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日蓮大聖人・池田大作

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七 人工授精・体外受精・胎児診断・人工…  

「宇宙と人間のロマンを語る」チャンドラー・ウィックラマシンゲ(池田大作全集第103…

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1  子どもは〈未来からの使者〉
 池田 生を取り巻く生命倫理の問題に入りたいと思います。現代医学の進歩は、人工授精・体外受精、胎児診断等の数多くの生命倫理の問題を引き起こしております。
 たとえば人工授精は、AIH(配偶者間の人工授精)とAID(非配偶者間の人工授精)に分けられますが、AIHのほうは、わが国でもすでに多く行われています。AIDについては、養子をもらうことと、どちらを選ぶべきかという問題が生じています。
 体外受精では、当然、人工操作による先天性異常の増加がありうるか否か、という安全性が確かめられなければなりませんが、そのうえで倫理的問題が生じてきます。日本では現在のところ、人工授精は夫婦間に限っており、この場合に遺伝子操作は行わないとしていますが、家庭が崩壊し、夫婦のあり方も変化してきているところから、拡大解釈がなされる余地も残しています。
 ここでの最大の問題は、受精卵をどう扱うかということですが、世界的にみるとすでに、四カ月間冷凍した受精卵の体外受精児が誕生し、また代理母も出てきており、トラブルを引き起こしているとの報道もあります。このような技術が人間の生へのプロセスに関与し、さらには生命操作にまでエスカレートする危険性を、社会の側から絶えずチェックしなければならない状況に入っているのではないでしょうか。
 そして、社会的コンセンサスを形成するにあたって、一人ひとりが、生命誕生の深い意味を考えつつ、「なぜ子供が欲しいのか」「なんのために子供を欲するのか」といった根源的な問い直しをすることが必要であろうと思います。
 たとえば代理母にしても、他人の身体を借りてまで子供を望む理由が問われなければならないでしょう。また、母の胎内は単に身体的なものだけではなく、そこで人間の心の深層部分が形成されることを考えれば、〈胎児の母〉はきわめて重要な役割を果たしています。心理的・精神的な面も考慮すれば、私はやはり、深く賢明な思慮を重ねることが大事だと思いますし、慎重のうえにも慎重であるべきではないでしょうか。これは人類学・生命学からの視座も必要でしょうし、なによりも仏教が示すように、子どもは〈未来からの使者〉であり、尊い使命をもって生まれてくる存在であることを忘れてはならないと思います。
 博士 人工授精、体外受精、胎児診断などといった医学上の進展には、私は全面的には共感できません。それらは、医学的な問題よりも社会的な問題に対処しようとする試みであり、その解決策のなかには、とても容認できない結果を招きかねないものもあります。受胎が人間の子宮内で自然に行われる人工授精は、配偶者間であれ非配偶者間であれ、たぶん最も異議の余地の少ない選択肢でしょう。体外受精は、人間の胎児が冷凍した試験管の中に入れられて実験に使われかねないという意味合いがあり、私にとっては嫌悪すべきものです。人間の生体実験はどの段階まで許されるのでしょうか。生体の構成細胞が十六個ならよくて、数百万個ならダメという線引きをするのでしょうか。
 こうした発展は、医学の技術的進歩が常軌を逸したものだと思います。これらの方法によって社会的な恩恵、たとえば、本来であれば子供のできなかった結婚生活を、より安定したものにするという恩恵が得られるといわれています。しかしそれは、誕生という人間の生態の最も根本的な過程の一つに対する干渉であることは、いうまでもありません。
 そうした干渉を決して軽くみてはならないと思います。長期的にみて人類にどういう遺伝上の結果をもたらすかという点はもちろんのこと、どのような宗教的・精神的問題を提起するか等を、十分に研究することが先決でしょう。私たちがいま論議しているこれらの方法は、人間の生態にとって不必要なものです。いや人間の生態に反するとすらいえるかもしれません。
 人工授精や体外受精を養子縁組と比べてみた場合、後者のほうがはるかに望ましいと思います。西洋や日本の子供のない夫婦は、もし発展途上国の子供たちを養子にできるような計画が設定されれば、それによって生活苦を緩和してあげられるわけであり、人道上、大きな貢献をすることになるでしょう。
2  胎児にも仏性
 池田 人工中絶に関しては、社会体制や状況の問題、経済問題等も重要ですが、さらに胎児診断が可能になり、その技術が進歩しつづけていることも重要な倫理的問題を発生させています。
 つまり、羊水診断や超音波診断で胎児の異常――染色体の異常や先天性代謝異常等――が発見された場合、両親はどのように判断するのか、つまり中絶に踏みきるのか否か、といった問題です。私は、両親のもつ生死観や人生観によって、胎児へのかかわり方が大きく変わってくるのではないかと思います。
 博士 いかなる状況であれ、人工中絶を軽々しく考えることはできません。人工中絶を産児制限の方法として利用することなどは、最も異議の生じる余地がある問題です。
 受胎後十二週間の胎児は、母親の胎内でなければ一個の独立した存在としての生存能力はないかもしれませんが、ある程度の意識をきちんとそなえた発育中の子供であることは間違いありません。その生命を意図的な行為によって断つのは殺人です。
 池田 仏教の伝統的倫理では堕胎は「殺生戒」を説く中に含まれています。たとえば『十誦律』(巻第二、大正二十三巻)には「若し比丘、胎を殺さんが為の故に堕胎法を作し、若し胎死すれば波羅夷」とあります。波羅夷罪というのは僧にとって最も重い罪を指します。
 仏教の慈悲が胎児にまで及ぶことを考え、この根本精神に立てば、基調としては現在の人工中絶のあり方には否定的にならざるをえません。そのうえで、後に述べるような種々の条件を考慮に入れて、ケース・バイ・ケースでのきめ細かな対応が要請されましょう。私は、現実的には産児調節の方向をとるように指し示すべきだと考えています。
 博士 ほとんどの宗教が人工中絶を罪悪としており、十九世紀にはヨーロッパの多くの国々で、人工中絶を思いとどまらせるために厳しい刑罰が制定されていました。
 現代世界で、母親の要請による人工中絶を最初に合法化した国はソ連です。一九二〇年のことでした。以来、たいていの先進諸国では、既定の条件を満たしていれば、人工中絶を合法としています。
 イギリスの場合は、妊娠状態がつづけば母親の心理的ないし肉体的健康が損なわれるということを、医師がはっきりと確認しなければいけません。しかし実際には、この規則によってかえって人工中絶が比較的容易にできるようになり、要請さえすれば十中八九は行われるというのが現状です。
 現在イギリスでは、人工中絶に反対する強力な圧力団体が運動を展開中ですが、まだ法律を変えるまでにはいたっておりません。
 池田 人工中絶に関するきわめて今日的な問題は、胎児診断が可能になったことです。人工中絶では、母体との関係、つまり母体を救うためということもありますが、今日、最も問題になるのは、胎児自身の染色体並びに先天性代謝異常等の先天的な遺伝疾患の場合です。現在では羊水診断、超音波診断、将来はDNA診断によって、早期にこれらの異常を発見することができます。たとえば、ダウン症等の先天性異常が発見された場合が、具体的な人工中絶論議の焦点になると思われます。
 博士 私は、いかなる形態であれ、人間の胎児に干渉することに対しては強い疑念をいだいています。とくにそう思うのは、生死にかかわる決定を下さなければならないときです。
 いかにも愛他的と思われる理由をつけることはいくらでもできるでしょう。しかし結局、私たちは、すべての人間のもつ基本的な生存権を侵害していることになるのです。
 「ダウン症候群の胎児の生命は、私たちの考えでは〈質的〉な標準に達していない。したがって人工中絶すべきである」という決定を下す権利が私たちにあるでしょうか。そうしたケースにおいては、すべて自然(つまり業)のなすままにまかせよ、というのが私の持論です。
 私が恐れているのは、「五体満足でない」胎児は人工中絶するという現今の風潮をこのままにしておけば、倫理上さらに歓迎しがたい安楽死等の悪習にかならず行きつくだろうということです。
 池田 博士が指摘されるように、先天性異常等の胎児、子供に〈質的〉な差別をつけるような考え方や態度に対しては、断固として反対せざるをえません。仏教に説く生命の尊厳観は、いかなる生命にも胎児のときから、その内奥には仏性という尊極の当体をはらんでいることを主張しているからです。
 ダウン症の場合も種々のケースがあるようですが、現実には、現代医学をもってしても生命維持を断念せざるをえないこともあると聞いております。しかし、これは医療技術上の問題です。
 両親にとっては、「この子はなんのために生まれてくるのか」「なぜ自分たちを両親として選んだのか」といった深い生命誕生への思いがあります。そして仏教の生死観に立つならば、胎児の仏性を見つめつつ、この子にとって、どのようにすることが最も幸福な道を指し示すことになるのかを熟慮していくことが大人の責務だと思います。
 子供の養育の問題、とくに経済的な問題は、家族のみならず、それ以上に地域・社会全体で支える態勢をととのえるべきでしょう。

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