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日蓮大聖人・池田大作

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平和のための教育  

「平和への選択」ヨハン・ガルトゥング(池田大作全集第104巻)

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1  池田 次に、恒久平和を樹立していくために、国際世論の重要性はいうまでもありません。とくに、民衆レベルでのその意義は大きく、私は、そのための教育が重要であると考えております。たとえば人権に関しては、ヴォルテールが『カラス事件』の中で述べている「自分にしてほしくないことは自分もしてはならない」という考え――周知のように、これと瓜二つの言葉が『論語』に「汝の欲せざることを人にほどこすなかれ」とあります――が、普遍的な原理として人々の間に確立されなければならないでしょう。
 それには、たんに平和の尊さを口で説くだけでなく、あらゆる教育的機会が動員される必要があります。それは、文学作品であったり、絵画や音楽であったりする場合もあります。たとえば、広島の原爆資料館にある被災の惨状を描いた絵は、訪れた人に強烈な印象を与えます。また、沖縄創価学会が行ったユニークな試みである「沖縄戦の絵」展――“鉄の暴風”といわれた沖縄戦の生き証人に、記憶をたどって悲惨な思い出を絵に描いてもらい、多数の証言ならぬ“証絵”を展示したもの――は、たいへんな反響を呼びました。
 また、かつてウィリアム・ジェイムズが、戦争をもたらす人間の支配本能や闘争本能をなくすのではなく、より高い次元へ昇華させていくために、戦争に代わるべき「道徳的等価物」が必要であると述べたように、若いころから、啓発的訓練、労苦を経ることによって、荒々しい本能を、教養あるものへと醇化させることも、広い意味の教育です。
 それらを総動員して、平和の価値、尊さというものを教育していかなければ、いつまでたっても、平和とは戦争と戦争との幕間劇であるという考え方から抜け出せないと思うのです。
 ガルトゥング 私は残念ながら、ウィリアム・ジェイムズの説に全面的には賛成できません。興味深いことに、非常に好戦的な文化を母体とする思想家たちが、人間の支配本能や闘争本能を基準に物事を考える傾向をもっているのです。オーストリアの動物学者コンラート・ローレンツのその空間と攻撃本能説は、まさにその好例です。これらの理論家のほとんどは男性ですが、彼らが研究を始めるにあたっては、直接的暴力の少なくとも九五から九八パーセントは男性が引き起こしているという事実認識からまず始めてもらいたいものです。つまり、度しがたいものはたぶん人間のもつ性向ではなく、男性のそれなのです。
 ある国民やある時代が、他と比較してはるかに好戦的であったり横暴であったりすることがよくあります。もし好戦性というものが、食物や性への欲求と同じく本能的なものであるならば、その現れ方は時間的にも空間的にもそこかしこに遍在しているはずです。たとえば多少の小さな変化はあるにせよ、人間はいつの時代、どこの国でも同じように飲食をし、性の営みをしてきました。ところが、戦争や暴力には、そうした普遍性はあてはまりません。
 暴力という現象は、文化や構造との関連で考えた方が、ずっとわかりやすいでしょう。さまざまな文化のなかには、みずからを他のすべてに勝る“選ばれた”文化と見なしているために、きわめて危険なものがいくつかあります。また、そのような文化は、かつてみずからが深い痛手を負わせられたことがあるため、自分たちには復讐する権利があると信じていることがあります。あるいは彼らが、過去の神話や栄光をもう一度よみがえらせたいと願っている場合もあります。また、さまざまな構造のなかには、きわめて抑圧的なもの、きわめて搾取的なもの、あるいはその両面をあわせもったものが、いくつかあります。この種の構造においては、下部からの革命的な暴力や、上部からの反革命的な暴力が起こりやすいのです。いわゆる“選ばれた”文化と抑圧的な社会構造の二つが組み合わさった場合、そこではほとんど間違いなく、しかもかなり迅速に直接的暴力が生じますが、これは、下部からは解放を求めて、そして上部からはその解放を阻止しようとして生じるものです。
 “選ばれた”文化や抑圧的・搾取的な構造の信奉者たちの常套手段は、暴力の生じる理由は他にあるとして、たとえば本能説、性悪説、原罪説などを持ち出すことです。このため、平和教育は二つの主要な側面をもつことになります。その一つは、暴力の根本的原因を見いだしうるかぎり、それが何であるのかを洞察する力を育むことです。しかし、平和教育のより重要な側面は、直接的暴力を克服し、減少し、防止する方策を講じることにあります。これこそがまさに平和学のめざすものなのです。
 平和教育の二つの側面は、いずれも必要不可欠のものです。もし暴力だけを研究していると、非常に現実主義的ではありえても、同時にかなり冷笑的(シニカル)な見方におちいりかねません。また平和ばかりを研究していると、理想主義的ではありえても、あまりに世間知らずであるためにまったく無力であるということになりかねません。したがって、私はウイリアム・ジェイムズやフロイトの醇化の理論を支持するよりはむしろ、文化や構造を変革するという困難な仕事のほうを重視しています。
 いうまでもなく、平和教育に関しては無数の具体的な方策を取ることができます。しかし、そうした方策の根底には、必ずあなたの言われるような問題があります。つまり「平和の価値、尊さをいかにして教育していくか」という問題です。ウイリアム・ジェイムズは、その著『戦争の道徳的等価物』(The Moral Equivalent of War)の中で、一つの建設的な示唆を与えています。それは、“暴力を用いずに英雄になる方法を見いだすことによって”それを教育するということです。ジェイムズには知る由もなかったわけですが、(後代の)ガンジーのサッティヤグラハ(非暴力・不服従運動)は、もう一つの建設的な示唆であり、これこそはまさに“戦争に代わるべき道徳的等価物”です。
 私は、飢えた市民たちに食物を運ぼうとして狙撃兵の銃火に身をさらす国連平和維持軍の隊員たちの活動に、まぎれもない英雄的行為を見いだします。真の英雄的行為とは、殺すことではありません。それは殺戮を防ぐために、そして“生命”そのものを救い、高めるために、自己の生命を危険にさらすことです。教育は、武勇よりも、このような行為の尊さを教えることに力を注ぐべきです。
 平和教育のもう一つの重要な領域は、あらゆる宗教の好ましい側面をできるだけ広く知らせていくことです。この点においても、ガンジーはその模範となります。芸術や文学、科学が、(プロパガンダのためではなく)平和のために公然と、そして深いレベルにわたって結集されるべきです。なすべきことはたくさんあります。また、多くのことが達成可能です。私たちがまずなすべきは、その仕事に着手することです。
 池田 そうです。まさにその責任は私たちにあります。そのため、私ども創価学会インタナショナル(SGI)は、こうした教育的な任務へのアプローチをまさに根源的な、生命の変革というレベルにおいて進めているのです。
 ところで、仏法では人間生命を分析して、十界というものを説いています。苦悩の世界である「地獄界」。欲望が満たされぬ「餓鬼界」。理性を失った「畜生界」。闘争をこととし他に勝とうとする「修羅界」。平静な「人界」。欲求が満たされた喜びの「天界」。学びと向上心の「声聞界」。発見の感動や自己の世界に充足する「縁覚界」。利他の「菩薩界」。宇宙と生命の根源を覚知した「仏界」。これら十種の生命はすべての人に等しく備わっており、瞬間瞬間、縁にふれて十種のいずれかが発現すると説かれています。
 最初の三つを三悪道といい、それに「修羅界」を加えて四悪趣と呼んでいます。人間が備えている暴力への衝動、攻撃本能は、この四悪趣の生命と深くかかわっており、それをいかに自己コントロールし、正しく方向づけていくかが肝要です。
 もちろん、四悪趣の生命の発現は、社会総体として見た場合、その文化の質によってかなり影響されます。端的にいって、男性は積極的で、力強くあるように期待され、またそのように教育されますので、「修羅界」の生命が、あらわな形で発現しやすいといえましょう。
 極端な話、戦争状態は「修羅界」の生命をあえて呼び起こそうと、その方向に向けて、国家が文化や情報を支配します。それによって、国民は国家目的という美名のもとに、暴力的であることを賛美し、むしろ「修羅界」の生命を抑制することはめめしいことであると考えるようになります。
 十界は生命にもともと備わったものであり、四悪趣の生命をなくそうとしてもできるものではありません。問題は、四悪趣の生命を盲目的に野放しにするのではなく、いかに「法」のもとに従属させていくかです。たとえばスポーツは闘争心をルールのもとに従属させ、そこにカタルシスを生みだします。スポーツでいうところのルールにあたるものを、社会の中で、あるいは個人の心の中で、どうつくっていくかなのです。
 ガンジーは「非暴力は剣士以上の勇気を必要とする」と言いましたが、不正や邪悪に対して発現された彼の「怒り」の生命は、内面の規律によって、無抵抗・不服従という独自の表現を与えられました。彼はその内面の規律を「真理」という名で呼んでいますが、それはまさに宗教によって形成されたものでした。彼は現実にはヒンドゥー教徒ではありましたが、彼が実践したのは、釈尊が説いた仏教の精神でした。
 SGIが世界に繰り広げている人間革命を基調とした文化・教育の活動は、仏法による自己の生命変革と、文化・教育による人間性の陶冶をめざしています。十界論でいえば、「菩薩界」「仏界」を生命の基盤に据え、その他の生命をそのもとに従属させていくということです。それは社会的にいえば「文化」重視ということになります。
 ガンジー主義の今日的展開ともいうべき、この民衆レベルにおける平和運動は、一言でいえば「心の中に平和の砦を築く」ということであり、その積み重ねのうえに、暴力を否定し、平和を愛する文化土壌を創造していくことをめざしているのです。その現実的な在り方として、私は少なくとも「他人の不幸のうえにみずからの幸福を築かない」ということを、自分の生き方の根底に据えるべきことを、訴えています。

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