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日蓮大聖人・池田大作

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楽観主義という美質  

「二十世紀の精神の教訓」ミハイル・S・ゴルバチョフ(池田大作全集第105巻)

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9  求められている心温かき批判精神
 池田 しかし、安易な寛容は、一種のシニシズムにほかなりません。信念を主張しないのは、解決すべき問題から身を引き、目をそらせ、自閉的世界に閉じこもるエゴイズムです。
 一見、寛容に見える態度の裏に、″あとは野となれ、山となれ″式の無関心がひそんでいるかもしれない。旧ユーゴスラビアに対する西側の態度がそうであったように。
 今、世界のいたるところに、このようなシニシズムが蔓延しているように思えてなりません。さまざまな価値観が崩壊し、相対化され、人々は「みんな大差ない」とすべてを肯定しつつ、「みんなばかばかしい」とすべてを否定しているのです。
 こうしたシニカルなエゴイズムが蔓延するとき、健全な批判精神は枯渇し、人々のあたたかき連帯はずたずたに切断され、気づけば独裁者が君臨していた、という事態につながりかねません。
 冷ややかな笑いは、言葉による対話を寸断してしまい、ひいては、問答無用の暴カヘと傾斜していくのです。
 健全な批判精神、心あたたかき批判精神、いわば「創造的批判精神」こそが、求められるのではないでしょうか。
 積極的に他者と交わろうとする″開かれた精神″と″開かれた対話″にもとづいて、何がどの点で優れているかを、きちんと見分けていく批判力、批判精神こそ、暴力的なカオスヘの傾斜を防ぎとめ、真実の寛容、寛仁大度という人間の尊厳を輝がせていく最大のポイントといえましょう。
 ゴルバチョフ 賛成です。
 平和を模索し、すべての政治的な対話によって解決の道を探すこと、そして説得と納得の道を選ぶことが、暴力と戦争よりもどれほど効果的な方法であるかを知らなければなりません。
 もし、人類の闘争と対立によって、「思想の多様性」が焼き尽くされてしまえば、あとに残るのは「精神の空洞化」だけでしょう。
 池田 そうですね。
 ケルゼンは、宗教が「問題の概念的・言語的・理性的解決」(前掲『神と国家』)に背を向けるかのように言っていますが、いささか短絡的にすぎると思います。
 要は″開かれた心″″開かれた対話″が保障されているかどうか、それも制度的な保障だけでなく、人間の内面的な備えとして保障されているかどうかです。
 それさえ万全であれば、ソクラテスがミソロゴス(言葉嫌い)はミサントローポス(人間嫌い)に帰結すると言ったのとちょうど逆の意味で、言語や理性の活発な働きは、人間社会をいやがうえにも活性化させていくにちがいない。
 私の恩師戸田第二代会長は、「日蓮大聖人をはじめ、釈尊、キリスト、マホメットといった宗教の創始者が一堂に会して会議を開けば、解決は早い」とよく語っていました。
 ゴルバチョフ あなたが一九九四年、モスクフ大学での講演の結論の部分で強調されていた点は、そのことではないですか。
 池田 あたたかなご理解、心より感謝します。まったくそのとおりです。
 私は、モスクワ大学の講演で諸宗教の共存のあり方について述べました。それは、無原則な離合集散ではなく、それぞれが、こうした人格形成の競い合い、いうなれば「世界市民」輩出の競争をしていくことが、より創造的であり、いずれの社会にあっても、よい意味での競い合いこそが、進歩の法則であるということです。
 「人道的競争」を唱導した牧口常三郎初代会長の先見の明は、半世紀以上も前にそれを喝破しておりました。
 「正義に適った平和」とは、「正義」と「正義」とが角突き合うのではなく、人格形成の競争、世界市民輩出の競争といった「人道的競争」を通して、実現されるのが筋道であり、王道なのではないでしょうか。
 まさしくあなたは、開かれた対話で、冷戦の核の脅威が覆う現代の世界に、新しい時代の風をもたらした「人道的競争」の第一走者です。その点に、私は心から敬意を表したいのです。

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