Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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一 心身論と死後の生命について  

「宇宙と人間のロマンを語る」チャンドラー・ウィックラマシンゲ(池田大作全集第103…

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2  還元主義的な方法は失敗
 池田 たしかに現代の精密な脳科学の発達は驚異的です。本能、情動の座、思考の座、創造の座、記憶の場等を探究して、今日では、右脳と左脳の働きの違い等が話題になっています。
 しかし、博士が言われるように、〈心〉それ自体については、はたして神経細胞のネットワークや種々の神経伝達物質の働きに還元できるものだろうかという疑問は、依然として残っています。
 博士 心は脳の内部におけるなにか不明確な「電気化学的過程の流れ」である、と説明したがる科学者もいますが、どのような心の現象であれ、どの程度までこの概念の枠内で説明できるかといえば、きわめて初歩的なものに限られます。
 たとえば、性欲や怒りの情動は、脳のある領域に神経インパルスを起こすことによって生じることがわかっています。しかし、そうした関係がわかったからといって、それはまだ氷山の一角であり、私たちの主観的な経験の解明にはほど遠いのです。
 池田 そこで、〈心〉それ自体を内奥に向かって照射しようとする心理学の試みは、西洋ではフロイトの精神分析学以来つづけられてきました。
 博士 たしかに今世紀初頭に発達した精神分析学は、人間の主観的経験に注目し始めましたが、それを解明するための首尾一貫した論理的体系、つまり理論を構築することはできませんでした。
 一貫した論理的体系の枠内で主観的体験を解明し、適切な心の理論を外的世界のいわゆる客観的モデルに結びつける努力こそ、現在最も重要なことではないでしょうか。脳の機能に関心のある科学者たちも、そうしたことを本気になって考え始めたばかりだと思います。
 池田 先ほどの例では、性欲という本能や怒りの情動が起きるとき、活動を高める脳の部位(大脳辺縁系)があるということがわかったにすぎません。それだけで欲求や怒りの心それ自体を解明できたとはいえないと思います。
 ここで私は、ペンフィールドのリポートを思い起こします。彼は、恩師のあとを継いで研究をつづけていますが、一つの重大なリポートをしています。それは、てんかん患者の診察と治療にあたっていたときに、患者の側頭葉のある部分に電気刺激を加えると、その人は幼児期からの過去の記憶をよみがえらせたという、まことに驚嘆すべき実験に関するものでした。
 彼はこのような臨床実験をもとに、大脳はコンピューターであり、心こそプログラマーであるという結論を導きだしています。
 博士 その結論は、脳と心の両者間に存在すると思われる関係性について、きわめて重要な示唆を与えるものです。ただ私としては、この問題についての私たちの考えはまだあまりにも幼稚であり、その真相に到達するのははるか先のことであると思わざるをえません。
 池田 次に、博士が先ほど名前を挙げられたノーベル生理学・医学賞を受けたジョン・エックルズも、世界は物質の世界と心(自我意識)の世界に分けられ、物質世界の一部である脳と心の間には密接な相互関係が存在するとして、両者の接点の場を大脳の中に求めています。
 博士 やっかいなことは、ほとんどの科学者がいずれも、デカルト流の還元主義的パラダイムを信奉しているということです。
 しかし、彼らの最近の研究成果に関して、ジョン・エックルズらの多くの優れた科学者は、それらが還元主義的科学者自身の主張に矛盾していること、つまり〈心〉が脳の物質的構造とは別個の実在として顕現するものであることを示唆している、と解釈しています。
 こうした点からみて、純粋に還元主義的な方法でこの問題に取り組もうとする努力は失敗に終わったように思われます。
3  死後存続の可能性
 池田 精神分析学は、今日では医学の分野にも多大な影響を与え、心身医学を支える一つの柱となっています。心身医学者であり神経生理学者でもあるバーバラ・ブラウンは「心は脳を超える」(『スーパーマインド』橋口英俊、松浪克文、山河宏、三宅篤子共訳、紀伊國屋書店)と言い、その心が脳をコントロールすることを「バイオフィードバックの技術」を用いて証明するにいたっております。
 この人たちのように、心という実在は脳を超えており、逆に心が脳に影響を与えるとするならば、今度は脳という物質的存在が消滅したあとも、心はなんらかの形で存続する可能性が生じてきます。事実、ペンフィールド、エックルズ、ブラウンらは、心の死後存続の可能性を表明しています。
 このように現在、心身論の中からも、科学的実証(脳科学や心身医学、深層心理学等)に耐えうる形で、死後存続を指し示す学説が出てきているということは、今後の状況を待たなければならないとはいえ注目すべきことです。物質に還元する方向のみを万能として進んできたように見える科学が、心という実在、そして死後存続をも視野に入れる新しいものへと転換しつつあるように、私には思われます。
 博士 たしかに現在の科学は、〈心〉であるとされる本質的に非有機的・非物質的な領域が脳の上部構造として存在することを認める方向にある、といっても過言ではないでしょう。もしそうであるならば、死後における〈心〉の存続は、論理的帰結として認めざるをえなくなります。
 池田 中国の妙楽大師は、「色心不二門」という法理を立て「總は一念に在り、別は色心を分つ」(『法華玄義釈籤』巻第十四〈大正三十三巻〉)と論じています。日蓮大聖人は、この妙楽大師の「總は一念に在り」ということについて、さらに深い次元から次のように論じられます。「一偏に思ひ定め難しといへども、且く一義を存ぜば、衆生最初の一念也と定む。心を止て倩按ずるに、我等が最初の一念は無没無記と云て、善にも定まらず、悪にも定まらず、闇々湛々たる念也。是を第八識と云ふ」と。(『昭和新定日蓮大聖人御書』第一巻〈読みやすくするために本文に少し手を加えた〉)。
 通解すれば、「(『總は一念にあり』の意義は多くを含んでおり)一方に割り切って考えを定めることはむずかしいが、仮に一義を述べてみると、衆生の最初の一念をいうのである。心を定めてよくよく考えてみると、私たちの(この世でなす)最初の一念は無没無記といって、善にも定まらず、悪にも定まらず、闇々湛々とした念なのである。これを第八識というのである」ということです。
 さらにこの第八識(阿頼耶識)から、第七識(末那識)、第六識(意識)や身体(色法)が顕在化してくる様相を示されています。ここに、色心不二の「不二」とは、前にも述べましたように「而二不二」(二にして二ならず)という意味です。
 この法理を私たちの生命にあてはめますと、「色法」として顕在化している身体の働きと、「心法」としての心の働きは、現象面では別のものとして区別されるので、この両者の関係性を「而二」と表現します。
 「色法」と「心法」の相関関係については、これまで話し合ってきたように、現代科学がすでに実証しているところであります。しかし仏教は、身体と心の働きに分かれた現象面より一段と深い次元に根源的生命をとらえ、そこにおいては色心が融合し一体である、つまり「不二」であると洞察したのです。
 日蓮大聖人はこの生命深層の次元を、「一義を存ぜば」とされたうえで阿頼耶識として示されました。阿頼耶識は、業を内包し生死を流転する根源的生命ですから「無没」です。この生死をとおして無没なる生命を、脳科学者やユングらの心理学者は「心」の側面から志向しているように思われます。
 日蓮大聖人の仏法では、さらに「色心不二なるを一極と云うなり」と説いています。ここに、一極とは究極の生命をいい、九識論でいう「阿摩羅識」であり、宇宙根源の大生命を指します。宇宙生命そのものが「色心不二」の当体であり、個の生命はこの宇宙根源の当体に支えられ、永遠なる生死を繰り返していくというのです。こうして心身論からも、宇宙生命への道が通じているように思います。
 博士 私もまったく同じ意見です。意識にはさまざまな段階がありますが、そのすべての根源は阿頼耶識であり、さらにそれを支えているのが、私の表現では、宇宙にそなわり万物に行きわたっている宇宙的普遍意識、つまり阿摩羅識であります。この九識論は非常に興味をそそる概念です。否応なしに納得させる力をもっているように思われます。

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