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日蓮大聖人・池田大作

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リーダーシップの栄光と苦悩  

「二十世紀の精神の教訓」ミハイル・S・ゴルバチョフ(池田大作全集第105巻)

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2  ピョートル大帝の改革をめぐる評価
 池田 よくわかります。
 ロシアの精神風土には、みずからがみずからを律していく市民意識が、伝統的に希薄であったとされています。いきおい、リーダーシップのあり方も、知識を与え、教え導くといった、よく言えば啓蒙的、悪く言えば強権的性格を帯びてこざるをえない。そのジレンマを典型的に体現していたのが、いうまでもなく、″啓蒙君主″ピョートル大帝でした。
 ペレストロイカの先頭に立つあなたのリーダーシップを、ピョートル大帝の手法に擬する声が、わが国にもありました。もとより、それは皮相的な類比であって、「上から」という点では共通していても、似て非なるものでした。
 いうまでもなく、ソ連共産党書記長という超法規的な絶対権力を法の統治下におき、民主化のプロセスを進めるためには、掌中の絶大なる権力を制限し、あえて放棄することさえ辞さなかった点に、あなたのリーダーシップの真骨頂があったからです。
 その民主化のプロセスのスピードが、あなたの権力基盤を突き崩そうとしたときでさえ――残念ながら、現実にそうなってしまいましたが――あなたは、民主の旗を降ろそうとはしませんでした。
 とはいえ、ロシア社会の現状をみると、民主化のプロセスも、平坦な道ではないようです。人心の荒廃や治安の乱れを恐れるあまり、秩序を回復するためには、ピョートル的手法の″強い手″への願望さえ芽生えつつあるとも聞いております。私としては、多少の紆余曲折はあっても、ペレストロイカの流れが逆流するようなことはない、と信じたいのですが……。
 民主主義とリーダーシップのあり方について、ペレストロイカでの経験を踏まえて、お聞かせください。
 ゴルバチョフ その点については、はたして私たちがだれかを真似しようとしていたのか、だれかに合わせてペレストロイカを、俗に言うように「粛清」、つまり本来あるべき姿から変えてしまったのか、ここがいちばんの問題なのではないでしょうか。はたして私がピョートル大帝を手本としていたでしょうか?
 単刀直入に申し上げましょう。私にとってピョートルの改革は、真似るべき手本でも、ましてや改革の原点・動機でもありませんでした。とはいえ、私たちロシア人というものはどこか無意識のなかで、つねに「改革者ピョートル」の姿を意識していることは否めませんが。
 ピョートル大帝に対する評価は二通りあることを認識する必要があります。私たちは、子どものころ教科書で習ったピョートル大帝、つまり「ヨーロッパヘの窓を開き」、ロシアに「啓蒙精神」を植えつけたという意味で、彼を尊敬しています。
 池田 日本でも、よく知られている歴史的事実です。
 ゴルバチョフ しかし、わが国の著名な歴史学者クリュチェフスキーが指摘しているように、「ピョートルは精神の力ではなく権力の力によって行動し、人々の道徳的衝動ではなく、彼等の本能を念頭においた」(『ロシア史講話』4、重樫喬任訳、恒文社)。こうした彼のもう一つの側面も、決して忘れてはなりません。
 クリュチェフスキーはこう喝破しています。
 「国家を遠征の幌馬車の中から駅逓から統治した彼は、人間ではなくただ仕事のみを考え、権力の力を信じて民衆の受身的な力を十分に推し量らなかった」と。
 そして「ピョートルが自分の改造の疾走の中で人々の力を思いやることができなかった」(同前)と結論しているのです。
 ペレストロイカは、ピョートル時代のロシア史とはまったく違った背景のなかから生まれました。
 「鉄のカーテン」を壊したいという願望が、とくにインテリゲンチア(知識階級)を中心に広く人々のなかに膨らんできていました。その意味では、ヨーロッパ、否、世界への窓を開くという、ピョートルにも似た課題が、私たちの目の前にも提起されていたことはたしかです。
3  キリスト教的メシアニズムの功罪
 ゴルバチョフ しかし、私たちを最も強く動かしたのは、政治手法や思考方法のなかに残された、スターリンの″負の遺産″を清算したいという願いでした。人間の生命と幸福の犠牲のうえに、国家の目的を達成させようとするきわめて有害なやり方に、終止符を打たなければならないという認識でした。
 ″法による支配″と″公正″を回復し、″歴史の真実″を知りたいとの思いが、私たちを突き動かしたともいえるでしょう。そのときの機運と期待感は、十八世紀初頭のころとは、もとより異質のものでした。より幅広く見ていくと、ペレストロイカの背景には、一人一人の人間を守り、個人の幸福を追求する権利、イニシアチブ(発意)の権利、思想・信条の自由を求める「下からの」動きがあったことに着目せねばなりません。
 過去に対する一種の拒絶反応は、口シア史に見る暴力崇拝と、それにまつわる一切を拒否するとの意思表明にほかなりませんでした。
 池田 おっしゃる意味は、よく理解できます。私も、ピョートル改革の粗暴というか、暴力的側面を見落としているわけではありません。たしかに、「上からの改革」「上からの啓蒙」といつた類似点のみ言っているのは、不十分ですね。
 それにしても、数カ月前、ロシアで行われた歴史上の人物の好感度に関する世論調査では、ピョートル大帝が、二位のジューコフ元帥を圧倒的に引き離して一位を占めていました。レーニンは、十位だったように記憶しています。レニングラード(レーニンの都)が、サンクト・ペテルブルク(ピョートルの都)に″先祖返り″してしまうのも当然かもしれません。
 このピョートル人気の根強さを見るにつけ、あなたの「ロシア史に見る暴力崇拝と、それにまつわる一切を拒否するとの意思表明」が、いかに壮大かつ困難に満ちた企てであったかが、ひしひしと感じられます。自由や民主主義といった近代市民社会の原理を、そうした原理とは縁の薄かった風土に植えつけるわけですから。
 この点は、日本も同じ事情でした。第二次大戦が終結し、占領下におかれた日本では、アメリカから民主主義が″輸入″されました。多くの人は、戸惑いました。昔のほうがいいのではないか、という錯覚をもつ人さえいました。今は当たり前となった民主主義も、そう簡単に浸透したわけではなかった。長い間の慣れというのは怖いものです。
4  ゴルバチョフ ええ、そこに、私の一切の辛労と試行錯誤の原因があったわけです。ただ、私は、もはや民衆が、イデオロギーに疲れ、自己犠牲を尊ぶことにうんざりしていた事実に、目を向けたかったのです。その実態を無視して、最も教条的で攻撃的であり、そして、本質的にはネオナチストであった国粋主義者だけが、民衆を労働力として徴用する動員制度、動員方式を維持することに躍起になっていました。だからこそ、彼らは、イニシアチブの発揮と自由意思、選択の自由を掲げたペレストロイカを恐れ、反対したのです。
 池田 民衆が「イデオロギーに疲れ、自己犠牲を尊ぶことにうんざりしていた」というのは、たしかにそのとおりでしょうね。それにしても、善きにつけ悪しきにつけ、ロシアの人々の忍耐強さには、本当に驚かされます。スターリニズムによる理不尽きわまる人間性への蹂躙に、半世紀以上にわたって耐えつづけてきただけでなく、多くの人々が犠牲になってきた。
 その背景には″第一のローマ″(ローマ)、″第二のローマ″(コンスタンチノープル)に次いで″第三のローマ″(モスクワ)を待望する、ロシア独特のキリスト教的メシアニズム(救世主待望)があることは、指摘されるところです。
 先に、あなたがふれられましたが、ドストエフスキーの晩年における一つの″事件″つまり、プーシキン記念祭での講演に対する人々の熱狂なども、そうしたメシアニズムなしには考えられません。けだし、古今東西を問わず、メシア的使命感こそ、苦難を苦難とも思わず、目標に向かって進む力をもたらしたといえるでしょう。
 しかし、物事には限度というものがあります。人間には、何かのためには一切を犠牲にして悔いないという側面もあれば、欲望に聡く、その充足のためには、平気で他人を犠牲にして恥じない獣性の側面もある。
 それをわきまえないで、人間にひたすら犠牲を強いるのは不可能ですし、そんな運動が長つづきするわけがない。
 ゴルバチョフ そのとおりです。まさに私たちのおかれた状況が、そうだったのです。
 池田 哲学者N・ベルジャーエフは、このロシア共産主義の弱点を、すでに一九二〇年代において、鋭く感じとっていたようです。
 いわく「若い人たちのソヴェト体制に対する情熱のうちには、口シア民族の宗教的エネルギーが入りこんでいる。もしこの宗教的エネルギーが枯渇すれば、体制への熱情もまた枯渇し、共産主義の社会でもけっしてありえなくはない私利私欲が頭をもたげてくるだろう」(『口シア共産主義の歴史と意味』、『ベセンャーエフ著作集』7〈田中西二郎。新谷敬三郎訳〉白水社)と。
 歴史の流れは、彼の言葉をものの見事に裏づけてしまったわけです。
 ところで、ベルジャーエフは「ソヴェト哲学は社会的巨人主義(タイタニズム)の哲学である。その巨人は個人でなくて社会集団である」として、「ロシア共産主義にはキリスト教の流れをくむロシアのヒューマニズムの伝統が入りこまず、つねに人間を目的に対する手段視した。ロシア国家の絶対主義に由来する反ヒューマニズムが入りこんだ」(同前)と述べています。
 あなたは、ペレストロイカを推進するにあたって「人間的な要素(ヒューマン・ファクター)の活性化」ということを、しばしば語っておられました。その狙いとするところは、貴国の民主主義の行方を決定づける、ヒューマニズムやリベラリズム(自由主義)の活性化にあったのだと、私は理解しています。
5  民主的な社会を築くために
 ゴルバチョフ 「わが意を得たり」の言葉です。現在のロシアの現実にあって、私には気に入らないものがたくさんあります。しかし、ロシアの″犠牲の哲学″がすたれていったことは、すばらしいと思っています。
 私は、必ずしもベルジャーエフに賛成するわけではありません。「熱情」が枯渇したのは、私利私欲が勝利したからだけではありません。もっとも、それも今、ロシアで盛んにはびこっていますが。
 人間の生活を食いものにしてしまった「裸の熱情」は、もう失墜してしまいました。だれも幻想のために死のうとは思っていません。「熱情」は思索を欠如させることがあります。また、「熱情」をあまり崇高なものとして考えすぎるのもどうでしょうか。そこには、否定的な側面もままあるからです。
 ロシアにおいては、それは伝統的なロシア人の呑気さ、物事を真剣に考えたくはないという気性と結びついています。
 これについては、ブーニンが見事に語っています。彼は、『懺悔の日々』という日記の中で、″愛国主義の台頭の奥には、無関心がかなり巣くっていた″ことを鋭くつづっています。
 「この無関心はどこからきたのだろう」。ブーニンはみずからの問いに、こう答えています。
 「われわれに特有の呑気さ、軽薄さ、いざというときに物事を真剣に考えようとしない習性からきている。これは古来ロシアに存在する病いである。これは物憂さであり、倦怠であり、甘えである」と。ですから、あなたのおっしゃるとおりだと思います。
 われわれにはメシアニズムや犠牲の精神など必要ありません。われわれロシア人がもたねばならないのは、「思想」と「責任感」です。
 池田 非常に重要な示唆があります。
 ブーニンの言う、「特有の呑気さ、軽薄さ、いざというときに物事を真剣に考えようとしない習性」は、たしかに、反面では、共同体的な風土にあって、現実の苛酷さを忘れて楽天的に生きるための、一種の庶民の知恵だったのでしょう。
 しかし、人間的なフアクターを活性化させ、真に民主的な社会を築いていくペレストロイカには、こうした気質を、もう一歩乗り越えていくことが必要であったのではないでしょうか。これは、コレクティビズム(集団主義)を指摘される日本人のわれわれにとって、″対岸の人事″ではなく″他山の石″ともいうべき戒めです。
 日本は、「独立した個人」を育む歴史的土壌が、あまりに希薄でした。ゆえに、″地位の権威″や″組織の力″に頼り、一個の人間として厳しく鍛えられない傾向がある。人間としての「人格」の確立を考えていかないと、日本の将来も決して楽観できません。
 ゴルバチョフ 今日、わが国では、ロシアのリベラリズムに将来はあるか、そのルーツはどこかという議論が盛んに行われています。つい最近、私たちの財団でも、恒例になった政治学セミナーで、この問題が取り上げられました。
 討論のなかでは、自由主義はその本質において、ロシアの文化には馴染まない、なぜならロシア人には、そもそも所有とか自由という本能が欠如しているからだ、と指摘する人々がいました。
 またその一方では、自由主義の理念は、口シアの文化と歴史に共鳴するものである、と主張する人々もいました。
 この種の論争そのものは、さほど重要ではありません。ペレストロイカ前夜、社会はたしかに不自由に終わりを告げるべく、自由主義を志向していました。このことは、ロシア人はどの程度、市民社会を育んできたかという、あなたのご質問にも関連してきます。
6  「下から」の変革への機運
 ゴルバチョフ 七〇年代の終わりから八〇年代の初めにかけて、社会のいたるところで、自由と発意を抑圧しつづけた、体制のタブーに反対する動きが始まっていたことは、だれも否定できない事実でした。それは、自然発生的なものであり、ときとして無意識の行動だったかもしれません。
 このころすでに学者たちは、リベラルな市場および商品貨幣関係、会社制度の発達、個と全体の利益のより柔軟な結合、といった問題群を提起していました。社会主義体制下における商品貨幣関係の役割と位置づけに関する議論は、六〇年代の半ばからつねに繰り返されていたのです。
 これらすべてが自由主義への志向でしたし、最終的には市場を機能させ、個人のイニシアチプの復権を図ることをめざした試みだったといえます。
 池田 社会のなかに、自由主義的なものへの期待はかなり広がっていたのですか。
 ゴルバチョフ そうですね。同じころ、文化人、芸術家たちは、創作の自由と討論の自由を求めて闘っていました。
 一九八六年二月、第二七回ソ連共産党大会の政治報告が、行き詰まりをみせる諸問題の解決の方途を、個人のイニシアチブと経済的刺激に見いだしていることに、注目していただきたいのです。
 この報告のなかからいくつか抜粋してみましょう。
 「われわれは、会社所有形態というものを完全に明確にすべきだと主張する……需要がある分野では、会社形態の企業・組織の形成および発展が全面的に支援されるべきである」「商品貨幣関係についての偏見、軽視を乗り越えなければならない時が来ている……」等々です。
 したがって、変革への機運は社会のなかに、つまりは「下から」十分に熟していたと見るのが、歴史に忠実な見方なのではないかと考えます。
 池田 なるほど、正しい見解です。さらに、そうした機運は、あなたが大学生活を送っておられたころ、スターリン後のモスクフにすでに芽生えていたのではないでしょうか。その象徴が″雪解け″であり、その後の″コスイギン改革″であった。なかでも″コスイギン改革″は、中途で挫折してしまったとはいえ、市場メカニズムを取り入れ、種々の規制をはずそうと試みるなど、二十年後のペレストロイカの先駆けとなるものでした。
 私は、コスイギン首相とは、二度お会いしましたが、いわゆる典型的な党官僚とは一味違った、落ち着いたなかにも気さくな人柄で、たいへん親しみやすい人という印象を懐かしく思い起こします。
 その″コスイギン改革″から長い″停滞の時代″を経ているのですから、変革の機運が十分熟していたとのご指摘は納得できます。
 ゴルバチョフ ただし、ソビエト連邦という共産主義国家を改革するために、どうしても考慮しなくてはならない特殊な事情がありました。
 それは、公式のイデオロギーに抵触しない範囲においてのみ、着手可能だったということです。マルクス=レーニン主義の原則と衝突する権利は、たれびとにも、たとえソ連共産党書記長といえども与えられていませんでした。もしそうしてしまえば、原則から逸脱し、党と労働者階級の利益を裏切る行為として糾弾されることは、火を見るより明らかだったのです。
 このような状況下では、かのピョートル大帝も、そしてロシア史上の他のいかなる権威者も、何の説得力ももちえず、無に等しくなってしまいます。ただ一人、レーニンだけが嫌疑の枠外にありました。
 問題は、改革を進めるための方法論や策をどうするのか、という点だけにあったのではありません。
 といいますのも、私たちの世代は、もしレーニンが、あのとき死なないでネップ(新経済政策)をつづけていたら、あんな強制的集団化やスターリンによるテロ、粛清といったことは起こらなかったにちがいないと、心から信じていました。これには、それなりの理由があったのです。
 つまり、死が迫ったレーニンは、自分の人生最後の仕事として、漸進的社会主義建設路線を打ち出し、それは後に「レーニンの政治遺訓」と呼ばれるようになりました。それゆえに私たちは、一九二九年以降に起きたすべての事象を、この漸進路線からの逸脱ととらえてきたのです。
 池田 目的が手段を正当化させる――イデオロギーの怖さですね。
7  「あるがままの現実」から出発
 ゴルバチョフ したがって、書記長に就任した私に与えられたチャンスは、教条性、形骸化を警告し、共産主義ロマンチシズムを批判するレーニンの言葉、ことに民主主義の論拠となりうる彼の考えをあらゆる機会に引用し、イデオロギーのなかに正当にもちこむことでした。
 実際、当時の環境では、この方法以外に良識への突破口を開く道はなかったということを、正直に申し上げなければなりません。多くの学者たちも、改革を進める党の幹部たちも、皆そうしていました。
 当時、私たちが強調したのは、レーニンが、研究者としても政治家としても、先験的図式ではなく、つねに現実そのものを第一義としていたという点でした。「われわれは、あるがままの現実から出発しなければならない」という彼の言葉を、私たちも繰り返したものでした。
 そして、ついにそれまでの社会主義の概念の枠組みをはずすという問題が議題にのぼったときでさえも、私たちは、「社会主義に対するすべての視点の転換」を呼びかけた、レーニンの言葉を拠りどころとしました。
 そうです。ペレストロイカは、晩年のレーニンを旗手として始められたのです。
 池田 貴重な歴史の証言です。
 苛酷な現実にあって、つねにぎりぎりの選択を迫られたヒューマニストの知恵の発露であると、深く感動しました。
 あなたのおっしゃる「良識への突破口」とは、ペレストロイカの機軸をなす「人間的な要素」「人間的価値」「人類的価値」へと、まっすぐに繋がっているものと思います。そうした「人間」「人類」という目標に比べれば、レーニンでさえも、よい意味で相対化されていたのではないかと思います。
 ここで、″革命の卓越した指導者″レーニンについても率直にうかがいたいのですが。
 ゴルバチョフ 結構です。私のレーニン観について申し上げたいと思います。
 池田 レーニンは、現実を重視する柔軟な発想の持ち主であったが、その反面では、苛烈なまでにイデオロギー的な考え方にとらわれた人でもあった、といえるのではないでしょうか。
 プロレタリアート(労働者階級)の勝利という「階級的価値」のためには、裏切りや密告、テロなどの「非人間的な要素」も、ためらうことなく肯定し、奨励さえしたことは、天下周知の事実でしょう。
 話題を呼んだルイバコフの名著『アルバート街の子供たち』の主人公サーシャは、流謫るたくの地で独り語っています。
 「そもそも道徳とはなんなのだろうか? レーニンは、プロレタリアートの利益にかなうものが、道徳的なのだと述べている。
 しかし、プロレタリアも人間であり、プロレタリアのモラルも人間のモラルであることには変わりない。雪のなかの子供を見捨てることは、非人間的な行為であり、つまり非倫理的な行為ということになる。他人の生命を犠牲にして、自分の生命を救うことも、非倫理的なことなのだ」(長島七穂訳、みすず書一房)と。
 公式のイデオロギーが支配する国で、ただ一人″聖域″にあつたレーニンの言葉を巧みに駆使しながら、イデオロギーの厚い壁を突き崩す――つまり、「人間」という大目標、最大の価値のためには、レーニンの言葉でさえ相対化されなければならない。私は、そのレーニンヘの絶妙なスタンスのとり方に、まぎれもないヒューマニストの真骨頂を見るのです。それは人間主義の豊かな水脈のなかに、レ―ニンの思想をも正しく位置づけ、イデオロギー的に排撃するのではなく、生かしていくことになるからです。
 仏法では、それを「妙とは蘇生の義」、つまり、一切の思想やイデオロギーのよいところを抽出し、生かし、よみがえらせていくことが正しいあり方であると説いております。
 ゴルバチョフ それについて、あなたは、一九九四年のモスクワ大学の講演でもふれておられませんでしたか。
 池田 ふれました。異なった主義主張といえども、排撃するのではなく、部分観としてとらえ、「人間」や「生命」といった全体観のなかへ位置づけ、生かしていくのが仏法であり、仏法を基調にした人間主義の基本的な立場であるからです。
 ゴルバチョフ 私のレーニン観について、正しく見ておられると思います。それは単純なものではありません。
 そのうえで、私が申し上げたいのは、まず第一に、私は社会主義思想を、今も信奉しております。したがって、″歴史の過程には法則性がある″という、レーニンの見方は正しいと思っています。
 第二に、レーニンはロシア史の切っても切り離せない一断面であります。ですから、彼についてはそれなりの評価をしなければなりません。究極的には、レーニンはロシアだけでなく、人類史においても非常に大きな役割を果たしました。
 私にとって大切だったのは、レーニンが共産主義と知的進歩とを結びつけていたことです。それについて、彼は次のように言っています。「もしも人類によって蓄えられてきた知識を習得せずして、共産主義者に成れると思うならばそれは大きな誤りです。また、共産主義が生まれる土壌であった知識の全体を習得せずして、共産主義のスローガンや理論を習得するだけで十分であると考えるのも誤りです。共産主義が生まれる土壌となった、人類の知識の最大のものがマルクス主義です」と。
 青年時代、私は、コムソモールの職員として、このレーニンの思想の普及に努めてきました。その思想に、私は終生、忠実でありたいと思います。
 一方、あなたのおっしゃるとおり、レーニンの道徳の解釈は間違っていたと思います。私は「道徳的なものというのは、古い搾取社会の崩壊をうながすものである」との、レーニンの有名な一節を念頭においているのです。道徳的なものとは、共産主義に役立つすべてのものである、という彼の思想には賛同できません。だからこそ、われわれの″思想革命″は、階級的道徳思想の拒否から始まったのです。
 その意味ではたしかに、あなたのおっしゃった「レーニンの言葉の相対化」といってよいと思います。
 池田 ゴルバチョフ政権は″学ぶ政権″といわれましたが、あなたの言葉に、その真髄を見る思いです。またその姿勢こそ、「上から」のイニシアチブであったとはいえ、ペレストロイカの開明性を支えていたのでしょう。
8  「政治は技術である」とは恩師の信念
 ゴルバチョフ 正しく評価していただき、ありがとうございます。そこで、「上からの改革」としてのペレストロイカについて、もう一言申し上げたいのですが。
 政治の次元で見れば、たしかに「上からの改革」といえるでしょう。というより、当時の状況下では、それ以外の可能性はなかったというほうが、事実に近いと思います。もしも「下からの改革」が起こっていたとすれば、それは間違いなく内戦を意味していたでしょう。
 もし私たちが民主的改革を決断していなかったなら、時とともに人々の不満が蓄積して、ついには内戦という事態を招いてしまったかもしれません。
 「下からの」漸進的民主改革に代替できるものは、何もなかったのです。考えられるシナリオは、漸進的変革を確保しうる「上からの改革」か、もしくは、流血と破壊をともなう「下からの改革」しかありませんでした。
 池田 最高指導者として、もはや、選択の余地がなかったわけですね。
 ゴルバチョフ ええ。さらに、東欧諸国と違い、ソビエト連邦内には、多少なりとも影響力をもつ反対勢力が、まったく存在していなかったという事実を、無視することはできません。
 それには、いくつかの客観的理由がありました。ソビエト連邦の全体主義体制は、ハンガリーやポーランドなど東ヨーロッパの国々の体制よりもずっと厳しく、容赦のないものでした。
 たとえば、ソ連軍が旧チェコスロバキアに進攻した一九六〇年代終わりごろ、あらゆる反対者に対し残酷な迫害が次々と加えられました。
 いうまでもなく、ソビエト連邦における反体制運動、ことにアンドレイ・サハロフ博士の人権擁護の闘いは、計り知れない精神的、道徳的意義をもっていました。しかし、それらはいずれも、政治勢力、政治基盤を有していなかったのです。
 それに加えて、社会の不満が増大し、とくに知識階級の間ではそれが顕著になっていたにもかかわらず、国内には、改革政策を進めるための″てこ″として期待できるような、大衆抗議運動らしきものも一切なかったことが、状況をさらにむずかしくしていました。
 原因はさまざまに説明することができます。たとえば、民衆の大半は妥協に慣らされてしまっていたこと、加えてロシア特有の忍耐強さ、いつか自然になんとかなるという淡い期待感などです。古いロシアの伝統のなかで培われてきたこれらの気質は、残忍なスターリン支配がつづいた歳月の間に奇形し、硬直してしまい、本質的にはスターリン以後も根強く残ってしまいました。
 池田 あなたがソ連共産党書記長に就任したのは、ちょうど十年前(一九八五年)の三月でしたね。
 ゴルバチョフ そうです。当時、ポーランドにおいては、反体制派知識人たちが、つねに独立の立場を保ってきた教会の力強い支援を得て、共産党に社会主義の刷新をうながしつづけていました。そこでは、民主改革の主体は、もちろん反対勢力でした。
 ところがロシアは違いました。改革者自身がソ連共産党の内側にあったのです。彼らは、変化を期待する社会の雰囲気を拠りどころとしながら、言論の自由を与えることで、みずから反対勢力を形成したのです。その結果、改革派も、ペレストロイカに反対した社会・共産主義者も、そして急進的民主派も、政界のあらゆる勢力が皆、ソ連共産党のノーメンクラトゥーラ(特権階級)から出ていきました。
 これらのことを総合的に見ていくとき、ソビエト連邦の改革は、
 第一に、党幹部のイニシアチブによつて、つまり「上から」のみ始まりえたということ、
 第二に、改革の初期には既存の体制の枠内で、その体制をより完成されたものにする、という方向性を打ち出す以外にはなかったこと、
 第三に、全体主義の土台を内側から洗い流すという方法で、漸進的改革を行うことが成功を期待できる唯一の現実的選択だったこと、
 が理解できると思います。
 池田 あなたと対話していると、しきりに恩師戸田会長の言葉が浮かんできてなりません。
 「政治は技術である」――これが、恩師の信念でした。建物を建てるにしても、農作物を作るにしても、それなりの技術を必要とします。対象を知悉し、手順を踏み、可能な限りの創意工夫を重ねながら、結果を出していくのが技術です。
 政治も同様であって、社会の繁栄と個人の幸福の一致という理想をめざして、その国の社会をよりよき方向ヘリードしていく技術が政治である。そこから脱線し、特定の主義やイデオロギーのドグマにとらわれてしまって、民衆に犠牲を強いるようなことがあってはならない、というのが恩師の主張でした。
 いわく、「アイゼンハワー氏も、ブルガーニン氏も、ともにその思想を、政治という技術に現してこそ、力ある真の政治家といえるであろう」と。アイゼンハワーといいブルガーニンといい、懐かしい名前が出てきましたが(笑い)、いずれにせよ恩師は、資本主義や社会主義といった「主義」の是非を問うよりも、制度にどう対応していくかという技術、つまり人間の側にスポットを当てていました。
 ″ゴルバチョフ・チーム″のペレストロイカの進め方を見ていると、あくまでも人間という主体を機軸にした改革なのだという感を深くします。
 ゴルバチョフ 池田さん、私たちは、新しい政治の定義を一緒に作れそうですね。″政治とは最初の一歩を踏み出す技術である″と。
 ただ、重ねて申し上げますが、あの状況下においては、なんらかの変化への契機は、「上から」もたらされる以外になかったのです。したがって、私自身がその「頂点」に立たされたときから、多くの事柄が私の選択に委ねられることになりました。むろん、私一人が動いたわけではありません。私を書記長に選出するにあたっては、共産党内に改革支持グループが生まれていたので、彼らと一緒に改革実現に向けての第一歩を踏み出したわけです。
 もちろん、すでに申し上げたように、改革を決意するのは、だれにとっても容易なことではありませんでした。私自身も、私の仲間たちも皆、時代の子です。だれもが、少年時代から吸収したイデオロギー的ドグマと紋切り型の考え方に支配されていたのです。
 各々がそこからどう抜け出すかは、一様ではありませんでしたし、複雑で、時間的にもまちまちでした。比較的早く、完全に抜け出すことができた人もいましたし、道半ばにして止まってしまった人もいました。また、数歩進んでみて、見えてきた責任の重大さに驚き、なによりもその結末に恐れをなして、後ずさりしていった人もいました。
 池田 それが人間の社会です。歴史の現実です。偉大な人生の塔は高いほど風も強い。また人々の理解を得られないこともある。
 「先頭」を行く人には、つねになんらかの嵐がともなうものです。「栄光」と「苦悩」は決して切り離せない。その道が正しかったかどうかは、ただ歴史が証明するでしょう。後世の人類が味方してくれるでしょう。
 ゴルバチョフ 今、私たちの世界は、おそらくロシア一国ではなく、世界全体が大きな転換点にあります。
 いわば一つの段階から、もう一つの段階に移行しようとしている″時″なのです。だからこそ、混迷も深いのです。こうした時期に、双肩に責任を担って立つことは、非常に困難なことです。
 池田 おっしゃるとおりです。深く、深く理解できます。「責任」の重さは、担っている者でないとわからない。「責任」は人間性の成熟の証です。
9  「謙虚さ」こそ人間性の核心
 ゴルバチョフ ペレストロイカ、グラスノスチ――「上からの」新ロシア革命――を始めるにさいして、私たちにその後の行く末が詳細に見えていたか、民主改革がもたらしうるすべての否定的影響を、予見できていたか、という点について、一言述べたいと思います。
 設問を置き換えれば、「全体主義的共産主義」を「民主主義」に転換する方法、「ソビエト式計画経済」を「市場経済」に転換する方法を知っていた人間が、はたして一人でも、当時の世界に存在したであろうかということです。
 覚えていらっしゃいますか。ソ連が民主改革を行う可能性を、だれよりも信じなかったのは西側諸国でした。たとえば、米国のクレムリン研究者たちは長い間、ペレストロイカを本気にしていませんでした。
 そのような先見の明をもった人はいませんでしたし、いるはずもありません。なぜなら、それまで人類は、共産主義から民主主義への移行を歴史上、経験したことがなかったのですから。このような条件のもとでは、失敗や誤算を完全に回避することなど不可能だったとも思えます。それでもなお、ペレストロイカがもたらしたあらゆる否定的な過程に対して、私はその道徳的責任を感ぜずにはおれません。
 ドストエフスキーは「悟性は、知り得たことのみを良く知る」と言いました。まさにこの理由で、あらゆる見通し、戦略的計画というものは不完全であり、人間の先入観や時代の幻想を、色濃く投影させているのだと思います。
 池田 たいへんに自己抑制のきいた、謙虚なお言葉です。私は、貴著『ペレストロイカ』の結びの文章を思い起こします。
 「われわれはみな生徒である。教師は人生と時だ。広い意味での世直しを通じて、世界はその本来の姿を取り戻すだろう。そのことを認識する人々が今後ますます増えていくと私は信じている。人生という最高の教師から良い成績をもらえば、われわれは十分に準備を整え、この先いっそうの進歩があることを確信して、二十一世紀を迎えることができる」(田中直毅訳、講談社)と。
 人生にあっても社会にあっても、進歩と最終章の勝利を決定づけるものは、この謙虚さでありましょう。謙虚な人は、何事も前向きにとらえていくことができる。謙虚な人のみ、心を開いた対話ができる。現代人の傲慢さを思うほどに、謙虚さこそ、人格の枢要部を形成し、人間性の核心をなすものであることを痛感します。私が、モスクワ大学での講演で「強い人ほど謙虚であり、確信の人ほど寛容である」と強調したゆえんなのです。
10  自由な言論なくして人間の活性化はない
 池田 もうひとつ、現在、経済改革などの面で悪戦苦闘を強いられているのに対し、ペレストロイカがもたらした成果として、万人が首肯せざるをえないのが、グラスノスチ(情報公開)であろうと思います。
 ソ連時代を含むロシア千年の歴史において、検閲制度の存在しなかった時代がかつてなかっただけに、そしてまた旧ソ連が、一切の言論を厳重な権力の統制下におき、イデオロギーの専制支配のもとでの秘密国家として君臨してきただけに、このグラスノスチの浸透は、分厚いカーテンを徐々に開け放ち、燦々たる陽光を招き寄せる″夜明け″として迎えられました。
 初めは半信半疑であった人々も、あなたを中心にした当局の断固たる姿勢を知り、せきを切ったような言論の洪水現象が起こりました。その解放感にあふれた様は、旧来のソ連の暗いイメージを、一変させる効果をもっていたといってよいと思います。
 ゴルバチョフ そうですね。なぜペレストロイカがグラスノスチによって、真実をつつんでいたベールを取り去ることから始められなければならなかったか、その理由と背景については、これまでにお話ししたとおりです。
 七〇年代の終わりころ、高まりつづける知的関心、情報への欲求と、スターリン時代から何の変化もなく保持されてきたイデオロギーとの間には、すでに文字どおり野蛮きわまりない矛盾が生じていました。マルクス=レーニン主義学説と、ソ連史に関する批判を少しでもほのめかす作品は、国内文学、外国文学ともに禁止されていました。
 われわれの威勢のよいイデオローグ(論客)たちの攻撃は、反共産主義だけにとどまらず、創造的マルクス=レーニン主義をも、そしてマルクスの初期の作品を論拠に社会主義と人道主義の接点を見いだし、調和ある人格形成の理念を尊重しようとした哲学者、歴史学者をも攻撃したことは、パラドックス(逆説)としか言えませんでした。
 七〇年代には、国家的イデオロギーを時代の要請に適合させようと試みた創造的マルクス主義者たちが、何度か見せしめのように批判されました。このような「イデオロギープロセス(思想処理)」ともいうべき愚行によって、じつは最も社会主義思想を救おうとした人々、マルクス主義と社会主義を信じ、社会主義思想に新たな息吹を吹き込み、蘇らせようとした人々を排斥してしまったのです。
 池田 硬直化していた様子がよくわかります。
 ゴルバチョフ イデオロギーのプロパガンダ機関と、それを支える体制は、過去の時代に、そのときの歴史的背景において下された結論が、現在も揺るがぬものであると大衆に思い込ませることに余念がありませんでした。
 ですから、思想体系そのものの前提や公理に対し疑問を投げかけるような声を発しようものなら、当然厳重に処分されました。学者であれば職場を失い、党員であれば党員証を取り上げられました。正面切って論争を挑んだ者はだれもが、KGB(国家保安委員)の執拗な監視下におかれました。そのようなことが、ペレストロイカ直前の八〇年代半ばまで行われていたわけです。
 ただし、八〇年代に入ったころから、すでにこの思想を統制しようとする体制は機能しなくなっていました。グラスノスチは、言ってみれば無断で踏み込んできていたともいえましょう。
 池田 なるほど。おもしろい表現です。
 ゴルバチョフ ええ。それも真っ先に共産党の政治教育の場からそれは始まりました。非公開で行われていた党の勉強会で、ソ連経済の実態、社会主義諸国がかかえる危機の原因などについて、多少なりとも信憑性のある情報が提供されるようになったのです。一方、国民のほうは、懸念している問題の本当の答えを外国のラジオの電波を通して、見いだそうとしていました。
 そのようなわけで、ペレストロイカが始まるころには、情報操作は、思想的効果をもたなくなっていただけでなく、知識層を中心とする民衆の不満を煽ることになっていたのです。
 私たちがペレストロイカの一歩を踏み出したとき、第一義的課題として浮上したのは、いかにして情報の自由をつくりだすかでした。そのためには、共産党の改革派のトップがイニシアチブを発揮して、社会を検閲と禁止措置から解放しなくてはならないことは、あらゆる観点から見て明らかでした。
 池田 私が、とりわけグラスノスチにスポットを当てたのは、それが言論や言葉の活性化に裏打ちされていたからです。ペレストロイカは、当初から人間フアクター(要因)を機軸にすえていましたが、自由な言論なくして、いかなる意味でも人間の活性化はありえず、その意味では、グラスノスチこそペレストロイカのヒューマニズムを象徴していました。
 とはいえ、楽観は禁物です。グラスノスチといっても、たんに一切の検閲を廃止するという形式的な対応で、事足れりといった単純なものではなく、自由な言論を使いこなしていくには、社会全般のそれなりの成熟がなくてはならない。これはロシア固有の問題ではなく、情報化時代を迎えている自由主義社会も直面している、いわば文明論的課題といえます。社会の成熟を欠くと、情報の受け手の側には、どうしてもアパシー(無関心)やシニシズム(皮肉的・冷笑的態度)の風潮が支配的になってしまうからです。
11  新世紀を開く「武器としての対話」
 池田 グラスノスチの発動以来、数年を出ずして、あの活況を呈していたロシアの言論界が嘘のように沈滞し、すっかり様変わりしてしまったように伝えられますが、そのメンタリテイー(精神性)は、アパシーやシニシズムに通底しているのではないかと、私は懸念しています。
 いうまでもなく、そうしたメンタリテイーは、″左″であれ″右″であれ、低俗で狡猾なアジテータ‐(煽動者)の格好の餌食になってしまうことは、歴史の教えるところです。
 今、われわれに必要とされているのは、ある種の言語感覚でしょう。それは、現今の為政者のなかでは、おそらく最も繊細な感受性の持ち主と思われるチェコの大統領にして優れた劇作家、V・ハベル氏が濃密に体現している言語感覚です。
 いわく「その自由と誠実さによって社会を感動させる言葉と並んで、催眠術をかける、偽りの、熱狂させる、狂暴な、ごまかす、危険な、死をもたらす言葉もあるのです」(『ビロード革命のこころ』千野栄一・飯島周編訳、岩波ブックレット、158)と。
 そして、ハベル氏は「レーニンの言葉は……」「マルクスの言葉は……」「キリストの言葉は……」と問いかけております。
 たとえば「実際にキリストの言葉はどうだったでしょうか? それは救済の歴史の始まりであって、世界の歴史のなかでもっとも強力な文化創造の衝撃の一つだったのか、または十字軍の遠征、異端審問、アメリカ大陸諸文化の絶滅、さいごには白人種の矛盾に満ちた拡張の精神的芽ばえだったのか?」(同前)と。
 こうした問いかけ、その言語感覚こそ、情報の氾濫するなかで受け身に流されず、換言すれば、言葉に使われず言葉を使いこなしていくための必須の要件であると思います。と同時に貴国のグラスノスチの帰趨を決定づける要因になっていくのではないでしょうか。その見通しについては、どうでしょうか。
 ゴルバチョフ 今日、思想的異端に対する引き締めの緩和とグラスノスチ政策が国を自爆させた、という見解が横行しています。社会はまだまだ言論の自由を享受する準備ができていなかったのだ、と。
 私はこの考え方に賛成することはできません。その理由は第一に、そういった考えが、旧体制を懐かじむ人間たちや、初めからペレストロイカを快く思っていなかった現在の体制を支えている人間たちの口から発せられているからです。さらに決定的な点は、ペレストロイカが始まるころのノビエト連邦は、世界のなかで最も教育水準の高かった国だったことです。その水準を情報の真空状態で保つことは、もはや不可能だったといえるでしょう。
 あなたの言われるとおりです。言論の自由はつねに、「善の自由」と「悪の自由」とを同時に秘めています。言論の自由は、「善」と「理性」に働きかけることもできますが、「暴力」を誘発することもできることは明白です。しかし、それがはたして、ロシア民衆は真実を知る権利がまったくないことを意味するでしょうか。ロシア人は永久に幼稚で、情報や知識を自分に役立つように使えるようにはならないといえるでしょうか。
 池田 人間の善性を愛し、人間は互いに信じ合えるものだという大前提から事を始められたあなたにとって、ロシアの民衆が例外であるはずがありません。グラスノスチは、必ずやロシアの社会を益するであろうという、音も今も変わらぬあなたの不動の信念に、私は、双手をあげて賛同します。
 ペレストロイカの初期、ソ連通で知られるアメリカの政治学者ステファン・コーエン教授が、いみじくも「ゴルバチョフは、言葉の力を信ずることから始めた」と述べたように、グラスノスチこそ、ペレストロイカの核心中の核心に位置しているはずです。
 先にふれたように、私は、新世紀開拓のために「武器としての対話」(クレアモント大学での講演)を信条としています。ゆえにあなたへの共感も生じるのです。
 ともあれ、何が本物の言論で、何がまやかしの、悪へと人間を誘う言論であるかを鋭く見破る言語感覚を、心して磨いていかなければなりません。
 真実を知る、それによって歴史の主役になる。民主主義の成長、成熟というものは、結局のところ民衆が強く、賢くなり、何が真実で何が偽りであるかを見極める目を養うことに尽きる。それが″王道″です。

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