Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

八 仏教の社会観  

「宇宙と人間のロマンを語る」チャンドラー・ウィックラマシンゲ(池田大作全集第103…

前後
2  食欲と「想」の縁起が社会悪に
 博士 そこで、エゴイズムの束縛から脱しようと努める社会をどのようにして建設していくのか、言い換えれば、仏教から得ることのできる実用的な社会哲学というものについて、どのようにお考えでしょうか。
 池田 仏教で「社会」に厳密に対応する言葉は見あたりませんが、さらに広い概念として「世間」という言葉があります。そして『大智度論』等では、この「世間」を「五陰世間」「衆生世間」「国土(器)世間」に分類しています。このなかで「社会」というと、ほぼ「衆生世間」を指していると考えてよいでしょう。
 この「衆生世間」について二つの側面から解明してみたいと思います。第一に、社会悪の根拠を仏教で説く縁起の法理にのっとって、どのように示しているかという角度です。第二に、「平和な社会」をどのようにして現出していったかというプロセスを、経典から取り出してみたいと思います。
 まず第一の視点ですが、仏教では社会悪の根拠を、それを構成する衆生の煩悩、エゴイズムの集積によるとみています。社会を形成している人々の行為は、その社会つまり「衆生世間」に刻印されていきます。身口意の三業にわたる人間の行為については、この業を個人と社会という角度から分類しますと、個人の業は「不共業」となり、民族とか国家等における共同の業は「共業」となります。業は人間によって刻印されていくものですが、この業のもつ対自的側面が「不共業」であり、社会・民族における対他的側面が「共業」を形成するというわけです。
 博士 それでは、社会悪ないしは社会苦という「共業」は、どのようにして形成されるのでしょうか。
 池田 『大縁方便経』には、欲愛(貪欲)から社会悪がつくられるプロセスが説かれています。それによれば、まず欲愛によって求(欲求)が生じ、それから利(益)への執着が生じ、さらに刀杖・諍訟、無数の悪が次々と引き起こされていきます。ここに、社会悪としての刀杖(暴力性)の根拠が、貪欲からの連鎖として示されています。
 博士 そうしますと、根拠である貪欲を超克しない限り、真に非暴力の社会を実現することはできないということですか。
 池田 そうです。根本的な道はそこにしかないと説くわけです。
 もう一つ、今度は「想」を起点とする社会悪への縁起を挙げてみましょう。「闘諍経」には、「想」から渇愛や悪見にそまった名色(心身)が生じ、さらに欲望、争闘、諍論、悲愁、慳、慢(心)、両舌(二枚舌)等を引き起こす連鎖が示されています。(『南伝大藏経』第二十四巻)
 さて、この「想」とは、心によるイメージ化、概念化の作用をさします。つまり、人間の認識作用の限界性から、結局、争闘(暴力性)が生じるというのです。たとえば、二元論にもとづく還元主義という思考法も、この限界性を覚知しなければ、そこに種々の苦しみを生みだしてしまいます。
 共産主義というイデオロギーが各国で崩壊をきたし、特定のイデオロギーの支配する時代は終わりを告げています。この点からいえば、人類はようやく「想」から起きる争闘への連鎖の一部を断ち切ったとはいえるでしょう。
 しかし、激発する民族・宗教紛争を考えますと、まだ、それぞれがつくりあげた「想」としてのイメージによって、他の民族への偏見を生じさせ、また宗教間の対立を生みだしていることがわかります。さらに、先に挙げた欲望(貪欲)からの争いへの連鎖も、人々の心から抜けきれていないようにも思われます。
3  平和は衆生の善の集積で
 博士 それでは、貪欲や争闘や戦争のない平和社会を建設するプロセスを、仏教ではどのように説いているのでしょうか。私たちがめざすべきものは、寛容と平和という徳目を本来的にそなえている社会だと思うのですが。
 池田 「転輪聖王修行経」(大正一巻)という経典があります。この題名からわかりますように、この経典には、久遠という悠久の昔から転輪聖王による政治が行われていたことがしるされています。
 ところが、七代目の国王が正しい法を護らなかったために政治が混乱し、人々が争いを起こして、飢饉が起きました。そこで国王は、飢饉をなくすために国庫を開いて食物や金銭を放出しますが、人々は一段と盗みや殺害を重ねるようになっていきます。
 それは結局、衆生の精神の力、道徳性が衰えていったからであったのです。そのとき、人民のなかに一人の〈智者〉が現れ、慈悲心をいだいて自ら非暴力を実践するとともに、他の人々にも、ともに行動するように呼びかける。やがて、この智者の生活態度や意志に共鳴し同調する人が次第に現れてきて、多くの人々へと広がっていきます。
 仏典は、一人の智者の慈悲の実践を起点として、衆生・社会の〈共業〉が転換しゆくプロセスを説いていると思うのです。
 ここに私たちは、衆生の善の〈共業〉の力が集積することによって、平和社会が現出しゆく一つのプロセスを読みとることができるでしょう。

1
2