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日蓮大聖人・池田大作

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文化相対主義について  

「平和への選択」ヨハン・ガルトゥング(池田大作全集第104巻)

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2  池田 ゲーテは、たしかに文化の低い段階と高い段階を「野蛮」と「文化」という言い方をしています。しかし、それはヨーロッパ文明のみを「文化」とし、その他を「野蛮」とするような単純なものではありません。引用のくだりでいえば「国民的憎悪」を文化の低い段階とし、「近隣の国民の幸福と悲しみを自分のことのように感ずる」境地を文化の高い段階といっているのですから、その基準は、陶冶された人間性という普遍的意味をもっています。たしかに文化は相対的であり、価値の優劣をつけるのは間違いですが、だからといって、ヒトラーやスターリンのやったようなことを認めるわけにはいきません。それに対して“ノー”というのは、人間としての普遍的感情でしょう。それに対し、よいものをよいとする普遍的感情もあるのであり、ゲーテの優れて世界市民的キャラクターにも、その感情がにじみ出ています。それはまた、民衆一人一人が身につけるべきものとして、国際化時代が進む今日、最も必要とされる精神的基盤といってよいでしょう。
 文化相対主義は、たんなる相対主義にとどまっていてはならず(もちろん、その前の段階、つまりあなたのおっしゃる「他文化から積極的に学ぼうとせずに、消極的な寛容という形」にとどまっていては、なおさらいけません。それはたんに“金持ち、ケンカせず”的な余裕にすぎず、比喩的にいえば、金が乏しくなれば吹きとんでしまうからです)、相対主義を踏まえつつ、しかもなお、人間性の普遍的な在り方を追求していかなければならないと思います。たとえば“個の尊厳”という理念は、それを内実化させるためにはどうすればよいかという課題を含めて、人類史にとって普遍的価値をもっているといってよいでしょう。そのさい、ゲーテが生き、示しているような世界市民的キャラクターは、ソクラテスのそれと並んで、私たちに、たいへん貴重なヒントを提供してくれていることは疑いのないところでしょう。
 ガルトゥング 私は、ゲーテは、強烈な国民的憎悪が社会の最底辺層に見られるということ、そして他方に民族国家への帰属意識を超越した、より国際的な意識をもつエリートたちがいるということを言っているものと解釈します。
 しかし、世界中を回って得た私の見聞から言えば、強烈で病的とすらいえる民族主義が社会の底辺層――とくに、今日、旧ユーゴスラビア連邦内のイスラム教徒をはじめセルビア人、クロアチア人のなかに現れている一種のルンペンプロレタリアート(浮浪無産階級)――に見られますし、さらには自分たちを国益の担い手と自負するエリート階層にもそれが見られます。エリートたちは底辺層の人々を戦場へ送り出し、そこで殺し合いをさせるのです。
 中間の階層には、概して、より国際的な志向性があります。彼らは世界中に提携の網目を織り巡らし、NGO(非政府機関)やTNC(多国籍企業)を創り出していきます。彼らはどこへでも旅行をして自分たちの好奇心を満足させることができ、ビジネスを通じて利潤を得ることができるような世界のほうがよいと思っています。もちろん、すべての社会階層には例外的な先見の明のある人々がおり、あなたはゲーテとソクラテスにふれられましたが、私はとくに釈迦牟尼、ソクラテスの同時代人である孔子、私の好きな日本の作家の一人・夏目漱石、そしてガンジー等を、その例に挙げたいと思います。
 私の考えでは、中間階層が拡大して、他の二つの階層(底辺層とエリート階層)を社会の両端へさらに遠く押しやることは、大きな希望をもたらすことだと思っています。私たちのいちばん大事な仕事は、非暴力的な世界のエートスを生みだす対話を奨励していくことです。あなたはこれを「二十一世紀文明と大乗仏教」のご講演でじつに見事に実践されました。ところであなたは、どのようにすればこの試みが、たんに二、三の特別な人たちのためだけでなく、何十億という私たち一般の人間のための、全世界的なエートスの一部になりうるとお考えでしょうか。
 池田 非常に重要な、また核心をついたご質問です。非暴力的な世界の実現、またそのための対話の推進といっても、その内実が普遍的であるかどうかにかかっています。とくに「宗教」とのかかわりは重要です。私は仏教者として、その人間を人間たらしめる「人間のための宗教」こそがカギを握っていると考えております。
 私のハーバードでの講演に対し、講評者の一人として当日、コメントしてくださったハービー・コックス教授も、あなたとほぼ同じような疑問を胸にいだいておられたようです。コメントの中で、世界的規模の宗教と精神の復興に希望を託しながらも、狂信、偏狭というような宗教のマイナス面を指摘し、「宗教の時代」の進展に慎重な姿勢を崩しませんでした。宗教学者としてのコックス教授のコメントは、その長きにわたる研究成果と実際的経験を踏まえたものであり、まことに真摯な発言と受けとめたしだいです。
 宗教一般に対する警戒心は私も熟知しておりますし、宗教の功罪についてもさまざまに言及してまいりました。そのうえに立って、講演の中で私は二十一世紀に果たしゆく仏教の役割の一つの柱として、「人間復権の基軸」をあげたのです。そこでは「善きもの、価値あるものを希求しゆく人間の能動的な生き方を鼓舞し、いわば、あと押しする力用」としての「宗教的なもの」の必要性を説きました。これが「人間のための宗教」の内実になるのです。ここで私が、「宗教」ではなく、デューイの概念を援用しつつ「宗教的なもの」の重要性を強調したのは、「宗教」がともすればおちいりがちな反人間的要素、すなわち宗教的権威や硬直化した宗教的ドグマが人間を強くするのではなく弱くし、賢くするどころか「悪」と「愚」の世界に引きずり込んでしまう側面に警鐘を鳴らしたかったからに他なりません。それだけに「宗教的なもの」を人類のエートスとすることは容易なことではないでしょう。コックス教授自身、私どもの運動に多大な共感を示しつつも、なおかつ「『宗教的なもの』が、世界の大多数の人に働きかける力を持つとは思われない」とコメントせざるをえなかったほど、宗教のたどってきた道には、おびただしい人柱が埋め込まれてきました。逆に言えば、そうした宗教史に纏綿している業(カルマ)ともいうべきものから脱却しない限り、二十一世紀へ向けての宗教の展望は、暗くならざるをえません。それでは宗教の未来はないと私は思っております。
 私どもが今、進めている運動は、その困難な道に挑戦するものです。それは、人間を支配し、隷属化させようとする、権威化し、ドグマ化した「宗教」に対する根源的な変革運動であり、SGI運動は日本のみならず、世界の百十五カ国へ事実上の広がりを見せております。たしかに「宗教的なもの」といい「人間のための宗教」といい、未聞の難事業でありますが、新しき時代を開くのは、民衆が担う新しい宗教改革運動だと思っております。

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