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日蓮大聖人・池田大作

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万物の連関  

「平和への選択」ヨハン・ガルトゥング(池田大作全集第104巻)

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1  池田 宗教(religion)という言葉の意味は「しっかり結ぶこと」であり、その点、仏教は宗教という語の本来の意味に最も忠実な宗教である、と博士はおっしゃっています。
 たしかに、仏教の中軸となる考え方の一つに「縁」という概念があります。人間も、また自然の個々の事物も、ただそれだけで存在するものではなく、すべては密接なつながりのうちにある、という概念です。さらに「縁起」という言葉がありますが、博士もよくご承知のように、社会現象であれ自然現象であれ、あらゆる物事はなんらかの縁によって起こる、というものです。人間も自然も出来事も、壮大な“連関の宇宙”のなかにある、と説くのが仏教の特徴です。
 博士は、仏教のこうした考え方を、世界平和や環境保護を推進する力になるものとして高く評価しておられますが、キリスト教やイスラム教との比較のなかで、この点をさらに論じてくださればと思います。
 ガルトゥング 私の経験からいえば、宗教にもハードなタイプとソフトなタイプがあります。これがとくにあてはまるのが、アブラハムを始祖とするセム系の三宗教、つまりユダヤ教、キリスト教、イスラム教です。
 これらハードなタイプの宗教はたいてい超越的な神という概念が中心になっており、またこうした宗教の神は、ときとして地球以外の世界を住処とする男性神です。これに対してソフトなタイプの宗教は、聖なるものが私たち人間のなかに――仏教徒によればあらゆる生き物のなかに――内在するという概念が中心になっています。したがって、このような宗教的な脈絡におけるラテン語の動詞religa´re(「強く結びつける」)は、まったく異なる二つの意味を言外に含んでいます。つまり、一面では(ハードな宗教では)、「上なる」超越的な神に対して、垂直的な(上下の)関係のなかでみずからを結合させようとします。これは程度の差こそあれ、つねにその神に服従することを意味します。これに対してソフトな宗教では、他者と、そして究極的にはあらゆる生命体と、しかも過去や未来の生命体とすらも、水平的な(対等の)関係に立つことを奨励します。
 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、いずれも超越的な神への偏重が強いため、服従とか権威主義的な様式とかが、当然のことと受けとめられるようになります。ただし、ここで申し遅れないうちに付言しておかなければならないのは、ハードなタイプにもソフトの側面があり、ソフトなタイプにもハードの側面があるということです。たとえばハードなタイプでも、ユダヤ教のバルッフ・スピノザであるとか、キリスト教のアッシジの聖フランチェスコであるとか、あるいはイスラム教のなかでもスーフィ教の卓越した神秘的伝統等々にはあてはまらないということです。
 さてイスラム教の「五柱」の場合にはさほど問題にならないのですが、キリスト教の「十戒」の場合には問題となることが一つあります。「十戒」のうち、とくに「殺人」「偽証」「盗み」を禁じたものについては、問題はありません。しかし、私が抵抗をおぼえるのは、「父母と神の権威」についての戒め、「私有財産」についての戒め、それを「貪欲に求める」ことについての戒めを強調していることです。もちろん、「貪欲に求める」のはよくないことです。しかし、「十戒」では戒めていないことですが、「惜しげなく与えられたのではないあるものを取る」こと――これは仏教では禁じられています――は、もっと悪いことではないでしょうか。その一例が「搾取」です。これは、惜しげなく与えられるのではないものを、盗むのではなく、「取る」ことです。地主たちは、伝統によって、あるいは法にすらよって、たとえば一九八〇年代のフィリピンでは小作農が生産する収穫の約七〇パーセントを取っています。
 この点、イスラム教では少なくとも「五柱」の第三、「ザカート」(喜捨)によって事態を緩和しようとしています。「ザカート」とは、本来は租税のことでしたが、現在ではイスラム教徒が国や共同体に自発的に行う慈善的な寄付のことを言います。「十戒」は、この種の行為をまったく考慮に入れていないのです。
 池田 重要なご指摘です。戒についてさらに申し上げるならば、仏教では、不殺生戒が、種々の戒律のなかでも一番先にくるものであり、最も重んぜられます。それは、仏教が、あらゆる生命をいつくしむ慈悲を根本としているからです。これに対して、キリスト教の十戒では、五番目までが、神への服従を説くものであり、「殺してはならない」は、六番目に位置するにすぎません。
 仏教では、人間と他の生物の生命の連関を尊ぶという思想が強く作用しております。キリスト教では、両者の間に区別を設けております。また、ヤハウェの神は、自分の意思に従わない者には死をもってさえ罰するという、厳しい神でもあります。哲学者の梅原猛氏は、以上の点を指摘し、キリスト教には人間を殺すことを肯定する思想があるとして、「殺人を肯定する思想と、それを否定する思想と、どちらが理性的なのでしょうか」と問いかけております。もちろん、アッシジのフランチェスコのような例外はありますが、私は、梅原説は、説得的だと思います。
 十戒は、西欧社会の倫理の底流をなすものです。生命尊厳の潮流を未来に向かって確かなものとするためには、本当の意味での慈悲を根幹とする仏教の生命観がますます大切であろうと考えます。

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