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国連の改革  

「平和への選択」ヨハン・ガルトゥング(池田大作全集第104巻)

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2  池田 変化の激しい世界の中で、国連自体が一つの大きな転機を迎えていることは確かだと思います。とくに安全保障面で、そのことが言えるのではないでしょうか。
 一九九二年、国連安全保障理事会は全会一致で、ソマリアへの人道援助の物資輸送を確保するために、米軍を主体とする多国籍軍の派遣を決定しました。その目的は人道的なものであり、これに反対する人はほとんどいませんでした。しかし、その後、PKO史上初の「平和執行部隊」といわれる第二次国連ソマリア活動は行き詰まってしまいました。
 このところ世界的に民族紛争が頻発しており、今後国連がこれにどう対応していくか、介入の原則が問われています。とくに現在の紛争の特徴は、国家内部の激しい対立、争いにあり、対応がきわめてむずかしい状況です。国連は、これまでは加盟国の国内問題には介入しないことを原則にしてきたわけですが、もはやそれではすまない時代になっています。人道的援助確保の名のもとに、内政問題と見なされてきた領域に強制措置を行使したのは、国連が新しい方向に一歩踏み出したことを示すものです。
 昨年(一九九二年)、ガリ国連事務総長が「平和への課題」という報告書の中で「平和執行部隊」の構想を打ち出し、論議を呼びました。すなわち、紛争当事者の合意がなくても、重装備の部隊を派遣して実力で停戦の実現にあたるというもので、国連が冷戦終結後の世界の困難な課題に主体的に取り組んでいこうという、強い意志が感じられます。
 だからこそ、私はここで国連本来の役割というものを想起すべきだと思います。そうでないと、思わぬ泥沼に足を取られかねないからです。なにごとであれ急ぎすぎるのは、よくないと思います。
 私は、国連の本質はシステム、ルールとしてのソフト・パワーにあるとつねづね考えています。国連の役割は、諸国の行動を調和するためのシステムとしてのものです。そのシステムがよって立つところのルールは、軍事力に代表されるハード・パワーとは対極にあります。ハーバード大学のジョセフ・ナイ教授がソフト・パワーを指して「競争力ではなく協調力のことである」と述べているのには、わが意を得たりという気がしています。まさに今要請されている新しい世界秩序を築くには、この協調力を基盤に平和的なシステム、ルールを作り上げることです。
 現在の国連は、安保理常任理事国を中心にした一部の先進国に主導されすぎているという批判があります。私はこの問題は、ただ拒否権を廃止するかどうかだけでは解決ができないと考えています。なぜなら、現在の問題は、グローバルな安全保障を可能にする新しいシステムが必要だということであり、もっと根本的な問題をはらんでいるからです。
 安保理の独走を許さないために、総会や事務総長職の強化をどうはかるかも課題です。国連改革のためのさまざまな提案をもとに、一九九五年国連の五十周年を機会に、根本的な国連改革のための世界サミットを国連で開いてはどうかと思います。
 ガルトゥング まことに同感です。ただし、そこには多くの問題があります。第一に、私たちがこれまで何度か言及してきたように、暴力を制約することが何としても必要です。さほど明白には決めつけられないにせよ、たとえば湾岸戦争のさいの第六七八号決議で試みられたように、たんに安保理によって合法化がなされても、暴力へのそうした制約は消え去るものではありません。そのうえ、規則をつくったり、規則違反国を“あらゆる必要な手段をもって”罰したりするさいの根拠となる――現国連事務総長(ガリ氏)が大好きな――法的パラダイム(範例)にも、制約があります。湾岸戦争の場合、この“手段”は経済制裁の形をとったのであり、それは旧ユーゴスラビアの場合も同じでした。しかし、おそらくサダム・フセインが戦争を起こしたのは、歴史上イラクに屈辱を与えてきたすべての国家に反抗する勇気を示し、それによって名誉と威信を得ることを望んだからでした。したがってこの戦争は、ある意味ではその目的を達したことになります。
 旧ユーゴスラビアにおける制裁措置は、住民のなかでも原理主義的な色彩の濃い一派の人々をますます強力にさせただけであり、すでに世界記録ともいえるほど大きくなっている傷口を、さらに広げています。
 私は、(ご提案のような)サミット会議は、そうした問題を処理する意欲と能力をもってほしいと思います。それらの問題は、あるいは彼らの通常の権限外の問題かもしれませんが、そうした狭い考えに捉われることなく取り組んでもらわなければなりません。現在のような法律至上主義、制裁志向的な国連では、期待されるような働きはできません。その最大の理由は、非常に複雑な諸現象への対応が現実に即していないというところにあります。

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