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日蓮大聖人・池田大作

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女性――天性の平和主義者  

「平和への選択」ヨハン・ガルトゥング(池田大作全集第104巻)

前後
2  池田 ただ今の『人形の家』の“その後のノーラ”についてのお話にも、作品を通じての博士の現代社会への鋭い洞察がうかがえます。
 かつて中国の魯迅も、「ノーラは家出してからどうなったか」と題して講演を行っています。先にもふれましたが、以前、私の恩師である戸田第二代会長を囲んだ勉強会で、“女性解放”をテーマに、この『人形の家』を教材に選んだことがありました。その席で、恩師が「男は強いばかりが能じゃない。横暴になるのではなく、たまにはこういう本も読みたまえ」と言われていたことを懐かしく思い起こします。
 さて、ご指摘のように、男性は一般に論理的・抽象的な傾向が強く、ともすると“閉鎖系”の思考システムにおちいりがちです。この点、女性は物事の本質を直感的・直截的に把握する能力に優れています。
 博士は、「微細・分析的」になりがちな男性論理の落とし穴を指摘される一方で、「家父長制」を諸悪の根源と断罪する「低俗なフェミニズム」の要素還元的な考え方に対しても懸念を述べられました。一つの思想体系で複雑な社会の現実をとらえようとすることは、それほど多くの危険をともなうわけです。制度や組織の向上もさることながら、まず人間自身の“思考革命”が望まれるゆえんです。
 世界的な天文学者であるイギリスのホイル博士は、氏の愛弟子であるウィックラマシンゲ博士と私との対談集に寄せてくださった序文の中で、近・現代の「還元主義的科学」の限界性を述べるにあたり、「閉じた箱」「開いた箱」という譬えを用いています。キリスト教を背景に発展してきた科学は、文化的・宗教的な制約をうけた「閉じた箱」の範囲内で、ごく単純な問題を解決してきただけであり、地球と宇宙全体のつながりを前提とする「開いた箱」的な考え方に踏み出すことを、未だにためらっている――と。ホイル博士は宇宙・生命の真相に、より虚心に、より端的に迫る「開かれた心」の重要性を訴えられていると思います。
 この譬えを借りれば、男性は、ある特定の論理や概念の「閉じた箱」の中で物事を判断するきらいがあり、これに対して女性は、もともと「開かれた箱」、つまり出来合いの観念に縛られない、全体観に立った自由な見方をする力をもっていると言えましょう。
 抽象的な論理や概念は、あくまでも現実の“部分観”にすぎません。しかし、これらを全体視あるいは実体視し、それに合わせて現実を変えようとする性向が、男性には強く見られます。よく言えば理想主義的と言えるのでしょうが、この男性的な“転倒”が、過去、多くの戦争の原因になってきたことは疑いありません。社会的立場や階層という“仮象”“虚像”に幻惑される傾向も、それと同根で、たしかに女性よりは男性に顕著なようです。これに対して、女性の発想はつねに現実的で、どこまでも生活の視点から物事を見ていきますし、男性にはないこまやかな心で、時代や社会をとらえていくことができます。
 仏法では、「修羅は身長八万四千由旬・四大海の水も膝にすぎず」と説いています。修羅とは、もともと戦闘を好む鬼神の名ですが、転じて、勝他の念に執着し、他を軽んじ自分のみを大事にするエゴの状態を言います。この修羅の心が傲り高ぶるさまは、八万四千由旬(長大さを表す古代インドの距離の単位)にもおよび、大海の水も膝までしかとどかないほどであると言うのです。あらゆるものを自分の支配下におき、意のままにしようとする修羅の衝動は、まさに男性論理そのものです。
 これら男性社会のもつ観念性や閉鎖性、権力性を克服するためには、たしかな現実感覚に根ざした「等身大」の平和思想、平和運動がぜひとも必要となります。「等身大」ということは、抽象的な理論よりも、人間の感性に忠実であり、キリスト教の“神”に結びついた超越的な視点はつねに排されています。こうした仏教の考え方は人間が基準とされていて、おっしゃるとおり、東洋的発想の特徴でもあります。
 また、身近な生活に根をおろし、生命を慈しみ育む女性の発想が「等身大」となっていくことも、当然の帰結でしょう。平和に果たす女性の役割は、今後ますます重みと輝きを増していくことと思います。

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