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太平洋文明の時代  

「平和への選択」ヨハン・ガルトゥング(池田大作全集第104巻)

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1  池田 近年、アジア・太平洋時代という言葉がしきりに取りざたされております。そこにはアジア・太平洋地域のもつ潜在的なパワーへの大きな期待がこめられています。
 この地域が注目されてきたのは、主として経済的側面からですが、私はかねてよりアジア・太平洋時代の文明史的意義というものに強い関心をいだいてまいりました。
 というのも、今から二十年前、現在のEU(欧州連合)の母体であるEC(欧州共同体)の生みの親といわれる故クーデンホーフ・カレルギー博士と長時間、対談したさい、博士は「現代は、ヨーロッパ、アメリカの大西洋文明から、次第に新しい太平洋文明へ移行していく過渡期」と意義づけ「日本は、来たるべき太平洋文明の主体者となるべきです」(『文明・西と東』サンケイ新聞社)と力説されたからです。
 また私が親しく対話を重ねた歴史家の故アーノルド・トインビー博士も、独自の歴史観に立って、太平洋文明の時代の到来を予見しておられました。
 問題は、二十一世紀へ向けて、今なお混沌としているアジア・太平洋地域に潜在する可能性、エネルギーを人類のためにどう生かしていくかです。太平洋文明に新しい時代を画する、平和で、開かれた文明の方向性を模索しなければなりません。その場合、私は政治的、軍事的、経済的側面に偏ることなく、東洋的英知ともいうべき精神世界をも視野におさめたアプローチが必要であると考えております。この地域の研究プロジェクトを進めておられる博士の着眼点は、たいへんにすばらしいものであると思います。
 ガルトゥング ささやかながら、私はハワイ大学の「太平洋半球プロジェクト」(PHP)を主宰しており、毎年、春の学期をそこで過ごします。しかし、私が考えているのは、均一の太平洋文化という観点からではなく、ちょうどハワイ州の文化自体が多様な民族文化の要素を包含しているように、多くの文化を開放的に、そして寛大に包含する太平洋文明としての観点からなのです。
 ハワイでは一般市民が、多くは宗教上の立場から、さまざまな文化をもつ人々がともに楽しみ、心を豊かにすることを促進するような、数多くの行事を催しています。ハワイという楽園にいる唯一の蛇(破壊者)は、ある特定の文化の卓越性を主張し、それを理由にして優先的、優越的な最高の地位を要求する人たちです。
 日本人は、その軍国主義の時代に(おおむね一九三一年から一九四五年まで)、多くの他民族に自国の言語や文化を押しつけようとして失敗しました。アメリカ合衆国も、それよりはいくぶん巧妙なやり方ではありますが、これと同じことを長い間試みています。アメリカ人は他民族に、彼らの母国語を捨てて英語を使うよう強制するようなことはせず、いわゆる「良きアメリカ人」となった人たちを報奨するのです。しかし、アメリカもまた失敗する運命にあります。ハワイ先住民、オーストラリア原住民、それにアイヌ民族が時としてそうであるように、たとえ虐げられているように見えても、すべての文化は強靭で、弾力性をもっています。ユダヤ主義は、ヒトラー(による大虐殺)すらも超えて生き延びました。
 太平洋地域には、他の諸国をいじめようとするどんな特定の国家や国家群にも支配されずに、協同で運営される機構が必要です。望むらくはこうした機構の構成員には、次のような代表が含まれるべきでしょう。すなわち、太平洋の東縁からは北米、中米、南米、西縁からはロシア、日本、統一された朝鮮、統一された中国、旧インドシナ、ASEAN(東南アジア諸国連合)の諸国、中央部からは太平洋諸島、オーストラリア、ニュージーランド、それに北極地方と南極地方、さらに、これらの全地域にわたるすべての先住民です。これは、限りなき文化的豊饒さを意味するものです。軍国主義的な体制に代わって、一種の連合体として組織される汎太平洋共同体は、現在この半球を悩ませている多くの悪弊を矯正することでしょうし、それはまた第二の悲劇、すなわち第二の太平洋戦争を防ぐ最上の道となるでしょう。もちろん、もし日米両国が大きく対峙するようなことがあれば、それはこの地域全体にとって破滅的なことになるでしょう。
 池田 私は一九九二年十月に訪中した折、中国社会科学院から名誉研究教授の称号を頂戴しました。その時、「二十一世紀と東アジア文明」と題する記念講演をいたしました。(本全集第2巻に収録)その中で、私は、東アジア地域の文化の深層の水脈をなしている精神性を「共生のエートス」であると指摘し、それを「対立よりも調和、分裂よりも結合、“われ”よりも“われわれ”を基調に、人間同士が、また人間と自然とが、共に生き、支え合いながら、共々に繁栄していこうという心的傾向」と述べました。そして、こうしたいき方こそ二十一世紀文明にとって必須の要件であることを訴えました。
 博士の言われた「汎太平洋共同体」の構想は、私の言った「共生のエートス」と、深い次元で響き合っていると思います。「アジア・太平洋文明」とは、かつて地中海から大西洋へ、そして今、大西洋から太平洋へと、文明の栄枯盛衰とともにその中心が地域移動するということだけではなく、さまざまな文化・文明が互いに尊重しながら共存・共生していくという、まさに二十一世紀を象徴する文明形態であるということです。
 それは、おそらく“多様性の調和”という形をとるでしょうが、その地域の文化的多様性を考えると、それらがどう調和されていくのかは、はなはだ未知数です。従来の帰納法的発想を思い切って転換し、演繹法的発想に立たねばならないでしょう。正真正銘の、心おどる“新人類”の誕生です。
 みずからの文明を相対化しようとする欧米の識者もたいへん増えていますが、そのなかにフランスの中国学の最高権威であるレオン・ヴァンデルメールシュ教授がおります。私は中国社会科学院での講演でも教授の言葉を引き、次のように訴えました。(本全集第2巻収録)
 「『儒教は旧社会とともに消滅せざるをえなかった。(中略)しかし、正にまた儒教が決定的に死んでいればこそ、その遺産が発展の諸要請と矛盾せずに、新しい思惟様式の中に再投資される』(『アジア文化圏の時代』福鎌忠恕訳、大修館書店)と述べているのは、まことに示唆的であります。その再投資された先に、欧米の行きすぎた個人主義へのある種の解毒作用と、相互の触発がもたらす、人道という普遍的価値の実現が期待されているからであります。そこから、二十一世紀文明への貴重な指標を読みとることができると私は思います」
 まさに「共生」こそ、人類の新しい方向性を示すキーワードです。したがって、博士が憂えるように、大きな日米の対立は何としても回避しなければなりません。私が一九九一年にハーバード大学での講演で、かつての真珠湾の轍を踏まないために、ソフト・パワーの重要性を訴えたのも、日米関係がたんに両国関係のみならず、二十一世紀の新しい世界を形成していくうえで、きわめて重要なカギを握っているという認識からでした。
 SGIが世界の草の根の民衆に、平和と信頼のネットワークを築いてきたのは、「地球共生」という新しい時代を開いていくためには、政府間の交流にも増して、民衆レベルの交流が不可欠であるとの認識のうえに立ってのことです。

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