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日蓮大聖人・池田大作

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新たな世界的大乗教  

「平和への選択」ヨハン・ガルトゥング(池田大作全集第104巻)

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3  池田 「縁起」「苦楽」「五戒」などの仏教の基礎的な教説を用いて、地球的連帯、開発の条件、環境問題など、現代的な問題群に光を当ててくださいました。
 とくに縁起説が地球的な連帯の基礎になりうるとされている点は、まったく同感であり、私も年来、思索してきた点です。縁起説はこれまで、無常あるいは無我の説との関連で語られてきました。つまり「すべては縁りて起こるのであるから、常住ではなく、また実体ではない」と否定的に理解されてきたのです。しかし、こうした否定的な言い方は、権威化し、形式化したバラモン教のもとで、創造性を失ったインド社会を背景として意味を持ったのではないかと思います。創造性をよみがえらせるためには、形骸化した社会の根にある人間の欲望と迷いの牢固たる連鎖を打ち破らなければなりません。無常、無我という否定的表現をとったのは、そのためではないでしょうか。
 私はここで、ニーチェの「受動的ニヒリズム」と「能動的ニヒリズム」の区別を思い起こします。ご存じのように受動的ニヒリズムとは「精神の権力の衰退と後退としてのニヒリズム」(『ニーチェ全集』11、原佑訳、理想社)、能動的ニヒリズムとは「精神の上昇した権力の徴候としてのニヒリズム」(同前)です。この能動的なニヒリズムは、徹底した否定の先に「新しい価値定立」を志向しているとニーチェは述べています。その新しい価値定立の原理が「力への意志」となるわけです。
 釈尊当時の形骸化したインド社会には、おそらく精神の力の衰退、つまり受動的ニヒリズムが蔓延していたのではないでしょうか。輪廻説は、その一つの現れでしょう。この説は、人々に現世の生を甘受させるイデオロギー的な機能を持っており、当時の身分社会の固定化に役立ったと考えられます。釈尊が無常、無我というような否定的な表現に徹したのは、ニーチェの図式をあてはめれば、能動的ニヒリズムにあたるのではないでしょうか。とすれば、それは当然「新しい価値定立」を志向しているわけです。
 無常や無我は、いわば“悟りへの往路”です。しかも経由すべき一つの里程標にすぎません。大乗仏教では、これを「方便」と呼んでいます。そして、往路の目標である悟りを得た主体は、新しい価値創造、文化創造を担うことになります。この価値創造、文化創造の道が“悟りからの復路”です。つまり悟りは、新しい価値を創造する主体の確立を意味するのです。この復路の次元では、一切の相互連関を説く縁起説は、“あらゆる可能性に開かれた創造的主体”を指し示していると言えます。
 興味深いことに、ニーチェも「力への意志」を論ずるなかで、人間について縁起的な認識を述べています。たとえば「自我は、諸項の連鎖におけるたんなる一単位であるよりも、百倍もそれ以上のものである。それは、徹頭徹尾、その連鎖自身であり、また人類は、これら諸連鎖の多様性とその部分的類似性とからのたんなる抽象にすぎない」(前掲『ニーチェ全集』12)とあります。要するに、人間も人類も連鎖そのものであると言うのです。こうした縁起的な人間認識から見れば、ニーチェが新しい価値定立の原理とした「力への意志」とは、開かれた人間による「可能性への意志」であるとも言えます。ちなみに、ドイツ語の「力(マハト)」は、「可能性(メークリヒカイト)」と語源を同じくする言葉です。
 たしかに、西洋から見れば、無我の説は個人主義の毒に対するある種の解毒作用があり、それなりに新鮮な意味があるでしょう。しかし、仏教思想史的に見れば、先に述べた往路・復路という大きな文脈から外れて、無常や無我の説がそれ自体固定化されると、「我の消滅が悟りである」というような短絡的な理解におちいり、かえって釈尊が克服しようとした受動的ニヒリズムに帰結することが証明されています。それは言うまでもなく二乗の問題です。二乗は、悟りを自己目的化して価値創造の道を忘れるとともに、その悟りについても自我の消滅によって得られるという浅い理解に止まってしまいます。低い悟りに安住するという二乗的傾向は、明らかに精神的な後退現象であり、容易に受動的ニヒリズムにおちいります。
 私は、こうした仏教思想史の教訓から、縁起説が本当に地球的連帯の基礎になりうるためには、縁起を無常や無我と関連づけるこれまでの文脈から離れて、“復路”としての価値創造の道、ニーチェの言葉を使えば「新しい価値定立」の文脈で再解釈することが必要だと考えています。
 そのためにはまず、縁起説を人間主体の在り方として解釈しなければなりません。それは、先にも述べましたように、“あらゆる可能性に開かれた人間”という捉え方であり、すなわち“生成脈動してやまない縁起的世界の力を汲み上げることができる人間”ということになります。この力を私は「内発的な力」と呼んでおります。
 また、認識としての縁起説をエートス化した「共生のエートス」を地球市民が共有していくことが必要だと思っています。この「共生のエートス」について私は、先にもふれたように、中国社会科学院での講演で「対立よりも調和、分裂よりも結合、“われ”よりも“われわれ”を基調に、人間同士が、また人間と自然とが、共に生き、支え合いながら、共々に繁栄していこうという心的傾向」と定義しました。縁起説は、このような「共生のエートス」という形を得て、初めて地球的連帯への具体的な力となっていけるのではないでしょうか。
 この「共生のエートス」は、能動的ニヒリズムとは異なり、調和的、平和的な変革の力になりえます。能動的ニヒリズムは、新しい価値定立への志向を持つとはいえ、その前提としてどうしても破壊がともないます。しかも、それはしばしば暴力的な破壊です。破壊をともなわない価値創造の道は「共生のエートス」なくしてありえないと思います。
 かつて六〇年代後半から七〇年代前半にかけて世界的な規模で起こった学生運動は、近代的な価値を全面的に否定していくもので、ニーチェの言う能動的ニヒリズムが具体的に現れたものと言えます。しかし、それは結局、破壊と分裂に終始するものでした。しかも、ニーチェが「破壊されんがために破壊する」(『ニーチェ全集』11、原佑訳理想社)と能動的ニヒリズムを性格づけているように、自己破壊への衝動が破壊的な行為を生むのです。既存の価値の否定が自己否定に、自己否定が自己破壊にいたるわけです。なぜそうなるかといえば、既存の価値を根底的に批判すれば、それに依存していた自分を否定せざるをえなくなるからです。
 こうした破壊の道を防ぐためには、みずからの内なる価値に目覚めなければなりません。外側の価値に依存するのではなく、内なる価値を拠り所とする――これ以外に平和的な価値創造の道はないと思います。
 その内なる価値とは結局、「生命の尊厳」であると思います。一切の存在が縁起的存在であるならば、一切が自己の内なるものとして捉えられます。その自他の生命が融合する内なる地平において「生命の尊厳」の価値が脈打っているのです。日蓮大聖人は、植物が春に風雨の縁に合って花を咲かせ、秋には月光の縁に合って実を成らせて一切の有情を養っていくのは、仏性の現れだとされています。また、地・水・火・風・空という物質を構成する要素にも、それぞれ他を利益する働きがあると述べられています。つまり日蓮大聖人は、縁起的世界の根底に仏性や慈悲を見られているのです。
 この内的にして普遍的な価値としての「生命の尊厳」を自覚していくことこそ、「共生のエートス」を形成していくための要でしょう。
 ガルトゥング ただ今、挙げられたさまざまな考察が、いずれも普遍性をもっているのは、心強いかぎりです。仏教は、個人の心や「集団的無意識」についてばかりでなく、あらゆる生命について説き明かしている深遠な心理学です。そこでは、どんな「超越者」の意思にも従う必要がありません。こうした「超越者」というものは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の場合に明らかなように、それらを生みだした側の人間の特性をどうしてもおびているものです。
 仏教は、その非暴力への強い主張、自然界を利己的に利用してはならないとする態度、巧妙な詭弁などまったく含まない慈悲の精神など、世界的なエートスを生みだすための豊富な素材を備えており、しかもこれらはすべて、深い混迷にある今日の世界が切実に必要としているものです。

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