Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

世界政府への展望  

「平和への選択」ヨハン・ガルトゥング(池田大作全集第104巻)

前後
2  池田 博士のおっしゃる「世界中央統括」の内容については、残念ながらつまびらかにしておりませんが、よしんば世界的な統合システムのようなものがめざされるとしても、その統合力はタイト(堅い)なものよりも、緩やかなものであったほうがよい、という点には大賛成です。挙げられた世界政府の四つの職務のうち、とくに最初の「文化統合」などという点に関して、もし文化の多様性を均質化し、画一化していくような方針が取られるならば、百害あって一利なしでしょう。一種の普遍的な色彩をおびた近代化政策が、世紀末を迎えた今日、いたる所で行き詰まりを露呈していくなかで、“ポスト・モダン”の潮流は、多種多様なアイデンティティーの模索にこそあるはずです。その潮流を力による画一化政策によって押しとどめようなど、時代錯誤というしかなく、また、そのような施策が成功するとは、とうてい思えません。
 主権国家の枠組みを超えた世界システム構想に心を砕いていたルソーやカントも、主として政治次元からですが、そうした画一主義に対しては、重々、警戒をおこたらなかったようです。ルソーの「国家連合」の構想の背景には、つねに「主権をそこなうことなしに、どの点まで連合の権利を、拡張することができるか」との問いかけがありました。またカントも、国家間の連合の目的を平和の維持だけに限定し「たんに戦争を防止することだけを意図する諸国家の連合状態が、諸国家の自由と合致できる唯一の法的状態である」と述べております。いずれも、世界システムが権力機構として肥大化していくことの危険性を指摘したものでしょう。
 したがって、世界統合化へのシステム作りにあたって、絶対に無視してはならない点は、「自発性」ということであるというのが、私のかねてからの主張です。この一点を踏みはずすと、今、国際社会の焦点となりつつある国家主権の制限の問題にしても「自発性」という原則を崩してはならず、もし、強制的にそれを行おうとすれば、日本のことわざにいう“角を矯めて牛を殺す”ことになってしまうでしょう。その結果、おっしゃるように世界政府とは、旧ソ連を上回るような、モンスターじみた権力機構と化してしまうことは必定です。それを避けるための王道は、民意を尊重し、それをどう汲み上げ、反映させるかという点にあり、国連を「国家の連合」だけではなく「人民の連合」に、ということの趣旨もそこにあるといえましょう。私も、国連が「国家」の顔ではなく「人間」の顔を表にしたものになっていかなければならないことは、何度となく提言しております。今後もNGO活動などを通じて、できる限り、その面へ貢献してまいるつもりです。私はまた、こうしたNGOの活動がやがて多くの人々の賛同を得ていくことを、心から願っております。
 ガルトゥング それへの答えとなるものが、すべての当事者による「内なる対話」と「外なる対話」です。私たちはこの地球上に大勢集まって生きていますから、私たちのカルマ(業)がすべて互いに相交わっていることがわかります。もしどこかに過ちが生じた時には、私たちは、自分たちの内面で静かに思いをめぐらし、自分たちの中に解決を求めるという、あの優れた仏教の伝統に従うべきでしょう。さらにまた私たちは、個人的なものであれ、集団的なものであれ、自己改善は可能であるが、それは決して天からの賜り物などではなく、額に汗する勤勉によってのみ得られるという、あの仏教思想を明確に理解させていかなければなりません。
 平和のための仕事には、一握りの政府とか頂点に立つ人々だけでなく、私たちすべてが必要なのです。私は「世界政府」なるものが、神に代わるもの、すなわち遍在的・全知全能的な存在となってしまう可能性を心から懸念しております。「世界政府」が恩恵をもたらすとはどうしても思えないのです。ただし最終的には、私たちは、自分自身に、そしてあなたがおっしゃるような――人間の個人としての有限性を超えたところに存在する――永遠なるものに、わが身を委ねることができるのです。

1
2