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人類の歩むべき道  

「二十世紀の精神の教訓」ミハイル・S・ゴルバチョフ(池田大作全集第105巻)

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2  「二十一世紀」の青年への贈り物
 池田 「人生」とは、「政治」とは、「運命」とは、「歴史」とは――こうした人間の永遠の課題について、ともに思索をめぐらせ、お互いの経験や信念を語り合っていく。
 このことは、「二十世紀の証言者」である私たちにとって、共通の権利といえるかもしれません。
 そしてなによりも、「二十一世紀」を生きゆく青年に対する、重要な責務ではないでしょうか。
 その意味からも、総裁の創価大学での講演(一九九三年四月)は、感謝にたえません。今もって、学生は、深い感銘をおぼえております。
 今回の対談にも、創大生をはじめ、日本の多くの青年から、大きな期待の声が寄せられております。
 ゴルバチョフ たいへんにありがたいことです。
 私ども夫婦にとっても、創価大学のことは、忘れがたい思い出となっております。
 池田 ライサ夫人の心こもるスピーチも、忘れられません。
 夫人は、卓越した哲学者でもあり、稀に見るすばらしいトップ・レデイーであると、大学の教員も、皆、感嘆しておりました。
 創価女子短大の学生からも、「ライサ夫人に、くれぐれもよろしくお伝えください」とのことでした。
 ゴルバチョフ 本当に、うれしいことです。必ず、伝えます。
 じつは、創価大学に植樹していただいた「桜」のアルバムを、ライサもたいへんに喜び、創大訪問を、懐かしそうに回想していたのです。いつの日か、爛漫と咲く花を見に行くことを楽しみにしております。
 池田 ご夫妻の夫婦桜は、周夫婦桜(中国け周恩来総理・鄧穎超とうえいちょう女史を記念した桜)とともに、キャンパスの一つの象徴となりました。
 先日は、総裁ご夫妻の近しい友人でもある、インドのソニア・ガンジー女史をお迎えし、お嬢さんのプリヤンカさんとお二人で、亡きラジブ・ガンジー元首相を記念して「白梅の木」を植樹していただきました。創大に隣接した、牧口庭園の一角です。
 といいますのも、ラジブ元首相は、「植樹とは、生命を与えることである。愛の表現であり、他の人々や、地球上の生命を思う心の表れである」と語っておられました。その言葉が、私の心に深く残っていましたので…・‥。
 ゴルバチョフ ああ、そうでしたか。
 きっと、ラジブ元首相も、喜んでいることでしょう。ライサは、ソニアさんと、今でも文通をつづけております。
3  先駆者に課せられた「運命」
 池田 ソニアさんからも、よくうかがっております。
 さて、あなたとペレストロイカの登場は、二十世紀の世界にとって、まさに運命的なものでありました。あなたは、あの創価大学での記念講演で、このように述べられました。
 「いうまでもなく、一人の人間の運命ほど計り知れないものはありません。私たちは、自分なりの人生を生きているつもりなのですが、それにもかかわらず、みずからの天命に従っているのではないでしょうか」と。
 私は耳をかたむけつつ、二十世紀後半の世界史に参与してきた、あなたの波瀾万丈の人生の軌跡に思いを馳せておりました。
 東西冷戦に幕を引き、人類協調の時代の到来を告げたあなたの功績が、そのまま二十一世紀の世界へ、重要なモチーフを提起したことは疑いを入れません。
 そして、あなたの切り拓いた「改革」の流れは、押しとどめようのない奔流となり、やがてあなた自身をも飲みこんでいった……。
 人はそこに、先駆者に課せられた「運命」の不思議さ、過酷さを感じずにはいられないでしょう。
 あなたご自身は、政治家としての行動や業績を通して、運命的なものの力を感じられたことはありますか。あったとすれば、どんなときですか。今、来し方を振り返って、どのような感慨をおもちですか。
 ゴルバチョフ そうですね。
 思うに、現在の私の立場には、多くの利点があります。以前には、書物を読み、みずからの歩んできた道について、思索をめぐらせるといった余裕はなかったわけですが、今、やっと、それが可能になりました。
 あたかも、すべての知的エネルギーを、知識の習得と人類の英知との接触のために費やすことができた、あの幸福な学生時代に舞い戻ったかのようです。そういう人生は、落ちついた自信に支えられたものです。
 池田 なるほど、そうでしょうね。
 ゴルバチョフ ですから、今、私のことを、ふたたび権力の座に復帰することだけに、一縷の望みを託して生きていると考える人は、あまりにも愚かです。人がそのように考えるのは、権力のなんたるかを知らないからです。
 しかし、私は権力というものを熟知しております。権力と政治が、正義に矛盾し、不道徳な行為をともなって存在するとき、私にとってそれは受け入れがたいものでしかありません。
 あなたが知ってくださっているように、私は、自己の利益に反しても、最後までこの一点を譲りませんでした。″モラルを欠いた政治との妥協はありえない″という信念のゆえに、私は想像を超える対価を受け取ったともいえるでしょう。
 池田 よく、わかります。重みのある言葉です。
 かつて、″世界史の巨人″ナポレオンは、こう述懐しました。
 「天才とはおのが世紀を照らすために燃えるべく運命づけられた流星である」
 「わたしの息子がわたしに代ることはできない。たといわたし自身でも、わたしに代ることはできないだろう。わたしは運命の子なのだから」(オクターヴ・オブリ編『ナポレオン言行録』大塚幸男訳、岩波文庫)
 「運命の流星」「運命の子」――利己的な野心にとどまらない、自己の人生の″大いなる必然″の表白といえるでしょう。
 かのゲーテが、「人間の運命が岐れるのは暗愚と開明とである」「その点、ナポレオンは偉かった。――つねに開明、つねに透徹、そして、決然としていた」(エッカーマン『ゲーテとの対話』下巻、神保光太郎訳、角川文庫)と評しているように、こうした運命への自覚は、ナポレオンに限らず、世界史にそびえ立つ巨人たちに、共通の境地でありましょう。
 とりわけ、ゲーテの強調してやまない「開明」の二字は、ペレストロイカを勇断された、あなたの頭上を飾る不磨の栄冠でもあると、私は信じております。
4  天命・使命とは責任感の異名
 ゴルバチョフ あたたかな励まし、ありがとうございます。
 私は、熟慮の末に行動してきました。旧ソ連において、たんなる民主主義ではなく、倫理観に立脚した民主主義が可能であることを、みずからの行動を通して示したかったのです。
 ところが、モラルを欠いた民主主義となると、これはもう話にもなりません。最初に、戦車から生身の人間に発砲し、国中を恐怖にさらしておいてから、民主的改革を行おうなどと考えるのは、わが国の似非えせ賢人たちぐらいでしょう。「民主主義」と「個人に対する暴力」とは、互いに相いれないものです。
 改革がある段階まできたとき、崩壊の危機が見えてきました。そのとき、私は、もっぱら政治的手段(軍事的なそれではなく)によってのみ行動するという、みずから掲げた原則に忠実でありつづけることこそが、最も肝要なのだと決心したのです。
 創価大学で、私が講演をさせていただいたとき、人間はみずからの天命に従って生きていると申し上げたのも、なにか神秘的な意味ではなく、まさにこの意味においてなのです。「運命」「人生」といっても、神が決めたものではなく、人間自身によって決定されるものだからです。
 しこうして、私は、自分で自身の天命を選びとったのであり、私に近しい者たち、妻、娘、故郷の村の友人、学友、周囲の人々が期待したこと、さらに言えば、七十年間わが国が待ち望んでいたことを、実現しようと試みたのです。
 池田 あなたのそうした「責任」が、どれほど重いものであったか、深く深く、理解できます。
 ゴルバチョフ 「神秘」――それは人間社会と現実から離れ、身近なものに対して、なんらの責任ももたない世捨て人の領分でしかありません。私にとっての天命・使命とは、責任感の異名にほかならないのです。
 スターリン主義の悲惨と恐怖を経験し、罪なき人々の苦悩と悲しみをつぶさに見て、戦後の飢餓を憶えている人には、私や、いま六十代に達している私と同世代の人間が、なぜ、ほとんど本能的に自由を志向し、スターリン主義の負の遺産から、完全に解放されるそのときに近づくために、あらゆる努力をしたのか、容易に理解できるはずです。
 池田 そうでしょうね。その問題については、作家のアイトマートフさんとも、論じ合いました。
 クレムリンで、あなたと最初に対面したとき、彼が駆けつけてくれ、私たち二人を、取りもってくれたあの光景は、劇的でした。
 彼とは、今も交友を深めております。
 ゴルバチョフ そうでしたね。アイトマートフさんは、古くからの友人です。
 彼や私の世代の多くの人は、自由主義のなんたるかを深く詳細には知っていません。
 ただ、スターリン時代に幼少のころを過ごした私たちは、小事につけても大事につけても、「自由」というものを渇望し、崇拝したのです。
 自分たちにはなかったもの、すなわち「言論の自由」「情報の自由」を志向し、人々が自分の運命を自分で決められるようになることを、夢に描いたのです。
 わが人生の命題は、幼児期の原体験と、これまでの人生経験のなかで、形成されました。私にとってスターリンの粛清は、たんに人から聞いた話ではありません。一九三七年に、私の祖父が投獄されたからです。
 そのとき、村のだれも彼もが、わが家にそっぼを向いてしまいました。近所の人でさえ、あいさつをさけ、顔を背けて通り過ぎていきました。
 その人たちを責めるつもりは、毛頭ありません。
 次はだれが同じ目に遭うかわからない、という恐怖の時代だったのですから。しかし、そのときの思いは、心の奥に沈殿して残りました。
 池田 わかります。痛切な、言い知れぬ苦しみがあったことと、お察しいたします。
5  民主改革を成し遂げた勇気と信念の行動
 ゴルバチョフ もちろん、青春はつねに青春であり、スターリン時代でさえ、それは青春でありつづけました。その時代にも、喜びがまったくなかったというわけではありません。
 が、同時に言えることは、ソビエトの人々は、遅かれ早かれ、精神的眠りから覚醒し、この恐怖心を脱ぎ捨てて、本当に思っていることを声に出して話すことを、そして、無実の罪に苦しむ人を弁護し、体験を語ることを、学ばなければならなかったのです。
 それは、自由になるための覚醒です。私は、ほかでもない私と志を同じくする友人たちとともに、わが国がこの氷点からの一歩を踏み出し、漸進的民主改革をめざすところまで、幸いにも、事をなしえました。私はそれだけで幸福です。
 池田 そう言いきれること自体が、勝利です。栄光です。
 ペレストロイカを推進したあなたは、口シアの民主化への過程で、ソ連共産党書記長という絶大な権限を有するみずからの権力基盤を切り崩すかもしれないことを承知していながら、あえて″火中の栗″を拾おうとなされた。その勇気は、万人が認めるところでしょう。
 私は最近、あなたの側近の一人であるアレクサンドル・ツィプコ氏の著書『コミュニズムとの訣別』を拝見しました。その中に、あなたの信念の行動が、長いスパン(期間)で観たとき、どのような歴史的意義を有するかを的確に指摘した一文がありました。
 「一見どんなに矛盾して見えようとも、ロシアの民主主義の運命は、エリツィンよりもゴルバチョフにかかっているところが大きいのである。それは当座のことではなく、道徳的価値としての民主主義、政治的発展の目的としての民主主義のことである」
 「ゴルバチョフは個人的に、自分の行った改革と結びつき、ロシアにおける民主改革の未来と結びついている。彼はわが国のポスト共産主義の歴史の原点にいるのである」(望月恒子訳、サイマル出版会)
 それにしても、口シア革命以来、七十年間のボルシェビズムの歴史には、暴力やテロが母斑のように刻印されております。
 その歴史を思うとき、必ずしもあなたの意にそったものではなかったかもしれませんが、「ソ連邦の崩壊」という二十世紀でも最大級の出来事が、旧ユーゴのような最悪の事態を招くことなく、比較的平穏裏に推移したことは、今、振り返っても、ほとんど奇跡的といっても過言ではないと感じられます。
 その大きな要因として、なんといっても、ミハイル・ゴルバチョフという人物の存在を挙げることに、だれも異論はないのではないでしょうか。
 後世の史家は、たとえばチェコのV・ハベル大統領が「ゴルバチョフは典型的官僚として、そのポストに就いたが、真の民主主義者としてそのポストを去った」と語った、その評言の正しさを立証するであろうと、私は信じております。
 ゴルバチョフ ありがとうございます。胸にしみる言葉です。
 池田 ともかく、ツイプコ氏に限らず、ペレストロイカの象徴、民主主義の象徴としてのあなたの出処進退を、祈るような気持ちで見守っている人は、内外に決して少なくないはずです。
 その意味では、一九九三年、創価大学で、あなたが私に語った、「ゴルバチョフの時代は終わったという人がいるが、私はこれからだと思っている」という言葉の成否が、問われているともいえます。
 それは、政治の表舞台に復帰するとしないとにかかわらず、です。
6  戦争と革命の世紀を象徴する出来事
 ゴルバチョフ 深いご理解、重ねて、感謝します。
 私たちが手がけた事業は、まさに歴史の正義を証明することにほかなりません。なぜなら、スターリン時代にだれよりも辛酸をなめたのは、農民だったからです。彼らは、農奴さながらパスポートをもつことも許されず、権力者たちは、コルホーズ(集団農場)の農民を低賃金で明け方から夜遅くまで働く、物言わぬ奴隷にしてしまったのです。
 彼らは豊作の年でさえ、食べるにも事欠く生活を強いられていました。そして、もし、作物をコルホーズの畑から、自分の家にもって帰ろうとでもしようものなら、牢屋が待っていました。
 今でも私の瞼には、戦後の荒れはてた貧しい農村の様子が焼きついています。まともな家屋はなく、土壁のマザンカと呼ばれた家々が並び、いたるところに、荒廃と貧困の陰が色濃く現れていました。ロシアのなかでも、有数の豊かな都市とされる、スタープロポリでさえ、そうだったのです。
 早晩、旧ソ連の人々は過去を清算し、みずからの苦悩について、真実を語らねばならなかったのです。私も、それをするための一助となりえたことを、心からうれしく思っています。
 池田 哲人政治家の心の奥深さを、垣間見る思いがいたします。
 農民出身であるゆえに、あなたが、いわば″皮膚感覚″で、農民の苦渋を知る指導者であることが、よく理解できました。
 ところで、先ごろ、スターリン時代の旧ソ連で、一九三二年に強行された農業集団化から逃れ、うっそうとした森の中に隠れ住んでいた三家族が、ウクライナのキエフ近郊から、六十年ぶりに出てきたというニュースが、世界中を驚かせました。
 報道によると、この家族は、第二次世界大戦をはじめ、世界の変化はなにも知らなかったというのです。
 ロシアにおいては、いつの時代も、とりわけ革命後、最も圧政のしわよせを受けてきたのが農民であり、農村であると思います。なかでも、当時、数百万人が犠牲になったというウクライナの人為的飢餓は、ヨーロッパの穀倉地帯″といわれた肥えた土地でのことだけに、政治の非情さに憤りをおぼえます。
 おそらくあなたは、私たち以上にこのニュースに驚き、また、この家族をここまで追い込んだ時代の過酷さに、胸を痛められたことと拝察します。
 かつて日本でも、太平洋戦争における旧日本兵(グアム島の横井庄一さんや、ルバング島の小野田寛郎さん)が終戦を知らず、戦後数十年もジャングルの中に潜伏していたというニュースが、人々を驚かせました。
 ある意味で、こうした悲劇も、「戦争と革命の二十世紀」を象徴する出来事と、思えてなりません。
 ゴルバチョフ まさに、そのとおりです。
 農村を、モラルともども破壊したことは、ボルシェビズムの犯した最大の悪といってもよいでしょう。
 ところで、このように語っていくとき、私がこれまでも、そして今も、なぜペレストロイカと総称されるすべての出来事のなかでの、私自身の個人的役目を強調したがらないのか――あなたには理解していただけると思います。
 これは謙虚さを装うためなどではありません。信念であり、さらに言えば人生哲学なのです。
 一人の人間が、ほかの人間よりも多くのことをなしとげることができるのは、とりもなおさず、他の人間が自己の可能性を、完全に発揮できなかったからなのです。
 ある人がラファエロになったのは、ほかの人々が、それにならなかったからではないでしょうか。
7  ノーメンクラトゥーラ的発想の悲劇
 ゴルバチョフ いうまでもなく、粗野な均一化は危険であり、才能の役目と意味を認めずに冷笑するというのは、当然抗議されるべきです。私たちは″ネジの理論″を経験し、それによってわが国は、ときとして選抜ではなく、逆選抜を行ってしまったがゆえに、いかに多くの代償を払わなければならなかったことか。
 しかし、いわゆる″知的エリート″と″庶民″を対置するという、もう一方の極端も、危険であり、才能を神格化させ、超自然的能力を付与することも、危険だと考えます。
 この世に生を享けた私たち一人一人が、多くの可能性と運命をもっています。しかし、すべてが、人間の才能と意志にかかっているわけではないのです。たとえば、戦争は多くの命を奪ってしまいます。
 また、私と同じ村で一緒に育ち、学んだ友のなかには、才能豊かな人間がたくさんいましたが、経済的理由で、また家の事情で、大学進学はせずに村に残り、そこで一生働きつづけています。
 だからといって、はたして私は偉大で、彼らはなんでもないなどといえるでしょうか。
 したがって、人生で幸運に恵まれた人間は、鼻を高くして自尊を装う代わりに、みずからの可能性を十分に発揮できなかった人々への、深い尊敬の念につらぬかれていなければならないと思うのです。
 池田 まったく、そのとおりだと思います。
 ゴルバチョフ その意味で、私は、わが国で始まった民主改革が、民衆に対して古いノーメンクラトゥーラ(特権階級)的発想を抜けだしておらず、″選ばれて権力を付与された者″と、モルモットになるべく運命づけられた″その他の人々″という対比の次元にあることを、深く懸念しております。
 経済改革で「ショック療法」を行ったわが国の若い政治家たちが、価格を自由化したことで、数百万人の国民から、わずかの貯蓄を取り上げてしまう結果を招いたわけですが、私は今もって、民衆からあまりにも遊離した、彼らの感覚、民衆蔑視の姿勢がどこからきたものなのか理解しかねています。
 エリート意識、思い上がり、排他的絶対性の主張――これらが、二十世紀の多くの悲劇を生んだ根本的原因だったのではないでしょうか。
 したがって、すべての人間に平等の価値を見いだす信仰が勝利しないかぎり、人類の新しい歴史も、新しい文明の到来も望むべくもないと申し上げたいのです。
 池田 全面的に賛成です。
8  「平等」「同苦」「共生」の思想
 ゴルバチョフ 全体主義というものは、ありとあらゆるものを隠れ蓑にして、台頭してくることを忘れてはなりません。
 「共産主義の完全勝利」のために、または、「市場における完全勝利」のために、そしてまた、「民族の理想の完全勝利」のためにと、理由づけがなされていきます。
 そのすべての場合に共通するのは、″民衆は、自分ではいかに生きるべきかを判断できない。だから正しい決定を耳打ちしてやる必要がある″という考え方に、基調を置いていることです。
 私の個人的哲学の礎石は、一人一人の人間に内在する価値を信じ、人間が本来もっている倫理的、社会的存在価値を認めることにあります。
 モスクワ大学でのあなたのご講演「人間――大いなるコスモス」(一九九四年五月、本全集第2巻収録)は、私も読ませていただき、深い感銘をおぼえました。
 その中であなたは、″万人共有の仏性″について強調されました。
 「仏教では、すべての人々に、『仏性』という仏の性分、すなわち、理想的人間形成の種子、可能性が平等に具わっている、と洞察しております」と。
 キリスト教においても、仏教においても共通しているのは、人間のなかに、貴重な価値、すなわち″神性″がひそんでいるということではないでしょうか。
 池田 的確に、急所を突いておられます。
 ペレストロイカに″一人″の名を際立たせようとしない、あなたの謙虚さは、ある意味で、大乗仏教の平等観にも通ずるものです。あらゆる人間に内在する価値、尊厳性を、どう開き、内から外へと発現させていくか――。ここに、大乗仏教の最大のテーマがあります。
 逆に、あなたが指摘されたエリート主義、思い上がり、排他的絶対性などは、仏教の思想から、最も遠いものなのです。
 以前、ある論文でも言及したことですが、貴国の詩人ポリス・パステルナークは、小説『ドクトル・ジバゴ』で、ボルシェビズムのなかにある、そうした″侶傲きょごう″を、鋭く告発しておりました。
 ボルシェビキの若いイデオローグの高圧的な能弁、説教ぽ対して、ジバゴは、吐きすてるように言います。
 「――あなた方なんぞ糞くらえだ。あなた方の精神的指導者は諺がお好きなようだけれど、肝心なやつを一つ忘れていますね、腕ずくで歓心は買えぬ、というやつです。それに、別に頼まれもしないのに人を解放しては、恩恵を押しつける癖がどうにも抜けないようですね」(江川卓訳、新潮文庫)
 「腕ずくで歓心は買えぬ」「頼まれもしないのに」――繊細な精神をもち、詩人でもあるジバゴにとって、画一的なイデオロギー教育など、鼻もちならぬ独善でしかない。それは、精神の最も微妙かつ大切な″人間の証″を、土足で踏みにじるに等しく、ある意味では、直接的暴力以上の「魂」に対する冒涜ぼうとくであったのです。
 ゴルバチョフ そうです。
 最近、私は、当時のことを書いたシャリャービンの『仮面と心』という回想録を読みました。私が驚いたのは、政治や学問とはかけ離れた芸術家である、偉大な歌手のシャリャーピンが、ポルシェビズムのなかにある極左主義の本質を、非常に正確にとらえていることでした。
 そのポルシェビズムを生んだ人間たちとは、いったいだれなのかと、みずからに問いかけながら、彼は、こう答えています。
 少々、引用が長くなりますが、
 「愚かさと残酷さが、ソドムとナブホドノヴィルがあわさったソ連の体制は、真にロシア的なものであると、私は思います。まさにロシアの醜悪さが、ありとあらゆる形、度合いをもって露呈しているのです。不幸にも、われらがロシアの″建設者たち″は、ほどよい、いかにも人間的なプランにしたがって、平凡な人間向きの建物を建てるところまで、自分を凡人化しようとはしなかった。
 どうしても、空中にそびえ立つ塔・バビロンの塔を造ろうとしたのです。彼らは、ごく普通の調子の健康的な歩調で、人々が仕事に行き、また、仕事から家に帰ってくるようなことに満足できなかった。
 彼らは、すぐに″七マイル間隔″の歩幅で未来に突進しなければならないと思ったのです。
 ″古い世界に別れを告げよう″と思うや否や、すぐにでも、古い世界を根こそぎ何も残らないように、一掃してしまわなければならない。何よりも驚くべきは、われらがロシアの″賢人たち″が何でも知っているということなのです。彼らは、みすばらしい靴職人をあっというまに、アポロン(太陽・芸術の神)に変身させる方法を知っていて、兎にマッチのつけ方を教えるにはどうすればいいかも知っている、その兎が幸せであるためには、何が必要であるかも知っている、そして三百年後のこの兎の子孫が幸せであるためには、何が必要であるかも知っている」と。
 池田 なるほど。知的思い上がりへの、そのものずばりの指摘ですね。
 大乗仏教では、こうした知的エリート主義を「二乗不作仏」と言い、仏の教えを聞いて自分が悟ることにばかり執着する出家者の「声聞」や、飛花落葉などを観じて独り自己完成をめざす「縁覚」という知的エリートは、最も悟りから遠いと弾呵(叱責)されてきました。
 SGI(創価学会インタナショナル)が、日本のみならず、世界の百二十八カ国・地域に広範な在家仏教運動の流れをつくることができたのも、知的エリ―卜主義を排し、大乗仏教の精神にのっとって、徹して、民衆の側に立ちつづけてきたからにほかなりません。
 それを、仏教では「菩薩道」と言いますが、私も、心してその道をひた走っているつもりです。
 モスクフ大学での講演終了後、同大学のパーニン哲学部長が、こう語ってくださったとうかがいました。
 「池田会長は、何かを教えようとするのではなく、一緒に考えようとする姿勢をつらぬき、その視点からロシアに光を当ててくれた。そのことに感謝したい」と。
 私も、訴えたかったことを、的確に受けとめてくださった哲学部長の識見に感謝したいと思います。
 仏法は本来、高みから教えを垂れるのではない。
 すべての人々と心を通わせ、ともに生き、ともに向上をめざす「平等」「同苦」「共生」の思想だからです。
 それは、不世出の民衆指導者であった恩師戸田城聖創価学会第二代会長から、私の生命に刻み込まれた精神でもあります。
 ゴルバチョフ わかります。
 私たちは、自分が得たすべてについて、他の人々、とりわけ近しい人々に感謝しなければならないと思います。
 あなたは、師匠である戸田会長のことを言われましたが、私の場合、もし祖父母の愛情がなかったなら、はたしてどんな人間になっていたか、精神的になにが起こっていたかもわかりません。
 考えてみると、家族の絆、団欒、親子の愛情があったからこそ、私たちは皆、恐怖のスターリン時代を生きぬいてこられたのだと思います。
 池田 文化の違いはあっても、よく理解できます。
 いかなる時代、社会にあっても、「家庭」こそ、人間性の砦です。また、そうあらねばなりません。
9  知識への憧憬、学友との友情
 ゴルバチョフ さらに、私の人生にとって計り知れない役目を果たしたのは、モスクワ大学でした。私は人生に多くのことをなしえましたが、もし大学時代がなかったならば、あのキャンパス独特の雰囲気、知識への憧憬、開明性、学友との友情、尊敬、激励、支えといったものがなかったならば、きっとなにもできえなかったことでしょう。
 大学の古い建物に初めて入ったとき、私は、自分を世界一幸せな人間だと感じたことを覚えています。
 大学入学当初はずいぶん苦労して、学友たちに追いつかなければなりませんでした。学友たちも、また先生方も、そんな私が急いで遅れを取り一戻せるよう、応援してくれました。
 池田 意外なエピソードです。(笑い)
 そのまま、日本の学生に、伝えさせていただいて、よろしいですか。
 ゴルバチョフ 結構です。(笑い)
 ですから、極言すれば、偉大な人格、その人生、天命についての、観念的な社会政治評論といった類は、現実に生きた人物とは、あまり共通項をもたないものだと考えます。
 私は、歴史がどんなものであり、いかにしてつくられていくかをつぶさに見ただけに、このように申し上げる資格があると思います。
 私たちは、自分が生きるその時代の精神と理想、理念を呼吸しながら、通常、一定の枠の中で行動しており、これを踏み出ることは、そう容易なことではありません。白紙から歴史がつづられることはないのです。
 もちろん私は、歴史は自動的に動く機械のように、しごく簡単明瞭なものであると言っているわけではありません。唯物論者のマルクスでさえ、選択の自由を認めていました。とすれば、多くのことが、私たち自身にかかっているといえます。なぜなら、人間は不可思議な自然の摂理とともに生きているからです。
 それと同時に、申し上げなければならないのは、私の生き方、行動は、たんに置かれた環境への単純な反応ではないということです。
 池田 そうですね。
 とくに激動の時期にあっては、時流のスピードは、しばしば当事者の意図を追い越し、飲みこんでしまうものです。あなたも、ペレストロイカの激流の中で、何度も途方に暮れたことがあったにちがいありません。
 私が申し上げた、ゲーテの言う「暗愚」と「開明」の分かれ目は、まさに、そのときの一点にあります。
 フランス革命におけるロベスピエールも、ロシア革命におけるレーニンも、残念ながら独裁とテロという「暗愚」の道に踏み出してしまった点では、例外ではありません。
 その点、試行錯誤をつづけながらも、ぎりぎり「開明性」の一点を踏み外さなかったことが、志なかばで表舞台から退かざるをえなかったとはいえ、あなたがカジとり役を演じたペレストロイカの栄光であり、優れた特性であったと私は思っております。
10  人生を変えた採用取り消し
 ゴルバチョフ ありがとうございます。
 ところで、自分がこれまでなにか重要な選択に迫られたとき、どのように行動してきたかということを、真剣に振り返ってみると、驚くべきことを発見します。
 鮮明に記憶しているのは、選択をしなければならなかったときの状況と、なんらかの行動を決意するひらめきの瞬間です。ところが、どうしてそう決めたのか、なにがそう決意させたのかについては、ほとんどなにも思い出せないのです。これはまったく不可解としかいえません。
 十代のころのほんの一例をお話しします。当時の田舎少年にとって、ソ連邦という檜舞台に立つかどうかの運命が、大学進学自体にかかっていたということは、今になってみればだれにも明白なことです。それがスタート地点になり、その後の方向性を大きく決定していったのです。でも十代の少年に、そのすべてが見えていたでしょうか。もちろん、学校では銀メダルをもらい、出来の良い生徒だったので、私が進学しようと考えたのは当然のことだったと思います。私だけではなく、同学年の多くが勉強をつづけたいという点では同じでした。
 国は復興期に入っており、建設が進むなか、エンジニア、農業の専門家、医師、教師が不足していました。だから、皆が進学し、勉強の苦手な者でも、なんとか進学先を見つけることができました。同級生たちは地元スタープロポリやクラスノダール、ロストフの大学をめざしていました。そのなかで、私一人が、なぜかロモノーソフ記念モスクワ国立大学の法学部を志望しました。
 なぜそうしたのか? スタープロポリの片田舎から、なぜモスクフに? 野心だったのか? わかりません。なにか魂をつらぬくものがあったのです。
 おそらくこの抑えがたい、湧き出てくるような心の発動を「運命の挑戦」「使命」という言葉で表すのでしょうか。
 いうまでもなく、私も、そしておそらく、あなたもそうであるように、人生の多くの事柄は、偶然の要素に左右されています。私の場合、社会活動家か政治家以外の道はほとんどなかったと今になって思います。子どものころから同級生に選ばれて、いつも皆のリーダー役をしていましたし、生来活発で、社交的で、人のなかにいるのが好きだったので、かなり早い時期から社会活動に自分の道を感じていました。学生時代もずっとコムソモール(共産主義青年同盟)の活動をやりました。
 それでも私の歩む人生は、まったく今とは違っていたことも考えられます。というのも、もし一九五五年にモスクワ大学を卒業した後、モスクフに残ることに固執し、故郷スターブロポリに戻らなかったとしたら、きっとソ連共産党の書記長にはなっていなかったと思うからです。
 池田 どういうことがあったのですか?
 ゴルバチョフ 当時の状況はこうでした。五年生を終えるころ、すべては、私がモスクワに就職する方向で事が運んでいました。学部のほうでは、推薦で私をソ連検察庁に入れることにしていました。
 当時、すでにスターリン粛清の犠牲者の名誉回復の手続きが、盛んに行われているところでした。それで私たちは、国家保安機関の作業が法にのっとって進められているかどうかを監視するために、新しく設置された検察庁査察部で働くことが予定されていたのです。正義の勝利のために闘う――これこそ自分に与えられた職場だと考え、それは私の政治的、道徳的信条にも十分適ったものだと思われました。
 六月三十日のことでした。最後の国家試験を無事に終えて寮に帰ると、ポストに就職が内定している検察庁からの正式な手紙が届いており、出向いてくるようにとの連絡でした。
 私は、逸る心を抑えて出かけていきました。新しい職務についての話し合いが行われ、自分の考えもしっかり述べる必要があることを期待して……。
 ところが、興奮した笑顔で手紙に指定された部屋を訪ねた私を迎えたのは、そっけない官僚的な通達でした。「ソ連検察庁はあなたを採用することを取りやめました」と。
 これは、ショックでした……。
 池田 それは、そうでしょう。
 ゴルバチョフ じつはその前日、政府は、法学部からの新卒者を中央の司法機関に採用してはならないという非公開政令を出していたのです。
 理由は、三〇年代に粛清が猛威を振るった原因は数多くあげられるが、なかでも、専門的知識も、人生経験も、いまだもたない多数の「青二才」が、当時の人々の運命に決定権をもってしまったからだという滑稽なものでした。その結果、かの粛清を受けた家庭に育った私が、今度はじつに皮肉なことに、「社会主義的法治の回復」という闘いの、″飛んで火に入る犠牲者″になってしまったわけです。
 これは、私のすべての計画にとって大打撃でした。すべての青写真が一瞬にして崩れ去ってしまったのですから……。
 もちろん、どうしてもモスクワに残ろうと思えば、大学のなかに、居心地の良いなにがしかの職を見つけることも、可能ではありました。実際、私の学友たちは早々と手を打ち始めていました。しかし、私は、どうしてもその気になることができませんでした。
 なにを隠そう、まさにこのショックな出来事があったからこそ、私は自分自身の人生を見いだし、そして、今はすでに私の手を離れて独り歩きをしている、一連の出来事を成就するための道を踏みだせたのです。これをなんと呼ぶのでしょうか? 偶然、天命、それとも運命なのでしょうか?
11  「運命」を「使命」へと転ずる一念
 池田 初めてうかがう、若き日の貴重なお話です。
 また、当時のソ連中枢の空気を伝える歴史の証言です。
 衝撃的な運命の″不意打ち″が、より壮大な人生への扉を、勢いよく開け放つ発条バネとなる――それは、有名人であると、無名の市井の庶民であるとを問わず、真に主体的に生きようとする人間だけに起こりうる、跳躍なのかもしれません。
 運命に従順であるか、反抗的であるか――いずれにせよ、人間は、それぞれの運命と向き合いながら、さまざまな舞台で、人生のドラマを演じているようです。しかし、運命の織りなすドラマの主人公になることは、まさに至難の業でありましょう。
 ゆえに、私は、モスクワ大学での講演のテーマを「人間よ、自らの主たれ!」というメレショフスキーの『ピョートル伝』の中の言葉に託したのです。
 私は、仏法者として、三世永遠の生命観にもとづく運命の存在を信じております。その省察から、人間であることの大切な要件である謙虚さも生まれますし、また、その省察を欠くところに、近代文明、近代人の傲慢さがあります。
 私の恩師は、ある歴史小説に言及して、「物事の″七割″は宿命で決まっている」と語っておりました。私も、十九歳のときの恩師との邂逅かいごうを顧みるほどに、三世にわたる運命的な力、宿命的なるものが、感ぜられてなりません。そのうえに立って、残りの″三割″に勇気をもって取り組み、挑戦していくところにこそ、本当の意味での運命観があり、使命の開花も可能になるのではないでしょうか。
 私が、あなたに贈った長編詩「誇り高き魂の詩」(本全集第41巻収録)の冒頭を、「時代は人間を生み人間は時代を創る――」と始めたのも、そうした運命観から発する思いでありました。
 ゴルバチョフ あの詩は、友情の真心の作品であり、ライサとともに、何度も、読み返しました。会長の詩心は、まことに美しい。
 池田 恐縮です。
 ところで『戦争と平和』のナポレオン像は、「王は歴史の奴隷である」(中村白葉訳、『トルストイ全集』5、河出書房新社)というトルストイの運命観、歴史観によって、ややみすぼらしく、矮小化されてしまった感があります。もちろん、そこには、いわゆる″英雄″よりも、無名の″庶民″にスポットを当てようとするトルストイの人生観が反映されております。
 ただ、あまりにも宿命の力が際立ちすぎて、ナポレオンが、実像以上におとしめられてしまっているようです。
 私は、それよりも、プーシキンによつて、
 「荒涼たる河の岸辺
 壮大なる想いに充ちて
 彼は立ち
 遠方おちかたを見つめていた――」
  (木村彰一訳、『プーシキン全集』2所収、河出書房新社)
 と謳い上げられた『青銅の騎士』のピョートル像のほうに、より親近感をもちます。
 みずからの手で、みずからの運命を切り拓いていこうとする能動的な姿勢が、鮮明に描かれているからです。
 ゴルバチョフ 私も、プーシキンは正しく見ていたと思います。
 たしかに、ピョートルという人間像には、多くの謎めいた不可解なものがあります。
 彼は、ロシア史に、まるで宇宙から来たかのように、突然、現れるのです。ロシア史のすべての論理に反して現れ、すべてを破壊しています。
 おそらく、メレショフスキーが、彼を″ロシアの鍛冶屋″と名づけたのは、正しかったと思います。
 「彼は、鉄が熱いうちにロシアを鍛えた」(『ピョートル大帝』米川哲夫訳、河出書房新社)と。
 池田 そうでしたね。『ピョートル伝』の中でも強い印象を残す一節です。
 この運命と対峙する姿勢について、私は、九三年九月のハーバード大学での講演(本全集第2巻収録)で、論じたことがあります。「近代人の自我信仰の無残な結末が示すように、自力はそれのみで自らの能力を全うできない。他力すなわち有限な自己を超えた永遠なるものへの祈りと融合によって初めて、自力も十全に働く。しかし、その十全なる力は本来、(他から与えられたものでなく)自身の中にあったものである」と。
 先ほど、あなたは、言われました。
 「私にとっての天命・使命とは、責任感の異名にほかなりません」――。
 まことに至言であります。
 あなたが「責任感」と呼ばれたもの――天命・運命・宿命を、使命へと転じゆく力。
 仏法では、それを人間の「一念」に見いだします。壮絶にしてダイナミックな「一念」の回転が、自己を変革し、現実の世界を変革する。ここに仏法の真髄があり、偉大なる人間革命のドラマがある。
 少しむずかしい表現になりますが、「三世常住の法」への私どもの信仰は、その限りない源泉であり、大地なのです。
 ゴルバチョフ なるほど。言わんとされることは、よくわかります。
 池田 その「一念」の発露が、声であり、対話です。
 トインビー博士との対談の折、最後に博士は、「語りつづけることが、大事です。世界の指導者と、対話をつづけることです」との言葉を、私に贈ってくれました。
 私は、その約束どおりに、行動を重ねてきました。この対談も、二人で、大いに語りつづけましょう。
 ゴルバチョフ 同感です。
 今、世界は、新しい状況に直面しております。そのなかで、人類は、新しい選択を迫られています。
 その一つ一つの課題について、私は、あなたと、英知を結集していきたいのです。

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