Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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十 釈尊の「無記」(沈黙)の意味するも…  

「宇宙と人間のロマンを語る」チャンドラー・ウィックラマシンゲ(池田大作全集第103…

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2  「無明」を断ち切るために
 博士 それ以外にも、釈尊が沈黙を守った問題は数多くあったのでしょうか。
 池田 実は、「無記」の対象となった問いは、遍歴修行者(パリバージャカ)たちの好んで発した問いだったのです。
 『スッタ・ニパータ』には、バラモン教に反対する勢力の人々――このなかには遍歴修行者もいたと考えられます――が論争し、口論し合い、かえって混迷の度を深めていった状況が述べられています。ある人々が「真理」であると主張するテーゼを、他の人々は「虚偽」であると主張する。まさに、その立場によって「真理」とも「虚偽」ともいえるテーゼの代表的な例が、釈尊が沈黙した問いでした。
 釈尊は、悟りのもたらす中道の智慧によって、バラモン教徒にもそれに反対する勢力にも、生命のなかに深層の欲望・エゴイズムとしての「無明」が存在することを見抜いたのです。
 実は、その「無明」こそが苦悩の輪廻をもたらす原因だったのです。そして「無明」とは、先ほど話し合ったように、仏教の示す〈包括的世界観〉への無知にほかなりません。
 このように、釈尊の黙止についての背景を考えますと、そこにはらまれた深い意義が明らかになると思うのです。
 議論のための議論にあけくれ、その論争に勝つことによって、かえって名誉欲にとらわれるような議論であったことは、『スッタ・ニパータ』に指摘されているところです。慈悲心からあふれでる民衆救済の議論ではなく、「無明」という深層のエゴイズム、煩悩に汚された議論だったのです。そのような議論の輪に加わることは、かえって「無明」の度合いを増すことになります。
 釈尊の〈大いなる沈黙〉は、断固として議論をこばむことによって、各自の生命内奥の煩悩に気づかせ、「無明」、渇愛の根源を断ち切っていったのです。そこに、釈尊の慈悲心のもたらす「無記」の積極的な意義があると思うのです。
 釈尊の言葉は、煩悩に汚れた世間一般の言説を超越していました。釈尊の沈黙も同様に、「無明」を断ち切り、コスモスを創造しゆく慈悲の行為のきわめて積極的な表出であったと考えたい。そして、釈尊の意志を感受し「無明」を断ち切ったところに、真如を洞察する智慧がわき、博士が言われる〈包括的世界観〉にもとづく数々の知恵が表明されることになったのです。

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