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日蓮大聖人・池田大作

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社会主義、その後  

「平和への選択」ヨハン・ガルトゥング(池田大作全集第104巻)

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2  池田 陰陽説にもとづくマクロ的な立場から歴史を俯瞰してみるのも、それはそれで意味のあることです。しかし、だからといって、「一は二となり、二は一となり、その一はまた二となり……」と歴史のおもむくままに、座して手をこまねいているわけにはいきません。肝心なことは、歴史をよりよき方向へと向けることです。
 周知のように「二が合して一となる」のか、「一が分かれて二となる」のかは、中国の文化大革命という嵐の到来を予感させる、一九六〇年前後の中国思想界を二分する大問題でした。結局、毛沢東の「一が分かれて二となる」の理論が、劉少奇派の揚献珍の理論に勝利して、文化大革命というあの“暴風雨”の中に突入していったわけです。その間、どの程度の犠牲が生じていったのかは、諸説が入り乱れています。なまなましい現代史であるだけに、総括するにはまだまだ早すぎますが、いわゆる“紅衛兵”運動のもたらした功罪を比較した場合、今なお“功”のほうが大きかったという人は少ないでしょう。「一が分かれて二となる」という単純な命題の背後には、このような死屍るいるいたる地獄絵図が横たわっていることを忘れてはなりません。
 たしかに歴史の行き着く先は、私たちにはわかりません。“神”を僣聖する傲慢な精神の徒以外には――。それを忘れ、歴史の弁証法的発展の道すじが合理的にたどれると見誤ったところに、マルクス主義の大きな失敗がありました。しかし、“進歩”の旗を独り占めしてきた社会主義の崩壊をもって、自由主義の勝利即歴史の終わりとする見方が間違いであるからといって、歴史の方向性におおよその見当ぐらいつけておかなければ、時代に棹さそうという意欲もなえてしまうでしょう。それどころか、歴史を学ぶ意味さえなくなってしまいます。
 ガルトゥング たしかにおっしゃるとおりです。しかし、中国の文化大革命には、毛沢東派と劉少奇派の拮抗とは別に、もう一つの要素がありました。中国は過去二千年ないしは三千年もの間、インテリ官僚階層(マンダリン)に牛耳られてきました。一九四九年の毛沢東の革命もこれを変えるどころか、逆に共産主義者の官僚(レッド・マンダリン)を現出させることになったのです。農村の青年たちはこれに反抗したのであり、結局、一九六六年から六九年にかけて、ただ今あなたが述べられたようなひどい結果を生んでしまったわけです。しかし、官僚や知識階層によって支配されるという問題は依然として残っており、中国はいつの日か、その解決法を見いださなければならないでしょう。
 池田 そうです。そこで、この問題についての有意義な知見の一つとして、ドイツの社会学者E・ハイマンの史観に簡単にふれてみましょう。主著『近代の運命』の中でハイマンは、ヨーロッパ主導型の近代文明社会を、きわめて特異な“経済主義体制”として、それ以前のあるいはその他の社会である“統合社会体制”と区別しています。――「“経済主義体制”を推進する原理は、もっぱら“拡張”を自己目的として追求する“無目的にして盲目的に荒れる力学”である。それは、今日の物質的繁栄をもたらしたかもしれないが、人間生活全体のバランスからみれば、経済面のみが異様に肥大化した、偏頗な社会の在り方であって、早晩、新たな装いのもとでの正常な“統合社会体制”へと移行されるべきである」(野尻武敏・足立正樹共訳、新評論)
 「とはいえ、近代の“経済主義体制”がもたらしたメリットも軽視され、無視されるようなことがあってはならない。その象徴が“飢餓と疾病”からの解放である。ゆえに、来るべき“統合社会体制”への移行は、いたずらに近代に背を向けた反時代的なものであってはならず、“経済主義体制”のメリットを十分に踏まえた、弁証法的な方向でなくてはならない」(要旨)――簡単にいえば、ハイマンは、こう主張しています。私はハイマンの近代評価に若干の甘さも感じますが、二十一世紀を人間性開花の「生命の世紀」と位置づけたいという信念のうえから、彼の主張の方向性には賛同します。
 ガルトゥング 私も賛成ですが、一言だけ付け加えさせていただきたいと思います。西洋文明には拡張主義が深く根ざしています。これは、実際には人類の経済主義の発展の歴史よりも古くから存在しており、たとえば、少なくともあの“伝道の命令”「汝ら往きて、もろもろの国人を弟子となし……」と同じくらい古いものです。こうした拡張主義と、成長
 それ自体のための成長を無分別に受け入れていることに、私は戦慄をおぼえます。さらに「飢餓と疾病からの解放」は、経済主義のおかげではなく、むしろ経済主義にもかかわらず、と言えるのではないでしょうか。物事の否定的な面も肯定的な面も、ともに現実なのです。私たちのなすべきことは、この弁証法を万人のために生命がより高められる方向へと導くことです。

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