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日蓮大聖人・池田大作

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ガンジー④広い宗教観  

「平和への選択」ヨハン・ガルトゥング(池田大作全集第104巻)

前後
2  池田 ご指摘の三つの方向性を勘案していくと、仏教、ヒンドゥー教などの宗派性を離れて、ガンジーのたぐいまれな現実感覚というか、秩序感覚が感じられてなりません。とくに第二点、第三点などは、人間社会がどのようにして成り立ち、営まれていくのか、どのような状態に置かれた時、人間は充足感と輝きを示していくのかということを、彼は知悉していたように思います。
 たしかに、カースト制度に付随するヴァルナ(天職)の世襲に賛成している点など、欧米流の自由・平等観からみると、不徹底で物足りなく感じられるかもしれません。しかし、欧米といわず、インド・日本といわず、なべて人間の社会というものは、過度に流動化が強まると、必ず混乱を生じてしまうものです。すべてに“自由・平等なる個”という物差しを当てがって裁断し、人々を過去の桎梏から解き放ってしまうならば、よいようでいて、未来はきわめて不透明なものになってしまいます。自由・平等という言葉のみが独り歩きし、現実との違いから必然的に人々の心には不安と不満が生じてくるでしょう。
 ヨーロッパの歴史において、産業革命による都市化、流民化がもたらした事態が、まさにそれでした。動きのない社会というのも、停滞し活気が失われてしまいますが、逆に変化が激しすぎると、それについていけない人心は動揺し、社会の混乱は増大し、世代間の断絶や犯罪の多発化といった事態に繋がっていきます。このような、いわゆる都市化の病理を鋭く見破っていたであろうガンジーが、小規模な共同体に共感を寄せたのも、当然のことといえましょう。
 「善いことというものは、カタツムリの速度で動くものである」とは、あまりにも有名なガンジーの言葉ですが、彼のいう変革とは、明らかに社会の急進的革命ではなく、漸進的変化を志向していました。
 私は、ガンジーのそうした現実感覚、秩序感覚は、仏法の「中道」思想と共鳴し合う点が多いと思います。「有」と「無」の間の中道、「苦」と「楽」との間の中道、「断見」(生命は死をもって終わるとする考え)と「常見」(自我が同じ状態で三世にわたりつづくとする考え)との間の中道――それらは、曇りなき眼で如実に現実を直視しようとする仏法の知見ですが、ガンジー主義とも深く根を通じていると思います。
 ガルトゥング ガンジーが仏法の「中道」思想を知っていたのかどうか、私にははっきりとは断言できません。大都市も大規模産業も英国帝国主義の手段でしたから、ガンジーがそれらを否定的に見ていたのは理解できることです。しかし、都市や産業を人間的なものにするのは、可能なことではないでしょうか。都市は、かなり自治的な隣人同士の連合体にすることができるでしょうし、産業もまた、同様のやり方で改善できるでしょう。ユーザーとしての人間を堕落させたり、自然環境を破壊することのないテクノロジーを開発することもできるはずです。大きな工場やオフィス・ビルで働くよりも、自宅で仕事をする人たちのほうが多くなるということもありうるでしょう。
 ガンジーが非暴力を唱えたのは、暴力か降伏かという二者択一に代わる、別な選択肢としてでした。今、私が提案している都市や産業の改造も、これと同じように、都市か農村かという選択、大規模産業か家内工業ないし農業かという選択に代わる、別な選択肢となるでしょう。
 ガンジーが「中道」をどのように認識していたかという点で、今、申し上げたような領域では、この概念を展開することはなかったと思われます。あるとすれば、それは彼の言葉や行動のなかによりも、むしろ彼の精神のなかにうかがうことができましょう。彼の感化を受けた幾百万という人々は、それぞれ己の「中道」を実践するよう努力しなければなりません。その目標へ向けての行動が今、世界中でとられつつあり、とりわけそれに活力を吹き込んでいるのが緑の運動の諸活動です。

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