Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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二 臨死体験と死の不安の克服  

「宇宙と人間のロマンを語る」チャンドラー・ウィックラマシンゲ(池田大作全集第103…

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2  物質主義ゆえの恐れ
 博士 〈死の恐怖〉をどう克服するか。私は、死の恐怖はもっぱら無知からきていると思います。つまり、死という体験がどういう性質のものなのか、そして死後に何が待ちうけているのかということを知らないからだと思うのです。
 私たちはみな、この問題とやがて自分自身にやってくる死に対して物質主義的な立場から取り組みます。それは、私たちの信念も物の見方も物質中心だからです。私たちは生涯、極端に物質主義的な世界に浸りきりになるのであり、生命を大事にするのも、その物質的な属性を尊重するからにほかなりません。仏教の教えでは、これは貪欲と変わるところがありません。
 私たちは死によって、自分の物質的な属性が最終的にすべて自分のものでなくなると考える傾向があります。ですから死を恐れるのです。それは、生きているときに自分の物質的所有物のどれひとつでも、それを失うことを恐れるのとまったく同様です。今日、私たちは明確に非宗教的・非精神的な世界に住んでいるだけに、死のとらえ方がこれまで以上に問題になっているのではないでしょうか。
 池田 たしかに現代人は、物質主義的な世界観と物質的欲望・貪欲に振りまわされた社会に生きています。その結果、現世主義に逃避し、心の内奥の世界や死のことを考えようとしない、刹那的な人生になりかねない傾向にあります。
 なかには、死に直面して初めて不安や怒りや恐怖におそわれ、なすすべを知らないといった状況さえあります。博士が指摘されたように、すべてを物質的観点からしか考えることができないため、死がおそいかかってくると、まず今世に築き上げた物質的環境・金銭・財産やそれにまつわる名声・権力等の喪失を恐れるのです。
 しかし、死への恐怖の奥には、自身の肉体が物質的に崩壊すれば、そのことによって自己自身が断絶し、消滅してしまうという底知れない絶望感――仏教でいう「断見」――が待ちうけているのではないでしょうか。心の世界、精神の領域、宗教の分野に目を向ける必要がここにもあります。
 しかも、現代では医学の長足の進歩により、死と対峙して生きなければならない臨終の期間が大幅に延長されています。ここに、ターミナルケアをどのように行えばよいのか、つまり現代人が死と対面し、死の恐怖・不安を乗り越えるために、どのように援助をすればよいのかといったテーマが、現代医学の最大の問題となってきました。
 同時に、この分野から物質主義を超えるもの、つまり永遠なる生命を志向する宗教的視点の復活が叫ばれるようにもなってきたと思われるのです。
3  〈永遠なるもの〉に根ざして
 博士 いまターミナルケアに精神的・宗教的視点を復活させようとする現代の傾向性について説明されましたが、私は、それがどのような形をとるにせよ、重要なことであると思います。キリスト教的心霊主義にするか、それとも仏教の業報論にするかという問題の前に、まず大事なことは、死を超越する存在について、何か視野の広い見方があるのだということを、一般の人々が知ることでしょう。
 池田 仏教では、人間の苦を「三苦」として分類しています。たとえば『倶舎論』には「苦苦・壊苦・行苦」とありますが、このうち苦苦は肉体的苦痛であり、壊苦は心理的・精神的苦しみを指します。そして、行苦は実存的・宗教的次元の苦悩を意味しています。人間に死が切迫してきたとき、また自己の死を自覚したときには、この三つの苦しみが凝縮しておそいかかってくるというのです。
 このなかで苦苦に関しては、最近ではペインクリニックの発達が期待されます。また壊苦についても、家族の協力や医療体制、社会福祉等を整備することによって和らげることができるでしょう。
 しかし、行苦という自己自身の消滅におののく実存的苦しみに直面し、そのような死の底知れぬ不安・恐怖を乗り越えるには、〈永遠なるもの〉に根ざした死生観を血肉化していくことが必須となるでしょう。私は、医学の進歩や社会体制の整備とともに、宗教とくに仏教の死生観を血肉化しゆくとき、三苦からくる絶望や悲しみを乗り越えて、人生の最終章を安穏と充実へと変えていくことができると思います。
 一般的に、死の切迫を自覚したときの患者のたどるプロセスについては、キューブラー・ロスが五段階説を唱えています(『死ぬ瞬間』川口正吉訳、読売新聞社)。つまり、まず自己の死そのものの「否認」が起こり、次いで否定しきれなくなると、運命・宿命への「怒り」がつきあげてきます。さらに、神や仏との「取り引き」に入る人もいます。日本では「かなわぬときの神だのみ」といいますが、それでも効果がないとなると、深い「抑うつ」状態におちいっていくといいます。最終の「受容」の仕方は、人によって千差万別でしょう。
 この説は、西欧では典型的パターンとして認められているようです。また、トルストイの『イワン・イリイチの死』の内容を分析してみますと、ほぼキューブラー=ロスの五段階説が当てはまるようです。しかし、日本では若干、様相が異なっています。つまり、抑うつの感情がプロセスのほとんどを支配することが多いようです。
 それにしても死に直面すると、怒りや抑うつ等の煩悩が心の中に荒れ狂うことは共通しています。宗教者の役割はまさしく、怒りや抑うつ状態におちいり、苦悩する患者に積極的にかかわり、苦しみと悲哀のプロセスではなく、残された生を充実と自己実現、さらには創造的歓喜のプロセスへと転換させていくことにあると思います。
 博士 おっしゃるとおり、肉体的・心理的苦痛はもちろん、現代の医療で和らげたり取り除いたりできます。しかし、死への恐怖は、それが無意味で悲劇的な結末だと考えるところから来ています。
 この恐怖をしずめるには、宗教を根本にした教育によらねばなりません。仏教の見方では、肉体は〈業〉の容器とみなされています。一つの容器から次の容器へ、つまり一つの生から次の生へ移ると考えれば、死は大きな悲しみや苦しみではなくなるはずです。
 この仏教の視点は、死に関連する苦しみを和らげるうえで、いや、もしかしたらそれを取り除くうえで、きわめて貴重なものであると思います。
4  生も死も「本有」
 池田 博士が述べられた意味のことを、雑阿含経には「業報あり、作者無し、此陰(五陰)滅し已りて異陰(余陰)相続す」(巻十三、大正二巻)と説いています。業力によって、今世における五陰(心身)から次世での異陰(五陰)へとつながっていくというのです。
 さらに法華経には、衆生の業力による生死流転の法理を基盤にしながら、それを仏の側から主体的・積極的にとらえ直し、「方便して涅槃を現ず」(「如来寿量品第十六」〈開結五〇六㌻〉)としるされています。この経文は、仏の生命は常住不滅ではあるけれども、いつまでも仏がこの世に存在しつづけると、衆生はそれを当たり前のことと思って仏を渇仰する心を失ってしまう。つまり、仏道修行による生命変革をおこたってしまうから、仏は衆生に対して方便として涅槃(死)を現じてみせるのである、という意味です。
 ここに見られる法華経の生死観は、仏の生命は常住・不滅であるとの永遠の生命観に立脚しつつ、しかも主体的に死を方便としてとらえるというのです。つまり、仏という永遠なる大生命へと導くための一つの方便として、死があるというのです。
 この『法華経』の生死観をさらに深く、宇宙生命の根源の法のうえから把握された日蓮大聖人は、生も死も「本有」であると指摘されたのです。つまり、人々が常識的に生と死を分断し、「常見」や「断見」におちいって、死の恐怖におののいたり、死から逃避しようとしたり、また逆に死にあこがれたりするのは、すべて生死から厭離しようとしている迷いの生死観であるというのです。
 これに対して、生も死もともに、衆生の生命の内奥に実在する宇宙大の仏の大生命に本来、組み込まれている契機であり、ともに仏の大生命を覚知するためのものであるというところに、悟りの死生観が明示されます。
 私は、仏教に説く業力による生死流転を自覚しつつ、それをも超えて永遠なる大生命、宇宙根源の法に立脚する生死のあり方を示された、日蓮大聖人の仏法に明かす「本有の生死」こそ、物質主義、現世主義のもたらす死の恐怖・絶望・悲哀を乗り越え、死をも永遠の生命へと飛躍するバネとなしゆく、尊厳なる臨終をむかえるための死生観であると考えています。

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