Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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五 アショーカとスリランカ  

「宇宙と人間のロマンを語る」チャンドラー・ウィックラマシンゲ(池田大作全集第103…

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2  慈悲の宗教の無限の力
 池田 スリランカの歴史で、他国を侵略したことは一度もありません。それだけ〈平和〉を愛し、尊んでいる国だと思います。世界には大きな力をもった国、豊かな国はありますが、平和な国、寛大な国こそ偉大です。これは仏教が伝来した国スリランカの伝統ともなっているのではないでしょうか。
 博士 ええ。そのとおりだと思います。スリランカには仏教のさまざまな伝統が深く浸透しています。そこに住んでいるかぎり、仏教の影響を免れるわけにはいきません。島にはこのうえなく美しい新旧の寺院が数多くあり、仏教二千年の歴史が文字どおり国中にしみわたっています。
 仏教は穏やかさと慈悲を特徴とする宗教です。スリランカに住んでみると、この島そのものが、そうした仏教の特性を反映していることを実感せざるをえません。気候は概して変化が少なく穏やかですし、緑におおわれた快適な風景は心をなごませてくれます。
 ポロンナルワやアヌラーダプラの広々とした大平原の真ん中に巨大な釈迦仏の石像が立っていますが、いつ見ても私は深い感動を覚えます。そうした彫像のなだらかな輪郭を眺めれば、仏教という慈悲の宗教のはかり知れない力を直ちに実感できます。それらの仏像は現代的な風景を睥睨していますが、仏教もちょうどそのように島の歴史の中で主役を演じてきたのです。
 『マハーヴァンサ』によりますと、スリランカの歴史は、紀元前六世紀に北インドからヴィジャヤがやって来たときに始まります。
 ヴィジャヤが七百人の部下とともに来島したのは、ちょうど偉大な釈尊が入滅したころだといわれています。釈尊はその来島のことを入滅の直前に察知し、ヴィジャヤにインドラ神(帝釈天)の加護あれかしと祈ったともいわれ、また、ヴィジャヤの着いた島はダンマドヴィーパとなるであろう、と述べたと伝えられています。ダンマドヴィーパとは、仏教が生々世々変わることなく護持される島という意味です。これは寓意的な物語かもしれませんが、スリランカで仏教がほとんど変わることなく保持されてきたことはまぎれもない事実です。
 池田 仏教の平和思想、寛容性、普遍性を政治に体現した指導者として、インドのアショーカが有名ですが、アショーカは、息子のマヒンダを〈平和の使節〉として、スリランカに派遣したといわれています。また、アショーカの娘(マヒンダの妹)もスリランカを訪れ、釈尊成道の地の菩提樹を移植したと伝えられています。
 博士 歴史的にみて、ヴィジャヤの来島に次ぐ重要な出来事は、まさしく紀元前三世紀にインドのアショーカ王の子息マヒンダがやってきたことです。
 王子は有名なミヒンタレ岩の頂上で「万人に及ぶ慈悲」について説教をしました。聞き手はスリランカの王であるデーヴァーナンピヤティッサです。この歴史的な出来事から数年のうちに、国全体が仏教に帰依したといわれています。
 そして、ただ今話されたように、その後まもなくして、アショーカの息女サンガミッターもスリランカにやってきます。そのとき王女の手には、釈尊が悟りを得た場所に生えている菩提樹から取ってきた一本の枝がありました。この枝は、アヌラーダプラに植樹されました。今でもこの木は堂々と茂っており、スリランカの仏教徒に崇められています。
 池田 一九八五年三月、貴国のE・L・B・フルーレ文化大臣とお会いしました。その折に大臣から、その由緒ある菩提樹の葉をいただきました。
 博士 それはまことに興味深いお話です。スリランカの仏教徒がその葉をもらったなら、このうえもなく神聖なものとして秘蔵することでしょう。ついでに申し上げますと、この菩提樹は現在知られているかぎりでは世界一高齢の木だということです。スリランカの重要な国定史跡の一つになっています。
 子供のころにアヌラーダプラにあるその史跡をたずねた私は、仏教の及ぼしてきた偉大な影響を知って、畏敬と驚異の念で胸がいっぱいになったことを覚えています。
3  仏教の伝統と風習に生きる
 池田 マヒンダによって仏教がもたらされて以後のスリランカの仏教史で、とくに特徴的なことは何でしょうか。
 博士 デーヴァーナンピヤティッサ王以降、シンハラ朝代々の王はアヌラーダプラに寺院を建立し、仏教の流布を助長しました。また、インドのチョーラ人の王たちによる数度の侵略も、首尾よく食いとめることができました。当時建てられた寺院の多くは今でも存在しています。
 アヌラーダプラは、西暦一〇一七年までずっと仏教国スリランカの首都でした。その後、ほんのわずかの間、この北部の州はチョーラ帝国に併合されました。チョーラ人統治者たちはアヌラーダプラを捨て、首都をポロンナルワに移しました。
 約五十三年後に、チョーラ人たちはヴィジャヤ・バーフ一世によって追い出されましたが、後を継いだシンハラ朝の王たちは引きつづきポロンナルワを首都としました。それから百年もたたないうちにポロンナルワはどんどん発展し、多くの寺院や王宮をもつ二番目の首都となったのです。
 島史のなかで注目すべき重要な部分は、一一五三年から一一八六年にいたるパラクラマ・バーフ一世の治世です。この時代には数々の荘厳な芸術作品や彫刻が人々の依頼に応じてつくられました。また、さまざまな大規模な工事も行われました。なかでもパラクラマ・サムドラと呼ばれる巨大な人工貯水池がつくられたために、周囲数百平方マイルにわたって潅漑できるようになったのです。
 スリランカ史のなかでめざましい点は、南インドのヒンズー教徒が次から次へと押し寄せて来たにもかかわらず、仏教を征服することはできなかったということです。シンハラ朝の王たちはいずれも、自分は仏教の保護者であると自負していました。しかし結局、シンハラ朝はヒンズー教徒の度かさなる侵略から仏教を守るためにポロンナルワを放棄し、一五九一年、ついに仏教の中心をキャンディに移しました。
 その後、島はポルトガル、オランダ、イギリスに次々と征服されましたが、仏教はここキャンディでおおむね安泰に守られてきたのです。キャンディの仏歯寺(釈尊の遺骨の歯が納められている)は、今でも仏教徒の重要な霊地となっています。
 池田 歴史の概要がよくわかりました。今も伝統や風習が多く残っていますね。
 博士 そのとおりです。
 大統領は自ら「ブッダサーサナ大臣」と名乗っていますが、これは仏教の育成・支援という任務を自ら引き受けたということを意味します。
 重要な国家行事においてはかならずパリッタが朗誦され、これにともなう一連の仏教儀礼(ピリット儀礼)が執り行われます。ラジオやテレビの朝の番組も同様に、まずパリッタの朗誦で始まります。
 個人の生活においても仏教の儀礼・式典が重視されます。なにか重要な出来事があるとき、たとえば新しい家への引っ越しとか、亡くなった親族の法要の際には、儀式が行われて僧侶たちが終夜パリッタを朗誦します。私はそうした儀式を今でもまざまざと思い起こします。それほど深い感銘を受けたのです。
 スリランカでは、満月の日(ボヤの日)に信心深い仏教徒は寺院へ行ってお祈りをし、聖堂に香や花を供えます。ウェーサカの月の満月の夜は、街路や家々のまわりに飾られたオイル・ランプやランタンの照明で全島が燃えるように輝きます。こうして釈尊の誕生・成道・入滅を祝うのです。
4  政治に生かした仏教の平和思想
 池田 そうですか。スリランカの仏教にも大きな影響を及ぼしたアショーカですが、私がこれまでに対談したアーノルド・トインビー博士、「EC(ヨーロッパ共同体)の父」ともいうべきリヒアルト・クーデンホーフ=カレルギー伯、ヨハン・ガルトゥング博士、そのほか多くの学者が、世界第一の国王としてアショーカを挙げていました。それは、博士が前に述べられましたように、仏教の平和思想が現実的な強い力となって働いたのは、まさしくマウリヤ王朝のアショーカの治世においてであったからです。
 彼は、即位十年後のカリンガ国征服を機に戦争の悲惨さを反省し、仏教の精神にもとづいた「戦争廃絶宣言」をしています。また、病気や貧困で苦悩している人々のために、徹底した福祉政策を推進しました。こうしたアショーカの業績は、仏教の平和思想を具体的な政治の場に実現した例として、世界史に特筆されるべきでしょう。
 征服は成功した。しかし、戦争の犠牲はあまりにも大きかった。親と子が、夫と妻が、友と友が――痛ましい別離が数かぎりなく繰り返された。嘆きの声が家々をおおった。アショーカは、痛切な悔いと苦悩にさいなまれる。「幸せたるべき人生を、生命を破壊する戦争とは何か!」――私には、彼の〈魂の叫び〉が、二千数百年の時のへだたりを超えて胸奥に迫ってくる思いがします。アショーカは、武力による勝利は真実の勝利ではない、むしろ人間としての敗北であることを知ったのだと思います。
 博士 おっしゃるとおり、アショーカは、カリンガ王国の併合に成功すると戦争を放棄し、その後、生涯、法(ダルマ)の道にしたがって国を治め、世界で最も人道的な王となったのです。
 私はアショーカの賛美者の一人です。若いころに、王の生涯と事業の物語を読んで深い感銘を受けました。H・G・ウェルズ著『世界文化史大系』から引用して、文脈の中でアショーカを見たいと思います。
 「廿有八年の間、阿育王は人間の生命の真の糧の為に清らかに働いた。
 世界史の年表に幾千幾万と群がる国王達、陛下達、殿下達、猊下達の中に阿育王の名前のみが殆ど唯一つ、星の如く聖らかに輝いて居る。
 西はヴォルガ河畔から東は日本に到る迄、阿育王の名は今尚尊敬せられ、支那、西蔵、更に印度すら其教義をこそ捨てたに拘らず大王の偉名を伝えて居る」(訳文は、北川三郎訳、大鐙閣から)
 池田 アショーカは、〈法(ダルマ)による勝利〉こそ真の勝利であることを知った。それゆえに、徹底して仏教の精神にもとづいた政治を行っています。武力を放棄して、〈法〉による統治に徹したのですが、これは難事中の難事です。というのは、当時のインドには百十八の民族が割拠しており、とくに西北インドでは紛争が絶えなかったといわれています。カリンガ国を征服して全インドを統一したといっても、アショーカの地位は決して安泰であったわけではありません。
 彼は平和への決意を民衆に宣言し、協力を訴えました。その背景には、釈尊によってインドの民衆の生命の大地に植えつけられた仏教の〈平和の種子〉が多くの仏教者の手で育成され、普遍的な精神文化となって大きく開花していたことが指摘されましょう。
 当時のインドには、民衆の心に脈動する信仰に支えられた平和と文化の光が、生き生きと輝いていたにちがいありません。
 人種的な優位性でもなく権威主義でもない。ただ〈法〉の実践者としての誇りと自覚が、アショーカを支えていた。マウリヤ王朝はアーリア人の王朝ですが、彼はその優越性を相対化しています。
 また、東部インドの一小国・マガダの国王の名においてのみ全インドを支配していました。決して「インド王」とか「大王」と名乗らなかった。彼の内的世界にあっては、国家とか民族、人種の差別などまったくなかったのでしょう。仏教の精神にもとづく崇高な平等主義に立っていたと考えられます。
 アショーカは、それぞれの民族固有の文化を尊重し、民衆の側に立った政治を行っています。彼の勅命が石柱や岩壁に刻みこまれていたことは有名ですが、シルヴァン・レヴィは、その内容について、「いずれも簡潔にして親しみのあることばで語られており、そこには善事、親和、慈悲、および人類がかつて聞いたことのなかった相互の尊敬など」(前掲『仏教人文主義』)が示されていたと述べています。また、たとえば磨崖法勅十四章の中で西北インドにあるものは、その地方の方言を表記する〈カローシュティー文字〉が使われているように、その地域の文化を尊重していたことがわかります。
 さらに彼は、インドのみならず世界の指導者たることを自認しており、〈平和の使節〉を諸国に送りました。スリランカへの使節についてはすでに話し合いましたが、そのほかに南インドのチョーラ人、パンダイア人など、またシリア、エジプト、マケドニア、さらにギリシャ世界の王などにも使節を送っています。全世界の精神界の指導者として、徹底した平和外交を展開したわけです。
 そのほか、アショーカの偉大な業績は、病気や貧困で苦しんでいる民衆のための福祉政策を推進するなど、さまざまな角度から評価できると思います。このように、仏教の〈法〉が内包している〈寛容性〉〈普遍性〉〈世界性〉という豊潤なる無形の財産を、有形の政策として具現化し、一つの文明にまで展開していった功績は、〈世界に現れた最も偉大な王の一人〉と絶賛されてしかるべきものでしょう。
5  平和と人間愛が実現
 博士 今話されたことについては、私もまったく同じ意見です。アショーカとその統治に関する情報のほとんどは、四冊の本――(一)『阿育王伝』(アショーカ・アヴァダーナ)、(二)『島史』(ディーパヴァンサ)、(三)仏音の律蔵の註、(四)『大王統史』(マハーヴァンサ)――に収まっています。
 後の三つはスリランカの経典で、パーリ語の学者たちによって広く研究されています。アショーカの治世のことや統治の様子については、多くの詳細な知識が得られています。アショーカの王としての権力は絶大でしたが、その支配は仏教の〈法〉の慈悲の力を反映していたと思われます。アショーカの統治は、かつて広大なインド亜大陸で、種々の人種的・社会的集団が仏教の世界観によって統合された、一つの明確な実証なのです。この点は、先生がいみじくも指摘されたとおりです。
 また、著しい繁栄と卓越した彫刻作品、優れた文官行政に王の統治の特徴があったことも注目に値します。ここに仏教による平和と人間愛が実現しました。しかも、物質的繁栄を犠牲にすることなく達成されたのです。これがアショーカの治世に実現していたことであるとすれば、将来、同じような現象によって全世界が一つになりうるという希望があります。
 池田 アショーカが国王の立場で仏教の平和思想を具現化していった方向性とは、時代も環境も違い、また次元も異にしますが、いま私どもも仏法を基調とした平和・文化・教育の運動を、民衆の側から起こしています。これも、全人類にとっての確固たる平和勢力を民衆の大地に築いていきたいとの念願からです。

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