Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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八 仏教の社会観  

「宇宙と人間のロマンを語る」チャンドラー・ウィックラマシンゲ(池田大作全集第103…

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1  生命の根本法に背くエゴイズム
 博士 さて、仏教の目的はニルヴァーナ(涅槃)にあるとされています。つまり、欲望や苦悩の束縛から最終的に解放されることです。理想的な仏教社会とは、その成員がこの目的に向かう道を歩んでいる社会、つまり、彼らがエゴイズムの束縛から脱しようと努めている社会のことです。したがって、そうした社会が無私とか他者への奉仕といった利他的な美徳を信奉することは、当然期待していいでしょう。
 現代社会の当面している問題の多くは、極端な利己主義に由来するものです。私たちは〈自分〉〈自分のもの〉〈自分の利益〉〈自分の進歩〉だけを考える場合があまりにも多い。そして他の人々の感情を考慮することはあまりありません。
 池田 仏教の縁起の思想によれば、一切の存在は相互依存的関係によって存在しているのであり、他の存在なくして自己の存在もありません。したがって、博士がいま指摘された〈自分〉〈自分のもの〉〈自分の利益〉〈自分の進歩〉ということだけを考えて行動するならば、それは生命の根本法に背くものであり、周囲の人々にとって悪になるだけでなく、自己自身にもマイナスの果報がもたらされることになります。
 仏教の生命観では、人間のエゴイズムの発動する場を根源的自我意識、すなわち末那識の次元にあると見抜いています。意識的自我の基底にあって、絶えず自身に執着する根源的自我意識、つまり末那識の次元から、他者への差別意識、エゴイズムが生じてくると説くのです。この末那識には常に四つの煩悩――「我癡」「我見」「我慢」「我愛」がまつわりついています。
 まず「我癡」は、自分の本来的な姿に暗いことで「無明」と同義です。人間存在の本来的な姿は、生きとし生けるものと相互に関連しながら、この宇宙での生を営んでいます。ところが、「我癡」におおわれると、自分だけで生きているように錯覚してしまうのです。そこから他者との〈平等性〉への迷いが生じ、抜きがたい差別感が生まれてくる。それが嫉妬、怨念、瞋りへと転じていきます。
 次に「我見」は、小さな自我(小我)を真実の自己(大我)とみなしてしまう煩悩です。そこから自分だけのせまい見解へのこだわりが生じ、他者の意見に耳を傾けようとしなくなります。そのような小我をたのんで驕り高ぶると「我慢」が生じてきます。他者をあなどる増上慢の心です。
 最後の「我愛」の「愛」は渇愛を意味します。これは「我貪」ともいい、小我に強く執着する煩悩です。自分のみをひたすら愛しつづけるエゴイスティックな貪愛となります。「我貪」と「我癡」からは、「誑」の煩悩が噴出してきます。名誉や利益を得るために有徳であるかのように振る舞い、他人をいつわり欺く心です。
 このようなさまざまな形で現れてくるエゴイズムを克服するために、仏教では、末那識の奥に脈動している阿頼耶識、さらには宇宙生命そのものとしての阿摩羅識(根本清浄識)への洞察を要請しております。そして、生命内奥への洞察が深まるにつれて、「小我」の意識は地球人類意識、地球生命意識から、さらに宇宙生命意識へと拡大していくことが可能になるのです。このような意識にそなわる世界観は、縁起にのっとった〈包括的世界観〉へと変転していることでしょう。
2  食欲と「想」の縁起が社会悪に
 博士 そこで、エゴイズムの束縛から脱しようと努める社会をどのようにして建設していくのか、言い換えれば、仏教から得ることのできる実用的な社会哲学というものについて、どのようにお考えでしょうか。
 池田 仏教で「社会」に厳密に対応する言葉は見あたりませんが、さらに広い概念として「世間」という言葉があります。そして『大智度論』等では、この「世間」を「五陰世間」「衆生世間」「国土(器)世間」に分類しています。このなかで「社会」というと、ほぼ「衆生世間」を指していると考えてよいでしょう。
 この「衆生世間」について二つの側面から解明してみたいと思います。第一に、社会悪の根拠を仏教で説く縁起の法理にのっとって、どのように示しているかという角度です。第二に、「平和な社会」をどのようにして現出していったかというプロセスを、経典から取り出してみたいと思います。
 まず第一の視点ですが、仏教では社会悪の根拠を、それを構成する衆生の煩悩、エゴイズムの集積によるとみています。社会を形成している人々の行為は、その社会つまり「衆生世間」に刻印されていきます。身口意の三業にわたる人間の行為については、この業を個人と社会という角度から分類しますと、個人の業は「不共業」となり、民族とか国家等における共同の業は「共業」となります。業は人間によって刻印されていくものですが、この業のもつ対自的側面が「不共業」であり、社会・民族における対他的側面が「共業」を形成するというわけです。
 博士 それでは、社会悪ないしは社会苦という「共業」は、どのようにして形成されるのでしょうか。
 池田 『大縁方便経』には、欲愛(貪欲)から社会悪がつくられるプロセスが説かれています。それによれば、まず欲愛によって求(欲求)が生じ、それから利(益)への執着が生じ、さらに刀杖・諍訟、無数の悪が次々と引き起こされていきます。ここに、社会悪としての刀杖(暴力性)の根拠が、貪欲からの連鎖として示されています。
 博士 そうしますと、根拠である貪欲を超克しない限り、真に非暴力の社会を実現することはできないということですか。
 池田 そうです。根本的な道はそこにしかないと説くわけです。
 もう一つ、今度は「想」を起点とする社会悪への縁起を挙げてみましょう。「闘諍経」には、「想」から渇愛や悪見にそまった名色(心身)が生じ、さらに欲望、争闘、諍論、悲愁、慳、慢(心)、両舌(二枚舌)等を引き起こす連鎖が示されています。(『南伝大藏経』第二十四巻)
 さて、この「想」とは、心によるイメージ化、概念化の作用をさします。つまり、人間の認識作用の限界性から、結局、争闘(暴力性)が生じるというのです。たとえば、二元論にもとづく還元主義という思考法も、この限界性を覚知しなければ、そこに種々の苦しみを生みだしてしまいます。
 共産主義というイデオロギーが各国で崩壊をきたし、特定のイデオロギーの支配する時代は終わりを告げています。この点からいえば、人類はようやく「想」から起きる争闘への連鎖の一部を断ち切ったとはいえるでしょう。
 しかし、激発する民族・宗教紛争を考えますと、まだ、それぞれがつくりあげた「想」としてのイメージによって、他の民族への偏見を生じさせ、また宗教間の対立を生みだしていることがわかります。さらに、先に挙げた欲望(貪欲)からの争いへの連鎖も、人々の心から抜けきれていないようにも思われます。
3  平和は衆生の善の集積で
 博士 それでは、貪欲や争闘や戦争のない平和社会を建設するプロセスを、仏教ではどのように説いているのでしょうか。私たちがめざすべきものは、寛容と平和という徳目を本来的にそなえている社会だと思うのですが。
 池田 「転輪聖王修行経」(大正一巻)という経典があります。この題名からわかりますように、この経典には、久遠という悠久の昔から転輪聖王による政治が行われていたことがしるされています。
 ところが、七代目の国王が正しい法を護らなかったために政治が混乱し、人々が争いを起こして、飢饉が起きました。そこで国王は、飢饉をなくすために国庫を開いて食物や金銭を放出しますが、人々は一段と盗みや殺害を重ねるようになっていきます。
 それは結局、衆生の精神の力、道徳性が衰えていったからであったのです。そのとき、人民のなかに一人の〈智者〉が現れ、慈悲心をいだいて自ら非暴力を実践するとともに、他の人々にも、ともに行動するように呼びかける。やがて、この智者の生活態度や意志に共鳴し同調する人が次第に現れてきて、多くの人々へと広がっていきます。
 仏典は、一人の智者の慈悲の実践を起点として、衆生・社会の〈共業〉が転換しゆくプロセスを説いていると思うのです。
 ここに私たちは、衆生の善の〈共業〉の力が集積することによって、平和社会が現出しゆく一つのプロセスを読みとることができるでしょう。

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