Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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七 生命尊厳の理念  

「宇宙と人間のロマンを語る」チャンドラー・ウィックラマシンゲ(池田大作全集第103…

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2  仏教は死刑を否定
 博士 私は死刑にきわめて強い反感を覚えます。死刑は悪党に対する社会的報復という観点からしか正当化されないのであり、私は死という絶対的な結末による復讐は野蛮であると思います。復讐というのは、仏教と同じくキリスト教にもなじまない行為です。
 「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(「マタイによる福音書」。訳は前掲『聖書』による)
 こういう背景がありながら、なぜいくつかのキリスト教国で死刑が行われているのか、私には理解しがたいことです。私は死刑を、国家権力の究極的かつ邪悪な表現であるとみなします。いかなる人間にも、いかなる集団にも、他者の生命を奪う権利はないと思うのです。
 ある意味で死刑は、国家が神の役割を強奪した一例とみることもできるでしょう。人間の生命は神から与えられたものであり、神だけがそれを奪う権利をもっていると考えるのが筋だからです。しかし、もし国家権力を神から授けられたものとするならば、死刑という野蛮な行為を正当化する試みも可能でしょう。
 人間以外の動物ですら、ただ復讐のためだけで殺すことはしないという事実は、考えてみる価値があります。殺害は当然起こりますが、それは交尾期の競争相手を排除するためとか、捕食のためという強い生物学的目的がある場合に限られます。
 死刑の由来は、有史以前にさかのぼると考えられます。人類が一家族を超えてさらに大きな社会集団を形成する以前のことです。死刑は近親相姦や不貞、タブーを犯すといった犯罪に対して宣告されました。
 その後、ずっと時代がくだってから出来あがったかなり洗練された社会制度においてさえ、死刑は廃止されませんでした。ヘブライ人は犯罪者を投石で殺し、古代アテナイでは、ソクラテスは「若者を堕落させた」という理由で毒をあおがされ、ローマでは犯罪者はライオンや蛇に投げ与えられたのです。
 このような残忍な行為が文明社会で可能であったことは不思議に思われます。死刑が完全に廃止された最初の文明社会は、アショーカの統治するインドでした。
 池田 わが国においても、仏教の生命尊厳の理念が社会全体に浸透していった例として、平安時代の四百年間、死刑が一度も行われなかったことを挙げておきたいと思います。
 日本の平安時代は、比叡山に天台宗が創設され、法華経を根本にして仏教文化の華を咲かせました。法華経の根本精神は、「一乗平等」の思想であり、すべての人々の内奥に輝く仏性を知見し、開示することです。平安時代には、この『法華経』の精神が広く流布していましたから、法律もこの精神にのっとって運用されたようです。
 ゆえに、たとえ死刑にすべき罪人であっても罪一等を減じ、最高刑は遠島(島流し)でした。この事実は、文明化社会にあっては人類史上、他に例のないことだといわれています。
 トインビー博士は私との対談の折に、死刑廃止の理由として、第一に、どんな人間にも、他人の生命を奪う権利は道義上まったくないということ、第二に、一度殺してしまった生命はもとに戻らない、たとえどんな重罪を犯した人でも、生命ある限りは道徳的に更生する可能性があること、を挙げていました。
 私自身、仏教者の一人として、さまざまな論議があるにしても、死刑は廃止すべきであるという立場をとっています。
 死刑の存続を主張する人は、死刑が犯罪の抑止力になるという効果を説いています。しかし私は、そういう考え方には殺されたことへの報復の思想、生命を奪うことによる他者への見せしめの思想があると思うのです。怨念による報復はかならず新たな報復を招き、悪循環をもたらします。
 見せしめという考え方についても、私は、仏性をそなえているゆえに尊厳である生命を、生命以外のもののために手段化するのは許されないことだと思います。
 博士 私も、同じく社会的に必要な行為として死刑を勧める論議は、いっさい認めることができません。死刑が犯罪抑止効果をもつという論議は、おそらく最も説得性のあるものでしょうが、欠陥があることは周知のとおりです。
 常習犯は捕まることはないと確信して罪を犯すのですから、刑罰は決して犯罪の抑止にはなりません。イギリスで絞首刑が公開されていた当時、ある教戒師が述べたことですが、絞首台で最後の勤めをしてあげた一六七人の死刑囚のうち、一六一人は以前に一回またはそれ以上の絞首刑を見にいっていたというのです。
 死刑があるおかげで殺人発生率がわずかに減少したというアメリカの最近の統計はややあいまいで、さまざまな説明を必要とします。
 現在でも死刑が行われている国々で、死刑が執行される主な犯罪は殺人です。一人の人間を、さらに殺人を重ねる恐れがあるから死刑にするという論議は、私には十分に説得力のあるものとは思われません。終身刑によって達成できない社会的利益が、死刑によって達成されるはずはないのです。
 取り組まなければならない社会問題は犯罪一般、とくに殺人行為であり、犯罪者ではありません。精神異常者の場合、原因となっている問題が何であるかを確認できれば、その解決のために、またその犯罪者を更生させるためにあらゆる努力を払わなければならないと思います。犯罪の原因が社会的・経済的な逆境にある場合には、対処すべきはこれらの諸問題であり、犯罪者に対する報復ではありません。
 池田 この死刑の問題で思い起こされるのは、一九四六年に開廷された極東国際軍事裁判です。この裁判は第二次世界大戦における勝者が法廷を構成し、敗者の戦争責任を裁くという裁判であったわけですが、A級戦犯二十五人のうち七人が絞首刑になっています。
 戸田第二代会長はこの裁判について、太平洋戦争の悲惨さを十分考慮したうえで、真の生命の尊厳性を包みこんだ仏教精神から「死刑は絶対によくない。無期が妥当だろう」と指摘されていました。
 また、被告の無実を主張したインドのパール判事は、東洋的な英知でこの裁判の非法性を洞察し、不合理な裁判が人を殺すことの恐ろしさを精密な国際法理論のうえから展開されていました。私は一仏法者の立場から、こうした史実を小説『人間革命』にしるしておきました(『人間革命』第三巻、「宣告」の章、聖教新聞社)。

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