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日蓮大聖人・池田大作

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五 脳死と臓器移植  

「宇宙と人間のロマンを語る」チャンドラー・ウィックラマシンゲ(池田大作全集第103…

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4  慈悲の精神の発現でも
 池田 欧米ではすでに、国を超えての情報ネットワークづくりの段階に入っているようですが、日本では移植手術を受けられない患者が、欧米諸国、とくにアメリカ、イギリス、オーストラリア等で臓器提供者を待って手術を受けるケースが急増しています。また、スリランカからは角膜の提供を受けています。
 日本で臓器移植があまり進まない最大の理由として挙げられるのは、日本人固有の身体観があると思います。日本古来の霊魂観では、先ほど述べましたように、死んでからしばらくの間は、霊魂と身体(死体)を一体のものとしてとらえますから、「死んでまで痛い目にあわせたくない」という心情が日本民族の底流にあります。また、そのうえに儒教の身体観が重なり、身体(死体)に傷をつけることに抵抗を感じることになります。例えば『孝経』には「身体髪膚は、これを父母に受く、敢えて毀傷せざるは孝の始なり」とあり、日本人の倫理観に深い影響を与えてきました。
 しかし、臓器移植についても、各人が真正面から自己の身体観・生命観と対峙し、現代医学の知見をも理性的に学び吸収しつつ、自身の態度を決めるべきときが来ていることを深く感じます。そして各人が、民族心の中の身体観と対決し、自分としての死生観や身体観を確立するにあたって、仏教で説く生命観が重要な役割を果たしうると私は考えております。
 仏教では、人間の生命は色陰(身体)、受陰(感受性)、想陰(想像性)、行陰(意志性)、識陰(意識)の五要素によって成立しているととらえています。このうち最初の色陰が身体で、他の四陰が心の働きになります。
 人間が生きているときは、この五陰が一時的に和合して調和ある活動を展開しているのですが、確実に死の領域に入れば、五陰の働きは分解してしまいます。そして身体(色陰)は、その構成要素である四大(地大・水大・火大・風大)という物質的エネルギーにまで崩壊していきます。
 したがって、日本古来の身体観や儒教の身体観のようには臓器移植への抵抗はありません。仏教からすれば、臓器移植は仏教の自他不二の精神、慈悲の精神の一つの発現の仕方であると考えられます。
 博士 臓器移植について最大の論議を呼ぶ問題は、脳の移植が可能になったときに起きるでしょう。脳の移植手術が実際に可能となるのはまだ先のことですが、何カ国かの医学界、とくにアメリカの医学界では、このことが公然と論議されています。
 理論的には脳移植は近い将来に可能になるでしょうが、それにともなう道徳的・宗教的・倫理的問題はとてつもなく大きいものです。移植によって生かされている脳は、その中に私たちが先に論じた〈心〉や〈意識〉をもちつづけているかもしれません。一人の人間の自己意識や心を、まったく別の人間の身体に移植することは妥当でしょうか。私自身はそれを考えただけでもぞっとします。
 池田 同感です。すでに脳の部分移植までは試みられるようになっていると聞いています。今のところは治療法としての試みのようですが、それでも、たとえ部分移植とはいえ、向精神薬や脳外科手術――たとえば、かつての前頭葉切除手術――と同様に、人格への影響性を考えざるを得ません。
 脳移植を受けた人の脳細胞が定着し、活動を始めたとすれば、その生きている人格は一体〈だれ〉であるかという問題がたしかに生じてきます。根源的・全面的なアイデンティティーの崩壊をきたすでしょう。その意味において脳移植は、人間が自己自身を放棄し、人間でなくなる行為といってもよい。
 私は、現在の部分移植の段階からその方向性を見守るとともに、宗教者や哲学者、ほかの分野の科学者や医師等も入って、この問題に関する〈倫理委員会〉をつくり、どのような〈歯止め〉をかけるかを社会的合意として十二分に検討すべき課題であると思っています。

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