う「真理」とは、私が、ハーバード大学での講演でデューイの言葉を借りて、強調した「宗教的なもの」に近いのではないかと思います。
 この「宗教的なもの」とは、特定の宗教をさすのではなく、″善きもの″″価値あるもの″を求めて生きる人間の生き方を支え、鼓舞し、後押しするような力であり、自己を超えて自己を支え助ける、内発的な働きである。そして、このような力をもたらすかどうかが、個々の宗教の未来性を決する、と私は考えてきました。
 ガンジーの言う「真理」、デューイの言う「宗教的なもの」のなかに見いだされる″内在的規範″について、ハーバード大学のハービー・コックス教授は、私との対話の折、十分理解できるとしながらも、それが「世界の大多数の人々に働きかける力をもつとは思われない」とやや悲観的な感触を語っていました。
 あなたは、どのような感想、見通しをおもちですか。
9  人間自身を知るための「内面の探究」
 ゴルバチョフ 最も重要、かつむずかしい問題を提起されたと思います。ご承知のとおり、私は、神学者でもなければ、宗教問題の専門家でもありません。あなたの質問にお答えするさい、私は自分の人生経験を基にしています。
 正直いって、文字どおり、「神のもとに到達したという人」に、私は、ほとんど会ったことがありません。「宗教感情に輝いている人」にも、めったに出会いません。そういう人は、ごく少数しかいないのでしょう。
 この点では、おそらくコックス氏は正しいと思います。みずから望んで神の道を選ぶというのは、きわめて稀有なことです。多くの場合、人々が神を求めるのは、他の人々、すなわち、他の信仰者たちとの同化を願うからでしょう。
 この問題には別の側面があります。それは、人間が精神的自制と精神的自己完成を志向しているという側面であり、また、トルストイの行き着いた神の理解、私とあなたが、今ここで、論じてきた神の理解のしかたです。
 池田 そうですね。人間自身の内面を見つめている点で、方向性は一致していると思います。
 ゴルバチョフ 私の深く確信するところ、大半の人々は生まれながらにして、良心と善の感情をもっているものです。これらの感情を育み、育成していくには、ただ、正常な教育と正常な家庭が必要なのです。
 池田会長、ソビエト共産主義時代のロシアにおいて、信仰している人は、当局から取り調べを受け、己の信仰心を語る自由も、聖書を読む自由さえ奪われていました。そのような社会にあって、道徳的に健全な人々が、なぜかくも多く存在できたのか、あなたは、このことをお考えになったことはありますか?
 おそらく、「民衆」が善、連帯、同苦を志向するものだからではないでしょうか。したがって、人間の道徳面での前進とその完成の可能性について、私は、明らかに楽観主義者です。
 池田 強い強い確信の言葉に胸打たれました。とともに私が、ガンジーの普遍的宗教観に共感するのも、その根底に人間主義の精髄をみるからです。
 ガンジーは「わたしは手に負えないオプティミスト(楽観主義者)です。わたしのオプティミズム(楽観主義)は、非暴力を発揮しうる個人の能力の、無限の可能性への信念にもとづいています」(『わたしの非暴力1』森本達雄訳、みすず書房)と述べています。
 それは、日蓮大聖人が、迫害に次ぐ迫害の連続の生涯にあって、最悪の事態(島流し)の渦中でもなおかつ、「流人なれども喜悦はかりなし」、「当世・日本国に第一に富める者は日蓮なるべし」等と記している、透徹した楽観主義にも通じるものです。
 その楽観主義は、人間性への限りなく深い洞察、限りなく大きな慈愛、限りなく強い信頼に裏づけられているのです。そして、あなたが「人間の道徳面での前進とその完成の可能性」とおっしゃるとき、そこで志向されている境地とは、こうした宗教的信念と接近していると思います。
 私は、それを、人間主義の″普遍性の感触″と申し上げたい。
 ゴルバチョフ よくわかります。私も同じ考えです。
10  「開く」「具足」「蘇生」の三義
 池田 これまでの血なまぐさい人類の宗教史に照らせば、コックス教授のシビアな感触も理解できないではありません。
 しかし、私は、あえてその困難に挑戦していかなければ、宗教の未来はないと思っております。みずからのドグマに固執するあまり、争いや殺し合いの因となるような宗教などは、「百害あって一利なし」です。
 仏法では「妙法蓮華経の受持」を、その宗教的実践の根幹としています。「妙法蓮華経」とは法華経の正式な題名ですが、たんに題名としての意義にとどまらず、法華経において仏によって開示され、教典全体に脈打っている真理そのものをさしています。すなわち、「妙法蓮華経の受持」とは、その真理を信じて、堅持していくという意味です。
 じつは、ガンジーの言う「真理」は、インドの原語で「サット(Sat)」と言いますが、「妙法蓮華経」の「妙」に当たるサンスクリツトとまったく同じなのです。
 さらに、日蓮大聖人は、この「妙」の意義として、「開く」「具足」「蘇生」の三義を明かしています。その意義については、モスクフ大学の講演で詳しく述べました。
 繰り返しになりますが、簡潔に述べれば、「開く」とは、生きるための根本規範を内面から開くことであり、「具足」とは、開かれた規範が包括的、普遍的であり、万物一体の共生感覚につらぬかれていることです。そして、「蘇生」とは、日々新たに蘇る創造的生命のダイナミズムを保ちつづけることです。
 このような法を求め、信じ、何があっても堅持していく生き方が、「妙法蓮華経の受持」といえます。
 かつて私は、日本のある宗教学者から創価学会のめざすものについて、「究極的に求めているものは何か」との質問を受けました。
 私は即座に、「それは久遠元初の法です」とお答えしました。「久遠元初」とは、生命の究極の姿に回帰した状態であり、そこに働いている「法」が妙法蓮華経であると説きます。このような内的な「法」であるからこそ、日蓮大聖人は、それを、絵画・彫刻の仏像ではなく、文字による曼陀羅として顕されたのです。
 詳論は割愛しますが、重要なことは、この「久遠元初の法」が、第一義的には、内的で不可視の存在であるということです。その「法」は、時々刻々と変化する「行い」のなかに体現される以外に、ありようがない。
 真理それ自体、つまり仏法の立場でいえば、仏の智慧は、「言語の虚構性」を超えたものとされます。
 それゆえに、仏が、民衆を救済する慈悲の行動にでるとき、真理を体得した人の「必然の表現」としての″言葉″によってのみ、真理は人々に示されるのです。この″言葉″に関して、仏法では、「文字即実相(″言葉″こそ真理)」と説くのです。
 その「法」は、人間の生き方にとって、目には見えないけれども、まぎれもなく存在する″内在的規範″となっていくにちがいない。その学者は、私の申し上げた趣旨に賛同してくれました。
 大切な問題ですので、もう一つ、私の友人の言葉を紹介させていただいてよろしいでしようか。
11  道徳規範の源泉を求めて
 ゴルバチョフ もちろん結構です。ぜひ、つづけてください。
 池田 数年前に亡くなった″アメリカの良心″ノーマン・カズンズ氏とは、『世界市民の対話』と題する対談集を編みましたが、氏は、宗教者が、みずから絶対と信ずるものを他に納得させることの困難さを論じながら、こう言っております。
 「人間が深い精神的な素質を有するという命題については、みんな共通に異議はないだろう。もしその同意からさらに一歩進めて、それぞれの宗派の神学で神性の表現される形は異なっていても、神性が外的なものではなくて、内的なものであり、その働きは人間を通じて現われる。そして人間は自分のすること、考えることによって、神性を立証したり、反証したりするという命題についても、彼らすべての同意を得ることができれば、我々は、それだけ地球上における真の宗教的情況の実現に近づいたことになるだろう」(『人間の選択』松田銑訳、角川選書)と。
 「神性が外的なものではなくて、内的なものであり、その働きは人間を通じて現われる」との氏の言葉は、ガンジーの「生きている人間を通して神を示す」との言葉と、見事なまでに符合しています。だからこそ、ガンジーは、あらゆる行為において「真理」を堅持していくことを、「サティヤーグラハ(真理の把握)」と呼び、みずからが進める運動の名としたのです。
 ゴルバチョフ たいへんに興味深いお話です。かつて、創価大学の講演でも申し上げましたが、ペレストロイカがめざしたのは、「全人類的価値」の優位を認め、人権と自由の重要性、素朴な道徳規範と人間的な社会ルールを復活させることでした。
 「善」を「善」といい、「悪」を「悪」といえることが、人間にとって最大の権利と考えたのです。
 池田 日蓮大聖人は、仏法といっても、人間の実生活上の「行い」を離れてあるものではなく、妙法蓮華経を受持する一人一人によって営まれる社会生活の全体が、仏法であり、法華経であると説きました。また、法華経そのものにも、「社会のなかのあらゆるよき教え、よき行動は、法華経の真理そのものである」という考え方が説かれています。
 あなたは、「今日、全人類的価値という貯金箱に、東洋は何を入れることができるのか」と問われました。私は、言葉で表現された道徳的価値規範もさることながら、道徳規範の源泉としての「内的な真理」を解明し、それをもって人々の心を、よき方向へとうながしていくことこそ、あえて言えば、東洋の使命ではないかと思います。私はつねづね、その源泉を「内在的普遍」と呼んでいます。
 個々の規範も、源泉としての「内的なもの」「宗教的なもの」がなければ、時代の変遷とともに、輝きをなくし、死滅していかざるをえないのではないでしょうか。逆に、瑞々しき源泉があれば、時代に応じた「生きた道徳規範」を生みだすことができると考えるのです。

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