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日蓮大聖人・池田大作

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仏教の長所と短所  

「平和への選択」ヨハン・ガルトゥング(池田大作全集第104巻)

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4  池田 苦・集・滅・道の「四諦」を“幸福になるための努力をうながす教え”と積極的なものに位置づけ直されたのは達見だと思います。たしかに釈尊は、苦を克服する道を説いたのであり、苦を甘受せよとしたのではありません。ただ、最初の苦諦では人生は苦であるということを真理としているので、どうしても人生に対する消極的な姿勢を生みがちだったのではないでしょうか。小乗教徒が宿命論に傾斜したのも、そのためだったのかもしれません。
 釈尊が人生は苦であるということを真理(諦)として説いたのは、あるいはインド的な特殊性を踏まえたのかも知れません。ご存じのように、インドには、永劫の輪廻転生を説く輪廻説があり、現在の生を宿命として受けとめ、できれば輪廻を断ち切り、再生したくないという考え方がありました。そのようなインド的な考え方から見てわかりやすいので、苦諦を説いたとも考えられます。
 じつは、仏伝を見ると、釈尊自身も、そのようなインド的な特殊性から脱却しえていないと見られる事実があります。その一つは、成道の後、その悟りを人々に説いていくことをためらったという事実です。みずからが悟った法があまりにも難解なので、説いても理解されないだろうと考え、そのまま涅槃に入ってしまおうとも思ったと伝えられています。結局、梵天勧請によって説法を始めるわけですが、もし悟りに安住し、そのまま涅槃に入ってしまったら、仏陀ではなくて辟支仏(独覚)に終わっていたわけです。この釈尊の逡巡には、再生を嫌うインド的な考え方が反映されています。
 また、晩年に起こった釈迦族滅亡の悲劇のさいに釈尊がとった態度には、宿命論が明確にうかがえます。つまり、釈尊は、コーサラ国王が釈迦族を滅亡させようとしていることを知りながら、釈迦族の前世の業の報いだから滅亡は避けられないとして、何の手も打たなかったと伝えられています。この仏伝は、あるいは小乗教的に潤色されているのかもしれませんが、それを勘案しても釈尊がインド的な宿命論からまったく自由だったとは言いきれないと思います。
 私は「四諦」の深い洞察を否定しているのではありません。ただ、仏教が現代における世界宗教として再活性化するためには、特殊地域的なものを拭いさって、仏教の本質に迫らなければならないと考えているのです。それはインドに限りません。中国的特殊性、日本的特殊性も同じです。
 その意味から「四諦」の説を捉え直せば、むしろ「四諦」に一貫する智慧が本質ではないかと思います。つまり生老病死が苦であると知り、苦の原因が煩悩であることを知り、煩悩を滅すれば苦も滅することを知り、煩悩・苦を滅する道は八正道であることを知る仏の智慧です。
 その智慧の立場を突き詰めていったのが大乗仏教ですが、とくに法華経では、仏の智慧が衆生に内在していることを説きました。この立場から、日蓮大聖人は、衆生の当体において煩悩・業・苦の三道を法身・般若・解脱の三徳へとただちに転換する道を説いたのです。ここには宿命論は、微塵も見られません。
 ガルトゥング 第六の短所である儀式偏重は、もはやどうにも避けようのないもので、ほぼ社会の法則に近いものとなっています。人々は寺院への参詣とかある種のしぐさ(たとえば合掌)といった行為の外形だけを重視しがちであり、その精神的な意義は往々にして忘れがちなものです。ここでもまた私個人のことを話させていただきますが、私はハワイでは時々親友のグレン・ペイジ名誉教授とともに、早朝、韓国系の仏教寺院へまいります。
 この寺院にいると、私はその場の寂静や壮麗なたたずまいに心を奪われてしまい、もっと深い、内面的な考察を忘れてしまうこともあります。しかし、私たちは自己の内面のそうした傾向性と戦う努力をすることができます。私たちは努力をし、他人のせいにするのではなく、自分の中にある仏性を自分で活性化しなければなりません。私たちは決して“降伏”してはならないのです。黙想の一形態としての「内なる対話」は私にとって非常に役立つもので、そこではいつも私はわが心の中に「内なるドラマ」を演出していると言ってもよいでしょう。このドラマのなかで、私は自分のさまざまな性質のどれも抑圧させず、それぞれを競合して演じさせて、それらの言い分に耳をかたむけ、そしてこの対話を仏教の真理へと静かに導くのです。
 池田 儀式偏重への傾斜を阻止するのは内なる戦いであるとのお考えに私も大賛成です。
 かつて私はハーバード大学での講演でもふれたのですが、宗教においては個人的(パーソナル)な面が主で、制度的(インスティチューショナル)な面は従であると位置づけ、制度や儀礼などの外発的な力が、信仰心という内発的な力を抑え込んでしまうという、ほとんどの宗教がおちいってきた落とし穴に言及しました。そして宗教に限らず、制度的なものの支配力が強くなり、内発的な力が弱くなったときにこそ、個人の内なる戦いが重要になるのです。
 飛躍できるのはつねに、制度ではなくて、人間です。トマス・クーンは、科学的な革命が個人による創造的な発見によって担われることを論じました。宗教革命も同じです。硬直化した教会権力を打ち崩したのはルターの信仰心でした。その個人の飛躍、つまり内発的な力の発現を準備するのが内なる戦いであると思います。
 ガルトゥング 「内なる対話」は、賛否両論を心の中で表明することによって、ただ今あなたが話された「内発的な力の発現」を促進します。この理由から、私は今では自分の「内なる言論の自由」が、あの名高い社会的・外面的な「言論の自由」と同じくらい重要だと考えるようになりました。私たちはみずからのつね日ごろの認識、感情、態度等を検討しなければなりませんが、そのためにはそれらの存在を否定するのではなく、その存在を明るみに出し、理解しようと努めなければなりません。対話をする時、多くの人々は「内なる独裁者」に言論統制を行わせます。しかし、そのようなことはやめにして、むしろ自分たちの内面の駆け引きを再吟味し、「内なる反対意見」を恐れないようになるべきでしょう。

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