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日蓮大聖人・池田大作

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「平和の世紀」へ新たな出発  

「二十世紀の精神の教訓」ミハイル・S・ゴルバチョフ(池田大作全集第105巻)

前後
1  「青春こそが、出会いの時代」
 池田 ご多忙のなか、わざわざ新年のメッセージをお送りいただき、ありがとうございます。さっそく拝見いたしました。
 ゴルバチョフ 私のほうこそ、真心こもるグリーティング・カード(新年の挨拶状)をいただき、恐縮しております。
 池田 とりわけ、一九九五年を「平和の年」に、そして「よりよき世界への新たな歴史の出発点」にとの、あなたの呼びかけは、私の胸に強く響きました。
 ゴルバチョフ 「反目」と「対決」の時代は、すでに終わりを告げました。大切なことは、行動です。
 人類は、新たな文明に向かって、進まねばなりません。
 池田 全面的に賛同します。
 私たちのこの対談も、すべて、二十一世紀を担いゆく青年たちへの″遺産″といってよいでしょう。
 ゴルバチョフ 私も、そう願っております。
 池田 あなたが、政治の世界で、身をもってつらぬいてこられた、「対話」「友情」「人道」などのさまざまな価値は、″次の主役たち″にとって、かけがえのない指標となるはずです。
 そのことを考えると、この対談では、文明次元のテーマばかりでなく、人生、生活の身近な話題についても語り合っていくことが必要だと思いますが。
 ゴルバチョフ そうですね。
 私たちの対談を、できるかぎりわかりやすく身近な内容にという、あなたのお考えは、私にも、よく理解できます。
 生活の知恵は、つねに驚くほど、シンプルなものです。ですから、それ以外の飾りたてたり、こじつけたものは、経験不足のためか、現実の人生から遊離している場合が多いものです。
 しかし、いうまでもなく、若い世代に対して、「私たちの経験をすべての手本にし、それを真似よ」などとは、だれにも言えないことです。
 というのは、私たちは「時代の子」であり、その時代がわれわれに提起した課題に、取り組んできたのですから。
 池田 そのとおりです。
 九〇年七月、クレムリンでの初めての出会い――あのとき、私が深く感動したことの一つは、あなたの周囲に、それまでのクレムリンのイメージとはまったく異なる、なんともいえない、新しい若々しい時代の雰囲気が漂っていたことです。
 それは、まぎれもなく″友情″や″青春″という言葉が、濃密に帯びている「精神の若さ」のシンボルのように、私には感じられました。
 あなたは、会見に同席していたアイトマートフ氏をさして、「親友です」とにこやかに言われましたね。
 アイトマートフ氏、ヤゴジン氏、ログノフ氏――。あなたと、そこにいた皆さまのやりとりには、よい意味での″知的サロン″といった雰囲気がみなぎっており、私はじつにさわやかな印象を受けました。
 ソ連の長い冬の時代を生きぬき、春の訪れを期している″同志″ならではの、心の共鳴音が、私の胸にも響いてくる思いがしました。
 ゴルバチョフ 私も、以前から、あなたのご活躍は、よく存じあげていましたが、お会いするまで、こんなに情熱的な方だとは、思いもしませんでした。(笑い)
 池田 ″ロシアの良心″といわれる文芸学者ドミトリイ・セルゲーヴィチ・リハチョフ氏は、青年たちに、こうつづっています。
 「青春こそが、出会いの時代なのである。だから、このことを肝に銘じ、友達をたいせつにしなければならない。
 真の友情というものは、悲しいときにもうれしいときにも助けになるものだ。
 うれしいときにだって、助けは必要だ――しあわせを心底感じるためには、また感じて分かち合うためには、助けが必要なのである。
 分かち合えぬよろこびなど、よろこびとはいえない」
 そして、「若いころ身につけたよきことすべてをだいじにし、青春時代の財産を浪費しないことだ。
 青春時代に獲得したものは、どれひとつとして消え去りはしない。若いころにつちかわれた習慣は、一生のこる」(『口シアからの手紙』桑野隆訳、平凡社)と。
 ――私は思います。幾多の試練の山々を越えてきた、あなたのなかには、友情という「青春時代の財産」が、今なお生き生きと輝いている。それが、人間政治家としてのあなたのスケールを大きく広げ、今も、あなたを支えているのだ、と。
 青春時代、あなたはどのような「出会い」を経験されましたか。また、あなたご自身の「青春観」についてお聞かせください。
2  「戦争の子ども」世代に共通する苦悩
 ゴルバチョフ わかりました。
 私たちの人生、一九三〇年前後に生まれた者の歩んだ道に、人は多くの教訓を見いだすことができるかもしれません。
 私たちが経験することになった苦痛、苦闘、そして不自由は、それ自体が良い環境とはいえませんでした。
 苦しみは、人を高潔にもしますが、悪くもすることは、周知のとおりです。
 ですから、喜びをもって人生を生きていくために、戦時下で、私たちが幼児期・少年期を過ごし、くぐり抜けてきたようなことを、何もわざわざ経験する必要はありません。スターリン時代とそれ以後のソビエト時代に、私たちが精神的に経験したことも同様です。
 それは、本能的に自分の考え、本当の声を打ち消そうとする、精神を灰と化してしまう体制順応主義ともいえるものでした。
 だれもが、「権力者」と「党の方針」に対して忠誠心が足りないと言われたくない、また、そう言われるのを恐れるがゆえでした。
 池田 よくわかります。
 ゴルバチョフ 同時に、青春の特質である「希望」もありました。時代がどうあろうと、「友情」を育み、「友」を信じました。
 それはとりもなおさず、ごく自然な人間的感情の発露でした。良心、道徳的基準、献身といったものが、スターリン時代でさえ、価値観として、また、行動の規範として、人々に影響しつづけていました。
 いや、やはり、私たちの人生の教訓に、耳をかたむける意味はあります。
 私たちが、戦争で生き残った「戦争の子ども」であるという一点を見逃すと、私たちの世代の人生も、行動も、理解することは不可能でしょうね。
 私たちは、少年だったときに、家族が生きぬくために生活を支え、自分で自分の食べるものを探してこなければならなかった。いちどきに大人になってしまった世代、といえるかもしれません。
 目の前で、生活と平和が破壊されたことで、私たちの少年の世界は、一気に大人の世界に移行してしまいました。かくれんぼやラプタ(ロシアの伝統的な球技)といった、子どもらしい遊びに、依然として無邪気にはしゃいではいたものの、すでに、どこか大人の目で、遊んでいる自分たちを客観視していたのです。
 確立された生活様式を変え、スターリン社会主義と完全に決別すると決断したのが、ほかでもない「戦争の子ども」であった私たちの世代だったのは、なぜか? この少年時代の原体験が、その理由を説明してあまりあるのではないでしょうか。
 池田 「戦争の子ども」――。まさに、私たちの世代に共通する「体験」と「苦悩」と「辛酸」を、一言にこめた言葉であると思います。
 あなたが言われたように、この世代は、戦争の悲劇を生んだ旧体制と決別し、新しい時代の幕を開くことを、半ば運命づけられた世代なのかもしれませんね。
 人類は、悲惨な戦争の体験を、絶対に風化させてはならない。私たちは、みずからの戦争体験を、後世に訴えつづけていく責任があります。
 私自身も、十七歳のときに空襲にあいました。
 疎開先のおばの家に移ったばかりで、明日には、父と母も引っ越してくるという日の夜のことでした。
 そのおばの家が空襲にあって全焼してしまったのです。
 焼夷弾が降り、あたり一面が火の海と化しました。私は下の弟と、噴き上げる炎のなかを、裸同然で焼け出されました。炎が夜空を赤く焦がしていた光景は、空襲の恐怖とともに、今もはっきり記憶しています。
 このとき、四人の兄は兵隊にとられており、九人の子どものなかで、五男の私が、一家の面倒をみるしかない。そのあげく、肺病でした。
 終戦のあくる年、一九四六年(昭和二十二年)の五月――。長兄がビルマで戦死したとの悲報を受け取ったとき、それまで気丈に一家を支え、励ましつづけてきた母が、いつになく深い悲しみに暮れていた姿は、私の胸に、一生、焼きついて離れないでしょう。
 ゴルバチョフ お兄さんが、戦死されたのですね。
 池田 そうです。
 「何のための戦争か!」――。戦争の無残さ、悲惨さ、そして戦争への怒りは、青春時代の私の五体に、深く刻み込まれました。
 十九歳のとき、初めて恩師にお会いしたさい、
 「本当の愛国者というのは、どういう人をいいますか」と質問したのも、誤った愛国心が指導者に利用され、戦争を推し進めてしまったという、痛切な思いからでした。
 今日までの私の平和行動は、こうした原体験に、まっすぐにつながっています。
 私が、小説『人間革命』の執筆を、日本で唯一、凄惨な地上戦の舞台となった沖縄で開始したのも、同じ心情からでした。
 「戦争ほど、残酷なものはない。
 戦争ほど、悲惨なものはない。
 だが、その戦争はまだ、つづいていた。
 愚かな指導者たちに、ひきいられた国民もまた、
 まことにあわれである」
 ――この冒頭の一節にこめた反戦・平和への信念を、私は身をもってつらぬいてきたつもりです。
 ゴルバチョフ ご心境は、よくわかります。
 「戦争の子ども」である私たちの世代こそ、戦争の愚かさ、非人間性、不条理性をあばいていかなくてはいけません。
 いったい、何のために、これほどの苦しみ、苦悩を味わわなければならないのか?
 「殺す」というみずからの煩悩を乗り越えないかぎり、人類は決して大人になることはできません。
 残念ながら、どの民族にも、戦争や暴力を英雄視する傾向がかなり見られます。ですから、それに反対するわれわれの声が、高らかに響いていかねばなりません。
 池田 まさに、そのとおりです。
 トルストイの知見が、思い浮かびます。『アンナ・カレーニナ』の主人公レーヴィンは、当時のセルビア戦争への参加を義挙とする、ロシア人たちの民族感情に、水を差すように言います。
 「民衆が犠牲になっているのは、犠牲になる覚悟でいるのは、魂の救いのためで、殺人のためじゃないでしょう」(米川正夫訳、『ロシア文学全集』8所収、修道社)と。
 当時、この発言を含む″第八編″は、国内の民族感情を考えて、『アンナ・カレーニナ』から削除されて出版されたといいます。
 しかし、今、振り返ってみると、殺人を無条件に″悪″とするトルストイの卓見は、いよいよ輝きを増しつつあると思うのです。
 ″正義の戦争″や″やむをえざる戦争″を言挙ことあげする前に、まず、殺人を無条件に悪とする見方を時代精神にしていくことこそ、矛盾と不条理に満ちた世界にあって、差し迫った課題であり、それはまた、戦争体験の風化を防ぐ要諦でもあるからです。
 ゴルバチョフ まったく、同感です。
 池田 時の流れは、ゆっくりと、しかし着実に、すべてを押し流していきます。
 戦後五十年を経、日本でも、戦争体験者は、もはや少数派になりつつあります。戦争の体験と平和ヘの情熱を″時″の風化作用から救うためには、後を継ぐ青年たちに、すべてを託す以外にありません。
 たとえば、創価学会青年部では、戦争体験者の貴重な証言を収集し、全八十巻におよぶ「反戦出版」を刊行しました。
 戦争体験者から、若者たちがじかに、粘り強く、なまなましい体験を聴き取っていく。初めは口が重かった人々も、しだいしだいに心を開き、戦争の悲惨さや魔性を語り始める――。そうした触発というか、魂の打ち合いを通して、戦争体験が共有されていきます。
 また、本年(一九九五年)は、原爆投下から、五十年目にあたることから、広島、長崎では、記念の行事が予定されています。
 青年たちの主体的な継承運動は、平和創造への希望であり、私も心から期待し、励ましを送っています。
 ゴルバチョフ それはすばらしいことです。
 たしかに、平和とは一面、「忘れないこと」であり、「忘却との戦い」であるからです。
 戦争の世界は、私たちの心に永久に残っています。それは、記憶の奥に霞んだ世界であり、切断された時間です。
 父が前線に行ってしまってからは、あなたと同じように、たくさんのことが、私の肩にかかってきました。
 「すべてを戦争のために」「すべてを勝利のために」というスローガンが掲げられ、人々は骨身を惜しまず、働きました。
 母も、朝から晩までコルホーズで働きました。それで、家族が食べる分の畑仕事は、私がする以外にありませんでした。農家は、どこも、皆そうしなくてはならなかったのです。その状態は、戦争が終わるまでつづきました。
 一九四二年の暮れごろからのことです。
 西部地域から、住み慣れた土地を捨てた、数千人におよぶ市民とソビエト軍の兵隊たちが、私たちの村を通過して、逃れていきました。
3  困難に屈しない勇気の大事さ
 池田 ナテスの軍隊が、侵攻してきたのですね。
 ゴルバチョフ ええ、それは、恐ろしい光景でした。
 肉親を亡くし、呆然として、やっとの思いで足を引きずっていく人々、その大半は女性、子ども、老人たちでした。そして、肩を落とした兵隊たち。彼らの後を、ファシズムの暗雲が追いかけていることを、承知していたのでしょう。「破局」「破綻」という言葉を耳にするとき、私は、あのときの地平線を焦がした大火事、また、避難する人々と兵隊たちの、あの苦渋と悲しみに耐えかねている顔を思い出すのです。
 私たちの家族にとっても、ドイツ兵からは何もよいことは期待できませんでした。祖父のパンテレイは、共産党員でコルホーズの議長をやっていましたので、銃殺にされる危険があったのです。
 ですから、ドイツ軍が私たちの村に接近しているとわかりしだい、祖父は身のまわりのものを急いでまとめて、逃げなければなりませんでした。
 しかし、悲劇が起こるのに、そう長い時間はかかりませんでした。ドイツ軍の前線部隊が去った後、村にはナテスの小さい駐屯軍が残されました。ナチスの駐屯軍で雇われたのは、前線から逃げて、何カ月も村の人たちや当局から逃げ隠れていた、私たちと同じ村出身の脱走兵たちでした。
 わが家にとって、危険が現実のものとなってしまいました。村の者は皆、パリツァイ(第二次大戦中、ナチスが占領地の住民から徴募した警官)に追い立てられて、強制労働に行かされました。その強制労働から帰った母は、よく、ナチスに徴募された同じ村出身の何人かが、いちばん危険だと語っていました。
 池田 当時の緊迫した様相が、まざまざと伝わってきます。
 ゴルバチョフ 町では、大量銃殺が行われたとか、ガスで人間を毒殺する車がある、といった噂が流れ始めました。
 後々、すべてが本当だったことが確認されました。、ミネラリヌイエ・ヴォドィでの大量射殺、クラスノダールで使用された毒ガス車がそうでした。
 そしてついに、共産党員の家族に対する制裁の準備が進んでいるという話が、人々の口に頻繁にのぼるようになりました。一月二十六日という具体的な日付まで出ていました。母と父方の祖父アンドレイは、私を村から三キロ離れた農家に隠しました。
 故郷プリポリノエ村は、一九四二年八月三日から、一九四三年一月二十一日まで、ナテスの占領下に置かれていました。長い日々でした。
 どうして、私たちが助かったのか、生き延びることができたのか、はっきりとはわかりません。やはり、私たちを制裁から救ってくれたのは、スターリングラード近郊でのドイツ軍粉砕と赤軍だったのかもしれない、とも思っています。
 二十一世紀の主役となる若き世代には、私たちがくぐり抜けてきたのと同じことを、決して経験させてはなりません。
 池田 おっしゃるとおりです。断じて、繰り返してはならない悲劇です。
 ゴルバチョフ それと同時に、人間は、試練に立ち向かう強い心を、つねにもたねばならないと申し上げたい。
 当たり前すぎて、言い古されたことかもしれませんが、これは根本的な問題だと考えます。
 不幸、敗北に屈しない勇気と頑強さ、そして、困難のときこそ、自身を試すという決意なくして、本当の人生を生きぬくことは、むずかしいといわざるをえません。敗北を知らなければ、真の勝利、不動のわが人生を勝ち得ることは、できないものです。
 さらに、人生の一コマ一コマに喜びを見いだし、人間性豊かに幸を謳歌し、勝利をてらいなく迎え入れることも、この勇気の心があって、初めて可能となるのではないでしょうか。恐れなく、人間を、人生を愛することもしかりです。
 池田 「言い古された」どころか、千古に不磨の真実を述べられたお言葉です。
 私も、つねづね青年たちに、「甘えを排し、鍛えの日々を生きよ」と語っています。
 恩師戸田第二会長もよく、「青年時代の苦労は買ってでもせよ」と語っていました。
 利便と効率を追いつづけてきた近代文明の影響もあって、現代の若者は、人生のいろいろな局面で、とかく困難をさけて「易きにつく」傾向があるだけに、「計般に立ち向かう強い心」とのあなたの一部は、青年たちにとって千釣の重みをもつ指針となりましょう。
 この点は、仏法でもたいへんに重視しています。
 仏典には、こう説かれています。
 「強敵を伏して始て力士をしる」――強い敵を倒してはじめて、その人が力ある勇者であると知ることができる――。
 「くろがねは炎打てば剣となる賢聖は罵詈して試みるなるべし」――鉄は、炎に入れて熱し、鍛え打てば剣となる。賢人、聖人はののしることで真価を試すことができるのである――。
 苦難・逆境・迫害に挑んでこそ、人間は鍛えられる。磨かれ、高められ、金剛の輝きを放っていくことができることを教えています。
 さらに仏典には、「浅を去て深に就くは丈夫の心なり」――浅い道を去って深い道につくのは、勇者の心である――という一節もあります。
 ゴルバチョフ そういえば、聖書にも同じ言葉があります。「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々としていて、そこから入る者が多″いのだ」(『新約聖書』共同訳・全注、講談社学術文庫)
 池田 有名な言葉ですね。
 先の仏典の一節は、一九九〇年七月に私が貴国を訪問したさい(第五次訪ソ)、答礼宴で引用したものです。席上、私は申し上げました。
 「私は、この『丈夫の心』で、偉大なる人間精神の開花のために、戦いつづけてまいりたい。そして皆さまとともに、誇り高い『人間の魂の詩』を、新世紀の青年につづり残していきたいのであります」と。
 困難にもかかわらず、否、困難だからこそ、あえてそこに挑み、全力を出しきって栄冠を勝ちとっていく。その生き方、その心意気を、私は青年たちに教えたいのです。
4  富士のごとく悠然として
 ゴルバチョフ いつの時代にあっても変わらぬ真実ですね。
 ところで池田さん、先ほど、あなたは九〇年のクレムリンでの出会いについて、思い起こされていました。
 あのころ、ペレストロイカがついに軌道に乗り、旧体制への逆戻りはありえないことが、明確になってきた時期でした。あのころの私と私の友人たちは、あなたが言われたように、まさに「変革の春」をともに生き、自由の喜び、夢がついに叶ったという実感を満喫していました。
 それは、私たちの民主革命の生命萌えいずる″四月″でした。新しい自由の国の誕生に立ち会い、参画し、創造しゆくという自負と喜びを噛みしめていました。
 ただし、この対談のなかでは、コインには裏面があることに注視してみるのも、人生の教訓という次元で大事になってきます。
 人は、皆が微笑みかけてくれる″勝利の春″が訪れたとき、誇りをもって、誠実にそれを迎えなければなりません。
 しかし、それ以上に大切なことは、″敗北の秋″を、毅然と勇敢に迎えることではないでしょうか。
 そして、そのときこそ、青春時代の苦労、破壊と試練の時代を生きぬいたたくましさが、宝となっも輝いてくる――そう実感しているのは、私一人ではないと思います。
 それは、とくに、政治家になることを夢見て、政治闘争に飛び込もうとしている青年にとって大事なことです。
 この道を歩もうという人にとって、なによりも大切なのは、自分が成功しようとしまいと、悠然として自信を失わないこと、家族や友人、そして、自分を信じて、権力や名誉などなくとも立派に生きていけることを、確信していくことです。
 「不動の自己」――政治家として世に出るためには、これは基本中の基本であると、私は思います。
 池田 そうですね。
 「不動の自己」ということは、政治家に限らず、すべての人間にとって大切な基本です。
 一九九四年五月、あなたにお会いしたさい、私が撮った富士山の写真を贈らせていただきました。
 僣越ながら、二十世紀の偉人に、いつまでも富士のごとく、との思いを託したものです。
 日本の有名な作家・吉川英治は、ある作中の登場人物をして、富士を眺めながら、若い弟子に「あれになろう、これになろうと焦心るより、富士のように、黙って、自分を動かないものに作りあげろ」(『宮本武蔵』、『吉川英治全集』17所収、講談社)と語らせています。
 私は、そのシーンが忘れられないのです。数カ月後に日本からモスクフを訪問した人から、あなたの執務室に、その富士の写真が掲げてあったとうかがい、たいへんうれしく思いました。
 ゴルバチョフ あの写真は、毎日、拝見しております。
 あなたのおっしゃるとおりです。すべての人間が、「不動の自己」をもっていなければなりません。
 ですが、それがいちばん要求されるのが、おそらく政治家でしょう。
 大統領を辞した後、ペレストロイカによって目覚ましい政界進出をとげた、多くの若い世代の政治家と会いました。
 考えてもみてください。まだ修士論文もパスしていないような若者が、もう議員になり、派閥のリーダーや、国会の委員会の議長になってしまったのです。テレビにも毎日登場し、国民的リーダーと目された。ところが突然、ロシア史にはよくあることですが、すべてが崩壊し、議会も、憲法も議席もなくなってしまったのです。
 そうなると、だいたい、才気にあふれたこれらの青年は、まだ人生はこれからだというのに、権力を失うや否や、自分をも見失ってしまいました。見る影もなくなった彼らは、冒険主義的な計画を練るのに忙しく、もう夢物語は終わって、現実の日常が始まったのだということが、理解できないでいるのです。
 平凡な日常に入ると、具体的に自分には何ができるのか、何をやりとげたいのか、何をもっているのかが、問われます。
 そのときになって初めて、人間は最も単純で、最も大切なものを支えとして、生きていることが見えてきます。
 それは、祖国への愛、自分の生まれた国なくして自身の存在はありえないこと、人間として心が深く祖国とつながっている、ということなのです。
 その思いがつねに、私の支えとなっていました。
 私はロシア人です。骨の髄まで自分の民族、故郷の大地の一部です。
 人間は、友情と自由な人間同士のふれあい、他人の不幸や悲しみに対する、開かれた心によって生きています。
 池田 胸に迫る言葉です。
5  善いことは「蝸牛かたつもりの速度で動く」
 ゴルバチョフ あともう一つ、私の人生、ソ連の歴史を振り返って、人生の最盛期に、二十一世紀を迎える青年に語りたいことがあります。
 池田 どうぞ、ぜひ、お願いします。
 ゴルバチョフ それは、マキシマリズム(極左主義)や極端な革命主義の危険性についてです。これについては、一九九三年の春、創価大学で講演した折にふれていますが、もう一度、このテーマに立ち返ってみたいと思います。
 過激主義というのは、物事を単純に決めつけてしまうことへの誘惑と同じく、しぶといものです。
 二十世紀において、性急な決定や、すべての困難を一挙に解決できる摩訶不思議な解決法がある、という単純な思い込みのために、人々は、どれほど辛酸をなめたことでしょう。
 それでも、新しい世代が出てくると、またもや古いものを破壊すればするほど、新しいものの繁栄が約束されると信じている人々が現れ、急進的な破壊、大々的な爆発を呼びかけるのです。
 それはまったくナンセンスであり、欺瞞です。新しいものは、過去に深く根を張っています。漸進的な進化、変革こそ、改革を逆戻りのない、確たるものにできるのです。
 いや、この二十世紀が、どんなに深い教訓を残したとしても、私たちが真実をすべて発見したとはいえません。唯一、われわれ、暮れゆく二十世紀の世代が、二十一世紀の世代に教えられること、それは、最大限、用心深くあれ、ということでしょう。
 未来の英知は、過去の英知に帰するところ大であります。
 ″最も急進的な、革命的なものが、変革と進歩を揺るぎないものにする″という、十九世紀、二十世紀の考えは誤りです。
 人間、社会生活の本質に合った、漸進的な発展、漸進的改革の道こそ、革命的な模索よりも有効である、と今、私たちは語ることができます。
 その意味からも、私は、あなたが講演などで、マハトマ・ガンジーの「善いことというものは、蝸牛かたつむりの速度で動くものである」(坂本徳松『ガンジー』旺文社文庫。参昭)との箴言に、ひとかたならぬ共感を寄せておられることに、深く賛同します。
 池田 ありがとうございます。
 漸進性、漸進主義ということは、私の年来の主張であり、信念です。
 じつは創価大学でのあなたの講演にじっと耳をかたむけながら、不思議な感慨をかみじめていたのです。なぜなら、ボルシェビズムという、最も急進主義的イデオロギーのなかで育てられたあなたが、にもかかわらずというか、それゆえにというか、漸進的な発展・改革の重要性を訴えておられたこと、そして、その論調が、その数カ月前、私がアメリカのクレアモント・マッケナ大学に招かれて行った、「新しき統合原理を求めて」と題する講演(本全集第2巻収録)と、驚くほど共鳴し合う部分が、多かったからです。
 あくまで「人間」をベースに、経験と思索を深めていく過程での、それは必然的帰結といってよいのかもしれませんが。
 クレアモント・マッケナ大学での講演で、私は、孤独と分断の荒野をさ迷い歩いている現代人に、「全人性」を回復せしむるメルクマール(指標)として、
 1 方法としての漸進主義
 2 武器としての対話
 3 機軸としての人格
 の三点を提言いたしました。
 その第一番目は、社会変較の方法論として、近代啓蒙主義の負の側面である急進主義を斥け、漸進主義の急務、正当なることを論じたもので、まさしくあなたのおっしゃる「漸進的」ということと、通底しております。
 漸進主義、漸進的などというと、言葉が硬くなりますが、おそらく、そこには、人類の深い知恵が蓄えられていると思います。
 「性急は愚かさの母である」とは、レオナルド・ダ・ヴインチの有名な言葉(下村寅太郎『レオナルド・ダ・ヴインチ』勁草書房。参照)ですが、日本の諺にも「急がば回れ」とか、「急いては事を仕損ずる」とか、性急さを戒めたものがたくさんあります。それが、道理だからです。
 ゴルバチョフ まったく、そのとおりだと思います。
 池田 植物にしても、人間の身体にしても、順を追って徐々に成長していくのであって、一挙に大きくしようとしても、とうてい不可能です。
 それと同じように、人間の社会の変化・発展も、徐々に漸進的になされていくのが健全な姿であって、強引に事を運ぼうとすると、必ず無理や歪みが生じてしまう。そうした愚かさが生みだす無理や歪みは、いつの時代にもありました。
 しかし、それは、日本の諺が語っているような人間の知恵、人生の知恵を覆い隠すほどの猛威を振るったわけではありません。
 それが、文字どおり激しさを極めたのは、なんといっても近代になってからの現象といってよいでしょう。
 もう少し、つづけてよろしいでしょうか。(笑い)
 ゴルバチョフ ええ、どうぞ、どうぞ。(笑い)
 大切な問題です。
6  「謙遜であれ、傲慢なるものよ」
 池田 私の恩師は、近代人は二つの大きな錯覚におちいっている、と言っていました。
 すなわち、一つは「知識」と「知恵」を混同する錯覚、もう一つは「病気」と「死」とを混同する錯覚です。
 そのうち、「知識」を「知恵」と錯覚することこそ、近代の急進主義のおちいった落とし穴であるといってよいでしょう。
 近代が進むにつれ、人々の知識の量は、たしかに膨大にふくれ上がった。しかし、知識の増大がそのまま知恵の拡大につながっていくわけではない。知識と知恵が反比例する場合も少なくありません。
 その点を勘違いして、知識イコール知恵と思い込み、知識によって描き出されたユートピアヘの青写真どおりに、強引に社会をつくり変えようとしたのが、近代の急進主義の流れでした。たとえば、目的とするゴールがあらかじめわかっているのなら、到達するのは早ければ早いほどよい。それを理解しょうとしないわからず屋には、多少力ずくでのぞんでもやむをえない――。こうした急進主義の系譜が、どんなにおびただしい犠牲者の血と苦悩に覆われていたことでしょうか。
 肥大化し思い上がった知識の怪物に、人間の知恵など、飲みほされてしまった観さえあります。もっとも、飲みほそうとしてもしきれるものではなく、
 早々に自家中毒を起こしているのが、現代社会の状況といえるでしょうが。
 ゴルバチョフ ご指摘のとおりです。
 池田 たしかに、あなたのおっしゃるとおり、この点を「二十世紀の精神の教訓」として、青年たちに語り継ぐことは、きわめて重要なことであると思います。
 私たちの共通の友人であるアイトマートフ氏は、私との対談の折、次のように語っていました。
 「若者たちよ、社会革命に多くを期待してはいけません。
 革命は暴動であり、集団的な病気であり、集団的な暴力であり、国民、民族、社会の全般にわたる大惨事です。
 私たちはそれを十分すぎるほど知っています。民主主義の改革の道を、無血の進化の道を、社会を逐次的に改革する道を探し求めて下さい。進化(漸進的発展)は、より多くの時間を、より多くの忍耐と妥協を要求し、幸福を整え、増大させることを要求しますが、それを暴力で導入することは要求しません。
 私は神に祈ります――若い世代が私たちの過ちに学んでくれますように、と」
 忘れられない言葉です。
 ゴルバチョフ 私も、アイトマートフ氏と思いは一つです。
 暴力、戦争よりも、平和を模索し、政治的な問題の解決方法で、納得のいくまで話し合いをすることこそ、重んじられなければなりません。戦いや紛争は、人生の豊かさを焼き尽くし、あとには社会の砂漠しか残しません。
 今日、「自然」を大切にする、ということは、とりもなおさず、長所や弱点、欲望のあらゆる矛盾をもちながらも、「人間」を大切にすることです。
 ″人間を知る″すなわち、自身のなかに調和を築き、自分をコントロールし、意志を強くしていくために、自分自身を知らなければなりません。
 しかし、それは、人間を破壊したり、改造し、不可能なものを人間から要求することではありません。人間を、神のごとく、万能の、あらゆる権利をもつものととらえていく志向は、最も危険で破滅的な思想です。
 池田 よく理解できます。
 ゴルバチョフ ロシアは革命の嵐と衝撃の国、ボルシェビズムを生んだ国として世界では知られています。それどころか、西側の多くの歴史家は、プロレタリアートのマルクス主義革命がロシアで勝利したのは必然的であり、不可避のことであったという考えを根強くいだいています。しかし、そのような見方は、十九世紀終わりから、二十世紀初めにかけてのロシアの精神的、政治的状況をきわめて皮相的にとらえたものです。
 マルクス主義や社会主義とはまったくの対極にある文化、世界観をもつ国で、プロレタリアートのマルクス主義革命が起こったということは、歴史のパラドックス(逆説)というほかはありません。ロシアにはもともとプロレタリアート革命思想が、根づいていたわけではありません。ロシアの哲学者、文学者が初めて過激な革命主義、プロレタリアート社会主義の危険を感じたのはヨーロッパだったのです。
 プロレタリアート革命を説くマルクス理論の主な哲学的、倫理的欠陥を指摘したのはほかならぬ、ニコライ・ベルジャーエフ、ピョートル・ストルーヴェ、セルゲイ・ブルガーコフといったロシアの思想家たちでした。
 もっとも、公正を期すために申し上げますが、当時のロシアの哲学者は、若いころのマルクスが展開していた民主的ヒューマニズムについて、目にする機会はありませんでした。
 ロシアの思想家たちは、いち早く「啓蒙主義」が、絶対的真理と、存在のあらゆる神秘をも網羅しているという傲慢さをもっており、革命的マルクス主義もそこから生じていることを看破しました。
 ドストエフスキーの天才たるゆえんは、彼がいち早く、無神論と人間改造を主張する「啓蒙」主義のおごりによってもたらされる脅威、破壊的結末をすべて予知していたところにあります。
 だからこそドストエフスキーは、自己のおごりを抑制し、キリスト教の倫理、人類社会の規範を踏み外さぬよう、ロシアの人々に呼びかけたのです。
 「謙遜であれ、傲慢なるものよ、なによりも先にその慢心の角を折れ。謙遜であれ、怠惰なるものよ、なによりもまず額に汗して祖国の耕地で働け」(『作家の日記』小沼文彦訳、『ドストエフスキー全集』14所収、筑摩書房)。これこそ国民的真理と国民的な知恵による解決策なのです。
 「真理は汝の外にではなく、汝自身の中にある。汝自身の中に自己を見いだし、汝自身に自己を服従させ、自己を支配せよ。そうすれば真理が見えるようになる。その真理は事物の中にあるものでもなければ、汝の外にあるものでもなく、またどこか遠い海のかなたにあるものではなく、なによりもまず汝自身に対する汝の労苦の中にこそあるのだ。
 自己を征服し、自己を鎮圧せよ――そうすれば、汝はかつて想像もしなかったほどの自由の身となり、偉大な事業に手をつけることができる。そして他人をも自由の身の上となし、幸福をその目で見ることができるであろう。なぜならば、汝の生活は充実し、やがては、自国の民衆とその神聖な真理を理解するようになるからである」(同前)と。
 私たちは、何も新しい考えをつくりだす必要はありません。
 ただ、悲劇的な二十世紀の貴重な経験に学ばなければなりません。
 池田 まったく同感です。
 ドストエアスキーが、プーシキン記念祭の折にスピーチした、この言葉は、私も大好きな言葉なのです。
 つまり、人間の真髄に訴えています。社会の真理を訴えています。

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