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日蓮大聖人・池田大作

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ペレストロイカの真実  

「二十世紀の精神の教訓」ミハイル・S・ゴルバチョフ(池田大作全集第105巻)

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2  「真実」を伝えるエピノード
 ゴルバチョフ ええ。たしかに、そう申し上げました。
 実際に、そのとおりだったのです。(笑い)
 池田 それにつけても、思い出されるのは、一九九一年末に、アイトマートフ氏から、私宛に届けられた一文です。そこには、「ゴルバチョフに語られた寓話」と題して、ペレストロイカに対する、あなたの信念を伝えるエピソードがつづられていました。
 それは、あなたのソ連大統領辞任の直後、新春のメッセージと一緒に届いたものです。
 そのエピソードとは、数年前(一九八九年)、クレムリンの一室で、当時、ソ連共産党書記長だったあなたとアイトマートフ氏が、二人だけで交わした会話でした。
 氏は、このとき、巧みな「寓話」の形を借りて、民衆に「自由」を与えたペレストロイカの困難な道を語ったとうかがっています。
 ゴルバチョフ ええ、そうでした。よく、覚えています。
 池田 アイトマートフ氏の書簡には、次のようにしたためられていました。
 「私は、あのときの会話をよく思い起こしましたが、本当に近しい友人以外には、話してはおりません。
 なぜなら、ゴルバチョフ氏が権力の頂点にあったとき、そのことを私の口から語るのは、適当ではなかったからです。
 そして今、ゴルバチョフ氏は″元大統領″となり、貴殿と私は、彼が現代史のうえに果たした役割について、思いをいたしているわけであります。
 ゴルバチョフ氏の行動、人格に対して、真の評価を下せるのは未来の世代であって、しかも、新しい精神文明が形づくられていくときであろう、とのご指摘は、まことに含蓄のある言葉であります。私もまったく同感です。
 心温まるお手紙に接し、またその″思索の糸″に導かれた私は、あのときのゴルバチョフ氏との話し合いの模様を、ベンに託してみることにしました。
 貴殿が覚えていてくださったことが、私に書く勇気を与えたのです。このように私が決心できたのも、ひとえに貴殿のおかげなのであります」
 アイトマートフ氏が語ったエピソードは、あえて苦難に身を投じ、「自由の大道」を開いたあなたと、ペレストロイカの「真実」を伝える、貴重な証言となるにちがいありません。
 アイトマートフ氏のご了解をいただき、少々長くなりますが、ここで紹介させていただきます。
3  〈ゴルバチョフに語られた寓話〉
 その日、ゴルバチョフは私(=アイトマートフ氏)を呼び出した。このときの会話を、私はことのほか印象深く記憶している。
 彼が、私を呼んだのは、今思うと、何か具体的な用件があって、たぶん当時、焦眉の問題となっていた中央アジア情勢、とりわけ民族問題か何かについて話し合おうと思ったからだったのだろう。
 しかし、この用件に即した実務的な会話は、この日、ついに交わされないまま終わることになる。
 それどころか、私たちの語らいは私の不用意な発言のせいか、まったく意図せぬ方向に発展してしまった。それというのも……。
 事の本質を理解するためには、あらかじめこの話が、ペレストロイカが、まだ未曾有の民主的改革として脚光を浴び、もてはやされていたころの出来事だったことを、念頭に置いていただきたい。
 ただし水面下では、右からも左からも、民主派からも党官僚からも、見えざる不満と批判の声がしだいにあからさまになり、強まってきていた。それぞれの人間には、それなりの言い分も理由もあった。
 国の経済が、慢性的な低落傾向にあったことも大きく影響していた。
 ゴルバチョフの心の内があまり穏やかでないことを、そのとき、私はすぐに感じ取った。彼はいつものように落ち着いて、にこやかに応対し、彼の瞳は「ゴルバチョフ光線」とでもいうべき、あの輝きを時折放っていた。にもかかわらず、彼の顔には心痛の跡が刻まれていたのであった。
 私たちは、クレムリンの彼の執務室の一部屋で、机をはさんで向かい合って座った。
 話の本題に入る前に、ゴルバチョフが、私の仕事、つまり文学活動はうまくいっているかどうか尋ねてきたのは、いってみればごく自然のことだった。今、私が何を書いているのか、今度出そうと思っているのは長編か、それとも中編物か、出版はもうすぐなのか、といったような質問だった。
 だが、これらの質問をすることで、彼はそうとは知らずに、私の最も痛い部分にふれていた。
 というのも、そのころの私は、文筆家としての本来の仕事をする時間が、まったくもてずに苦しんでいたのだった。私は思わず心中を漏らしてしまった。
 「じつは、何とお答えすればいいものか。日に日にペンを持つのが困難になってきているのです。
 今こそ完全に自由になって、何でも書けそうなものなのに、結果はちっともはかばかしくないのです。文筆活動のための時間が全然とれません。
 今は皆、ペレストロイカのために、何でも引き受けなければといったところですからね。私たち皆が、一つの風、一つの課題にさらされているわけですから」
 「いや、一つどころか、七つの風ですよ」。驚いたように首を振って、彼は笑った。
 「実際、そのとおりですね」と、私は同意して言った。
 「ペレストロイカの嵐が、私たちを翻弄しています。民主主義が、こんなに時間を使ってしまうものだとは思いませんでした」
 「わかります。大変よくわかります」
 考え深げに、また同情するような笑みを浮かベて、ゴルバチョフは、相槌を打ち、語った。
 「ええ、たしかに時間がありません。しかし同時に、別なもの――とても大事な心の発見があります。どんな思考も追いつけないような時代が突然開けたのですから。芸術家も、哲学者も、政治家も、そしてあらゆる人々が言うべきことをもっているのです」
 一般的な話題につづいて、私は当時、とくによく考えをめぐらした問題にふれた。
 それは、社会主義という隠れ蓑の陰で、ソビエト社会に長年潜んでいた問題――つまり、権力がつねにはらんでいる矛盾と、それがもたらす不可避的な破局、といった権力者の宿命についてである。
 ある意味で、この運命的な問題は、全体主義のもとで、受難の改革者の道を踏み出したゴルバチョフ自身の運命とも、つながっているのではないかとの予感を、私はもっていた。
 要するに、ここで話題となったのは、権力者――一人が多数を支配する方途と代償というテーマである。
 しかし、こういったことをストレートに、あからさまに取り上げるのは、適当でない気がした。そこで、私は回り道をすることにした。自分の作品の構想にふれながら、ある東洋の寓話をゴルバチョフに語ったのである。
 これは、今度予定している作品で、展開の要となるものだった。私は、思索しつつ物語り、物語りつつ思索するといった口ぶりで話していった。
 じつは私が心の痛みとともによく思い出す、古い寓話がある。
 車中や会合で、また一人のとき、だれかと一緒のときにもよく思い出すもので、次のような内容である。
 ――あるとき、偉大なが為政者のもとに、一人の予言者が訪れ、きわめて虚心坦懐に語り合った。そのさい、客の予言者は為政者にこう言った。
 「あなたの栄光はあまねく知れわたっており、王座はまったく不動です。ところが、奇妙な噂が私のもとに届きました。
 あなたは、恒久的な民の幸福を願い、万人に通ずる″幸の道″を人々に開こうとしていると。つまり、民に完全な自由と平等を与えようとしていると――」
 そうだと、為政者はうなずきながら、
 「それは長い間、いだきつづけてきた考えで、実際に自分の信念と決意のとおりに行動するつもりだ」と言った。その答えを聞き、聡明な客は短い沈黙の後、こう語りかけた。
 「君主よ、幾多の人々を幸せにする、この偉大な賛嘆すべき行為は、あなたに不滅の栄誉をもたらすでしょう。あなたの御姿は、神のそれにも等しく高められていくでありましょう。私も心からあなたの味方です。
 しかし、私の使命は、真実をすべて包み隠さずに語ることです。あなたは、そこから、ご自分の結論を出さなければなりません。
 君主よ、あなたには二つの道、二つの運命、二つの可能性があります。どちらを選ぶかは、あなたの自由です。
 一つ目の道は、代々の伝統にならって、圧政によって王座を固めることです。王権の継承者として、あなたには強大無比な権力が与えられています。
 この運命は、あなたに今後も同じ道を行くことを命じております。それに従えば、あなたは最後まで権力の座にとどまり、その恩恵のもとに安住することができるでしょう。そして、あなたの後継者もまた同じ道をたどっていくことでしょう」
 ゴルバチョフは終始黙って、この意図の明らかな、しかし、語り口ゆえに決して押しつけがましくはない私の寓話に、じっと耳をかたむけていた。
 つづけて私は、流浪の賢者の、二つ目の予言について語った。
 二つ目の運命。それは受難の厳しい道であると、予言者は権力の極みにいる為政者に告げた。
 「なぜならば、君主よ、あなたが贈った『自由』は、それを受け取った者たちのどす黒い、恩知らずの心となって、あなたに返ってくるからです。そういう成り行きになってしまうものなのです。
 では、どうして、なぜ、そうなるのか? なぜ、そんなばかげた不条理がまかり通るのか? 逆ではないのか? どこに正義や理性はあるのか?
 この問いに答えられる者はいません。これは、天国と地獄の不可思議な秘密なのです。これまでもずっとそうであったし、これからも変わらないのです。
 あなたも同じ運命に襲われるにちがいありません。自由を得た人間は隷属から脱却するや、過去に対する復讐をあなたに向けるでしょう。群衆を前にあなたを非難し、嘲笑の声もかまびすしく、あなたと、あなたの近しい人々を愚弄することでしょう。
 忠実な同志だった多くのものが公然と暴言を吐き、あなたの命令に反抗することでしょう。人生の最後の日まで、あなたをこき下ろし、その名を踏みにじろうとする、周囲の野望から逃れることはできないでしょう。
 偉大な君主よ、どちらの運命を選ぶかは、あなたの自由です」
 為政者は、そのとき、流浪の人に答えた。
 「七日間、私を庭で待っていてくれ。私は熟考しよう。七日後に、もし私がお前を呼ぶことがなければ、行ってしまうがいい。自分の道を行くがいい……」
 このような古い寓話を、私はゴルバチョフに語ったのであった。
 氏は表情を変え、黙していた。私は早くも自分のやったことを後悔し、あいさつをして帰ろうとした。そのとき、氏は苦笑しながら、口を開いた。
 「言わんとすることはわかっています。出版予定の本の話だけではありませんね。
 しかし、七日間も私を待つ必要はありません。七分でも長すぎるくらいです。
 私はもう選択をしてしまったのです。どんな犠牲を払うことになろうとも、私の運命がどんな結末になろうとも、私はひとたび決めた道から外れることはありません。
 ただ民主主義を、ただ自由を、そして、恐ろしい過去やあらゆる独裁からの脱却を――私がめざしているのはただこれだけです。国民が私をどう評価するかは国民の自由です……。
 今いる人々の多くが理解しなくとも、私はこの道を行く覚悟です……」
 ここで、私はその場を辞した。〈以上、アイトマートフ氏の書簡より〉
4  若い″ロシア民主主義″の行方
 池田 「自由の背理」の問題は、古くはプラトンが『国家』の中で、近くはドストエフスキーが『悪霊』や『カラマーゾフの兄弟』の中で、鋭くえぐりだしたものです。この古くて新しい人類史的課題を、いわば″十字架″として背負いつづけてきたのが、ミハイル・ゴルバチョフという巨人であったと、私は思うのですが、いかがでしょうか。
 ゴルバチョフ あのときに、わが友チンギス・アイトマートフに語った言葉は、今でも繰り返せます。
 「民主主義しかない、自由しかない」と。
 自分の志を違えたことはなかったし、これからも違えることはないでしょう。後悔は何もありません。
 わが国の民主改革の端緒を開いた、それこそ、私のなによりの成果です。
 池田 よくわかります。清々しい言葉です。
 ゴルバチョフ しかし、今、若いロシア民主主義はむずかしいときを迎えています。
 民主的選択と、権威主義、独裁体制という問題が、ふたたび、クローズアップされてきています。
 対立は、政治的なものにとどまらず、価値観、世界観にまでおよんでいます。民主主義の道を歩みながら、みずからの力で成長していこうという、ロシア国民の意気込み、確信は、独裁主義とは、相いれないものです。
 皮肉なことに、今、強力な権力、大統領専制を説いているのは、ほかならぬ、三、四年前に自由と民主主義のために、「中央」を粉砕した面々なのです。
 わが国の「独裁主義派」ほど偏狭で、民主主義から、ほど遠いものはありません。
 現在のロシアが、本当の意味で民主主義の国だとは、おそらくだれも言えないでしょう。
 一九九三年の十月の三、四日に起こった議事堂の砲撃事件は、ペレストロイカが育んだ民主の芽を焼き払ってしまいました。
 それは、悲劇そのものでした。「私たちロシア人は、国内の戦争と永遠に別れを告げた。暴力に訴えることなく、平和裏に紛争が解決できるのだ」という確信を強めてきたにもかかわらず、それを踏みにじられてしまいました。
 結局、あの事件は、私たち国民を辱めたのです。
 池田 総裁のご心境は、痛いほどわかります。
 ゴルバチョフ でも考えてみてください。
 事件のあと、現政権は、国を元の状態に戻すことはできませんでした。以前は、反体制派とされた偉大な民主派知識人のミハイル・ゲフテル、アンドレイ・シニャフスキー、ウラジミール・マクシーモフ、ピョートル・エギデス、グレブ・パブロフスキーは、合法的に選出された議会に、戦車の砲口を向けたことに対して、事件直後に、断固とした「ノー」を宣言しています。
 そのおかげで、ロシアはショックから抜けだし、恐怖を克服することができました。十二月十二日には、議会選挙を行う運びとなりました。
 国民は、上からの力ずくの急進革命と「ショック療法」に反対票を出じ、モスクフで武力衝突を扇動した政治家たちに、不信任を表明しました。
 選挙の結果、言論の自由、多党制度、出国の自由など、ペレストロイカが勝ち取った主要なものは守られ、生き残りました。
 そうです、国民の意志、世論が国政に影響を与えるようになり、口シアで民主選挙が行えるようになるなどと、ほんの十年前、世界のだれが言いえたでしょうか。
 池田 そのとおりです。劇的な歴史の転換でした。
 ゴルバチョフ 十年前、わが国で、多党制度のもとで自由選挙が行われる日が訪れることを信じる人は、あまりいませんでした。
 ところが、その日が訪れたのです。全ロシアの民主主義者の夢が、かなったのです。
 しかし、やはり民主主義の後退が起こっていることに、私は不安を感じています。現政権は、またもや憲法との折り合いがつかなくなっており、議会は、社会のなかで重みをもたなくなってきています。
 次期大統領選挙を延ばそうとする動きも見られ、ロシアにとって独裁主義は不可避であり、民主主義に「疲れて」しまった、といった考えを、国民に押しつけようとする画策が見られます。
5  「青年は心して政治を監視せよ」
 池田 なるほど。
 意図的な宣伝や画策であるかは別にして、民衆や若者の間に、ある種の政治離れ――あのペレストロイカ初期の熱狂的な雰囲気とは、まるで様変わりしたかのような、冷めたムードが支配的なのは、事実のようですね。
 先のロシア訪問のさいにお会いしたある識者は、「ロシア人、とくにモスクフの人々は、今、政治と説教にはあきあきしています」と語っていました。
 ″政治の季節″ への反動で、ある程度、やむをえないかもしれませんが、若い世代の政治離れ、政治的アパシー(無関心)が高じていくと、やはり危険です。
 たしかトーマス・マンだつたと思いますが、「政治を軽蔑する人間は、軽蔑に値する政治しかもてない」と言っているように、そうした精神的空白にしのびこんでくるのは、左右の全体主義など、決して健全なものではないからです。
 ゆえに、私の恩師は、「青年は心して政治を監視せよ」との遺訓を残しました。
 政治の腐敗を許してしまうのは、民衆の無気力と無自覚と、「長い物には巻かれろ」という卑屈の精神である。さらに、その民衆の無気力の根源は、青年の無気力と惰弱にある――。
 恩師は、こう看破しておりました。
 青年は、敏感である。もし青年が、確かな自己を確立し、思想をもち、民衆の幸福を切願するならば、悪い政治家などにだまされるわけはない、との強い信念でした。
 青年を先頭として、民衆自身が、政治に鋭い監視の眼を向けつづけることこそ、民主主義を守りぬく最大の眼目だと、私は思います。
 ゴルバチョフ たしかに、あなたの状況分析は正しいと思います。
 われわれは、″政治の季節″、急激な変段の段階から、無気力の段階へときています。それを、私は心配しているのです。
 まして、多くの人々は、無気力を、安定性のあらわれであるかのように見せかけています。あなたがおっしゃるとおり、わが国では、安定化という口実で、独裁主義の傾向性を正当化しようとしています。
 しかし、ロシアは必ずや民主主義の国になると、私は確信しています。人々が民主改革を支持し、もう元には戻りたくないと思っていることは、どの世論調査を見てもあきらかです。ロシアは、民主主義制度を確立し、それを国の改革に活用していくことができるはずです。
 同時に、市民の社会意識も高まってきています。以前は耳にすることもなかったような基金や協会、クラブ、グループ、運動団体が生まれているのです。
 私には夢がありました。そして、その夢を実現させることができました。そのためには、危険も冒さなければならなかったし、そのためなら権力を失ったとしても、いいではありませんか。
 「自由」には、それだけの価値があるからです。
 池田 誇り高き魂の叫びです。
 「精神の自由」のために闘ってきた一人として、胸打たれます。
6  踏みならされた道を選んでいたら
 ゴルバチョフ あなたは、われわれ政治家に、自分の人生や行為を恒久的な目で見つめることを提起されましたが、私は、もっと単純な方法を考えてみました。
 それは、自分自身や自分の行為を、子どもたち、孫たちの目で見つめてはどうか、と思うのです。
 率直に言いましょう。私は、肉親や友人の目をまっすぐに見つめて、何も恥じるところはありません。ロシアを恐怖から、そして政治犯から解放し、一国を一つの大きな監獄にしてしまった鉄のカーテンを打ち破った。それこそ生きてきた甲斐があったというものです。
 わが国の青年たちの考え方を見てください。率直で、自由な思考をしています。世界中の文化が、彼らの手の届くところとなったのです。
 池田 そうですね。私も、貴国の青年たちとの語らいで、実感しています。
 ゴルバチョフ ペレストロイカ以前は、非常に厳しい検閲が行われていました。マルクス=レーニン主義の分析、ましてや批判は禁止。革命前の観念論哲裂も禁止。亡命者文学も御法度、ソルジェニーツィンは発禁。良識もだめ。
 これらはすべて、不条理を維持するためでした。
 そしてこれらは、わずか三、四年の間に破れ去ってしまったのです。グラスノスチ(情報公開)は真に民主的な革命であり、精神の革命でした。
 もしも私が、これまで踏みならされてきた道を選んでいたとしたら、私の人生はどうなっていたでしょう? 権力、ひたすら権力? 特権の満喫?
 しかし、そんなことに興味はありませんでした。
 そういう例はこれまでにいくらでもあつたし、ブレジネフ時代に、間近に目にしていました。
 そしてなによりも、私が政権の座についたのは、これまでの繰り返しは、もう許されないようなときだったのです。
 民衆は、沈滞の時代と、公のばかげたデモ行進に疲れていたのです。今までの繰り返しは、将来の死、退化の兆候として、受け取られるようになっていました。
 池田 民衆のなかに、すでに大きな底流があったわけですね。
 ゴルバチョフ そうです。そのころは、使い古されたスローガンやイデオロギー、聞きあきた権力の言葉に、皆、うんざりしていました。社会は、若いリーダーを、権力者の新しい言葉を、そしてもちろん、新しい政治を渇望していました。
 もはや「これまであったものが、これからもつづく。これまでなされてきたことが、これからもなされていく」ことを、望んでいませんでした。
 社会は、浄化を望み、新しい、もっと行動的な、誠実な政権、今までとは違う、もっと理にかなった生活があることを、信じていたのです。
 もちろん、私の夢が、すべて実現したわけではありません。国家非常事態委員会の組織者たちは、ノボ=オガリョフスク・プロセス(主権国家連合再編成案)を挫折させ、ソ連邦を解体させ、ソ連共産党の社会民主主義政党としての再建を阻んでしまいました。
 しかし、要の部分を排除することは、彼らもできませんでした。全体主義体制の崩壊は、後戻りを許さぬところとなっていたのです。
 池田 「肉親や友人の目をまっすぐに見つめて、何も恥じるところはない」――あなたの人柄と信念がにじみ出た、すばらしい一言です。
 ″近習からみれば英雄はいない″と言われるように、どんなに立派に見えても、家族や友人、知人など、身近な人たちからの尊敬を勝ち得ていない人は、どこかに虚像をにじませているものです。
 ですから、身近な人の視点で自分を見つめるという提案に、私も、大賛成です。
 そのことで思い起こすのは、先般、亡くなったアメリカの科学者ポーリング博士のエピソードです。
 博士は、あの″マッカーシー旋風″のさなか、反共主義者たちの批判に、断固として立ち向かい、科学者としての良心から、平和のための発言と行動を果敢につらぬきました。
 その博士が、私との対談集(『「生命の世紀」への探求』読売新聞社。本全集第14巻収録)で、こう述懐されていました。
 「私は、核兵器反対の立場をとりましたが、その決断をうながす決め手となったのは、妻から変わらぬ尊敬を受けたいという、私の願いでした」と。
 また、アイトマートフ氏も、少年時代の逸話を語ってくれたことがあります。
 よくご存じのように、氏のお父さんは政治的弾圧に遭い、処刑されたのですが、小学校の先生は、アイトマートフ少年にこう諭したというのです。
 「父親の名を言われたときに、決して眼をふせてはいけないよ!」と。
 銃殺された父親が誇るべき人であることを、その先生自身が、権力の目を恐れずに説ききったのです。
 だれにも恥じることなく、恐れることなく、頭を上げて生きぬく。その土台に、身近な人々との心の交流が、金剛の輝きを放っている――。これは、多くの偉人に共通することかもしれません。
 ゴルバチョフ あなたにとって、そうした存在は、どなたですか。
 池田 私にとって、そのような眼線を交わす人は、だれにもまして、恩師戸田会長です。
 何のやましさもなく、″不二″の誓いの心一筋に、戸田先生の目をまっすぐに見つめることは、私のすべてでした。
 ″戸田先生と自分″という一点さえ揺るがなければ、何も恐れるものはない。なしとげられないことはない。
 この確信が、若き日の私の一切の支えであり、原動力でした。いや、その気持ちは、今も同じです。これからも、変わらないでしょう。
 「民主」と「自由」へのあなたの行動も、人間としての揺るぎない信念の土台のうえに立つゆえにこそ、目覚ましい成果を生むことができたのだと、あらためて実感します。
7  重要な意味をもつ「農村育ち」
 ゴルバチョフ 深く理解していただき、ありがとうございます。
 人間は、まず自分の人生観を根本として、行動します。私は、自分自身の倫理観をもとに行動してきました。
 私の自由の選択が揺るぎないものとなったもう一つの背景、それは、私が原点とする倫理観です。
 子どものころ、三〇年代後半の悲劇を起こした本当の原因はまだわからなかったものの、不公正な場面にぶつかることがありました。
 しかし、反面、コムソモールの職員となり、その後、党の職員となった私は、この体制の枠組みを、逆に、人生を高め、より意味のあるものとするために、可能なかぎり活用しようとしてきました。
 ソビエト体制に対する、皮相的な拒絶反応に接すると、いやな思いにかられます。たしかに、ソビエト体制下では、個人の権利が侵害され、異分子は弾圧されてきました。
 しかし、忘れてほしくないことがあります。古い体制は、教育を受ける環境を整え、労働の可能性を保障し、社会保障もある程度、整備されていました。
 一方、年をとるごとに、さまざまな歴史の断面を知れば知るほど、私の疑問は広がっていきました。
 池田 わかります。そのような心の動きは、多かれ少なかれ、当時の人々に共通したものだったのでしょうね。
 ゴルバチョフ そのとおりです。多くの人がそうであったように、私のなかにもかなり早い時期から、変化を待望する気持ちが芽生えていました。
 もちろん、人生について深く思索するようになったのは、モスクワ大学で学ぶようになってからです。それは、学生時代に私たちが大きく変わっていった結果でした。そして私は、過去も未来も、まったく違った目で見るようになりました。
 何か、奇跡的な変化があったわけではありません。ただ、わずかでも道徳観念をもった、正常な人間であるならば、権力者がいかに民衆を軽視し、民衆の尊厳性を考えず、民衆の求めているものに気づこうとしていないかという現実を、見ないわけにはいきませんでした。
 農村育ちの私は、スターリン体制が農民を農奴のようにあつかっている現場を目の当たりにし、自分自身も体験しました。
 日々の重労働、それには何の見返りもありません。都会育ちよりも、農民出身者のほうが、既存の体制に疑問をもつことが多かったのも、偶然ではないのです。
 池田 そうした点からも、「農村育ち」という背景が、重要な意味をもっているのですね。
 ゴルバチョフ そのとおりです。
 「集団化」とか、「コルホーズ制度」といった概念は、都会育ちのモスクフ大学の同級生と違って、私にとっては現実のことであり、「集団化」「コルホーズ制」がどれほど理不尽な面をもっていたか、体験から知っていました。
 現実生活が、勉学のプロセスに深く入り込み、時に、書物が与える社会観を突き崩してしまうこともありました。
 いわゆる「寄る辺なきコスモポリタニズム」「西側追従」に対する、見境のない暴露キャンペーンには、戦慄の思いがしました。
 それは、果てしのないユダヤ人攻撃、ユダヤ人を裏切り者呼ばわりするための、格好の材料となったのです。理不尽で低劣なこのやり方は、抗議を呼び起こしました。
8  社会主義的現実と「理想」の乖離
 池田 そのような話は、前から聞いていました。
 ″コルホーズ強化″の名のもとに行われた暴虐を、ソ連の抵抗文学者グロースマンの著作の中のある登場人物は、次のように糾弾しています。
 「大量殺人に署名したのは誰だろう? わたしよく思うわ――本当にスターリンだったのだろうか?
 ロシアの国ができてから、こんな命令なんて一度もなかったと思うの。皇帝(ツァーリ)だろうと、タタール人だろうと、またドイツの占領軍でもこんな命令なんかには署名しなかったわ。
 その命令というのは――ウクライナや、ドンやクバンの百姓を飢え死にさせ、小っちゃな子供まで殺せというんじゃないの!」
 「わたし判ったわ。ソヴエート政権が第一に必要としたのは――計画だったってことが。計画を遂行しろ! 割当、供出を果たせ! 何よりも先ず――国家よ。人間なんて問題じゃないんだわ」(『万物は流転する…』中田甫訳、『現代ロシア抵抗文集』6所収、勁草書房)
 計画経済の破綻が、多くの人々の生命を奪うことに結びついてしまったところに、ソ連の社会主義の大きな悲劇が、あったのではないでしょうか。
 ゴルバチョフ 悲劇的なのは、今も、スターリン主義、集団化、ソビエト国民に対するジェノサイド(集団殺戮)を正当化する人間が、わが国には多くいるということです。
 それは、シニカル(冷笑的)な人々であり、私は、彼らとは、見解を異にしています。
 つまるところ、ペレストロイカの精神的な本質とは、反スターリン主義なのです。
 集団化などの概念は、都会っ子の私の同級生とは違い、私にとっては自分の両親、自分の祖父たちの厳しい実体験だったのです。
 社会主義の現実が理想とかけ離れているということは、学生時代から気づいていました。
 しかし、申し上げておかなければなりませんが、私たちの世代は、社会主義の理想を信じつづけていました。あらゆる不幸は、社会主義を「歪曲」したところからきているのだと、思っていました。
 ペレストロイカの動機となったのも、「現実を理想と合致させよう! ″社会主義の変形″をなくそう!」という、学生時代に、私たちの世代のなかに生まれた願いだったのです。
 ですから、私たちは、正確な意味での反体制派ではありませんでした。むしろ、現実的社会主義の修正主義者であり、その刷新をめざしていました。
 池田 青春時代の″一念″のなかに、大いなる転換の萌芽があったと……。
 ゴルバチョフ 正直に申し上げます。
 ソ連共産党書記長に就任した一九八五年二月から始まった私の行動は、どれもが、私の性質や人生観、人生経験を反映した、自然の帰結だったのです。
 ええ、たしかに、私が書記長になったとき、選択の可能性はありました。私が継承したシステムを、そのままの形で維持することもできました。あるいは、改革を始めることもできました。
 もっとも、私が最初の道を行けば、これまでの醜悪で、低劣な、あらゆるものの人質となってしまったでしょう。異端分子の弾圧を組織し、政治犯を獄につなぎ止め、少しの自由思想に対しても、イデオロギー上の検閲をつづけなければならなかったにちがいありません。
 しかし、選択の可能性といっても、それは、理論上の、抽象的なものにすぎませんでした。実際には、私がソ連共産党書記長に選ばれたとき、選択の余地は、ありませんでした。国は、「改革」を待望していたのです。
 哲学者や歴史家が、天命だ、歴史的行為だなどと、尊大なことを言いますが、現実には、責任感と、自分の周りにあるものに対する、抑えがたい羞恥の気持ちのあらわれである場合が多いのです。
 一九八五年の民主改革以来、私と同志が立てた目標について、またペレストロイカの動機について、今日でっち上げている人が、少なからずいます。
 「ゴルバチョフがペレストロイカを始めるにいたったのは、ソ連が、アメリカから技術的な後れをとっているためだ」とか、「ペレストロイカの背景には、むき出しの国家実利主義と、いかなる手段をもってしても、既存の制度を維持しようという意図しかなかった」などと、言っています。
 また一方では、ペレストロイカを、「ソ連共産党書記長に特有の名誉欲、英雄になりたいという野心から出たものだ」としています。
 今日、急進的民主派も、熱狂的愛国者も、ペレストロイカの名を汚そうとしています。それは、良心の欠如、あるいは知性の欠如によるものです。
 池田 わかります。
 美しいものを美しく、偉大なものを偉大と見ることができず、自分の次元にまで引き下げ、自分の偏見というプリズムを通してしか、見られない。
 そうした人々のおちいっている罠は、みずからの手で放っている批判の矢が、じつは自分自身を射ていることに気づかない点にあります。低劣な非難や悪口は、結局は、みずからの品性を貶めるだけです。
 私もそうした姿を、あきれるほど多く見てきた一人です。
 ゲーテの言葉が、想起されます。「人間がほんとうに悪くなると、他人の不幸を喜ぶこと以外に、他人への関心をもたなくなってしまう」(『箴言と省察』岩崎英二郎・関楠生訳、『ゲーテ全集』13所収、潮出版社)
9  歴史の教訓を忘れるな
 ゴルバチョフ 本当に、そのとおりですね。(笑い)
 加えて、これらペレストロイカを批判する人々の最大の不幸は、記憶の欠如にあります。
 一九八五年までの、国内の道徳倫理、精神状態が、どのようなものだったのか、なかには、きれいに忘れてしまった人もいるのでしょう。
 当時、国がどこかおかしくなっていると、指導者たちも、一般市民も、皆、肌で感じていました。
 一九八二年のL・I・ブレジネフの死以後、相次いだ書記長の葬儀。支配層の明らかな道徳的、精神的退廃。あまりにもかけ離れてしまった教育水準と知識層の精神的・知的欲求、そして巨大なプロパガンダ・マシーンで植えつけられたマルクス主義思想。
 国家のマルクス=レーニン思想は、現実との矛盾にぶつかってしまいました。マルクス主義によって約束された「資本主義の腐敗」の代わりに、日本をはじめ、西側先進諸国では、前代未聞の科学技術の進歩がとげられました。
 ペレストロイカより以前、八〇年代初めまでには、″大規模集団生産というマルクス思想の正しさが証明された国はない″ことが、明らかになっていました。
 どんなことをしてでも、「鉄のカーテン」を維持し、ソ連国民を有害な西側の影響から守ろうとする姿は、まったくの時代錯誤と映っていました。
 池田 当時のソ連国内では、具体的に、どういうことが行われていたのですか。
 ゴルバチョフ そうですね。
 たとえば、世界最高の教育水準をもつ国で、二十世紀末にあって、なお存在した政治犯。真実の封じ込め、屈辱的な検閲――。
 ロシアの偉大な人道思想は、すべて、ペレストロイカが始まるまで、事実上、禁止されており、特別保管室に埋もれていました。
 ニコライ・ベルジャーエフやセルゲイ・ブルガーコフ、セミョーン・フランコなど「銀の時代」の哲学者に対する禁も、解かれていませんでした。
 それどころか、クリュチェフスキーやソロビヨフ、カラムジンなど、革命前の大歴史家の著書をひもとくことさえ、できませんでした。
 しかしながら、社会は、教育水準が高いために、また発達した精神性のために、凝り固まった階級思想のドグマを受け入れることはできませんでした。
 プロレタリア文学も、七十年近く教えられてきた階級道徳も、共産主義のために動員された精神的なものは、すべて受け入れることはできなかったのです。
 今、リベラルなインテリ層に名を連ね、私がペレストロイカを始めた動機の「純粋さ」を疑問視する「批評家」たちは、あり余るほどいます。彼らは、一九八五年三月のソ連共産党中央委員会総会の前夜、自分たちが何を考え、夢見ていたかを、きれいさっばり忘れてしまっています。
 出国禁止がどういうことか、つまり、生涯にわたって、西側諸国渡航の権利を剥奪されていることがどんなことか、忘れてしまったのです。
 首都に住む数多くの知識人にとって、事実上、職を奪っていた、いわゆる「第五項」にまつわるドラマ、悲劇を忘れてしまったのです。
 第二七回ソ連共産党大会まで、警察の機能をもっていた党中央委員会学術部が、学術知識層をどれほど抑圧していたか、忘れてしまったのです。
 池田 率直にお答えいただき、感謝します。
 まことに、″忘却″とは恐ろしいものです。もちろん、些細なことに執念深すぎるのも問題ですが、過去の歴史の教訓を忘れては、確かな未来も、開けるはずがありません。
 とくに、日本人は、こうした″歴史的健忘症″が顕著のようです。ですから、第二次大戦のさい、アジア諸国を侵略し、計り知れない苦痛を与えたことを忘れたかのような発言が、要職にある政治家の口から、しばしば飛び出し、物議をかもすのです。
 アジアの人々から、本当に信頼されるようになってこそ、日本は、初めて、真の平和国家と言える――これが、私の信条です。
 この点、ドイツの哲人政治家ヴアイツゼッカー前大統領が、敗戦後四十年に行った演説穴五年五月)は、世界中の人々に、深い感銘をもたらしました。
 その中に、「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです」(『荒れ野の40年』永井清彦訳、岩波ブックレット、56)と。
 あなたがおっしゃったとおり、「平和」とは、そして「未来の創造」とは、「過去を忘れない」ことから始まります。
 これは、歴史のなかに生きる人類にとって、大切な命題であると思います。
 一九九四年五月より、アメリカの人権擁護団体であるサイモン・ウィーゼンタール・センターと創価大学が協力し、「勇気の証言――アンネ・フランクとホロコースト」展を、日本各地で開催しておりますが、そのテーマも「人々が忘れなければ、希望は続く」というものです。
 ゴルバチョフ 同感です。
 記憶をもたない人間は、過去をもちえません。記憶がなければ、責任感もありえません。記憶がなければ、自分が生きている時代を理解し、客観的に、その時代を見ることもできません。結局、記憶なくして、幸福にはなれないのです。なぜなら、記憶をもたない人間は、真の喜びが見えないからです。
 もっとも、客観的に見ますと、もとより。ヘレストロイカは、最初から、社会主義体制を抜本的に転換することを、念頭に置いたものではありませんでした。
 ええ、そうです。ペレストロイカの初期には、既存の体制の変革は、問題になっていませんでした。
 ただ、ソ連に築かれた社会主義の改良、その可能性、潜在能力を活用していこうということが、第一義でした。
 しかし、そのような目標を立てたのは、保護的な態度をとっていたからではなく、社会主義と民主主義の結合を阻むものは、何もないはずだ、これこそ、人々の権利と自由を取り戻すのに、最も簡単で、円滑な方途であると、心から、信じていたからです。
 これは、侮辱されたことを、云々しているのではないのです。
 あなたがおっしゃるように、たしかに改革者は、感謝の言葉を期待することはできないでしょう。人間とは、そういうものです。往々にして、いちばん恩のある人から、遠ざかっていこうとするものです。
10  崇高な「師弟の道」「報恩の道」を
 池田 残念ながら、そのとおりです。「恩」は、人道の基本であるにもかかわらず、かくも浅はかに忘れられ、裏切られ、踏みにじられるものなのか――。
 仏法では、「知恩」「報恩」を、このうえなく、大切にしております。
 たとえば、仏典に「報恩抄」と題する一編がありますが、その冒頭では、ある中国の説話に言及しています。
 ――幼い少年・毛宝に命を助けられた白い亀が、後年、立派な将軍に成長していた毛宝を背中に乗せて窮地を救い、その恩に報いた――。そして、「畜生すら、このようである。いわんや人倫(人間)をや」と、恩に報いることが、いかに大切な人の道であるかを教えているのです。
 恩師戸田会長もまた、偉大なる知恩の人でした。恩師は、先師牧口初代会長とともに、軍部権力の弾圧に遭い、二年間、入獄しました。
 牧口会長は、三畳ほどの暗い獄中で、崇高な殉教の生涯を開じたのです。
 一人、生きて獄を出た戸田会長は、牧口会長の三回忌にあたり、こう述懐しました。霊前に語りかけるように――「あなたの慈悲の広大無辺は、私を牢獄まで連れていってくださいました」と。
 普通であれば、恨みごとや悪態の一つでもつきたくなるところです。それを恩師は、ともに迫害を受けたことを最大の誉とし、心から感謝していたのです。
 まさに、師牧口会長への報恩の炎を燃やし尽くされた生涯でありました。
 人間性の極致ともいうべき「師弟の道」「報恩の道」――これこそ、私どもの永遠の誇りなのです。私もまた、牧口会長、戸田会長の大恩に報いるため戦いぬいてきました。
 ゴルバチョフ 美しい、深く心を打たれるお話ですね。とくに、戸田会長の行動、言葉に感動しました。
 今、思い出したのですが、キリスト教も、東洋の英知から、非常に多くのものを取り入れていますね。
 たとえば、イエス・キリストも、次のように説いています。
 「もし、だれかがあなたの右の頼を殴るなら、左の頼をも向けてやりなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい」(『新約聖書』共同訳・全注、講談社学術文庫)と。
 もつとも、イエス・キリストや、あなたの師匠である戸田会長のような行動をとることは、非常にむずかしい。
 残念ながら、こういつたことができる政治家は稀です。
 政治家、つまり政治的プロセスに巻き込まれた人々の行動について言えることは、たくさんあります。
 彼らのなかには、非合理的な感情や行動が数多く見られますが、それは決して、わが国だけの「産物」ではありません。
 それゆえに、政治的判断というのは、たとえ善良な意図から発していたとしても、人生についての知識の不足から、必ずしも期待どおりの結果が得られるとは限らないのです。
 ペレストロイカ前夜のソ連の精神状態について思いをめぐらしたのは、なぜ、われわれが経済改革だけでなく、グラスノスチも同時に始めたのか? なぜ、社会の精神的知的状態に政治体制を合致させようとしたのか?――それを説明したかったからです。
 「こんな生活は、これ以上つづけられない」という皆の思いこそ至上命令であり、それが党の新指導部であったわれわれを、ペレストロイカヘ、改革ヘと駆り立てたのです。
 池田 なるほど。ペレストロイカの背景が、より鮮明になりました。
 ゴルバチョフ ペレストロイカを進めた、もう一つの要因で、現在、あまり評価の対象になっていないものがあります。
 それは、七〇年代から八〇年代前半にかけて、東欧の社会主義諸国が、西側諸国よりもはるかに大きな影響を、ソ連の精神的、政治的状況に与えていたということです。
 一九六八年のプラハの春、カダルの改革、一九八〇年夏のポーランドの事件は、ソ連の知識人を目覚めさせました。彼らは、東欧諸国で起こっていた改革の動きを観察し、せめて、隣国の知識人がもっている権利と自由くらいは、手に入れようとしました。
 繰り返しますが、一九八五年三月に、私が、共産党書記長に選ばれたとき、私に、改革を始めるかどうかという選択の余地は、もはや、ありませんでした。
 私が、改革を呼びかけるようになったのはもっと以前からです。
 一九八四年十二月、学術実践会議で「躍動する大衆創造活動」と題する報告を行ったときでした。そのとき、すでに、アレクサンデル・ヤコブレフやワジム・メドベージェフ、ナイリ・ビッケニンなど、未来の改革のために、思想的に結ばれた同志が、危険を冒して、私のところにやってきたのです。
 自分のことを語ったり、評価したりするのはむずかしいものです。
 しかし、一つだけ確かなのは、ペレストロイカは、本質的に選びとったものではなく、私の人格、人生観、精神の延長線上にあったものだということです。
 たしかに、卑劣な行為や裏切りにもあいました。
 今、私に対して、醜悪で、シニカルな攻撃をしている張本人たちは、私の手から、自由を得、グラスノスチのおかげで、人々の知性を支配するにいたったのです。これは理解しがたいことです。
 ペレストロイカによって、権力と、人々に命令を下す特権を奪われた者、また自由によって、批判免除の特権の座から、文字どおりたたき出された者が、私を憎むのならわかります。
 しかし、たいへんなときに、私が手を差しのべ、文字どおり、立ち上がらせた人間が、悪意にみちて、人の生き方を汚すというのは、非常に理解に苦しみます。まったく、人間の心というものは謎です。
11  人間を信ずる″極意″
 池田 信じがたきものは、けだし、人の心です。
 そこで、半ば、自戒の念として、申し上げたいのですが、信じる、信じないは、相手によって決まるのではない。″信ずる心″という「軸」は、あくまでも、自分の側にあるということが、一つのポイントになってくるのではないでしょうか。
 たびたび、恩師に言及して恐縮ですが、それほど、恩師は、私にとってすべてなのです。
 恩師は、仏法の「慈悲」について、こう、論じていました。
 「慈悲は尊いものではあるが、慈悲を他人に強要すべきものではない。
 『あなたは慈悲の行為をなさい』とすすめるのは正しいが、『あなたは私に慈悲であってください』『あなたは私に慈悲がない』などというのはあやまりである。
 自分自身が他にむかって慈悲であるべきであるのに、他にむかって慈悲を求め、強要するのは、仏様の弟子とは申されない所行である」(『戸田城聖全集』第三巻)と。
 相手がどうあろうと、こちらは、変わらずに、毅然として、自己の所信をつらぬき通す。
 人間の本性の奥の奥まで、達観したうえで、どこまでも、その可能性を信じぬく。ここに、仏法の「慈悲」があり、「人間を信ずる」ということの″極意″があります。
 九一年に、あのクーデターが起きたとき、アイトマートフ氏がルクセンブルクの地から「信じられないことが起こった」と知らせてくれました。
 私は、さっそく、こう返事を託したのです。
 「何も信じないことによって起こった失敗は、何も残りません。しかし、信じたことで、それが裏切られたことによって起きた嵯鉄は、何かが残ります」と。
 ゴルバチョフ そうでしたか。それは、初めてお聞きしました。
 私は、人々が、慈悲を慈悲で返すことを、決して期待したわけではありません。
 しかし、私と私が支えてきた人々との間に、せめて普通の人間関係が残ることを期待していたのです。
 ですが、まったく逆のことが起こりました。これは本当に謎というべきものでしょう。別に、慈悲を慈悲でもって返さなくてもよいのですが、なぜ、慈悲に対して、悪や憎悪で報いなければならないのでしょうか? そこが疑問なのです。
 池田 あなたのご心情は、私なりに、共有できるつもりです。
 私の体験からも、たしかにおっしゃるとおり、謎につつまれた、たいへんデリケートな問題であると思います。
 ゴルバチョフ しかし、駆けだし改革者の幻影から離れて、わが国の民主的知識人と称される人々の本当の顔を見た後も、私は人間への信を失いませんでした。
 おそらく、彼らは、過去の全体主義を経てきて、それ以外の人間には、なりえなかったのでしょう。
 スターリン主義は、迫害をする側だけでなく、その犠牲者をも、精神的に堕落させてしまいました。裏切り行為は、スターリン主義にかかわり、その影響力を経験した者すべての病となりました。
 私も、時の移り変わりから多くのことを考えさせられましたが、最初の信念を変えることはありませんでした。
 私はつねに、人間への信頼という角度からとらえており、人間を自分と等身大の存在として見ています。それは、自分でも変えることのできないものです。
 つまり、人間への信頼こそ、私の現実認識のなかで、いちばん重要なものなのです。
 池田 うれしく、また深く共感をおぼえる言葉です。ゴルバチョフ哲学の核心が、ここにありますね。
12  平等を「説く」のでなく「生きる」
 ゴルバチョフ ふたたび、レフ・トルストイの思想に戻りたいと思います。
 平等思想こそ、人類文化に一貫して流れているものであり、それなくしては、道徳も、宗教も、創造もありえません。
 私の行動のなかで、どの部分が、本能的な倫理観から発していて、どの部分が、理性から、また、社会経験から、発しているのかわかりません。
 しかし、私が深く確信しているのは、自分と他人とが、本来、平等であるという観念は、精神の健全性にとって、非常に重要だということです。
 それが、現実生活のうえでも、建設的に働いていることは、いうまでもありません。
 何か教えを垂れようとか、お説教しようとか、予言めいたことを言おうとする傾向性ほど、破滅的なものはありません。
 一方、相手に対して平等に、尊敬の念をもって接していくとき、それが心の良い面を引き出し、率直になり、創造意欲をわき起こすことができます。
 非常に重要なのは、他人の意見を聞く能力であり、各人が主張をもつ権利、自分の利益を守る権利を認めることです。
 人間関係は、道徳的な原則のうえに形成されるものであり、個人は、さまざまな特徴をもちながら、市民社会の全体の一部になる能力も備えている。
 そして、その社会では、個人の自由な成長が、全体の自由な成長の要件となるという信念を、私はつらぬいています。
13  池田 全面的に賛同します。
 「平等」といっても、それが抽象的なスローガンでありつづけるならば、いつかは「差別」「搾取」を隠蔽する装置に堕落してしまうでしょう。
 いかに、それを実践するか。「平等を説く」のではなく、「平等を生きる」ことが、必須であると思います。
 釈尊が、カーストの身分差別に反対したことは、有名です。
 あるバラモンが、釈尊にこう尋ねました。
 「あなたの生まれはなんですか?」
 それに対し、釈尊は、こう答えています。
 「私はバラモンでもない。王子でもない。私は、庶民階級(ヴァイシャ)でもないし、他の何者でもない……私は、粗末な衣を着て、住む家なく、髭も髪も剃り、心やすらかに、汚染されることなく、この現実世界を歩んでいる」(『原始仏教の生活倫理』、『中村元選集』15所収、春秋社。参照)
 しかし、彼は、「平等を説いた」だけではありません。彼こそ、「平等を生きた」のです。
 釈尊の教団は″サンガ″と呼ばれていました。″サンガ″は、当時の平等な構成員による「共同体」のことです。また同業者の組合も″サンガ″と呼ばれていました。
 釈尊が、平等の理想にどれほどこだわっていたかは、″サンガ″という呼称を、みずからの教団に与えたことでも知られます。
 しかも″サンガ″に入るための条件は何もありませんでした。
 当時、最も差別を受けていた階級に属していた人々の名が、弟子として、記録されています。
 ゴルバチョフ なるほど。
 仏教が、民族宗教ではなく、普遍宗教、世界宗教である根拠を、見る思いがしますね。
 ともあれ、たんに平等観に立てば、自由主義が、平等の哲学をも含めて、他のすべての思想にとって代わるという見方は、誤りです。
 お話をうかがっていて、「平等」という価値が、根本的なものであることを、再確認いたしました。
 池田 ありがとうございます。仏教の本質を、鋭くとらえています。
 「平等」「公正」ということは、社会主義の理想の輝けるシンボルでもありましたね。
14  「限りない前進」の人こそ永遠の勝利者
 ゴルバチョフ もう一つ、政治家として闘ってきたなかで得た、基本的な教訓があります。
 それは、錯覚から醒めたときに、どういう状況であっても、自分と不可分の、民衆の理性と良心への信頼を失ってはならないということです。
 国民の創造的な力を信じることのできない政治家は、死んだも同然であり、自分自身も、何かを創造する能力を失い、偉大な仕事ができなくなってしまいます。
 本質的に見て、私の改革運動の原動力となっていたのは、自国の民衆への信頼、ソ連人が自由を得れば、創造のエネルギーを発揮するにちがいないとの確信でした。
 共産主義的全体主義、スターリン社会主義の奥にあるのは、国民に対する恐怖心であり、民衆の精神力に対する不信感であったことは、ペレストロイカをともに始めたわれわれにとって、明白なことでした。
 池田 重大な観点です。
 ゴルバチョフ ペレストロイカを始めた当初、まず党や産業の活動家が、国民を安い品物、従順な労働力として見てきた癖を、克服しようと努めました。
 当時、私たちが打ち出したスローガンは、″国民を恐れるな″ということでした。
 この指針は内部向けですが、それを口にすることが危険であったときも、私は、断固守りぬきました。
 しかし、わが国で、民主改革が確固としたものになってきた今、私にとって、民衆への信頼は、いやまして神聖なものとなっています。
 さて、私は幸福かと問われるのであれば、その質問に答えるのは容易ではありません。
 私が、舵を握っていた船を、おだやかな水域にまでもっていけなかったし、ノボ=オガリョフスク・プロセス(主権国家連合再編成案)を完成させられなかったのは、今も残念です。
 しかし、もっと広い意味で見ていけば、私は、二十世紀最大の変革に参加したのみならず、そのプロセスの陣頭指揮をとるべく、運命づけられたことは、幸運だったといえるでしょう。
 私は、歴史の扉をたたき、扉は、私の前で、皆のために開きました。世界的な核による惨事への脅威は、去っていきました。
 池田 核の廃絶は、恩師の遺訓でもあります。
 総裁は、人類のために偉大な変革をなしとげました。
 そのスケールの大きさを、日本の指導者も学ぶベきだと思います。
 ゴルバチョフ ありがとうございます。
 結びに、もう一言。私は、自分の使命が終わったとは、思っていません。
 改革と自由の道を、ひとたび選んだ以上、生あるかぎり、私は、自分の仕事をまっとうしていきます。
 私が積んだ精神的、政治的財産は、必ずや、わが国の自由と人類文明の安全にプラスになると思います。そして、さらに前進していくために、十分なエネルギーが、自分のなかにあることを感じています。
 一九八六年の夏、第二七回党大会から数力月後には、すでに私は、民衆への信頼に基礎をおいた民主主義について、政治局ではっきりと明言しました。
 「ペレストロイカの最も重要な部分は、民主化である。民主主義を恐れることはない、政治局であろうと、小さな集団や家庭であろうと、問題や話し合いを恐れることはない……」と。
 池田 力強い言葉に、感銘しました。
 多くの人々が、今のあなたの発言に、希望と励ましを、見いだすことでしょう。
 トインビー博士に、モットーをお聞きしたさい、博士は、ラテン語で、「ラボレムス」と言われました。
 これは、「さあ、仕事をつづけよう」という意味です。
 「さあ、これからだ!」「いよいよ前進だ!」
 この前向きで、ポジティヴ(積極的)な生き方を、仏法では、「本因」の姿勢といいます。
 瞬間瞬間、自己完成への因を、たゆまず積み重ねていくなかに、真の充実と幸福がある。
 これこそ、仏法の真髄の生き方なのです。
 「限りない前進」「限りない希望」――その人こそ、永遠の勝利者です。
 以前、あなたは、『回想録』を締めくくる言葉を、こう考えていると語られましたね。
 「すべては、これからだ」と――。
 この心意気で、いきましょう!
 ゴルバチョフ ありがとうございます。
 その思いは、今もまったく変わっておりません。

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