Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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二 臨死体験と死の不安の克服  

「宇宙と人間のロマンを語る」チャンドラー・ウィックラマシンゲ(池田大作全集第103…

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4  生も死も「本有」
 池田 博士が述べられた意味のことを、雑阿含経には「業報あり、作者無し、此陰(五陰)滅し已りて異陰(余陰)相続す」(巻十三、大正二巻)と説いています。業力によって、今世における五陰(心身)から次世での異陰(五陰)へとつながっていくというのです。
 さらに法華経には、衆生の業力による生死流転の法理を基盤にしながら、それを仏の側から主体的・積極的にとらえ直し、「方便して涅槃を現ず」(「如来寿量品第十六」〈開結五〇六㌻〉)としるされています。この経文は、仏の生命は常住不滅ではあるけれども、いつまでも仏がこの世に存在しつづけると、衆生はそれを当たり前のことと思って仏を渇仰する心を失ってしまう。つまり、仏道修行による生命変革をおこたってしまうから、仏は衆生に対して方便として涅槃(死)を現じてみせるのである、という意味です。
 ここに見られる法華経の生死観は、仏の生命は常住・不滅であるとの永遠の生命観に立脚しつつ、しかも主体的に死を方便としてとらえるというのです。つまり、仏という永遠なる大生命へと導くための一つの方便として、死があるというのです。
 この『法華経』の生死観をさらに深く、宇宙生命の根源の法のうえから把握された日蓮大聖人は、生も死も「本有」であると指摘されたのです。つまり、人々が常識的に生と死を分断し、「常見」や「断見」におちいって、死の恐怖におののいたり、死から逃避しようとしたり、また逆に死にあこがれたりするのは、すべて生死から厭離しようとしている迷いの生死観であるというのです。
 これに対して、生も死もともに、衆生の生命の内奥に実在する宇宙大の仏の大生命に本来、組み込まれている契機であり、ともに仏の大生命を覚知するためのものであるというところに、悟りの死生観が明示されます。
 私は、仏教に説く業力による生死流転を自覚しつつ、それをも超えて永遠なる大生命、宇宙根源の法に立脚する生死のあり方を示された、日蓮大聖人の仏法に明かす「本有の生死」こそ、物質主義、現世主義のもたらす死の恐怖・絶望・悲哀を乗り越え、死をも永遠の生命へと飛躍するバネとなしゆく、尊厳なる臨終をむかえるための死生観であると考えています。

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