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日蓮大聖人・池田大作

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「全人類的価値」の優位  

「平和への選択」ヨハン・ガルトゥング(池田大作全集第104巻)

前後
1  池田 挫折と錯誤つづきの内政面に比べて、ゴルバチョフ政治の赫々たる成果が表れたのは、いうまでもなく外交面ですが、なかでも「全人類的価値」と「階級的価値」の優先順位を逆転させた勇気は光っています。いくら階級闘争や国際共産主義運動を貫徹したところで、核戦争によって人類が滅亡してしまえば元も子もないのですから、「全人類的価値」の優位は当然といえば当然なのですが、その常識が通用しなかったところに、かの社会をがんじがらめにしていたイデオロギーの呪縛があったわけです。
 それだけに、大胆に“新思考外交”に踏み切ったゴルバチョフ氏の勇気は、たたえられてよいと思います。何しろ、それによって、あっという間に“ベルリンの壁”は崩れ、東欧諸国に革命のドミノ現象が起き、冷戦構造が一気に崩れていってしまったのですから。また、その結果、米ソ両国を中心にした対決とかけひきの場でしかなかった国連が、にわかに活性化されてきたことは、周知の事実です。
 核兵器に限らず、見方によっては核兵器以上の脅威である環境問題などにおいても、「全人類的価値」の優位ということは、人類にとって最優先の課題であるはずです。ゴルバチョフ氏のリーダーシップによって「階級的価値」から「全人類的価値」への思い切った発想の転換がなされたという事実は、私たちにとっても、主権国家、民族国家に捉われた「国家的価値」から「全人類的価値」への転換が十分可能であるということへの、このうえない励ましではないでしょうか。
 ガルトゥング おっしゃるとおり、ゴルバチョフ氏が、世界の人々の考え方を新たな方向に導いたことは、まったくすばらしいことです。国家や階級の違いを超えて、全人類の利益を考えることのできる政治家は、世界中でおそらく同氏だけだったといえましょう。氏の国連演説は、現代における最も偉大な文書の一つです。ただ残念なことに、氏が演説しているとき、ロナルド・レーガン氏とジョージ・ブッシュ氏は――当然それを聴くべきであったのに――聴いておらず、なんと、自由の女神を背景にして撮る写真のことを話し合っていたのです。
 全人類の利益のために考え、語り、行動するのは立派なことです。しかし、その結果は、だれが考え、語り、行動するかによって、大いに異なってくるのが常です。たとえば国連の任務は、決して“平和執行活動”によって人を殺すことであってはならず、あくまで平和的手段によって平和を促進することでなければなりません。私が、(国連決議第六七八号によって)湾岸戦争の大量殺戮を正当化するようなことは安全保障理事会の仕事ではなかったと思うのは、このためです。サダム・フセイン氏は、異常なほど残虐な人物ですが、その彼が交渉に応じようとした好機が、少なくとも四度あったと聞いています。にもかかわらず多国籍軍側は、総体としても、またとくにアメリカが、交渉を渋りました。それは多国籍軍が、言うことを聞かなくなった従属国を、人類の名において懲らしめようと躍起になっていたからです。
 階級差別について私が言えることは、階級闘争が一般世間の話題にのぼらなくなったとしても、その闘争自体がなくなったわけではないということです。それはちょうど家父長制が、イプセンをはじめさまざまな人々によって議論されるようになる、はるか以前から存在していたのとまったく同じことです。階級というものは社会的現実であり、解決の手立てが見いだされるまでは、いくどでも繰り返し現れることでしょう。その理由はいくつかありますが、とくにそれはある者がより多く持ち、ある者がより少なく持つからであり、また、まさにある者がより少なく持つがゆえに一部の人間がより多くを持つことになるからです。
 今、いくつかの国で効果をあげている一つの方式があります。それは、富を生みだすための社会的資本主義と、その富を分配するための社会的民主主義を組み合わせたものです。自然界と第三世界を犠牲にすることさえなければ、これは良い方式です。この方式に自然環境への意識強化という要素が加えられたなら、その結果、かなりきちんとした社会が生まれることになると言えましょう。

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