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日蓮大聖人・池田大作

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地球的諸問題へのアプローチ  

「平和への選択」ヨハン・ガルトゥング(池田大作全集第104巻)

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2  池田 たしかにリオデジャネイロの地球サミットで決定されたことの具体化は、各国とも進んでいないようです。もっとも、これだけ大きく幅ひろい問題をあつかうわけですから、ことは簡単ではありません。たとえば、環境政策に熱心に取り組んできたといわれる「欧州連合」(一九九三年十一月一日以降)ですら、炭素税の問題などでは各国の相互不信でなかなかまとまらないのが実情です。いくら地球益といっても、国家レベルになると国益が顔を出してしまうものです。博士のご指摘のように、民衆レベルでどう政府を動かせるか、環境問題に取り組むNGOの正念場がきています。
 ともかく「南」の民衆の犠牲のうえに立った「北」の繁栄などという生き方は、もはや成り立ちません。「南」と「北」の共栄、共生を考える以外、地球社会の明日はありません。意識の次元では今日ほどそのことが地球レベルで浸透している時代はないと思います。
 日々の暮らしの次元になると「南」の人々がたいへんな困難に直面していることはよくわかります。森林を伐採するなといっても、そうしないと毎日の生活が脅かされる人々もいるわけですから。北側の人は、そうした深刻な実態を深く認識したうえでどうすればいいかという提案を出さねばなりません。この点で、たしかに日本が世界になんらかのモデルになりうればよいのですが――。
 結局、これからは生命系に基盤をおく行き方、地球規模で多様な自立的な経済を確立する以外にないと思われます。世界的な経済不況のなかで、もはや軍事に金を浪費している余裕はないはずです。
 ガルトゥング 各国の経済は、あくまで公正な関係になければなりません。通商は、公正に取引されるかぎり少しも悪いことではなく、むしろすばらしい相互扶助の手段です。しかし、通常は、いわゆる負の「外部効果」(エクスターナリティーズ)という副作用が搾取の形をとって、事実上、大規模な構造的暴力になっているのです。通商のパートナー間の取引は、一方が原料を、他方がそれと引き替えに精巧な製品をといった形ではなく、双方にとって同じようにやりがいのある仕事で成り立っていなければなりません。また当事者双方が、汚染や涸渇のような負の「外部効果」を減らすために協力しなければなりません。
 私たちは、今日、新しい貿易理論を切実に必要としています。私も拙著『別な基調の経済学』(Economics in Another Key)(邦題仮訳)の中でその試みをいたしました。『コーラン』は『聖書』(バイブル)と違って、そのある部分には道義的で誠実な商取引の原則が説かれており、それは今日でも昔と同様に(イスラム教徒の)依拠となっています。しかし、それは今日の諸条件に適合するように改新されなければなりません。あるいは大乗仏教が、この面で指導性を発揮できるのではないでしょうか。
 池田 私は先にシューマッハーの「仏教経済学」にふれたところで、「出世間」を重視する従来の仏教史の流れからは「仏教経済学」といった発想は生まれにくいと申しました。しかし、私どもの信奉する日蓮大聖人の仏法では「一切世間の治世産業は皆実相と相違背せず」と説きます。私どもは仏教者として、経済事象にも大いに関心を持っていますし、仏教の理念は深い次元で一切の事象にあい通ずるものがあるととらえております。
 私は博士の言われるように経済に公正さが必要であり、通商の公正な取引が根本であるという考え方に同感です。結局、相互依存関係が深まっている現代世界にあって、通商といっても、一国、また一企業が繁栄すればよいという時代ではありません。ともに協調、協力しあいながら繁栄していく「共生」が時代の要請といえましょう。その発想こそが現代の公正な「通商」に不可欠の理念であると思います。
 この「共生」を、仏教では「縁起」と説きます。現実の事象は個別性よりも関係性や相互依存性を根本としております。「縁起」すなわち「縁りて起こる」とあるように、すべてが互いに縁となりながら現象界を形成しています。人間界であれ、自然界であれ、経済の世界であれ、一切の生きとし生けるものは互いに関係し依存し合いながら、一つの生きた世界を作り上げているのです。
 この縁起の発想に立って、しかも狭いエゴイズムを乗り越えて主体的な生き方を説く大乗仏教は、博士が強調されるような「新しい貿易理論」すなわち「道義的で誠実な商取引の原則」というものの在り方にも大いなる示唆を与えるものと確信します。

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