Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

ガンジー②非暴力と構造的暴力  

「平和への選択」ヨハン・ガルトゥング(池田大作全集第104巻)

前後
2  池田 この対談のやりとりを通して、西欧近代がもたらしたものに対する、博士の厳しい見方を、あらためて確認しました。しかし、私は、まぎれもない西欧近代の所産である、「自由」「民主」「人権」などの諸価値については、若干、博士と意見、評価を異にしています。
 もとより、それらの価値が、あの忌まわしい植民地支配、収奪と並行して確立されてきたという事実を無視することは、とうていできません。一九九二年、コロンブスによるアメリカ“発見”五百年を祝うにさいし、先住民族から激しい反発がまき起こったのは記憶に新しいところです。高邁なる理念と現実との間の落差がいかに大きかったかは、たとえば、キリスト教的ヒューマニストとして知られるフランスの哲学者エルネスト・ルナンにして、あたかもナチスの人種理論を思わせるような差別的言辞を残していることに、象徴されています。“密林の聖者”シュヴァイツァーにしても“五十歩百歩”です。
 そのような事情を十分に踏まえたうえで、私は「民主」や「自由」や「人権」の理念に、ある種の普遍的価値を認めたいと思います。博士のおっしゃるように、そうした抽象的な理念や観念は“諸刃の剣”であって、使いようによっては「自由」「民主」「人権」の名のもとに、“構造的暴力”を加速化させてしまいかねない――ということを承知のうえで、そう認めたいと思います。理念の内実化には、慎重のうえにも慎重を期さねばならず、画一主義的なやり方は禁物ですが、やがては人類が手にしなければならない共有財産であることは間違いないからです。
 アメリカでアーサー・シュレージンガーの『アメリカの分裂』がベストセラーになっていますが、その中にこんな一節があります。「西欧の伝統とその他地域の伝統とのあいだには決定的な相違がある。西欧の罪過は、それ自体の矯正手段を作り出したのだ。すなわち、奴隷制に終止符を打ち、女性の地位を高め、拷問を廃止し、人種差別とたたかい、研究と表現の自由を擁護し、個人の自由と人権を拡充する大々的な運動を惹起させたのである」(部留重人監訳、岩波書店)と。いうところの「矯正手段」がどの程度有効に作用しているかは、ロス暴動などを見ても議論の分かれるところでしょう。しかし、少なくとも私は、シュレージンガーのような人物も、博士の言われる「彼ら(欧米人)のなかの最上の人々」の一人に加えたいのです。ガンジー主義の有効性をいやまして高めていくためにも――。
 ガルトゥング ただ今のあなたのご評価には、私も賛成です。ヨーロッパという呼称は、古代アッシリア語で“暗さ”を意味するエルプ(erp)に由来します。ヨーロッパとアメリカ――つまり西洋――は、二つの顔と二つの声をもつ古代ローマの神ヤヌスに似て、二つの異なる側面をもっています。一方はソフトで情け深い側面であり、これは私も十分に高く評価していますが、もう一方にはハードで暴力的な側面があるのです。この暗いほうの側面からヨーロッパがみずからを解き放つのをどのように手助けすればよいか、それが問題です。私は、このソフトな側面が、“暗い”側面の口実となることを危惧しています。
 池田 古代ペルシャのゾロアスター教の分派であるマニ教は、周知のように、現象世界を明と暗とにたて分ける、極端なまでに簡明な善悪二元論によって、人心を捉えました。たしかに、マニ教に限らずそうした二元論は、善と悪、明と暗、敵と味方、愛と憎等をたて分ける明快さゆえに、ある種の人々の心にとり入り、呪縛してしまう力をもっておりました。ある種の人々とは、物事の真実を見極めるために、(ソクラテス的意味での)対話と思索を深めていく精神作業に耐えきれず、安易に解答を求めようとする人々のことですが、これはまた人間の傾向性一般でもあります。こうした傾向性は、古今東西を問わず、人間性の弱点として存在しており、古来、デマゴーグたちの人心収攬術の格好の餌食となってきました。
 私は、この傾向性がより顕著に見られるのは、多神教の世界よりも、唯一神に依る一神教の世界であると思います。もとより、マニ教的発想とローマ・カトリックを同列に論ずることはできず、両者の対立、相違の歴史は私も承知しております。しかし、その対立・相違は、キリスト教内部の旧教と新教がそうであったように、近しいがゆえに激しく憎み合う近親憎悪のきらいが濃厚であり、一神教的な伝統という点では、根を通じているのではないでしょうか。博士が、ヨーロッパの「ハードで暴力的な側面」とおっしゃるのは、敵と味方、善と悪とを安易に区別し差別してしまう、その伝統的な思考方法のもたらすところが大きいのではないでしょうか。
 こうした暗い伝統が、今もって断ち切れていないことは、旧ユーゴスラビアの内戦を通じて、民族浄化などといった差別思想が横行したり、ドイツやフランス、イタリアなどで、歴史の歯車を何十年も逆転させたかのような右翼・人種主義の台頭が見られることからも明らかです。
 ヨーロッパに限らず、現代人がこうした呪縛から解放されるためには、一にも二にも、悪というものを人間の内面に求めなければなりません。悪とは、第一義的に人間の内面にあるのであって、外なる悪というものは、第二義的なものにすぎないということを、徹底して自覚していかなければならないと思います。二十世紀の最大の教訓は、ファシズムのように民族・人種的なものであれ、コミュニズムのように階級的なものであれ、善悪の対立を第一義的に外部に求めてしまうと、途方もない悲劇と大量殺戮を招いてしまうということでした。ゆえに、二十一世紀へ向けて、私たちに課せられた焦眉の急務は、課題はまず内部にある、私たちの内面世界で内なる悪を超越することこそ、あらゆる改革のなかでも第一義的な重要事であるということです。私どもSGIでは、それを人間革命運動と呼んでおります。

1
2