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日蓮大聖人・池田大作

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六 植物状態・尊厳死・自殺  

「宇宙と人間のロマンを語る」チャンドラー・ウィックラマシンゲ(池田大作全集第103…

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1  根元的自我の生への意欲
 博士 それでは次に、植物状態や尊厳死の問題に入りましょう。植物状態は、この問題全体が不可逆的と考察されるか否かにかかっています。私は、そのような不可逆性を判定する臨床的条件は容易に合意できるものではないことを理解しています。
 死の宣告をくだすために通常必要とされる条件を挙げれば、外的刺激に対して全然反応しないこと、自発的な呼吸作用がまったくないこと、筋肉の動きが全然ないこと、脳波がまったくない――つまり脳波計になんの反応も見られない――ことです。さらに、こうした合意ずみの条件が少なくとも二十四時間は継続することが必要とされます。
 しかし、薬剤の過剰投与等の条件のもとでは、通常の死の定義は当てはまらないと思います。普通ならば死の宣告をされるはずの患者が、長期間の治療の後に息をふき返すことがあります。こうした事例を見ると、まったく機械的にくだされることがよくある医学的決定が、実際には間違っていることもありうると私には思われるのです。
 池田 大脳生理学者によると、植物状態とは、大脳新皮質や大脳辺縁系には重度の障害が起きているが、少なくとも脳幹は生きている状態だといわれています。
 日本の脳神経外科学会の「植物状態患者の定義」によりますと、(一)自力移動が不可能、(二)自力摂取が不可能、(三)屎尿の失禁状態、(四)声を出しても意味のある発言は不可能、(五)目をあけ手をにぎれという簡単な命令には応ずるが、それ以上の意志の疎通は不可能、(六)眼球はかろうじて物を追っても認識できない――この六項目をみたす状態が三カ月以上つづく場合をいうとあります。
 しかし、当然、自発呼吸はありますから、「脳死状態」とはまったく違います。また、近しい人の声に反応していることも感じられるといいます。
 現実に、植物状態の患者に接している人々のリポートを見ますと、そこには死のにおいはなく、あふれるほどの生の息吹が感じられるといいます。自己の意思は表現できなくても、からだ全体で感じとっているのかもしれない、との印象を述べています。
 博士 私は、こうした医学的状況に対して、日本と同様にスリランカでも、ほかの国以上に人間的に対処しているという印象をもっています。スリランカでは、植物状態がいつかは元に戻るのではないかとの希望をもって、可能な限り患者を生命維持装置にかけておくようにしています。
 最近、スリランカにいる私の親類の女性が交通事故にあい、数カ月間深い昏睡状態におちいるということがありました。彼女を病院に見舞ったとき、私は昏睡状態をとおして伝わってくる彼女の生命の存在を感じたことを覚えています。とても言葉を交わせる状態ではありませんでしたが、私は彼女のほうも私の存在を感じとることができたと確信しました。長期間の忍耐強い治療の結果、彼女はほぼ正常の健康状態に戻りました。
 池田 どれくらいの期間がたってから、その人は意識を回復したのですか。
 博士 たしか六カ月ほどだったと記憶しています。つまり通常回復が可能と考えられている期間をかなり上回っていたわけです。大事な点は、回復したこの婦人が知能になんの悪影響もなく、正常で健康な生活を送っているということです。
 池田 仏教の視座からいえば、植物状態の患者は、たとえ意識は消失したように見えても、根源的自我(末那識の次元)では懸命に生きようとしていると思われます。その深層の心が、ひしひしと伝わってくるのではないでしょうか。
2  〈死の自己決定枚〉の突出
 この植物状態と関連して論じられるようになってきた問題が「尊厳死」です。ただ、言葉として「尊厳死」と呼ばれるようになったのは、比較的最近のことです。それまでは「安楽死」として論議されてきました。
 安楽死には、積極的安楽死と消極的安楽死の立場があります。この場合の積極的安楽死は、患者の死を早めるためにその生命活動に人為的に介入して、目的達成のために寿命を短縮することであると定義されましょう。
 博士 死刑と同様、私は積極的に安楽死を与えることには嫌悪を感じます。いかなる理由があるにせよ、人間には同じ人間の生命を積極的に断つ権利は絶対にないと思います。このことは、看守にしても医師にしても同じです。
 池田 私も、積極的安楽死については全面的に反対です。しかし、現今の消極的安楽死論争つまり尊厳死については、きわめて複雑かつ微妙な問題が出てきています。
 一応、消極的安楽死とは、死へのプロセスに入ったと思われる患者に対して延命のための処置を断念し、患者の苦しみを和らげることに医療行為を制限することである、と定義されましょう。
 一方、「尊厳死」という言葉は、カレン事件の報道の際の death with dignity の訳語として登場したとされており、回復の見込みのない患者に無益な延命措置を施すことをやめて、患者に人間としての尊厳をもたせることを意味し、ほぼ消極的安楽死と同意となります。
 日本では、医療現場において多くの場合、最善の医療技術をもって延命措置を取りつづけているようです。まさにそのことが、重度の植物状態にある人のために尊厳死を望む根拠となっています。つまり、このような状態で生命を維持するよりは、むしろ死を選ぶほうが本人のためによい、というのです。そう考える人たちは、人間には「死を選ぶ権利」があると主張し、理性が発現できない状態での生を拒否するためのリビング・ウィル運動となっています。
 博士 消極的に安楽死を認めることの是非については、まだ態度を決めかねています。末期的病状の患者の生命をある種の治療法によって少々延ばすことはできるが、それにはどうしても激しい苦しみがともなうと医師が判断した場合は、医師がその治療を施すことを差し控えたとしても、おそらく妥当であるといえるでしょう。そのような場合、〈尊厳死〉論議が強い説得力をもつのも無理のないことでしょう。
 池田 ただ私は、最近の欧米の動向として、この〈尊厳死〉をも超えて、〈死の自己決定権〉にもとづく考え方が突出し、〈治療拒否〉や〈延命拒否〉、また〈臨死介助〉にまで変質してきていることに大きな危惧をいだきます。
 たとえば、アメリカでは〈治療拒否〉の内容が、カレン事件のときのような人工呼吸器だけでなく、人工栄養のチューブまで拒否するという事例が起きております。さらに進んで、ドイツでは末期ガンの患者が死を決意して医師に死の介助を依頼し、医師は青酸カリを調達し、ほかの医師を介して患者にわたして患者はこれを飲んで死亡した、という事例まで出てきています。〈死の自己決定権〉のみを貫徹させようとすると、このような事例も生じてきます。
 〈死の権利〉の主張を自殺容認へとエスカレートさせないためにも、〈尊厳死〉運動のはらんでいる「人間にとって本当に尊厳な死」とはどのようなものかを、思想的・宗教的に深化していく必要があると思います。
 私は、仏教の生命尊厳の理念が、死にゆく生命についても、尊厳性を守りながら生から死へと移りゆくあり方の基盤になると考えております。仏教の生命尊厳の思想に立つならば、〈死の権利〉が自殺へとエスカレートすることに、思想的・精神的側面から歯止めをかけるべきだと思います。
 博士 自殺に対しては、私の意見は断然「ノー」です。自殺は人間としての条件にふさわしくない臆病な行為であるばかりでなく、生物界の自然の秩序に反する行為でもあると思うからです。私が自殺を指して「臆病な行為」と言った理由は、それが人生につきものの難局に立ち向かう勇気の欠如を意味しているからです。難局というのは真っ向から対決するためにあるのであり、そうした対決によって世の中というものへの理解がまた一段と深まる、というのが私の信条です。
 「生物界の自然の秩序に反する」と言った理由は、人間以外の生物で好んで自らの死を求めた例をまったく見聞したことがないからです。また、現存する最も原始的な人間社会においても自殺はまれだと思います。
 池田 生命尊厳の理念にもとづいて、人生の苦悩を、勇気を出して乗り越えるためにこそ仏教があります。仏教では、永遠の生命観にもとづいて、死によっては断じて現在の苦しみを解消できないことを覚知させるとともに、絶望と悲哀の淵で自殺さえも考えなければならない人々に、勇気と希望を与えるために慈愛の手をさし伸べていきます。
 仏教者は、苦悩に直面して生と死の境界をさまよう人を、〈生の側〉に引きもどす具体的な行動を起こすべきだ、と私は考えております。そのような行為こそ、人間として最高に誇るべき生き方を示す菩薩道の実践の姿というべきでしょう。

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