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わが青春、わが故郷  

「二十世紀の精神の教訓」ミハイル・S・ゴルバチョフ(池田大作全集第105巻)

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1  アショーカ、ガンジー、ネルーの″非暴力″
 池田 それでは、指導者論から始めたいと思います。
 私が創立した東京富士美術館では、一九九四年秋、インドの関係諸団体などの協力をいただいて、「アショカ、ガンジー、ネルー展」を日本各地で開催しました。テーマは「癒しの手(ヒーリング・タッチ)」です。
 とくに、ガンジー(マハトマ)、ネルーの源流を、アショーカ大王までたどっている点は、まことにユニークであるとの感想が、多く寄せられました。
 ゴルバチョフ インドは、私も深い尊敬の念をもっている国です。
 インドの人々には、他者の痛みに対する深い同情があり、「平和」と「自由」と「正義」への強い意志があります。
 池田 おっしゃるとおりです。まさしく「精神の大国」です。
 アショーカ、ガンジー、ネルーの系譜が人類に訴えかけているのは、一言にしていえば、″非暴力″ということです。
 ゴルバチョフ よくわかります。
 一九八六年十一月、私はインドを訪問しました。
 その折、デリー宣言(核兵器と暴力のない世界の諸原則に関する宣言)がなされました。あなたの知己でもあった、ラジブ・ガンジー首相との共同記者会見のさい、私は、「われわれは無条件にテロリズムに反対する者だ」と述べました。
 実際、この宣言は非常に重要な意義をもっていました。今は亡きガンジー首相は、私の崇高な親友でした。
 池田 よく存じあげています。
 時を同じくして、新世紀への挑戦を開始されたお二人のあの邂逅かいごうは、深く印象に残っております。
 ところで、展示を通して、人々が感銘を受けるのは、やはり、インド独立にさいしての、マハトマ・ガンジーの卓越した「人格」と「リーダーシップ」にあるようです。
 かのネルーは、″インドの民衆の心からどす黒い恐怖の衣を取り除き、民衆の心のもち方を一変させたのが、ガンジーである″と強調しています。たしかに、歴史的巨人の存在はそのような役割を演ずるのではないでしょうか。
 ゴルバチョフ ええ、同感です。
 池田 そこで、歴史を動かす″一人″の人間の力――その雄大な可能性について、二つほど証言をあげてみたいと思います。
 一つは、フランスの作家アンドレ・モロワは、こう記しております。
 「真の革命はただ一人の人間の革命であるといわれている。より正確にいえば、ただ一人の人間も、――それが英雄であれ聖者であれ、――大衆に一つの手本を提供することができるし、その手本の模倣は地球をもくつがえすであろう。
 偉大な行動人は踏みならされた道をたどるものではない。彼は他の人びとが見ないことを見るから、他の人びとがしないことをする。彼の意志は高潮となって、習慣や抵抗を一掃する」(『初めに行動があった』大塚幸男訳、岩波新書)と。
 ゴルバチョフ なるほど、「高潮となって、習慣や抵抗を一掃する」――ガンジーに、ぴったりの表現ですね。
2  一人の人間の「革命」
 池田 もう一つ、こうした偉大な行動者たちへの評価を、ルネサンス研究の大家ブルクハルトは、次のようにつづっています。
 「偉人とはその人がいなければこの世界は何かが欠けているように私達に思われる人々のことである。
 なぜならば一定の偉大な業績がただこの人によってのみ彼の時代と環境のうちにおいて可能であったのであって、そうでなければ到底考えられないからである」(『世界史的諸考察』藤田健治訳、岩波文庫)
 これは、たんなる英雄崇拝や個人崇拝とは、次元を異にしています。一人の人間が、その時代を、だれよりも深く生きぬくことにより、時代精神の比類なき体現者として、人々の手本でありつづける――このことは、古今、変わらぬ鉄則であったし、今後も、そうありつづけるでしょう。
 早い話が、レオナルド・ダ・ヴインチやミケラン・ジェロなどの名を除いたイタリア・ルネサンス時代など、いかにも輪郭のはっきりしない、貧寒なイメージしか残りません。また、十九世紀前半のロシア精神のルネサンスを、プーシキンの存在なしに考えることは、とうてい、不可能でしょう。
 これは、芸術の世界に限ったことではありません。
 仏法で「一人を手本として一切衆生平等」(『新編日蓮大聖人御書全集・創価学会版』)。以下、御書と略記)と説かれているように、「手本」たりうる一人
 の人物を欠けば、社会の精神状態や道徳的秩序なども、きわめて不安定なものとなってしまいます。現代の大衆社会状況の根本的欠陥も、そこにあるといえないでしょうか。
 ゴルバチョフ 今、一つの世紀から次の世紀へ移ろうとしています。こうした転換期には、必ず大きな苦しみがともなうものです。
 その時代こそ、屹立した人類の良識が必要です。
 池田 そのとおりです。
 そうした時代であるだけに、ペレストロイカを主導した「ミハイル・ゴルバチョフ」の名が、「その人がいなければ、この世界は何かが欠けているように思われる人々」の一人として、二十世紀に金文字で記されることは間違いないと、私は信じております。
 世界精神の体現者として、新時代を創造する人間のことを、ヘーゲルは、「世界史的個人」と呼び、「その全生涯は悪戦苦闘であり、満身ただ情熱であった」とたたえました。
 あなたにお贈りした長編詩(『誇り高い魂の詩』)で、私はこのヘーゲルの洞察を通して謳いました。
 「豪快に また痛快に
 古き衣をかなぐり捨てて
 『民主』と『自由』を希求する
 人々の魂を代弁し
 新しきドラマを演出する
 あなたこそ
 この二十世紀が生んだ
 『哲人政治家』にして
 『世界史的個人』と
 私は賛嘆の拍手を送りたい」と。
 ゴルバチョフ ありがとうございます。
 長編詩については、重ねて御礼申し上げます。
 しかし、私個人への過分な称贅の言葉は、どうも面映ゆいのです。(笑い)
 最初に、クレムリンでお会いしたさい(一九九〇年七月)に申し上げたとおり、私に何ほどかのことがなしとげられたとすれば、それは、私の周囲に有能な人々がいて、支えてくれたからなのです。
 池田 謙虚な、お言葉です。
 私の心情としては、岩盤のように厚いクレムリンの権力構造の只中から立ち上がり、ペレストロイカという人類史的実験に挑まれたあなたのリーダーシップに対し、感動と敬意をこめて、率直につづりました。
 もとより、歴史に名を残す「英雄」の人生は、つねになんらかの「悲劇性」をはらんでいます。「先頭」を行く人には、つねに「嵐」がともなうものです。
 「栄光」と「苦悩」は、決して切り離せない――。
 その道が正しかったかどうかは、ただ歴史が、証明するでしょう。後世の人類が、味方してくれるでしょう。私も、この信念できた一人です。
 モロワ、ブルクハルト、ヘーグルが論じたような「世界史的人物」。彼らに共通する資質について、あなたはどのように洞察されていますか。
3  現実を直視する生き方
 ゴルバチョフ 前にもお話ししましたが、つい最近まで、本格的に哲学を深く研究する機会が、私にはありませんでした。もっとも、つねに哲学に惹かれる思いはありましたが。
 不思議に思われるかもしれませんが、私と哲学との出合いは、哲学者の著作ではなく、口シアの民主派批評家ベリンスキーでした。彼の文学批評論文集は、もうずっと以前、高校生のころ、手に入れたものが、今も私の本棚にあります。
 池田 貴重な青春の書ですね。どういう点に感銘されたのでしょうか。
 ゴルバチョフ そうですね。
 ベリンスキーの論文、文学作品を読んで、まず驚くのは、その独創的な人生哲学、歴史観です。
 ちなみに彼が、グリボエードフの喜劇『知恵の悲しみ』について書いた、同じ題名の論文があります。その中で、勇壮なる闘争について、また逆境の克服について、ヘーゲルを引いて展開されております。
 しかし、ベリンスキーは、現実主義者らしく、異なる観点にたって、個人やその夢といったものの前に、まず「現実」を置いています。
 すなわち、「現実――それは今世紀の渡し舟であり、スローガンである。信仰、学問、芸術、人生、あらゆる分野で、現実こそすべてである」と。
 さらに、「力強い、勇壮な世紀、それは偽りやごまかし、弱さ、ぼんやりしたものを一切受け付けず、強い、堅固な存在を愛する時代である」(『ロシア文学概観』森宏一訳、同時代社)と、ベリンスキーは宣言しています。
 彼の哲学思想のどういう点に、いちばん影響を受けたのか――今では、もうよく思い出せませんが、″勇気をもって、現実を受けとめていこう″という呼びかけは、当時の私たちにとって、ぴったりくるものだったのです。
 池田 なるほど。
 たしかに、現実を直視することは、勇気を要し、また忍耐強い取り組みが欠かせません。
 経験を重視する、いい意味での「現実主義」ということは、仏教の精神とも、符合しております。
 ヘラクレイトスの「万物流転」ではありませんが、仏教でも、すべての現象は、変化、変化の連続であるととらえ、ともすれば、物事を固定化してしまう人間の傾向、とくに言葉のもつ、そうした働きを、厳しく戒めています。
 大乗仏教の中興の論師である龍樹が、釈尊の根本の教えを、「ことばの虚構を超越し、至福なるもの」としているのも、大乗仏教の言語観を、よく物語っています。その点が、「神」や「神のことば」を″実体″として先行させる宗教と、いちじるしく異なるところです。
 いずれにせよ、″左″や″右″のイデオロギーという「ことばの虚構性」が猛威を振るい、人々がかってないほど、軽信家になったといわれる今世紀の世紀末にあって、いい意味での「現実主義」は不可欠といえます。
 とくに、あなたが経験されてきたように、物事に感化されやすい若い人たちにとって、このことは、大切な教訓となるにちがいありません。
4  恐ろしい試練のなかから
 ゴルバチョフ そう思います。
 終戦直後、家を出て″人生行路″へと出発したわれわれ青年には、多くの試練が待ち受けていました。
 私は、一九三三年の「恐るべき飢餓」の二年前に生まれました。この飢餓の原因については、今でも歴史家の間で、議論の対象となっています。
 農民を徹底的に撲滅するために、引き起こされたものだったのか? それとも、天候が元凶だったのか? 他の地域は知りませんが、わが地域では、たしかに早魃もありました。もっとも、それだけではありませんでしたが。
 大規模な集団化によつて、幾世紀にもわたつて築かれてきた、従来の生活基盤が崩され、慣れ親しんだ村の仕事のやり方、生活のやりくりの仕方が崩されてしまいました。しかし、それこそ、最も大事なものではなかったでしょうか。
 それに加えて不作……。次から次へと重なっていきました。
 池田 察するに余りあります。
 生活は継続しているものであり、外から無理やり断絶をもちこむと、どこかに歪みが生じてしまいます。
 その点、オーストリアの自由主義者ハイエクは、「われわれの活動を秩序づけるためには、社会それ自体が持っている自生的な力を最大限に活用すべきだということ、そして強制は最小限に抑えるべきだということ」(『隷属への道』西山千秋訳、春秋社)と述べており、私も同感です。
 これは、一九九三年四月にお会いしたときも、申し上げたことですが。
 ゴルバチョフ そうでしたね。
 実際、それは、恐ろしい飢餓でした。
 私たちの住むプリポリノエでは、村の半分までいかないとしても、少なくとも三分の一は餓死しました。一家中、死に絶えてしまうというところが何百とありました……。しかも長い間、″一九四一年から四五年の戦争″(=ソ独戦争、第二次世界大戦のソ連側の表現)が始まるまで、板を打ちつけられた半壊状態の家が残っていました。
 祖父のアンドレイには、六人の子どもがいましたが、そのうち三人が餓死しています。そして一九三四年の春、逮捕されました。個人農は、自分の持っている種で、種植えをしなければならなかったのですが、祖父は種がなかったため、「計画」を遂行しなかった、ということになったのです。つまり、「サポタージュ(怠業)」をやったというのです。
 池田 先に、ボルシェビズムが行った最大の悪は、ロシアの農村生活を破壊したことだと言われてましたが。
 ゴルバチョフ そのとおりなのです。
 コムソモールの職員であった私が、なぜ、第二〇回ソ連共産党大会に感激し、スターリンの個人崇拝の摘発に、積極的に参加したのか? その理由が、これでおわかりでしょう。
 わが国において、エリート主義を掲げたり、自分を特別な存在として見て、国のすべてを自分が支えており、自分なくしてはすべてが崩壊してしまうことを示そうとするのは、精神的に欠陥のある者しかできないことです。
 私たちの人類平等主義は、自分の近しい人も、自分自身も、ともに味わっている苦難に対する同情から発しているのです。
 なぜ、ある人は歴史に足跡を残し、ある人はそれができないのか、正直いって、私にはわかりません。しかし、ロシアにあっては、今でも、国が、また幾多の同国人が、くぐり抜けなければならなかったあらゆる試練を経てきた人間でなければ、権力をもつ資格はありません。
 自分の国と同じ運命を、個人の人生においても歩んできた以上、自分と自分の行動についても、国の歴史という観点から考えていくべきだと思いますが、あなたはどのようにお考えですか。
5  ″苦難の人″に対する共感の水脈
 池田 たしかにロシアには、″苦難の人″に対する、豊かな共感の水脈があると思います。
 ロシアでは、粗末なリーザ(僧衣)を身にまとった巡礼が大切にあつかわれ、俗世に馴染むことを拒否し、赤貧の生活に生きた、「スキマ(修道士)」「スターレツ(隠遁者)」「オチュセイニク(遍歴者)」と呼ばれる″聖者″が、広く尊敬を受けていますね。
 たとえば、サッヴアーチィ、セラフィーム、そしてヴェネヂクート・ミャコーチンの著作(『長司祭アヴァクームの生涯』)に描かれたアヴァクーム。彼は、総主教ニーコンの改革に異議を唱えてシベリアに流されました。
 やがて、許されても妥協せず、ふたたび極地に流罪。さらにそこでも、みずからの主張をつらぬき、殉教した「敬虔派」の指導者ですね。
 ゴルバチョフ ロシアの精神史について、よくご存じですね。
 池田 あなたと対談するにあたって、一生懸命、勉強したのです。(笑い)
 そこで、彼らが、なぜ、民衆の心に深い尊敬の念を起こさせたのか?
 私には、ある経典(スッタニパータ)が連想されます。それは、仏教の創始者である釈尊のもとに、なぜ、人々が集まったかについて、一人の弟子が語ったものです。
 「こだわりなく、偽りなく、このような範たる人として来りたもうた師・目ざめた人(ブッダ)であるあなたのもとに、これらの東縛ある多くの者どものために問おうとして、ここに参りました」(『ブッダのことば』中村元訳、岩波文庫)
 釈尊は、決して、神秘的な超能力をもっていたがゆえに、人々の尊敬を受けたのではありません。
 人々は、釈尊の生き方にふれ、「このように崇高な人生があったのか!」と感動し、「私たちも、同じ人生を生きていこう」と誘われました――そういう人格的感化力こそ、釈尊への尊敬の源泉だったのです。
 「生まれによって賤しい人になるのではない。生まれによって聖者(バラモン)になるのではない。人は、行為によって賤しい人になり、行為によって聖者となる」(同前)と、釈尊は宣言しています。日本において、このような″行いの聖者″は「ひじり」と呼ばれていました。
6  狡猾な修道僧の恐ろしさ
 ゴルバチョフ 話の腰を折るようで恐縮ですが、日本ではいさ知らず、ロシアでは、この貧しい僧衣をまとつた修道僧・遍歴僧には気をつけないといけません。
 神聖な動機をもつ修道僧もいますが、狡猾な動機をもつ修道僧もいます。狡猾な修道僧ほど、恐ろしいものはありません。
 このような修道僧の典型を、ゴーリキーは『どん底』で見事に描きだしています。修道僧が、素朴な心をもつ人々のもとにやってきて、いろいろな奇跡、金の山を約束しますが、これはすべて嘘でした。約束するだけで、その後は去ってしまうのです。口シアでは修道僧には気をつけないといけません。
 池田 いや、それは、日本もまったく同じです。(大笑い)
 偽善者ぶったば仮面の聖職者は、どこにでもいるものです。われわれは現在、そのような腐敗した聖職者との戦いを展開しています。
 ところで、口シアの修道僧に言及したのは、メレシヨフスキーが描くところのチーホンのような本物の修道僧を想定して、申し上げたのです。
 私どもSGI(創価学会インタナショナル)が信奉する日蓮大聖人は、時の最高権力者に公然たる批判を何度も行い、二度も流刑にあっています。
 苦難のなかに栄光を求めるのは、日蓮仏法の精髄であり、けだし、人間の生き方の精髄でもあります。
 内村鑑三という日本を代表するキリスト者は、「もし必要とあらば、此の人のために我が名誉を賭する」(『代表的日本人』岩波文庫)とし、このように語っています。
 「日蓮の私生活は、想像され得る最も簡素なものであった。鎌倉に草屋を構へしより後三十年、富裕な在俗の人人が彼の弟子であり、安楽気儘は彼の望みに任せた時に、我我は彼が身延に於て同様の草屋にあるのを見出すのである」
 「彼の所謂『仏敵』には極めて仮借なかった彼は、貧しきもの悩めるものに接する時、人として最も柔和なる人であった」
 ゴルバチョフ なるほど、そうですか。
 偉大な宗教者には、多くの共通点がありますね。
7  青春時代の労苦が人間を鍛える
 池田 その意味からも、ご理解いただけると思いますが、私が、先ほど「一人の人間が、その時代を、だれよりも深く生きぬくことにより、時代精神の比類なき体現者として、人々の手本でありつづける」ことの重要性を述べたのは、決してエリート主義とか、英雄崇拝を賛美しているのではありません。
 民衆の大地に、どっしりと根を張り、その根から、幸福を求める民の心を、わが″魂の幹″に吸収していく。そして、緑なす葉や花として、世に開きゆく――。その人は、無私であるゆえに、時代の精神を体現するのです。
 私心なき″行いの聖者″は、逆に、権力に御されることはありません。それゆえ、″受難の聖者″でもあるのです。また、その人は、みずからの権力欲に絡めとられることもないでしょう。
 ゴルバチョフ 私も同感です。
 私たちが今、話を進めているのは、人間の忍耐力を試すような苦難のことですね。
 私も、十分すぎるくらいの困難、逆境を経験してきました。
 生活に必要な最低限の物さえない逆境のなかで、ゼロから出発し、生活の不如意との戦いに明け暮れなければならないとき、人間は最も生命力を消耗してしまうといわれます。
 大学卒業後、スタープロポリで、ライサと生活を始めた部屋のことは、決して忘れられません。
 それは、一九五五年のことでした。スターラヤ・カザンスカヤ通りの、設備もろくに整っていない平屋です。ライサと私は、そこで、石炭をくべて焚く鉄のペチカと、古びた鉄製のベッドのある、十一平方メートルの部屋を借りました。
 部屋の真ん中には、私がモスクワからもってきた、本の入った大きな箱を、テーブル兼棚の代わりとして、置いていました。幸い、椅子は、二つ買えました。
 この部屋で、娘のイリーナが生まれ、ここで数年間、暮らしました。青年時代、「生活闘争」にかなりの労力を費やさなければならなかったこと、ゼロから、つまり、必要最低限の物を手に入れることから出発しなければならなかったことは、私にとって、かえってよかったと思っています。
 池田 美しい、また清々しいお話です。多くの青年たちへの励ましとなります。
 ゴルバチョフ 青春時代の生活上の労苦が、私を鍛えてくれました。レフ・トルストイもこう言っています。
 「絶え間ない不安、労働、闘い、困苦欠乏、――これは誰人も、一瞬たりとも逃れようと考えてはならない必要不可欠な条件である」
 池田 いかにもトルストイらしい、勇気を奮いたたせる雄渾の言葉ですね。
 『戦争と平和』のビエール・ベズーホフや、『アンナ・カレーニナ』のコンスタンチン・レーヴインなどの、重厚な求道者的主人公のイメージがほうふつとしてきます。
 ゴルバチョフ もっとも、私が来し方の思い出をいろいろ語っているのは、いかに自分たちが偉かったかを強調したいからではないのです。
 いや、むしろ、私たちの生活は、他の国民と変わりませんでした。私の人生、ソ連社会全体から引き出すべき教訓は、まったく別のことです。
 それは、スターリン時代のような厳しいときであっても、人生には、喜びやまっとうな人間の感情を、表現できる機会を与えてくれるような正しいものが、何か残っている、ということなのです。
 人間は、いつでも何かに喜びを見いだすことができるものです。どんなにたいへんな状況にあっても、喜びの日が来ることへの希望を捨てず、また、その到来を喜べることを、人生の知恵というのでしょう。そうではありませんか。
 池田 そうです。そのとおりです。
 透徹した楽観主義こそ、人間であることの最高の誉れです。
 また、青年時代の生活上の労苦が、どれほど人間を鍛えるか、まさにあなたのご指摘のとおりだと、私は思います。
 私自身の青春もまた、否応なく、そのことを実感するものでした。戦後五年が経過した一九五〇年の秋、私は両親のもとを出て、アパートに小さな部屋を借りていました。厳しい環境にあえて身を置き、自分を鍛えようと、気概に燃えていたのです。
 当時、恩師の事業が思わしくなく、ついには業務停止となり、私はそのなかで、恩師を支え、苦闘の連続でした。しかも体調がますます悪化し、来る日も来る日も、発熱で苦しむ状態がつづきました。
 思えば、そのころの数少ない楽しみの一つが読書でした。むさぼるように読んだホイットマンの『草の葉』の中に、「寒さにふるえた者ほど太陽の暖かさを感じる。人生の悩みをくぐった者ほど生命の尊さを知る」(酒本雅之訳、岩波文庫)という一節がありました。それは、私の心境をそのまま表すものとして、今でも忘れられません。
8  困難だった日々が最も強烈な思い出に
 池田 あなたが言われるように、人間は、最悪の状態にあっても、明日への希望をもちつづけ、それゆえに苦難に挑戦して、一日一日を生きていけるのだと思います。
 むしろ、生きるか死ぬかのぎりぎりの困難な状況のなかでこそ、人生の究極の目的、自己の使命というものを、自覚できるのではないでしょうか。
 私の恩師戸田城聖先生は、先の戦争に反対し、捕らわれた獄中で、それを実証した人でした。
 私は、その師のもとで、若き日に労苦を積むことができた幸せを、つくづくと感じています。
 ゴルバチョフ いちばん困難だった日々が、最も強烈な思い出として残るというのは、人生のパラドックス(逆説)だと思います。
 農村の生活で、一息つけるようになったのは、一九三九年から四〇年、戦争直前のころでした。店に更紗さらさの生地や灯油が出まわるようになり、コルホーズも労働日数に応じて穀物を支給するようになりました。
 母方の祖父のパンテレイは、自分の家の屋根を瓦でふき、私たち子どもが、いちばん喜んだのは、アイスクリームを売っていたことです。(笑い)
 日曜日になると、よく村中の人々が、植林地帯ヘ出かけたものです。男たちは、ゆっくりしたテンポのロシアやウクライナの歌を歌ったり、ウォツカを飲んだり、ときには喧嘩もしていました。男の子たちは、ボール蹴りをしたり、アイスクリームを食べたりしていました。
 私の人生で、最も心に深く刻まれているのは、ファシスト・ドイツに対する戦勝の記念日です。今思えば、この記念日は、ソ連の人々にとって、たんに敵を打ち負かしたということ以上の意味をもっていました。たんに、生き残った人々の祝日、われわれの闘いの正当さの証明だけではありませんでした。
 ファシスト・ドイツに対する勝利は、スターリンのテロの渦中でも、われわれ国民は生き残れた、精神的に生きぬくことができたということを意味していました。いや、戦後だって、わが国には、多くの試練が待ち受けていました。
 四七年の飢餓、四〇年代終わりから五〇年代初めにかけての弾圧もありました。しかし、最大の恐怖は去り、解放の喜びが目の前にあることを、心の奥底から感じたのは、この日だったのです。
 池田 そうでしょうね。深く共感いたします。
 あなたとはニュアンスを異にするでしょうが、私の一家も、戦禍のなかを苦しみぬいてきただけに、戦争が終わったときの、不安と期待の交錯した、あの一種の解放感は、今でも、はっきりと思い浮かベることができます。
9  故郷スターブロポリの自由と民主の伝統
 池田 ここで、少し話題を変えましょう。
 ″クレムリンの世界に、なぜミハイル・ゴルバチョフのような人間が登場しえたのか?
 この謎を解く一つのカギとして、スターブロポリという土地に生まれ育ったという事実が大切である″――これは、何人かの識者の指摘するところです。(ガプリール・ポポフ、N・アジュベイ『検証・ペレストロイカ』大朏人一・佐々木照央訳、TBSプリタニカ。参照)
 ゴルバチョフ そう言われれば、そうかもしれません。
 スタープロポリはカフカス(コーカサス)にあります。カフカスは、個性豊かな美しい土地です。多くの川があります。
 川を見ながら、この川をどんな人が渡ったのだろうかと考えると、たくさんの歴史が目の前に開けてくる思いがします。
 池田 ああ、そうでしょうね。
 あなたの故郷は、トルストイの作品に親しんできた私にとっても、少年時代からの憧れの地です。
 すばらしきカフカス山脈。広がる高原や丘陵。大地とともに生きる長寿の人々――。スターブロポリは、いにしえより民主的な伝統のある土地と、うかがっております。
 ある識者は、「ほぼ三〇〇年間、警察も役人もなく、自治があった土地」(同前)で育ったあなたにとって、デモクラシーとは、外からもちこまれ、教えられたものではなく、土地の歴史から生まれた経験なのだと指摘しています。
 創価大学のあの「万葉の家」(二百数十年前の富山の合掌造りの民家を、そのまま移したもの)での対話でも、あなたは、カフカスに脈打つ「自由の気風」について、語ってくださいました。
 「友情の心でやってきた客人には″何もかも与えてしまう″ほど、もてなす。しかし、征服者には、絶対に屈服しない」というカフカスの伝統。
 また、ツアーリ時代の侵略軍との戦いや、英雄シャミーリの時代の抵抗についてのお話は、私の胸に鮮烈に刻まれました。
 さらに、多くのデカブリストが育ち、トルストイ、プーシキン、レールモントフなど、ゆかりの作家や詩人も多いこの地に、コサックの心意気が脈打っていることも、よくわかりました。
 ゴルバチョフ あの昔風の家での語らいは、忘れられません。
 子どものころ、同じような造りの家に住んでいたので、本当に、故郷に、また少年の日に帰ったようで、童話の世界にいるようでした。
 池田 喜んでいただいて、なによりです。
 ところで、その土地の伝統や風土は、そこに育った人の人柄や生き方に、反映するのではないでしょうか。日本でも、生まれ育った地方によって、さまざまな″気質″があります。私の場合は″江戸っ子″ですから、曲がったことが大嫌い、せっかちで(笑い)、陽気で、お人好しといった性分のようです。
 ゴルバチョフ それは、わかる気がいたしますね。(笑い)
10  生き方に影響を与えたコサックの精神
 池田 そうした意味もあって、今でも印象深いのは、九〇年七月、ドイツのコール首相が、あなたの故郷を訪問し、あなたと会談した折のことです。
 あなたは、そこで、統一ドイツのNATO(北大西洋条約機構)への貴族を承認し、統一に最終的なゴーサインを出すことを決断されました。まさにスタープロポリは、その気風にふさわしい、「民主」と「自由」の創出の舞台となったわけです。
 南ロシアの健全な常識、ウクライナの人々が、生活の基盤としている日常的な価値観、善悪の観念――そうしたものが、あなたのなかに、今も生き生きと通い、人格と行動を豊かにしているにちがいありません。
 カフカス、スタープロポリに通う「民主的伝統」は、あなたの政治家としての生き方に、どのような影響をもたらしているのでしょうか。
 以前にも、お父さま、お母さまの思い出や、農作業に励んだころの回想を語ってくださいましたが、さらに、懐かしい故郷での思い出を交えて、お話しいただければと思います。
 ゴルバチョフ わかりました。
 なぜ、自分がこういう人間で、とくに自由と真実を求める気持ちが、ほかの人よりも強いのか、ということは説明しがたいものです。
 私たちの地域の住民は、独特の南ロシア型で、たとえばロシア中央部、北部の住民にはないものをもっている、北カフカス出身者はより開放的で気さくだと、よく学者は言います。
 私は、北カフカスの人間が、北方のプスコフやノブゴロドのロシア人よりも、本来、民主的だとは言えないと思っています。北方の共和国が、民会制度(民衆が町の広場に集まって行う会議を最高権力機関とする)をもって、世界の民主主義制度に顕著な貢献をしたことは、よく知られているからです。
 池田 なるほど。
 それは、アメリカ建国時、ニュー・イングランドで盛んに行われていた、タウン・ホール・ミーティング(市民集会)に似ていますね。
 エマーノンが、「人民の学校」と呼んでいたように、人口二千―三千人のタウンシップ(郡区)で行われる集会が、アメリカ民主主義の源流を形成していったことは、周知の事実です。
 ロシアにも、それと同じような伝統があることをうかがい、認識を新たにしました。
 ゴルバチョフ また、一方、この地域の土着民であるカフカス人の特徴として、残酷な風習があり、それが、ツァーリ体制を支える柱となっていたことも、よく知られています。
 しかし、ここで取り上げるべき点は、むしろ、この地域の人々が、進取の気性に富み、行動的というか、活力に富んでいる、ということでしょう。
 私たちは、移民の子孫です。
 ロシアが国家として形づくられていくにつれて、カフカスの民族は、さまざまな侵略者がら救われる方途を、ロシアとの関係に求めるようになりました。
 一五五五年八月、イワ雷帝(四世)の使者、アンドレイ・シェペトフが、北カフカスからアドイゲ民族の諸侯使節団をつれて、モスクフに帰ってきました。イワン四世は、「ピャチゴルスク皇国が永久にロシアの帰属となった」と宣言しました。
 ロシア国家の防御線の建設が始まり、エカテリーナ二世の時代には、七つの要塞からなる、いわゆるアゾフ=モズドク国境防衛戦が作られています。スタープロポリはその一つでした。
 池田 なるほど。そうした経緯については、日本では、あまり知られていません。
 ゴルバチョフ それから、ロシアによる植民地化が始まりました。ロシア軍もやってきました。厳しい地主のもとで、囚われの身となっていた農民が、ここまで逃げてきて、コサック村ができ、後に今度は、農民の強制移住が行われるようになりました。
 こうして、私の父方の先祖も、この地にやってきたのです。
 自分がロシア人なのか、ウクライナ人なのか、私自身にもわかりません。母はウクライナ人で、ゴプカロという典型的なウクライナの名字を持ち、母の先祖はチェルニゴフシナ出身です。
 一方、父方の曾祖父は、ボロネジ県の出です。
11  「国際主義者」を育んだ歴史的″環境″
 池田 丁寧に説明いただき、よく理解できました。
 トルストイが、『ハジ・ムラート』で描きだしているのも、そうした人間ドラマの一つですね。異民族で、イスラム教徒である武将を見つめるトルストイの眼は、じつに公正で温かい。彼などは、例外的な存在かもしれませんが、ともに人間として、人類同胞的な立場でつつんでいこうとする、心の寛大さがあります。
 ゴルバチョフ そのとおりです。
 「純粋なウクライナ人」とか、「純粋なロシア人」などという血統を気にする、おかしな流行が生まれたのは、″ベロベシュの悲劇″以降のことです。
 先祖にとって、すなわち私の祖父、曾祖父たちにとって、ロシア人という言葉は、まったく別の意味をもっていました。
 ロシア人であるということは、われわれの統一国家に属しているということ、ロシア正教、ロシア文化に帰属することを意味していたのです。
 おまえは、「ホホール」つまリウクライナ人だとか、いや、「カツアープ」つまリロシア人だとかいったことは、だれも気にしたことなどありませんでした。スタープロポリやクパーン地方では、みんな子どものころから、ウクライナ民謡も、ロシア民謡もよく知っていて、どちらの言葉も使いこなせるのは、こうした背景があるからなのです。
 わが故郷の住民は、とても気さくで、歩み寄りの精神があります。というのも、北カフカスでは、何世紀もの間、人との調和、民族間の友好関係が、生きぬくための最大の条件であったからです。
 ですから、私たちは、思考形態からいつても、人間関係からいっても、「国際主義者」となるべく運命づけられていたのです。
 池田 よくわかりました。
 ″周囲の異民族との友好・調和をはかり、共存してきた北カフカス地方の文化的・歴史的な環境が、この地の人々を「国際主義者」として育む母体となってきた″とのご指摘は、たいへんに興味深いものです。
 私ども創価学会の牧口常三郎初代会長は、日本の先駆的な教育改革者であり、優れた地理学者として活躍しました。郷土の観察を通して、環境が人間の身心に与える多様な交渉の姿を、徹底的に研究し、一九〇三年には、『人生地理学』という大著をあらわしています。
 その中の「緒論」に、「人間が他日大社会に出て、開かるべき智徳の大要は実に此小世界に網羅し尽くせり(中略)以て郷土が人間に及ぼす不可思議なる勢力の概要を知るを得べきか」(『牧口常三郎全集』第一巻、第三文明社)というくだりがあります。
 すなわち、「環境」と「人間」との密接不可分の関係性、影響性を指摘するとともに、郷土あるいは風土が、そこに住む人の気質や、思考・生き方を決める大きな要素であることを、鋭く分析しています。まさに「地を離れて人無く、人を離れて事なし、人事を論ぜんと欲せば、先づ地理をつまびらかにせざるべからず」(同「緒論」に引用された吉田松陰の言葉)と。
12  ″風土″が″人間性″を形づくる
 池田 もちろん、郷土という限定した一地域ではなく、民族に根ざした国土へと視点を移して考えてみた場合、まさに民族の成員一人一人に共通する固有のアイデンティティー(自己同一性)が、少なくとも民族の数だけ生まれていることになるわけです。
 とくに、旧ソ連は、百数十もの民族が混在する「諸民族のルツボ」だっただけに、それらをどのようにして、ソ連という大連合体にまとめ上げ、調和をはかっていくかは、たいへんな難事業であったと思います。
 ところで、仏典に「名は必ず体にいたる徳あり」という言葉がありますが、名前というものは、不思議なものですね。あなたの故郷のプリポリノエというロシア語は「自由な、広々とした」という意味を含んでいると聞きました。
 まさに″風土″が″人間性″を形づくっているのであり、今も彼の地にあっては、あなたの″衣鉢を継ぐ″べく、若き後輩の「世界市民」たちが、広々と開かれた心で、近隣の人々と交流している光景が、目に浮かぶようです。
 ゴルバチョフ そうあってほしいと願っています。
 残念ながら、わが国の教条主義、経済決定論ヘの執着のために、私たちは、また社会科学すべても、地理的条件が、人間の精神・世界観に与える影響について、あまり深く考えてきませんでした。
 その意味で、牧口初代会長の言葉のなかには、多くの正確な観察が見られます。
 一年のうち三百日は、太陽が輝いている国では、人間もよく微笑み、よく笑います。ですから、私のような南ロシア人も、独特な心理的な特徴をもっています。
 私たちは、あらゆる民族が混在していたノボロシア(ウクライナ南部と北カフカス全体)の子どもです。
 私たちは、習慣的に見ても、ロシアの「国際主義者」となるべく運命づけられていたのです。
 スタープロポリの人々がいだく愛国心には、もともと国際主義が根づいていました。それは、多民族に囲まれ、驚くべき多彩な民族性のなかで、育まれてきたからなのです。
 池田 「『国際主義者』となるべく運命づけられていた」――いい言葉です。
 日本の諺に″三つ子の魂、百まで″とあります。閉鎖的で、国際性に欠ける日本人は、重々、自戒しなければならない点です。
 ゴルバチョフ 春に雪解けで、川が氾濫した後、大小さまざまな湖沼――地元ではモチャークと言います――ができますが、それと同じように、数千年におよぶ民族の移動、移住の結果、スタープロポリには、さまざまな民族集団が多数できていきました。
 これほど、コンパクト(凝縮した)な地域に、異なる民族が同居し、さまざまな言語や文化、宗教が接触した地域は、世界でも少ないでしょう。
 地域人口の八三パーセントを占めるロシア人のほかに、カラチャエフ人、チェルケス人、アバジン人、ノガイ人、オセト人、チェチェン人、イングーシ人、ギリシャ人、アルメニア人、トルクメン人などが、住んでいます。それぞれの民族は、独自の言語をもっているだけでなく、習慣、気質、生活様式も違います。
 池田 まさに、民族と文化の宝庫ですね。
13  ″善″
 ゴルバチョフ このような多民族、多言語の多彩な環境下で生活していると、多くのことを学びますが、とくに寛容さ、気遣い、互いの尊重という点が育まれます。
 山岳民を侮辱するということは、不倶戴天の敵をもつことを意味し、その尊厳を認めることは、最も誠実な友をもつことを意味します。
 そういった友人が、私には、大勢いました。まだ、そのころは、むずかしい理屈はわかりませんでしたが、平和であるためには、「反目」や「対立」ではなく、「寛容さ」と「調和」が大事であることを、少しずつ意識するようになっていました。
 のちに、私が大統領になり、民族問題が眼前に立ちふさがったときも、それは私にとって、まったく未知の問題ではなかったのです。
 池田 すばらしい教育環境です。
 ″善″の本質は結合、すなわち――「人間」と「人間」、「民族」と「民族」、「人間」と「自然・宇宙」を結合させる力であり、逆に″悪″の本質は、それらを分断する力、働きといえます。
 カフカス地方の精神風土は、巧まずして、その″善″の働きを演じているようです。
 ゴルバチョフ たしかに、おっしゃるとおり、歩み寄りの可能性を探ろうとする自分の傾向性は、北カフカスの精神文化から来ているのではないかと思います。申し上げておきますが、これは性格の弱さでは決してなく、ときに言われるような意地の欠如とでもいうものでしょう。(笑い)
 もっとも、北カフカスから、反乱者はたくさん出ています。十七―十八世紀にコンドラチー・プラビンや、イグナート・ネクラーソフ、ステンカ・ラージン、エメリヤン・プガチョフといつた、真の民衆運動の指導者が、ここで軍を集め、遠征を始めたのも、ゆえあってのことなのです。
 言い憾えによると、シベリアの征服者エルマクも、わが故郷の出身だということです。
 しかし、やはり南ロシア人は、ソフトなことが、特徴といえるでしょう。諍いを求めるようなことはしません。笑うこと、微笑むことが好きですし、太陽の光もあふれています。人生を愛し、人生の喜びを感じることができます。
 北カフカスのロシア人は、天使ではありませんが、喧嘩を売るようなことはなく、また、さっぱりしています。もって生まれた気質であり、先祖が育んでくれたものなのです。
14  閉鎖性を打ち破る″人類的視座″
 池田 たしかに、そうでしょうね。あの魅力的なゴルビー・スマイルが、どこから生まれたのか、少しわかった気がします(笑い)。民族問題については、のちに新たな章を設けて論じたいと思いますが、あなたのそうした気質は、二十一世紀に要請される「国際主義者」や「世界市民」のエートス(道徳的気風)と、深く通じていると思います。
 それはまた、『ソヴェト旅行記』におけるアンドレ・ジードや、『カタロニア讃歌』におけるジョージ・オ―ウェルらをつらぬく、普遍的な人間主義、人道主義の水脈であると思います。
 ″赤い三〇年代″といわれ、社会主義が人類史の未来にバラ色の夢を描きつづけていたころ、ジードはソ連を訪れ、早くもスターリニズムの画一主義や文化鎖国主義の悪をかぎとりました。旅行記が左翼を中心とした人々から総攻撃にさらされたとき、彼は、一歩もしりぞかず、「私にとっては、私自身よりも、ソヴェトよりも、ずつと重大なものがある。それは人類であり、その運命であり、その文化である」(『ソヴェト旅行記』小松清訳、新潮文庫)と語っています。
 ゴルバチョフ 創価大学の講演でも述べましたが、私たちの″新思考″の試みも、″全人類的価値″を復活させ、自由と人権を認め、素朴な道徳規範と人間的な社会のルールを、蘇らせることにほかなりません。
 池田 そうですね。
 また、同じ三〇年代、スペイン内乱に義勇兵として参加したジョージ・オーウェルは、何のために参戦するのかと問われ、「あまねきデイスンシィのために」(『カタロニア讃歌』新庄哲夫訳、早川書房)と答えています。デイスンシィとは「品位」「礼儀正しさ」「見苦しくないこと」などを意味します。
 いずれも、「人間の尊厳」の核心部分を成しているものです。こうした高貴なる人間性こそが、国家や民族の閉鎖性を打ち破って、人類史の普遍的視座を獲得していくために、欠かすことのできない機軸ではないでしょうか。
 ゴルバチョフ まったく、そのとおりだと思います。

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