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日蓮大聖人・池田大作

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「平和の世紀」へ新たな出発  

「二十世紀の精神の教訓」ミハイル・S・ゴルバチョフ(池田大作全集第105巻)

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6  「謙遜であれ、傲慢なるものよ」
 池田 私の恩師は、近代人は二つの大きな錯覚におちいっている、と言っていました。
 すなわち、一つは「知識」と「知恵」を混同する錯覚、もう一つは「病気」と「死」とを混同する錯覚です。
 そのうち、「知識」を「知恵」と錯覚することこそ、近代の急進主義のおちいった落とし穴であるといってよいでしょう。
 近代が進むにつれ、人々の知識の量は、たしかに膨大にふくれ上がった。しかし、知識の増大がそのまま知恵の拡大につながっていくわけではない。知識と知恵が反比例する場合も少なくありません。
 その点を勘違いして、知識イコール知恵と思い込み、知識によって描き出されたユートピアヘの青写真どおりに、強引に社会をつくり変えようとしたのが、近代の急進主義の流れでした。たとえば、目的とするゴールがあらかじめわかっているのなら、到達するのは早ければ早いほどよい。それを理解しょうとしないわからず屋には、多少力ずくでのぞんでもやむをえない――。こうした急進主義の系譜が、どんなにおびただしい犠牲者の血と苦悩に覆われていたことでしょうか。
 肥大化し思い上がった知識の怪物に、人間の知恵など、飲みほされてしまった観さえあります。もっとも、飲みほそうとしてもしきれるものではなく、
 早々に自家中毒を起こしているのが、現代社会の状況といえるでしょうが。
 ゴルバチョフ ご指摘のとおりです。
 池田 たしかに、あなたのおっしゃるとおり、この点を「二十世紀の精神の教訓」として、青年たちに語り継ぐことは、きわめて重要なことであると思います。
 私たちの共通の友人であるアイトマートフ氏は、私との対談の折、次のように語っていました。
 「若者たちよ、社会革命に多くを期待してはいけません。
 革命は暴動であり、集団的な病気であり、集団的な暴力であり、国民、民族、社会の全般にわたる大惨事です。
 私たちはそれを十分すぎるほど知っています。民主主義の改革の道を、無血の進化の道を、社会を逐次的に改革する道を探し求めて下さい。進化(漸進的発展)は、より多くの時間を、より多くの忍耐と妥協を要求し、幸福を整え、増大させることを要求しますが、それを暴力で導入することは要求しません。
 私は神に祈ります――若い世代が私たちの過ちに学んでくれますように、と」
 忘れられない言葉です。
 ゴルバチョフ 私も、アイトマートフ氏と思いは一つです。
 暴力、戦争よりも、平和を模索し、政治的な問題の解決方法で、納得のいくまで話し合いをすることこそ、重んじられなければなりません。戦いや紛争は、人生の豊かさを焼き尽くし、あとには社会の砂漠しか残しません。
 今日、「自然」を大切にする、ということは、とりもなおさず、長所や弱点、欲望のあらゆる矛盾をもちながらも、「人間」を大切にすることです。
 ″人間を知る″すなわち、自身のなかに調和を築き、自分をコントロールし、意志を強くしていくために、自分自身を知らなければなりません。
 しかし、それは、人間を破壊したり、改造し、不可能なものを人間から要求することではありません。人間を、神のごとく、万能の、あらゆる権利をもつものととらえていく志向は、最も危険で破滅的な思想です。
 池田 よく理解できます。
 ゴルバチョフ ロシアは革命の嵐と衝撃の国、ボルシェビズムを生んだ国として世界では知られています。それどころか、西側の多くの歴史家は、プロレタリアートのマルクス主義革命がロシアで勝利したのは必然的であり、不可避のことであったという考えを根強くいだいています。しかし、そのような見方は、十九世紀終わりから、二十世紀初めにかけてのロシアの精神的、政治的状況をきわめて皮相的にとらえたものです。
 マルクス主義や社会主義とはまったくの対極にある文化、世界観をもつ国で、プロレタリアートのマルクス主義革命が起こったということは、歴史のパラドックス(逆説)というほかはありません。ロシアにはもともとプロレタリアート革命思想が、根づいていたわけではありません。ロシアの哲学者、文学者が初めて過激な革命主義、プロレタリアート社会主義の危険を感じたのはヨーロッパだったのです。
 プロレタリアート革命を説くマルクス理論の主な哲学的、倫理的欠陥を指摘したのはほかならぬ、ニコライ・ベルジャーエフ、ピョートル・ストルーヴェ、セルゲイ・ブルガーコフといったロシアの思想家たちでした。
 もっとも、公正を期すために申し上げますが、当時のロシアの哲学者は、若いころのマルクスが展開していた民主的ヒューマニズムについて、目にする機会はありませんでした。
 ロシアの思想家たちは、いち早く「啓蒙主義」が、絶対的真理と、存在のあらゆる神秘をも網羅しているという傲慢さをもっており、革命的マルクス主義もそこから生じていることを看破しました。
 ドストエフスキーの天才たるゆえんは、彼がいち早く、無神論と人間改造を主張する「啓蒙」主義のおごりによってもたらされる脅威、破壊的結末をすべて予知していたところにあります。
 だからこそドストエフスキーは、自己のおごりを抑制し、キリスト教の倫理、人類社会の規範を踏み外さぬよう、ロシアの人々に呼びかけたのです。
 「謙遜であれ、傲慢なるものよ、なによりも先にその慢心の角を折れ。謙遜であれ、怠惰なるものよ、なによりもまず額に汗して祖国の耕地で働け」(『作家の日記』小沼文彦訳、『ドストエフスキー全集』14所収、筑摩書房)。これこそ国民的真理と国民的な知恵による解決策なのです。
 「真理は汝の外にではなく、汝自身の中にある。汝自身の中に自己を見いだし、汝自身に自己を服従させ、自己を支配せよ。そうすれば真理が見えるようになる。その真理は事物の中にあるものでもなければ、汝の外にあるものでもなく、またどこか遠い海のかなたにあるものではなく、なによりもまず汝自身に対する汝の労苦の中にこそあるのだ。
 自己を征服し、自己を鎮圧せよ――そうすれば、汝はかつて想像もしなかったほどの自由の身となり、偉大な事業に手をつけることができる。そして他人をも自由の身の上となし、幸福をその目で見ることができるであろう。なぜならば、汝の生活は充実し、やがては、自国の民衆とその神聖な真理を理解するようになるからである」(同前)と。
 私たちは、何も新しい考えをつくりだす必要はありません。
 ただ、悲劇的な二十世紀の貴重な経験に学ばなければなりません。
 池田 まったく同感です。
 ドストエアスキーが、プーシキン記念祭の折にスピーチした、この言葉は、私も大好きな言葉なのです。
 つまり、人間の真髄に訴えています。社会の真理を訴えています。

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