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日蓮大聖人・池田大作

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聖なるものの本質  

「平和への選択」ヨハン・ガルトゥング(池田大作全集第104巻)

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1  池田 仏教とキリスト教・イスラム教との対比において、聖なるもの(仏・神)のありかたも際立った違いをみせています。仏教は、万人のうちに仏性(仏の生命)を見いだします。キリスト教やイスラム教では、神はつねに人間のはるか高みに君臨する超越的な存在です。もちろん「神」概念は、神学の歴史のなかで多様なバリエーションをみせてきましたが、たとえばトルストイのように“内なる神”を標榜すれば、必ず異端派として退けられてきました。
 他方、大乗仏典の精髄である法華経には、「地涌の菩薩」が説かれます。大地から涌き出る菩薩のことですが、これは内なる生命が雄々しく出現してくることの象徴です。
 聖なるものを、万物を超越した外部にあると捉えるか、万物の内部に脈動していると捉えるか。この違いも、今日の山積する課題の解決に大きく影響するのではないかと思います。
 ガルトゥング ただ今のご意見にまったく同感です。私は、今あなたがおっしゃった「超越的」か「内在的」かの違いこそ、まぎれもなく本質的な違いであると思います。おっしゃるように、仏性(仏の生命)はあらゆる有情に本来備わっている、というのが内在性を説く仏教の法理であり、「天にまします主」というのが、父なる神と昇天したキリストの超越性を主張するキリスト教の法理です。
 この二つの考え方の違いが多くの派生的な結果を生んでいるわけですが、ここではその一例だけを挙げてみましょう。イエスはいくどかの機会に“私の兄弟の一人に対してしたことはすべて、私に対してしたことなのである”と述べています。(「マタイによる福音書」第25章40には「……したのは……したのである」と肯定形で、同章四五には「……しなかったのは……しなかったのである」と否定形で出ています)。このため、その“したこと”が悪事であれば、その悪事は直接の被害者に対して犯されたのみならず、「天にまします」支配者に対しても犯されたものと見なされます。今日、西洋世界では、政体としての国家が、神の超越的な権威の世俗的な後継者となっています。このため、たとえば犯罪は、しばしば国家または国民に対する犯罪と呼ばれます(ある時代には、国王に対する犯罪と呼ばれました)。その結果、犯罪者対被害者の関係は、犯罪者対国家の関係に置き換えられました。国家が裁判を行い、判決を下し、刑を執行するわけです。これはつまり、被害者も慈悲も姿を消し、犯罪者へのこだわりと裁判の経過だけが後に残るということです。
 これとは対照的に、仏教による解釈とは“犯罪者と被害者は一つの悪い業(カルマ)を共有しており、両者はともにその悪業を転じなければならない。そして、それは事件について内省する「内なる対話」、犯罪者と被害者の間の「外なる対話」、そして道理にかなった勤勉な努力によって達成される”というものです。こうした仏教的なアプローチは犯罪者と被害者を互いに結びつけるものであり、それは今日私たちが知っているものよりも垂直的でない(犯罪者と被害者をさほど差別しない)社会秩序の発展をもたらすことでしょう。ただし、罪の責任を百パーセント犯罪者側にのみありとする西洋的アプローチが、もしあまりにも一方に偏した考え方だと非難されるのであれば、仏教の考え方は、逆にあまりに釣り合いのとれた考え方だと責められることになるかもしれません。しかし、この二つの考え方は、やがては相まって用いられる余地があるといえましょう。

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