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日蓮大聖人・池田大作

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「寛容」について  

「平和への選択」ヨハン・ガルトゥング(池田大作全集第104巻)

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1  池田 キリスト教では、今世紀に入ってからエキュメニズム(世界教会運動)という統一への試みがさかんになりました。もっともキリスト教ほど、正統と異端との血で血を洗う抗争が激しかった宗教もありません。運動の背後に、そうした歴史に対する痛切な反省があったことは申すまでもないでしょう。
 キリスト教に限らず、宗教的対立が流血の因となった事例は、限りなくあります。そうした悲惨を見るにつけ、良心的な人々の胸に浮かんだのが「寛容」の問題でした。とくに宗教改革以後は、これが大きな社会問題になりました。
 今日の世界において、この宗教的寛容はますます重要性をおびた課題になっています。宗教が抗争の火種になっている例が、現代においても多く目につくからです。また、元来、寛容を誇るはずであったヒンドゥー教のインド、非暴力主義のガンジーを生みだしたインドでさえ、現実の社会ではしばしばテロの勃発がありました。
 そこで、宗教的寛容を求めていくのは当然のことながら、博士にお聞きしたいのは、その寛容の“あり方”です。寛容という名の旗のもとに、教団同士が連合し、協定を結びあう。しかしそこには、無原則・無定見な“野合”といったケースも少なくありません。日本語に「同床異夢」(同じことを為しながら異なる意見をもつこと)ということわざがありますが、そうした状態で、それぞれの思惑のもとで平和運動が行われたとしても、それはしばしばイメージ・アップのためであったり、自分たちの利害が先行したりしてしまいます。
 欧米におけるエキュメニカルな動きは、過去への反省もあって、それなりに厳しい相互批判を経つつ進められているようですが、日本の場合は独特のシンクレティズム(諸教混交主義)の風土的影響もあってか、たんなる馴れあいにすぎないようにも思われます。それはいってみれば、第二次世界大戦中の諸宗合同というもたれかかりの構造の延長線上にほかなりません。当時、戦争を遂行しようとする国家に果敢な抵抗をすることができなかった理由も、ここにあると思います。
 私は、一九九二年の「SGIの日・記念提言」で、宗教的正義を含めて、すべからく正義を主張するものは「正義のための戦争」ではなく「正義に適った平和」をこそ志向すべきだと訴えました。正義に生きようとする人間の欲求は、本然的なものだと思います。であるならば「正義に適った平和」こそ、人間であることの第一義的なメルクマール(指標)だと思うのです。
 ガルトゥング 本来、宗教上の対話は、異なる二宗教間、多宗教間の対話とともに、むしろそれぞれの宗教内、宗派内での対話をより必要としています。ここでもまた、「内なる対話」がその前提条件となります。どの宗教も内部で論議すべき諸問題をかかえており、たとえば、カトリック教会内では「正義のための戦争」を肯定する教義に挑戦してみてはいかがでしょうか。また、いかなる戦争であろうと、またいかに「正義のため」であろうと、はたしてそのために核兵器を使用することは許されるのか、という論議もできるでしょう。彼らは、まずこうした論考の皮切りとして、「正義のための奴隷制度」「正義のための植民地主義」「正義のための家父長制」といったものがはたして意味をなすものかどうか、論じ合ってみるとよいのです。
 こうした論争はすべて、基本的には、私たちがすでに先にも話し合った、ハードな宗教とソフトな宗教の差異というところに帰着します。ハードな宗教では、国家は、復讐心と嫉妬心がきわめて強い神の後継者として、その神の持つすべての権利を享有している、と主張します。ソフトな宗教では一貫して、生命は悪人のそれも含めてすべて尊厳である、という立場をとります。このため核兵器使用擁護論者は、同時に死刑賛成論者でもあるのが普通なのです。ソフトな宗教の信者は、この二つの殺人手段を同等のものとみなします。
 人工妊娠中絶もまた、疑いもなく殺人の一手段です。「プロライフ・グループ」(中絶を非とする生命擁護派)でありながら核兵器使用や死刑の擁護論者でもあるような人たちの本心は、たぶん(胎児の生命に対する)制度的暴力の独占権を国家に保持させておきたいというところにあるのであり、そのため、女性が――あるいはだれであれ国家権力の側にいない者が――その独占権に挑むのを妨げようとしているのかもしれません。同様に、「プロチョイス・グループ」(産む産まないの選択権は女性にあると主張する選択擁護派)の人たちのほうも、必ずしも胎児の生命を断つことを望んでいるわけではなく、ただそうした国家の独占権を打破しようとしているだけなのかもしれません。いずれにせよ、中絶は、暴力的な防衛や暴力革命と同様に、たとえそれが最後の手段であったとしても決して正当化してはならない、人間としての「降服」です。それはいつの時代にあっても嘆きのタネとなることです。
 さて本題の「宗教的寛容」に戻りますが、私はまずあらゆるソフトなタイプの宗教人が一堂に会すべきだと思います。このタイプの宗教は、その数も多いのですが、いずれも聖なるものの内在性を信じているため、互いに鋭く相違・対立するということがありません。こうして彼らが本来的な意味での宗教間の対話を行ったうえで、ハードなタイプの宗教人たちに、この「内なる対話」に加わるよう呼びかけるのです。今や世界がますます狭くなっているため、このプロセスが成功することは十分に期待してよいでしょう。

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