Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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あとがき  チャンドラ・ウィックラマシ…  

「宇宙と人間のロマンを語る」チャンドラー・ウィックラマシンゲ(池田大作全集第103…

前後
1  一つの対話が終わるのは、ちょうど友人同士の別離のようなものだ。出会いは楽しく爽快であるが、別れはいつも少しばかり悲しいものである。しかし、実り多い出会いがすべてそうであるように、対話者同士は以前より内面が豊かになり、また、ともに経験したさまざまなことの思い出と、自分たちの人生を変える新たな未来像を胸にして対話を終えるのである。私たち二人にとって、この対話は知的に価値のあるものであった。二人が心から望むのは、読者の皆さまも私たちと同じように、何か貴重なものをつかんでくださったのであればいいが、ということである。
 池田大作会長との最初の出会いは、まったくの偶然によるものであった。いうなれば、求めずして得られた希有の宝のようなものである。ロンドンのある出版社が、池田会長の著書のなかから『生命と仏法を語る』の英語版を発刊することになっていて、一九八七年の秋、私に同書の序文の寄稿を依頼してきたのである。どういうわけでこの依頼が来たのかいまだにはっきりしないが、私がまぎれもない仏教的背景をもった天文学者であったからだと思う。恥ずかしい話であるが、私は同書を読むまで、池田会長の仏教に関する学問的な著述やその思想について、まったく知ることがなかったのである。同書から深い感銘を受けた私は、即座に思い立って、池田氏と歴史家アーノルド・トインビーの共著『二十一世紀への対話』を初め、氏の著書をいくつか取り寄せて読んでみた。これらの著作から共通して得られた印象は、池田会長は仏教哲学・文学に精通した学者であるばかりでなく、人間の条件と地球の未来について深く熱烈な関心をもっている人だ、ということである。
 氏のご長兄は第二次世界大戦で戦死された。この悲痛な体験をとおして氏は平和主義者になったのである。氏がこれまでに数多くの世界的指導者と会談しているのも、すべて世界平和という大義を促進するためであり、この大目的達成のために強靭な決意でたいへん精力的に活動してこられた。それと同じくらい真剣に池田会長が取り組んでいるのが真理の追究である。氏は、仏教とその価値観が現代の世界で最も重要なものであると確信している。当然のことながら氏は、心、生、死、そして宇宙それ自体に関する古来尊重されてきた仏教の理念を信奉している。そのうえで、生来、合理的な思索家であり哲学者である氏は、それらの理念について論じ、その正否を自分で確かめることに意欲的なのである。氏がいつも熱心に知ろうとしているのは、自分を取り巻く世界のさまざまな側面について、現代科学がどのように説明しているかということである。これこそ、氏が大多数の宗教的著述家と著しく異なる点であり、氏の姿勢は深い謙遜の念で貫かれている。氏は、知識というものはすべて主観的であること、そして最も広義の科学とは、往々にしてある一群の人々がとりあえず同意している一組の仮説にすぎないことを認めている。
 さて『生命と仏法を語る』への私の序文を見て、恐らく池田会長の心情と私の心情に響き合うものがあるだろうと予想したのが松田友宏氏である。この対話が開始され、数年間続行し、ついに本書の刊行にいたったのは、すべて松田氏の努力のおかげである。本書の出版にかかわる翻訳・編集作業を通じて、この気むずかしい著者と忍耐強くつき合ってくれたことに対して、私が松田氏に衷心より感謝していることをここに書きとどめておきたい。
 序文を書き上げて間もなく、私はまったく偶然に日本訪問の招待を受けた。招待してくれたのは、旧友で私と同じ天文学者の早川幸男教授である。当時は名古屋大学の学長をされていた。訪日の旅行計画を立て終わったとき、私はその日程を松田氏に知らせた。氏は早速、池田会長と私が会談する手はずをととのえてくれた。かくして一九八八年八月、東京での最初の出会いとなったのである。ほぼ二時間にわたったこの会談で、周囲の世界に関する私たち二人の考え方が多くの点で共通していることがわかった。私たちは天文学から社会学、心理学、そして当然のことながら仏教に及ぶきわめて広範囲の話題について語り合った。そして語り合いながら私たちが感じたのは、この対話は人類の未来に重要なかかわりがあるのではないか、したがって非常に広範囲の読者層の興味をそそるのではないかということであった。
 私たち二人はいずれも、二十世紀最後の十年の現時点が、過去を反省し吟味するのに最適の時であると考えた。私たちがみなその継承者である西洋文明は長い、そしてきわ立ってすぐれた歴史をもっている。今、新たな一千年の出発にあたって、私たちはこれまで何を成就したのか、そしてこれからどこへ向かうのかを問うて当然であろう。
 キリスト教の勃興とともに始まった文明は、技術的進歩という点では最近のわずか数十年間で目もくらむような高所に登りつめた。その度合いは今世紀の初めには夢想だにできなかったほどである。十八世紀初期、トマス・ニューコメンの蒸気(大気圧)機関の発明に始まった産業革命は、今世紀になって急に新たな加速度がついたのである。核エネルギーが解き放され、人類を益することも絶滅することもできる強力な新エネルギー源となった。さらに電子工学やコンピューター科学における現代の進歩発展は、私たちの生活に数えきれないほどの大変革をもたらした。そのおかげで私たちはさまざまな恩恵に浴している。たとえば、世界のどことでもほとんど即時に交信できるし、旅行も速く楽にできるようになった。また、あらゆる種類の情報がたやすく入手できる。このように生活はおおむね快適になった。もし人間の物質的な福利が私たちの文明の主要な目的であるならば、その目的は十分に、しかも忠実に達成されたことになる。なすべきことはもはや何も残っていないといえよう。
 しかし、物質面での明らかな急成長と並んで、幻滅と狼狽と憂うつが深まっている。物質的な福利は、人間の精神的な福利を犠牲にして増進してきたように思われる。憂うつの徴候は時がたつにつれてますます険悪になっている。ソ連邦の解体によって冷戦は終結したものの、小規模の戦争は相変わらず起こっている。フォークランド戦争、イラン・イラク戦争、湾岸戦争、さらにボスニアやインドの紛争などがそれである。しかしこれらは、見たところ際限もなく続発している紛争のほんの数例にすぎない。今後も、もっと小規模の争いが地球の多くの地域で勃発しようとしている。これらの争いのあるものは中東におけるような領土紛争であり、その他は北アイルランドやスリランカに見られるような宗教・民族紛争である。皮肉なことに、物質面・技術面では大きな進歩があったが、それによって人間の好戦的な性向がそれとわかるほど弱まることはまったくなかったのである。軍需産業に相変わらず大量の人力と物質資源を浪費している国が世界にはまだ数多くある。私たちは現在もなお石器時代の祖先と同じように、紛争に使う武器を絶えず研いでいるのである。ただ一つ異なる点は、現代の武器が彼らの弓矢よりもはるかに殺傷力が大きいということである。
 現代の人間は、一体なぜそうした大量殺戮兵器の使用をもくろむのであろうか。もしかしたら人間は、物質主義のイデオロギーに深い不安を感じているのではないだろうか。つまり、過去の諸文明の人々が自分たちの信奉する信仰体系に不安をいだいていたのと同じではないだろうか。何かしら有無を言わせぬ運命が、私たちに必然的な自滅への道をたどらせているのであろうか。そうした運命が、過去に幾度となく繰り返されたような周期的な文明興亡の根底にあるのであろうか。それとも、現代世界のパラメーターと往時のそれとでは雲泥の差があるため、過去の傾向は未来への指針とはなりえないのであろうか。これらはいつも私たちを悩ます疑問である。そしてこれらの問題こそ、まさに私たち二人がこの対談集で、十分とはいえないまでも論じ合ったものなのである。
 西洋文明が危機に直面していることはまったく疑う余地がない。その徴候はいたるところに見られる。都会で荒れくるう心ない暴力、法と秩序の総体的な混乱、有効な社会単位としての家族の崩壊――これらはみな破滅が差し迫っている徴候である。さらに私たちの環境が危機にさらされている。これをくい止めるには、何を犠牲にしようがおかまいなしにエネルギーを消費するという私たちの集団的貪欲を抑制するしかない。人口が過剰になり、今後さらに何百万、何千万の餓死者が出る恐れもある。また流行病のエイズにも対処しなければならない。これらはすべてはっきりと目に見える問題であるが、これに加えてもっと奥深いところにイデオロギーの危機という問題がある。
 科学というものは、原始的な諸文化における根拠のない、不合理な信仰体系に取って代わろうとする試みから出発した。ところが、それが一周して戻ってきたときには、取って代わられるはずだった信仰体系よりももっと独断的な、もっと威圧的で窮屈な体系になっていたのである。これは潜在的に危険な状況である。なぜなら現在の科学と学界は、往時のキリスト教会よりもずっと強力であり、はるかに大きな支配力を備えているからである。教会の教理に異議を唱える者はたいてい火刑に処せられた。しかしいま、かけ出しの〈科学教会〉に異議を唱える者は、火刑どころかもっと大きな危険を冒すことにさえなりかねないのである。
 幾千年の昔、人々は共通の道徳的・精神的価値観を信奉しながら、互いに面倒を見合っていた。そうした人間の集団によって社会秩序の基盤ができあがったのである。この道徳的・精神的機構は人々の行動原理の基となる重要なものであった。また彼らの身元を示す特徴、いわば部族の表象のような大切な役目も果たしていたのである。現在、私たちの社会にはそうした価値観というか表象がまったく欠けているように思われる。あるものといえば、物質主義的な価値観くらいのものであろうか。
 また、人間のさまざまな活動分野で創造的活力が欠如していることは明白である。音楽、文学、美術、科学等いずれを見ても、新しい発想はすでに枯渇してしまったようだ。創造的精神があったからこそ人間は祖先の動物たちと袂を分かつことができたのではないか。その創造性が、よりによって人間がそれを最も必要としている今このとき、人間から急速に失われつつあるように見えるのである。現世代の科学的発想のなかで最も優れているものでも、十九世紀後半から今世紀初期にかけて科学を支配した偉大な思想の色あせた名残でしかない。また現代における科学の進歩発展は数多くあるものの、大体は高性能のコンピューターやその他の機器による膨大な資料の蓄積という面だけに限られている。新しい資料からは新しい発想が生まれ、それらが新しい形で統合されなければならない。しかし今のところ、そうした発想や統合は残念ながら数が少ないように思われる。私たちは新たなパラダイム、新たな世界観を求めて暗中模索しているようだ。ともかく私たちの文明が究極的に崩壊するのを回避しなければならない。そのためには人間本来の創造的精神を最大限に取り戻し、同時に私たちの行動指針となる新たな道徳的・精神的価値観を確立することが急務である。
 私たち二人がこの対談集で主張しているのは、新しい宇宙的な視点と古来尊重されてきた仏教の価値観――あらゆる生き物をいつくしむ慈悲の価値観――が結びついたとき、それが二十一世紀に完全に適合した世界観になるということである。
 願わくは〈生きとし生けるもの〉がすべて幸せになりますように。

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