Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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序文  

「平和への選択」ヨハン・ガルトゥング(池田大作全集第104巻)

前後
1  私たち両著者が最初に出会ったのは、一九八四年の十二月、東京の創価大学平和問題研究所主催の「仏教と平和へのリーダーシップ」会議の折のことであった。このとき、平和研究の分野の先駆者であり、こうした一連の会議の先駆者の一人であった私たちの共通の友人グレン・D・ペイジ教授が、両者を引き合わせてくれたのである。同教授がその労をとってくれたことに、今、私たちは深い感謝の意を表したい。
 この最初の出会い以来、私たちはいくどかの機会に会い、対話を重ねてきた。私たちは、明らかに共通の関心事である「平和」について語り合ったのであるが、この語らいはさらに「仏教」についての対話という形もとることになった。つまり、一人は、仏教における一つの主要な団体の指導者であり、もう一人は、世界で最も豊饒で最も生命を高揚するこの思想体系に足を踏み入れたばかりの初心者である、両者間の対話ともなったのである。
 こうして本書の形に編まれたこの対話では、私たち両者は、仏教と平和が調和する道を探究している。読者のなかには、こうした試みを抽象的ではないかと感じる方々も、あるいはおられるかもしれない。しかし、事実は決してそうではない。むしろ私たちのこの探究は、きわめて具体的で現世的な提唱を行う機縁を、私たちにもたらしてくれた。それらは、今日において効力をもち、明日の政治的行動計画(アジェンダ)にとって有効たりうる、そしてその進展によっては昨日ないし一昨日において有益たりえたと思われる提唱である。
 私たち両者は、一つの共通の基盤を分かちあっている。池田の場合、その基盤は大乗仏教の日蓮仏法に深く根ざしたものであり、ガルトゥングの場合、それはガンジーに始まり、より全般的な仏教へと進展していったものである。この基盤のゆえに、両者はこの世界において日々の仕事を通して、お互いを、そして自己を磨こうとするものである。しかし、このような仕事は、それが普遍的な確信に動機を得たものでないかぎり、平和への仕事(peace work)どころか、つまらぬ雇われ仕事(piece work)へと堕してしまうものである。
 平和にいたる道は数多くある。このため私たちは、私たちのアプローチだけが唯一の道だとは主張しない。しかし、平和の達成があくまで平和的な手段によってなされるべきであることは、断固として主張する。私たち両著者は、こうした平和的手段は、多少の先見の明さえあるならば、必ずや見いだせるものと深く信じている。こうした姿勢が私たちの基本姿勢であるため、読者は、本書から暴力や軍事力の行使の推奨を読み取るようなことは、決してないであろう。私たちの提唱は、釈尊の、そしてガンジーの、非暴力の精神に立つものである。私たちはまた、国連には多大な関心を寄せている。これは、国連が平和的な手段によって平和を促進することを、私たちが期待するからである。
 今日、世界を見渡すとき、私たちはいたるところに「非平和」を見いだす。きわめて非現実的な人々は、「冷戦」こそが世界の直接的暴力の唯一の原因であるとさえ信じていた。これらの人々は、ひとたび冷戦が終われば、直接的暴力は、そして歴史そのものすらも、終息するものと考えた。そうした人たちは、直接的暴力には、人間――なかんずく男性――にひそむ暴力性を解き放つ、二つの強力な根源があることを理解できなかったのである。
 これらの根源の一つが、抑圧とか搾取とかの「構造的暴力」である。五百年以上もの昔に、コロンブスはあまりにも遠くまで航海をしたため、構造的暴力が地球的規模で拡大することへの端緒を開いてしまった。構造的暴力は本来もの静かで、危害や傷害を与えるように意図されたものではないのであるが、これによって、白人の、キリスト教徒の西洋は、その後長い年月にわたってこの暴力とかかわっていかざるをえないという、ひとつの負の遺産を背負い込むことになった。かくして、この構造的暴力の結果、世界中に不公正が増大している。民衆は一般に抑圧され搾取されることをきらうが、自分たちがそうした状況にあることを意識するようになると、時には暴力によってでも抵抗するのである。
 もう一つの根源は、直接的暴力と構造的暴力を正当化するところの「文化的暴力」である。これは人々に、自分たちが「神」や「歴史」の名において他の人々に危害や傷害を与え、あるいは殺害することすらも正しいのだと弁明するばかりか、そうすることを義務づけられているのだと信じ込ませる。宗教や政治的イデオロギー、民族主義のなかには穏健で寛容なものもある。しかし、なかには自己をあまりにも最高至上と見なし「他者」を徹底的に非人間視するものもあり、それらの信奉者の眼には「他者」を大虐殺することすらも選択肢として許されうると映るようになるのである。
 冷戦の期間中、東側は、搾取をとどめるために抑圧を用い、まさにその「中心部」ソ連において搾取と抑圧の両方に深くはまりこむことになった。これに対して西側は、抑圧を克服するのに搾取をもってした。西側もまた結局は抑圧と搾取をすることになったのであるが、彼らは巧妙にもそのすべての代償をみずからの構造の「周辺部」に背負わせてきた。東側も西側も、あまりにも徹底してそれぞれのイデオロギー――ユートピアへの青写真――を吹き込まれていたために、東西両陣営ともに、対東西核戦争において、人類の大部分を犠牲の道づれにすらしようとしたのである。
 結局、東の「中心部」ソ連において過熱化した宣教のコスト高に耐えきれなくなって、東側が、内側から爆発した。民衆は反乱したが、しかし、これを非暴力的に行った。これに対し、西側の「周辺部」に発生し、今なおつづく無数の反乱は、それらが「中心部」から離れているために、いちおう封じ込められているのである。
 現実に対するゆがんだ認識は、大規模な構造的暴力と文化的暴力の原因でもあるし結果でもある。あまりにも現実からかけ離れているために非現実的ないしは超現実的となってしまうようなビジョンは、だれの役にも立つものではない。ユートピア的な階級なき社会も自由市場社会も、ともに人間の、そして社会の現実における矛盾を受容しきるにはあまりに複雑さへの対応に欠けている。このため、それらは何百万もの人命が奪われることの原因ともなりうるのである。
 仏教は、人間生活の矛盾に対する現実的な洞察と、時の試練に耐えたアプローチ、つまり黙想と相互の向上のための対話とを結合しようとする。この二つのプロセスは「内なる対話」「外なる対話」と呼ぶこともできよう。「外なる対話」は、難局の解決を求めて会議用のテーブルを囲んで行われる、共同討議の形を取ることもあろう。これは、二人ないしそれ以上の人々が心をこめて彼ら共有のカルマ(業)を向上させるべく助け合い、これによっていかなる宿命的な考えも超克しようとするものである。
 「内なる対話」は、自己の思い込み、先入観、性格等を精査しようとするもので、時には自己の心の内を裸にして他の人々の眼前に示すことも辞さない、前者同様、重要な対話の形態である。理想的には、この「内なる対話」と「外なる対話」が、互いに影響を与えあうべきである。ある問題についての自説を吟味することなく会議の席に駆けつけるようなことは、事態の悪化を招きかねない。また、協調や平和へ向けての人類の希求に役立てられることなく、まったく自己の内面にのみ留まるような「内なる対話」は、自己中心主義というものである。「内なる対話」と「外なる対話」が相まった時、人類の超克にとって緊急に必要な方途となるのである。そして仏教と平和は表裏一体のものとなり、あらゆる人々に活用されるものとなるであろう。本書がそのために少しでも役立ってくれることを、私たちは念願している。
 ヨハン・ガルトゥング 池田大作

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